信長殺しは光秀ではない
行者ヶ森
平成20年10月20日、京都市山科区、行者ヶ森で間瀬耕一の撲殺死体が発見される。発見者は山岳登山同好会8名。発見時刻は午前11時前後。
京都府警の現場検証および検視の結果、撲殺されたのは昨夜9時から深夜2時頃までと推定。
発見者の証言。
山岳登山同好会は1ヵ月に1~2回、行者ヶ森に登る。
行者ヶ森は山科から音羽山の山麓の台地にある。牛尾観音の奥の院として知られている。
登山者の中の1人が行者ヶ森の看板の数メートル先に人が倒れているのを発見。
うつ伏せに倒れた死体の後頭部が血に染まっている。側に凶器に使用されたと思われる石が転がっている。
驚いた発見者が携帯電話で110番する。
間瀬耕一は横縞のポロシャツに紺の背広。ランニングシューズ。争った跡がない。背広の内ポケットの中の財布に5万円の現金とクレジットカードが入っていた。
検死結果から、顔見知りの犯行と断定。怨恨説の線で捜査を始める。
間瀬耕一の車が牛尾観音の駐車場に止めてあった。車の中の運転免許証から、身元が判明。今朝8時ごろに彼の妻から捜索願が出されている事も判る。
間瀬耕一は京都市山科区音羽に住んでいた。享年41歳。妻の澄子35歳と2人暮らし。
午後3時頃、夫の変死の知らせに、澄子は京都府警の遺体安置所に赴く。身元確認をする。
その後、府警の取調室で事情聴収を受ける。澄子の証言によると、夫は昨夜8時ごろ「ちょっと出かける」と言って自宅を出ている。
間瀬耕一は1週間に1度は夜ぶらりと出かける。近くの居酒屋で知人と一杯やるのを楽しみにしている。夜11時ごろまでには帰宅する。
昨夜は12時を過ぎても帰ってこない。明け方、心配になって警察へ捜索願を出した。
昨夜出かける時に変わった事はなかったか、という警察の質問に、風呂敷包みを抱えて出たと答える。
その中身は判らないかとの問いに、間瀬澄子は家に帰って調べるとのみ答える。
その上で、警察に以下の疑問を呈する。
行者ヶ森は2年前に主人と一緒に登ったことがある。あの山は初めての登山者にはわかりにくい所だ。
牛尾観音の奥の院で道が分岐している。奥の院参道の看板があるのみ。鳥居をくぐって、ジグザグ道を登る。陰岩と陽岩の看板のある大岩に突き当たる。奥宮の祠で行き止まりとなる。ここで初めて道に迷ったことに気が付く。もう一度鳥居の所まで引き返す。分岐の道を登る。しばらく歩く。行者ヶ森の看板が目に付く。
道は獣道の様で、1回や2回来ただけでは判りにくい。それに夜は剛毅な者でも薄気味悪い。そんなところへ主人がどうして行ったのか判らない。
間瀬耕一の遺体は警察の司法解剖後、間瀬家に返される。間瀬澄子は葬儀を故郷の常滑で行う旨を葬儀社に委託する。
間瀬耕一、澄子夫婦が京都に移り住んだのは5年前だ。知人も多くない。それでも知己になった人々に対しては、常滑で葬儀を済ませた後、改めて挨拶すると謝辞を述べる。
京都歴史研究会
間瀬家は常滑市樽水地区では旧家である。大地主で田畑を多く所有している。耕作は隣家の農家に委託したいる。その他に多数のアパートを経営している。アパートの管理、家賃の取り立て、建物の修繕等は内田不動産に一任している。
内田不動産の内田茂は間瀬澄子の実兄である。間瀬耕一とは小学校、中学校が同じで幼友達だ。
間瀬耕一と澄子の間には子供がいない。間瀬耕一は一人っ子で、両親はすでに他界している。
親類縁者が多いので、夫婦に子供がいないときは、間瀬家の跡継ぎは親戚の子供が継ぐことになっている。
5年前、間瀬耕一が京都に移住すると言い出した時、周囲の人々は驚き呆れた。
――間瀬の本家が何を考えているのだ—―反対に声が多かった。澄子もその1人だ。
間瀬耕一の説明は以下の通り。
――京都に移り住むと言っても永住するつもりはない。別荘を持つようなものだ
京都の不動産屋から、良い物件が出たとの知らせが入っている。名神高速の京都東インター近くの音羽だ。土地が50坪の中古住宅だ。価格も手ごろだ。
1ヵ月に数日間は常滑に帰ってくる。京都が嫌になったら、土地と建物を売り払えばよい。妻と2人で行くが、住民票までは移さない。
すでに土地建物の代金の一部を支払っていると聞いて、周囲もしぶしぶと認めざるを得ない。
間瀬耕一は小さい時から金で苦労した事がない。彼自身金には無頓着だが、澄子が間瀬家の家計をしっかりと握っている。夫に浪費させないよう、気を配っている。親戚の者たちはそのことを承知しているので、間瀬夫婦の京都移住を認める。江戸時代から続いた豪農、間瀬本家を耕一の代で潰されたくないのだ。
間瀬耕一は歳の割には若く見える。中肉中背、鼻筋が通り眼は細い。眉が濃く、唇が厚い。面長で顔全体が柔和だ。愛想が良いので人に好かれる。
妻の澄子は無口だ。人と話をしていても専ら聞き役にまわる。顔立ちの整った美人だ。小柄で芯がしっかりしている。名古屋の商業学校を卒業後、会計事務所に就職。結婚を期に退職している。
夫婦仲は円満だ。京都に住んだ後も2人そろって京都や奈良近辺を旅行している。片道3時間ぐらいで行ける所でも一泊する。このような生活が間瀬耕一の夢であったという。
平成18年春、澄子はインターネットで、京都歴史研究会という会があるのを知り、夫に知らせる。
間瀬耕一は1も2もなく入会する。主催者の住所は京都府庁と清明神社の中間あたりにある。
京都や奈良を2人で見て回るの興があるが、このような会に入って見聞を広めるのも趣向と感じた。身近に知人、友人が増えることは心強いし、楽しみも多くなる。
この会の主催者は冨島潤一、51歳。冨島印章堂の主人、奥さんと息子夫婦、孫の5人家族。
会員は冨島潤一を含めて10名。3名は同じ印章仲間。10年前に自然発生的に会が発足した。京都近辺の歴史を探索する。そういう名目で歴史好きの仲間が集まる。当初5名だったのが4~5年経つうちに10名となる。今はインターネットで会員募集を呼びかけるまでになる。
京都歴史研究会に入会するにあたり、冨島は会の規則を伝える。
1つ、1つの歴史観に凝り固まらない事。
2つ、自己の歴史観を他の会員に押し付けない事。
3つ、荒唐無稽な説であっても、厳粛に傾聴する事。
以上の3つの規則を守れない場合は即座に脱会する事。
冨島は面長で穏やかに顔をしている。物静かな口調だ。奥歯にものが挟まっているような言い方だが、言ううべきことははっきりという。
――歴史観というものは、その人の人生観みたいなものだ。怨念と言ってもいい、血脈と言ってもいい。あるいは思想と言ってもいいかもしれない。その人のご先祖様がある時代の権力者に滅ぼされたとする。どうしてもその権力者への見方が辛口になる。それを軽々しく否定することはできない。――
間瀬は愛想よく頷く。彼はあまり歴史には興味がない。京都に住むのに、知人が欲しいだけだ。
間瀬耕一が歴史研究会に入会したのは2年前だ。会は1ヵ月に1回開かれる。場所は西芳寺近くの喫茶店だ。店の主人は冨島とは顔なじみだ。奥の一室を借り切る。昼の1時から5時まで。その後、夕食会を兼ねてアルコールが入る。車で来た会員はジュースかレモン水で乾杯。
3か月に1回はその歴史の舞台となった場所へ行く。その時は澄子もお供する。
1つの課題を1年続ける。会員各自が資料を読み込んでくる。自説を披露する。質疑応答で反対説が出る。
冨島は言う。
自説に固執すると反対説を認めにくくなる。勢い感情的になる。口角沫を飛ばして攻撃的になる。会の雰囲気も気まずくなる。
――歴史に定説無し――
学校の教科書に載るような、歴史的事実(定説)が正しいという保証はない。
入会後1年が過ぎる。間瀬耕一は本を読んだり資料を漁ったりする。会合で見聞を広める。色々な歴史観があるのを知る。視点が違えば歴史上の見方も違って見える。
本棚に歴史の本が一杯並ぶようになる。メモ用紙も棚の上に山積みとなる。
食事の時、今こういう歴史を取り上げていると妻に話して聞かせる。澄子は聞き役にまわる。夫が眼を輝かせて喋るのを熱心に聞いている。
間瀬夫妻の京都での生活は平穏に過ぎていく。間瀬耕一が殺害されるまでは・・・。
本能寺の変
平成20年11月初旬、間瀬澄子は兄の内田茂と共に京都の自宅にいた。
午前10時、京都府警の宅名刑事が来訪。彼は澄子を事情聴収した刑事だ。
ここ2~3週間、常滑での葬儀やら、京都市内の知人への挨拶回りやらで多忙な日を過ごしていた。
宅名刑事からは、間瀬耕一が自宅を出る時に持って出た風呂敷包みの中身を調べてほしいと言われていたのだ。
宅名刑事は40歳。ブルーのスーツに身を包む。頑強な体格だ。精悍な顔立ちは歳よりも若く見える。いかつい表情に似ず、物腰は柔らかい。
間瀬澄子は宅名刑事を家の中に上げる。と言っても応接室ではない。
間瀬家は南東に畳半分の大きさの玄関がある。その正面奥に階段がある。階段下を利用したトイレ、風呂、洗面所がある。玄関を上がった左手にドアがある。ドアの内側は16帖のダイニングキッチン兼居間になっている。
キッチンと居間の間にはカウンターがある。来客の時は居間にあるテーブルを囲む事になる。
内田茂は宅名刑事に自己紹介をする。間瀬澄子はキッチンでコーヒーを入れる。
――夫が持って出た風呂敷包みの中身が判明した。夫の部屋は2階の8帖の間だ。棚には歴史物の本が並んでいる。歴史研究会に入ってから購入したものばかりだ。その他大学ノートに書き綴ったメモ帳が数冊、全て日付が入っている――
間瀬澄子は内気で話下手だ。手短に話す。
――今年の3月頃だった。京都歴史研究会の主催者が来年3月まで、本能寺の変を取り上げると言っていた。
6月に本能寺周辺を見て回っている。その本能寺の変に関する資料が無くなっている――
「それじゃ、京都歴史研究会の会員の中に犯人がいると」宅名刑事の眼が光る。
「それは判りません。私はただ本能寺の変に関する資料が無くなっているとお知らせするだけです」
間瀬澄子は戸惑いを隠さない。歴史研究会の会員達に、お世話になったお礼とお別れの挨拶をして間がない。
夫は彼等とは深い付き合いはない。利害関係もなければ恨まれるようなこともしていない。
――彼らの中に犯人が・・・――
警察が容疑者探しで彼らと接触する、と思うと気が重くなる。
宅名刑事が帰った後、間瀬澄子は歴史研究会の主催者、冨島潤一に電話を入れる。
宅名刑事が来た事、主人の部屋から、本能寺の変に関する資料が無くなっている事、殺される晩に主人が持って出た可能性が高い事などを話す。警察が歴史研究会の方々を事情聴収するかもしれないと告げる。
電話口の向こうで、冨島の穏やかな声がする。
「やむを得ないでしょう」動揺した様子は感じられない。
数日後、宅名刑事が再訪。
京都歴史研究会の全会員を事情聴収した事の報告結果だ。間瀬紘一をはぶく10名の会員で、間瀬耕一殺害当夜のアリバイが実証できたのは5名。後の5名はアリバイが証明できないが、間瀬耕一との利害関係、怨嗟による殺害動機が確認できなかった。
その報告に、間瀬澄子は安堵する。犯人が不明のままでは心残りはあるが、歴史研究会の会員に容疑の該当者がいなかった事に安心した。
この家を始末して、跡を汚さずに常滑に帰ろうと考えている。家を売るために兄に同行してもらっている。
宅名刑事の話を傾聴していた内田茂が口を切る。10名のメンバーのアリバイの有無を尋ねる。
宅名刑事が帰った後、
「犯人を捜すつもり?」澄子は兄を詰問する。
内田は妹の心情を理解している。その上素人が探偵ゴッコの真似をするのは危険だ。そのことも承知している。
内田は妹を諭す。
「わしらは間瀬君に恩義がある・・・」妹をじっと見る。
――内田が20歳の時に両親と死別している。彼は高校卒業後、名古屋の不動産屋に就職する。当時14歳だった妹の面倒を見る。商業高校卒業後、澄子は会計事務所に勤務する。24歳の時、内田は常滑で不動産屋を開業――
間瀬耕一は両親を説得して、間瀬家のアパート、借家の管理、入居者募集などを内田不動産に一任する。土地や建物を求める客も紹介してくれる。間瀬家は樽水地区では名士だ。親戚、知人も多い。信用度も高い。間瀬家の紹介なら・・・という人も結構多い。
澄子が間瀬耕一の嫁となってから、間瀬家との絆が一層強くなる。
「わしらは耕一君に恩義がある」内田は再度いう。
澄子はこの言葉に弱い。全くその通りなのだ。
両親が死んだ後の内田家は辛酸をなめ尽くしている。多額の借金の山が残ったのだ。借金の重さが内田茂の肩にのしかかった。土地や屋敷をすべて売り払う。内田は必死になって働く。
・・・兄がいくら頑張っても払い切れる額ではなかった・・・利息を払うだけで精いっぱいだった。
内田が常滑で店を構える。間瀬耕一がいの一番に客になってくれる。客も紹介してくれる。お陰で仕事は順調に推移する。数年足らずで借金は半減できた。後数年で完済できる。
「何もせずに、放っておけるか」
事件が迷宮入りになれば、間瀬耕一の魂は浮かばれまい。探偵気取りで危ない橋を渡ろうというつもりはない。情報をかき集めるだけだ。これはと思うものを宅名刑事に渡す。
「この家を売る払うのは、犯人が捕まってからにしよう」
内田が京都に来たのは、この家を売って常滑に帰るためっだたが、気持ちを切り替えたのだ。
兄の強い要望に、間瀬澄子は熱い思いで頷く。
2人は冨島潤一の家を訪問する。過日の謝辞を述べる。
内田は妹に代わってしゃしゃり出る。語気が強い。
今回の歴史研究会のテーマ”本能寺の変”が間瀬耕一殺害事件と関係がある。
ただし・・・、声を落とす。
歴史研究会の会員の中には容疑者はいない。宅名刑事の報告を話す。警察の調査結果を述べる事で、冨島が安堵する事を計算に入れている。
初め、2人の訪問に冨島の表情は硬かった。内田の誠意ある話し方に、冨島の顔が和らぐ。内田はその変化を見逃さない。
「本能寺の変の資料、お見せ願えませんか」畳みかける。
「間瀬さんの無念を晴らすためにも、喜んで・・・」
冨島は厚い資料を渡す。
内田と澄子は深々と頭を下げる。姿勢を正す。冨島を正視する。
「会員の方々に直接お聞きするかも知れません。その旨をお伝え願いたい」頭を下げて冨島邸を後にする。
望月源之助の証言
京都歴史研究会の会員のうち、10月21日の夕刻のアリバイが実証出来ない者が5名。望月源之助もその1人。
彼は冨島と同じ”ハンコ屋”だ。冨島と違って、印鑑を製造しない。販売だけを行っている。昨今の印鑑は三文判から実印に至るまでコンピュータ仕様だ。コンピュータに名字や様式を記憶させる。機械彫りだ。
望月は八坂神社前の商店街で店を構えている。60歳。1人暮らし。店舗は3間ほどの広さで南面道路に面している。建物は細長く、奥が深い。店の入り口から中庭まで半間の土間が通っている。入り口を入った所が店舗。その奥が食堂と台所が続く。書斎寝室は2階。
店舗の入り口に畳1枚程の大きさの鏡がある。
平成20年11月中旬。望月印章堂を訪問、電話で予約済みだ。朝10時。
内田茂と間瀬澄子は入り口の引き戸を開ける。内田は入り口の鏡を見る。彼は大柄だ。広い額に薄い眉毛、瓜実顔に小さい眼、鼻筋が通っている。髪は3分刈。浅黒い肌。
「ごめんください」声をかける。奥から返事がする。しばらくして背の高い男が小走りで出てくる。禿頭で顔がつるりとしている。紺の作務衣姿だ。
「どうぞ、お上がりを・・・」入り口の左の店舗は障子で仕切られている。土間より一尺ばかり高い。
室内は暖房が効いている。内田はジャンバーを、澄子はカーディガンを脱ぐ。望月は隣室からお茶を持ってくる。
「このたびはご愁訴様で・・・」望月は深々と頭を下げる。
「ご丁寧な挨拶、恐れ入ります」2人は礼を返す。
膝を崩して楽な姿勢になる。改めて室内を見回す。南側は道路に面して肘掛けの格子窓がある。ガラスケースが4つ。その中にいろいろな印鑑が並んでいる。
「私共は一見さんは相手にしません」昔からのなじみの客が多い。予約注文が主という。
八の字眉の望月はテーブルの上にお茶と和菓子をです。
「冨島さんから聴いとります」生粋の京都人にしては、ズバリ切り込んでくる。
・・・我々の訪問を歓迎していないな・・・内田の読みだ。
「間瀬さんがお亡くりになった夜、私、家に居りました」事務的な声だ。
「いや!これは不快な思いをさせましたようで・・・」
内田はガマガエルのように平伏する。内田の突然の豹変。
望月は面食らう。
「いや、何ね、アリバイの粗探しかと思いましたんもんで」
内田がやってきたのは間瀬耕一殺害の犯人探しと思ったのだ。アリバイがないので容疑者扱いにされている。
望月の心の底に不安と疑心が潜んでいる。
内田は改めて京都歴史研究会の会員に犯人はいないと主張する。宅名刑事の報告結果を述べる事も忘れない。
内田はよく喋る。望月の不安そうな顔色を窺う。
――事件当夜まで会員の誰一人として間瀬耕一と接触していない――
内田は望月の表情が柔和になるのを見る。
「間瀬君は本能寺の変について、何か重要な事を調べていたと思います」
間瀬耕一は本能寺の変に関する資料すべてを持って、犯人の指定する場所に行った。多分その資料の中には犯人にとって不都合な事が書かれていた。犯人はそのことを知って間瀬を誘い出した。
「主人の書架から、本能寺の変の資料だけがすっぽりと消えています」間瀬澄子が横やりを入れる。
「冨島さんからお聞きしました」内田がにじり寄る。
――本能寺の変の発案者は望月さんだという事を――
望月は正座を崩さない。腕組みをする。1人頷く。
「判りました。申し上げましょう」
望月は以下のように話す。
京都歴史研究会の発起人は冨島潤一だが、題材を決めるのは自分を含めて4名だ。
広岡道男、55歳、京都市在住
上村秋彦、60歳、奈良在住
高坂 登、59歳、大津市在住
その年も暮れになると、4名が1同に会する。来月4月からの歴史探究の題を持ち寄る。何にするか討論する。討論の末に題が決定する。
――この年ばかりは・・・――望月の眼が泳ぐ。
誰が言ううともなしに、織田信長の事が話題になった。本能寺の変はいまだに謎が多い。信長殺しは明智光秀というのが通説だが異論も出ている。
会員には本能寺の変を取り上げる旨、通知する。
望月は会員に渡した本能寺の変の通説の資料を内田に渡す。資料の冒頭には昭和41年1月中央公論社発行、日本の歴史12巻、著者林屋辰三郎とある。内容は抜粋の一部だ。
――酉の刻(午後6時)出発。軍を3段にそなえる。総勢1万3千人。
老の坂を超えて沓掛で兵糧をつかう。まっすぐ進んで桂川に至る。全軍に武装を整えさせる。鉄砲衆には火縄に点火して引き金をはさまさせる。
この時「今日よりして、天下様におなりなされ候間、下々草履取以下に至るまで、勇み悦び候へ」と全軍に触れる。
敵は本能寺にありと告げたのだ。
この光秀出陣以後の動静は、光秀の旧臣で前田利長家来山崎長門の守、関白秀次御馬廻林亀之助両人の聞書を記した、”川角太閤記”の記述である。
夜明け方、信長は外の騒がしさに目覚めた。
はじめは下々の者どもの喧嘩とと思っていたが、やがて鬨の声があがり、鉄砲が撃ち込まれる。
信長は「是は謀反か、いかなる者の企てぞ」とたずねるところへ、森蘭丸が、「明智が者と見え申候」と言上した。信長は「是非に及ばず」と一言いうと、ただちに御殿にでて、表御堂の番衆と一手になって防ごうとした。御厩の仲間衆たちもこれに加わろうとしたが、すでに乱入した敵勢のためにはばまれて、たちまちここで24人が討ち死にした。
御殿の門では森蘭丸はじめ近習らが必死に防戦する。台所口では高橋虎松が比類のない奮闘を見せていた。信長はみずから弓をとって矢つぎ早に2、3矢を射たところへ、無念にも矢弦が切れたので槍を取って戦った。ついに肘に槍疵をこうむった。信長はこのときまでかたわらについきそっていた女たちに、「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」と追い出すようにのがれ去らせた。すでに御殿に火をかけたので、しだいに焼けてきた。信長はその姿を見せまいと考えたのか、殿中奥深く入って戸口を閉ざした。
フロイスは年報には、このあとの事と思われる目撃談を載せている。
すでに光秀の兵は戸口に達し、しばらくためらった後、戸口をあけて入る。信長が手と顔を洗い終わって手拭で清めているのを見る。そこで背に矢をはなつ。信長はこの矢を抜いて薙刀でしばらく戦った。腕に弾愴を受ける。その室に入って戸を閉じた。そこで切腹した。信長が切腹するまでには、森蘭丸以下の近習も7,80人ばかり、ことごとく討ち死にした。
信長の手勢は御馬廻167人。しかも本能寺の防禦設備は、ささやかな堀と土居をもってはいるが、1万3千の包囲軍の前に、無抵抗の状態であった。
この時京都所司代村井貞勝の邸は、本能寺の門前にあった。貞勝はこの騒ぎを信長と同じように喧嘩と思っていて光秀の襲撃と知った時は、本能寺はすでに包囲された後だった。やむなく妙覚寺の信忠に急を報じた。信忠もいったんは本能寺赴援を志したが、もはや不可能とさとり、貞勝と共に妙覚寺をでて、二条御所に移った。
二条御所は、勘解由小路室町にあった旧幕府址だ。信長が義昭の為にみずから石を曳き、十余ヶ国数千人の人夫を徴してつくりあげた城郭だ。いまは正親町天皇の皇太子誠仁親王の御所となっていた。
信忠は親王はじめ王子、女房衆に上の御所に移座せられんことをねがい、包囲した光秀にその旨を申し出たところ快諾した。里村紹巴のはからいで荷輿がよせられ、移座が終わったのは午前八時ごろだった。
光秀の二条御所攻撃はそれからはじまった。信忠はよく防戦につとめたが衆寡敵せずに、鎌田新介に介錯させて自殺した。所司代村井貞勝もよく奮戦したが、ついに信忠に殉じた――
内田と間瀬澄子は代わる代わるに通説に眼を通す。2人とも歴史には興味はない。”通説が”が一般に膾炙している説だと思っている。
望月は無表情に2人を見ている。2人が通説を読み終わる頃を見計る。
「通説を取り上げたのは私と広岡です。2人で案を練って上村秋彦と高坂登に見せました。まあ監修ってとこですか」
4人で原案を考えて、冨島潤一に持ち込んだ次第だ。
冨島と望月は調整後、通説に賛同の者、反対、異論がある者にその理由を尋ねる役だ。
広岡と上村は通説の賛同者、高坂は信長殺しの主犯は明智光秀だが、朝廷黒幕説をとる。
平成20年3月から月1回会合を開く。まず広岡が通説を披露する。それに対して質疑が行われる。このような会合は時として激しく相手を罵る事が生じる。2人の調整役はそれを防ぐために質問を繰り返す。対決者同士での話し合いをさせない。
内田は大きく頷く。過日、広岡さんを訪問したいがと尋ねる。望月は自分が連絡しておくと言う。
別れ際、広岡にはアリバイがある。上村と高坂にはないと話す。
今回の事件で会員全員が警察から事情聴収したを受けている。皆の心にはその衝撃が大きい。容疑者扱いにされて傷ついた者もいよう。その事はお忘れなく。望月の言葉は冷たい。
内田と澄子は深々と頭を下げて謝意を表す。
自宅に帰って、冨島から貰った分厚い資料を取り出す。そのコピーであることを確認する。
光秀謀叛の動機
平成20年11月下旬、内田と澄子は広岡の自宅を訪問。彼の店舗は自宅と別だ。彼はJR京都駅内に店を出している。雑誌や新聞の販売が主だ。店の一角に印鑑が並んでいる。認め印が主だ。店は人に任せている。1週間に一度売り上げの管理と集金の為に出かける。
彼の住まいは下京区役所近くのマンションにある。南西方向に東本願寺がある。貸マンションの経営者だ。家族は奥さんと2人の娘さんの4人暮らし。
間瀬耕一殺害当夜、娘さんの婚約者が来訪、自宅でささやかな宴会を開いている。料理を近くの仕出し屋に注文している。
午後1時の訪問。広岡は内田達を暖かく迎える。2人は事件で不快な思いをさせた事への謝意を述べる。
広岡は間瀬耕一への弔辞を述べる。「警察に呼ばれた事はやむを得ないでしょう」屈託のない返事だ。来訪の目的は望月から聞かされている。
マンションの一室とはいえ、2部屋を使用している。随分と広い。玄関を入ると15帖の応接室。その奥がダイニングキッチン。その左右に洋間や和室がある。
広岡は55歳。年の割には老けて見える。若い頃から暴飲暴食に耽っている。その上性欲も旺盛。。高校時代から何人女を泣かしたやら。初対面の内田と澄子に声高に話す。
・・・こんな話、家の中でしてもいいのかしら・・・澄子はハラハラしながら広岡の白髪を見ている。若い頃はハンサムだったのだろう。高い鼻梁に知的な眼差し。彫の深い顔。肌は青黒い。斑点が浮き出ている。皺が多い。
その時、ダイニングキッチンから奥さんがコーヒーを運んでくる。
「あなた、そんな話、人様に聞かせるものではありませんよ」レース編みのチュニックを着ている。紺色が白い肌にマッチしている。長い髪を後ろに束ねただけの簡素なスタイツだ。瓜実顔の大きな眼が笑っている。男好きのする美貌だ。50歳とは思えない。
「主人の話、お信じになさらないでね。初対面の人を煙にまくのが好きですの」
広岡は照れたように笑っている。寛いだ作務衣姿だ。
奥さんはコーヒーをテーブルに置く。広岡の側に座る。
「このたびはご愁傷様でしたわね」深々と一礼する。広岡も姿勢を正すと頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、皆様にご迷惑をお掛けしまして・・・」内田は返礼する。
「あなた、お2人はお忙しい中、来てくださっとのよ」早く本題に入れとばかりに、広岡の尻を持ち上げる。
広岡は奥の部屋から資料を持ってくる。望月から会合で発表した事だけを話せと言われている。2人に念を押す。
3月の会合で広岡直道の説が発表される。広岡は通説に賛同している。明智光秀の単独犯行説をとっている。
以下信長に対する数々の遺恨。””は4月の会合で出た反論だ。事件の年代は前後する。
1、天正9年5月15日、安土城に徳川家康と穴山信君が来賀。甲州制圧の家康の功績を祝するため・・・ 及ぶ程結構仕り候て、御振舞仕り候へ・・・と内命を出す。15日よりの御馳走の役を明智光秀に命じ る。
家康の饗応に心をつかった信長が、家康の宿とした 明智館を見舞った時、夏季のため用意の生魚が傷み やすく悪臭を放っていた。信長は立腹し、料理の間にじきじきに出かけ、この様子にては馳走役は勤まら ぬといって、ただちに改役した。信長としては、その後で光秀に備中への先鋒を命じたくらいだから、さ ほど心にとめた訳ではないが、光秀としては怨恨となった。
”この話は川角太閤記のみに見える話。秀吉の天下統一後に編纂された話だ。本能寺の変の動機として作ら れた可能性が高い”
2、光秀が丹波を攻略した際、開城を条件に城主一族の降伏を受け入れ助命の約束をした。その保障の為 に、光秀は自分の母親を人質として差し出した。ところが信長が約束を破り城主を殺してしまった。その 為光秀の母親は城兵になぶり殺しにされた。光秀は信長を深く恨んだ。
”この話は本能寺の変以前の相当古い話。この事件の頃は光秀は信長に遺恨を抱いたかも知れないが、本能 寺の変の動機にはなり得ない。これらの資料の原本は存在していない”
3、武田勝頼を滅ぼした時、その戦勝報告の行われた寺院で光秀が「われらが骨を折った甲斐があった」 言ったのを信長が聞き咎め「お前が骨を折ったというのか」と本堂の欄干に光秀の額を打ち付けて恥辱を 与えた。
4、天正9年3月、四国の平定をめぐって、信長は土佐の長宗我部氏を支援するか、阿波のの三好氏を支援 するかを考慮していた。前者は光秀が取り次ぎ、後者は秀吉と連繋していた。信長は長宗我部氏討伐に踏 み切ったために、光秀の面目が潰された。
光秀は長宗我部家との友好を密にするため、重臣斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせている。四国征伐 が実行されれば、斎藤利三の妹は殺される。
5、本能寺の変直前、光秀は領国の丹波を召し上げられ出雲攻略を命じられた事に憤激した。その上備中の 秀吉への参陣を言いつけられた。
”領国を取り上げる事は兵士達の家族を路頭に迷わせる事になる。その状態で他国を攻める事はできない”
広岡の光秀単独犯行説の資料は3月の会合に配布済みだ。4月の会合で””の項の反論が出された。
「その会合で間瀬君はどんな意見を・・・」と内田。
以下間瀬の答え。
――私は会に入って日が浅い。歴史の勉強もしていない。皆さんが発表された最後に意見を述べたい――
「謙虚な方でしたな」広岡が遠くをみる表情になる。
――珍説大歓迎です――司会の富岡が助け舟を出す。
「他の方の意見は・・・」内田が尋ねようとする。
「内田さん」広岡の眼が厳しくなる。
――会員の皆さんは警察で事情聴収を受けている。容疑者ではないと言われても、皆、疑心暗鬼になっている。こういう私もその1人。自分が喋った事しかお話できません。5月の会合は高坂登です。彼が話した事は、直接、彼からお聞きになってください。――
高坂登
広岡道男を訪問して3日後、内田と澄子は家の中の後片付に精を指していた。2人は間瀬耕一殺しの犯人が判明次第この家を売り払うつもりだった。
内田は常滑の店舗を閉めたまま京都に来ている。いつまでも休業中の看板を掲げておく事も出来ない。
妹の澄子と相談の末、1日でも早くこの家を売却して、一旦常滑に帰ろうという事になった。
明日は高坂登を訪問の予定。
「行くのはもうよしましょうよ」間瀬澄子は兄に提案する。
今まで3名の会員を訪問している。3人とも対応は穏やかだ。本能寺の変の話になると妙によそよそしい。他の会員の説には一切かかわろうとはしない。警察の事情聴収を受けたとは言え、雰囲気が固い。内田達は、間瀬耕一がどんな説を採ろうとしたのか、それが知りたい。
「澄子、行きたくなければ、俺1人で行ってくる」
兄にそういわれて「どうぞ」とは言えない。自分の夫が殺されたのだ。嫌でも兄についていくしかない。
会員達のよそよそしい態度が眼に浮かぶ。気分が重くなる。
澄子は内気な性格だ。社交性に富んだ兄とは正反対だ。彼女が経理専門の学校に入ったのも兄の勧めによる。彼女は人見知りするタイプなのだ。澄子は兄を見る。重い腰を上げる。
高坂登、59歳。大津市北大路在住。北に琵琶湖を遠望できる。間瀬澄子の住む音羽に近い。
彼はマンションの1室に住んでいる。生涯独身。仕事は剪定士。庭木の枝を切り払って整えたりする。造園業者から仕事をもらう。一般家庭の庭木や垣根の剪定の他、公園、神社、仏閣からの依頼も多い。
彼の住まいは20年前に購入した中古マンション。団地仕様なので部屋が狭い。畳半分の玄関を入る。右側にトイレ、風呂がある。その奥が台所。左側が6帖2間の和室。その他駐車場と、長屋式の物入れがマンションの外にある。
高坂邸を訪問した内田達は和室に招き入れられる。お茶の代わりに温めた缶コーヒーが出る。
高坂は相撲取りのようにずんぐりしている。3分刈りのごま塩頭、眉が薄く、眼が小さい。ずんぐりとした鼻と分厚い大きな口。4角い色の黒い顔。ねずみ色の作業服姿。
「この度はどうも・・・」高坂は呟くような声で頭を下げる。
内田と澄子は改まって挨拶する。
高坂はテーブルの上に、1通の角封筒を置く。
「この中に5月の会合で、わしが喋った内容が入っとります」重たそうな言い方だ。
内田は各封筒の中から10数枚のレポート用紙を取り出す。
――本能寺の変、朝廷陰謀説――太書きの題名が眼につく。
「高坂さんは朝廷陰謀説を出されたとか」内田が尋ねる。
「えっ?」高坂は小さな眼を見開く。
「わし、上村さんから、朝廷陰謀説をやれって言われた」
内田と澄子は顔を見合わせる。望月からは高坂が自発的に取り上げたと聞いている。
「いや、これは私共の勘違いでした」内田は作り笑いをして詫びる。
高坂は寡黙だ。雨だれのようにポツリポツリと喋る。
彼は元々奈良に住んでいた。上村とは同級生で、彼の勧めで今の仕事に就いている。性が合っているので今日まで続いている。
京都歴史研究会は上村の紹介で入っている。冨島と望月は別格だ。会の直接の運営は広岡に一任している。京都の歴史の何を取り上げるかは冨島と望月が決める。それを広岡に伝える。広岡はそれを提案として会員に伝える。
広岡は上村に、あんたと高坂はこの説を取り上げてくれと指示する。否応もない。図書館に入り浸りとなる。
――本当はこんな会に入りたくないが、冨島が京都の神社を紹介してくれる。彼は相当顔が利く。お陰で仕事に困らない。だから必死になって調べる――
「ところで間瀬君はどんな説を取り上げようとしていたかお判りでしょうか」内田は極自然に問いかける。
高坂は素直に答える。冨島や望月、広岡達のように意図的に隠そうとはしない。
「間瀬さんは10月の最終土曜日が発表予定でした」
9月の会合の後、酒の席で、皆さんがアッと驚く説をだすと言っていた。誰かがどんな説だと質しても、笑って答えなかった。
澄子は意外そうな顔で高坂を見る。夫からは京都歴史研究会の事は毎日のように聞いている。今月は誰々がこんな説を述べた。面白いが説得力に欠けると批評する。
10月に自分の説を発表する。こんな話は9月、10月になっても夫の口から聴いた事がない。
・・・夫は毎日のように調べていた筈だ。無断で朝から出かける事も珍しくなかった・・・
・・・でも、何故、私には何も話してくれなかったのか・・・
澄子は無念そうに高坂を見詰める。
内田はテーブルの上にA3の紙を拡げる。
――3月の会合は広岡道男。
4月は明智光秀単独犯行説への異説を述べ合う。
5月、高坂登、朝廷陰謀説。
6月は全員で本能寺を散策。
内田達には今のところ、これだけが判明している。
高坂は発表者の会員名簿を手渡す。
6月――菊池学
7月――権藤昭一
8月――瓜坂舜造
9月――鳴島 守
10月――間瀬耕一
内田は高坂の厚意を黙礼して受け取る。会員名簿は冨島から貰っている。その事は噫にも出さない。
別れ際、高坂は「1度上村に会ってください」ぼそりという。高坂の舌足らずの説明は上村が代弁してくれる。
家に帰る。2人は高坂の朝廷陰謀説が、冨島の分厚い資料に入っているのを確認する。
朝廷陰謀説
信長殺しの主犯は明智光秀。光秀を犯行に駆り立てたのは朝廷という説がある。
本能寺の変の直後、光秀は朝廷に銀5百貫を献上している。これは単なる献上金ではなく、征夷大将軍宣化の御礼という説がある。
この説によると、光秀の没落はあまりにも早かったので光秀将軍の任官の事実が闇に葬られたとする。光秀は土岐源氏の一員である。征夷大将軍になる資格はある。
本能寺の変の前後に公家の日記が改変されたり、一部が行方不明になっている事は事実である。
――例、兼見卿記、晴豊公記――
光秀が朝廷に献上銀を上納後、秀吉の備中高松城攻めからの反転の情報が朝廷にも届いている。にも拘らず皇太子誠仁親王は、鳥羽の光秀の陣内に兼見卿を遣わし、銀献上の礼状を届けさせている。それに対して光秀は兼見卿に京都の防衛を誓っている。本能寺の変後、朝廷と光秀は一体化しているのだ。
本能寺の変の前後は信長と朝廷は緊迫した対立関係にあった。それが顕著な形となって現れたのが安土城だ。
信長公記によると、安土城は地下から第6層の階となっている。ただしその上にもう1つ階がある。つまり最上階の第7層を天守閣と呼んでいる。
1層から7層まで階は華麗な装飾が施されている。安土城以前の城は実用一点張りで装飾は極めて乏しかった。
5層の階は全く絵が描かれていない。他の階は絵で塗り尽くされているのに、4層と6層の階が全く別の世界のように断絶した趣を与えている。
4階まではこの世の世界(物質界)。
6層の階は仏の世界――釈尊が悟りを開いて教えを説いている世界を表現している。
7層は3間の間すべてが金張りだ。天井には天人影向。周囲には三皇、五帝らが描かれている。
三皇は道教の神、天皇、地皇、人皇を言う。五帝は黄帝、帝顓頊、帝嚳、堯、舜。中国では舜の後継者の禹から、天下は禅譲から世襲に代わったとの伝説がある。
天主には影向の間がある。
――影向=神仏が仮の姿を取って現れる事。神仏の来臨つまり道教の神や中国の聖人たちに取り囲まれて、天主の中央の影向の間に座す者、それが織田信長だ。
天主――天の主、信長が自らが神になった事を宣言した――
信長が神意識を持つ様になったのは、イエズス会の影響が大きい。
だが、忘れてはならないのは、信長は天下統一を目指しているのだ。それは目前に迫っていた。信長の力をもってすれば1~2年で成る。
天下統一後、次なる目標は・・・。信長の心には当然その事が視野に入っていた筈だ。
それは朝廷問題だ。
信長は足利義昭を奉じて京都入りをする。周知のように、将軍家を盛り立てるためではない。天下布武のための道具として利用したにすぎない。
信長にはもう1つ大きな敵があった。一向宗だ。
大坂に本拠地を置く石山本願寺との戦いで、信長は窮地に陥った事がある。この時は朝廷の仲裁で難を脱している。
足利将軍と言い、朝廷と言い、武力(権力)はないが、その権威は隠然たる影響力を持っている。
足利義昭は京都から追い出す事が出来た。
朝廷は・・・。
朝廷の権威を超えるための意志表示、それが安土城だ。
信長は着々と天下統一への足場を固めていく。それと同時に朝廷への締め付けも進行していた。
天正10年(1583)信長は武田攻めに踏み切る。3月11日に武田勝頼は天目山で自刃する。
4月3日、織田軍による、甲斐の名刹惠林寺の焼き打ちが行われる。寺の山門に僧侶たちをことごとく追い上げる。そこに火を放ち焼き殺したのだ。
焼き討ちの理由は、武田家に亡命していた信長の旧敵、佐々木義賢(六角承禎)の長男義治を、惠林寺が匿った事への報復である。この時焼き殺された僧の数は百人以上。
この焼き打ち事件で思い起こされるのは、比叡山延暦寺の焼き打ちだ。
この二つの事件は似て非なるものだ。延暦寺は浅井、朝倉氏と意を通じていた事から、信長の怒りをかった。
惠林寺が佐々木義治を匿ったとはいえ、僧侶を寺内に閉じ込めて焼き殺すという信長の所業は度を越えていた。
信長をそこまで駆り立てたものは何か。国師快川和尚の存在である。
武田信玄は惠林寺に快川和尚を迎えて武田家の菩提寺とする。信玄は快川和尚に心酔していた。
武田軍の風林火山の旗を揮毫したのが快川和尚だ。
織田軍による惠林寺焚殺は無惨なものであった。火焔が燃え盛る中、多くの僧侶は躍り上り、跳ね上り、声をしぼって泣き叫ぶ。
快川和尚は1人曲彔(椅子)に座す。
――安禅必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば火も自ずから涼し――
焔の中で残した快川和尚の遺喝はあまりにも有名だ。
国師快川和尚――国師という称号がなければ信長とて無下に焼き打ちはしなかったと思われる。
快川和尚は、正親町天皇から大通智勝国師という国師号を贈られていたのだ。
国師とは天皇の師表(模範となる人)となる人である。一世に傑出し、真に国の師に相応しい禅僧に対して朝廷が贈る最高位なのだ。
歴史上殺された国師はいない。国師を殺した者もいない。ただ1人、快川和尚、殺した信長だけが例外だ。
問題は殺した時期だ。
朝廷は戦勝祝賀の勅使を信長の許に遣わしていた。事件はその一行が甲府滞在中に、しかも眼と鼻の先で起こった。
天皇の師たる人物を天皇の使いの目の前で斬殺する。
――信長が殺したのは快川和尚一人ではなかった。朝廷の権威も殺したのだ――快川和尚に国師の称号が贈られたのは天正9年9月6日、彼の死のわずか7カ月前だ。
この頃の武田家は遠州高天神城で敗北を喫した後だ。武田家の内部はすでに統制を失いかけていた。こんな時期に朝廷は和尚の徳を顕彰している。信長に対する当てつけのようにさえ見える。
信長が天下統一を着々と進行する中、信長と朝廷は、相互に牽制とも面当てともとれる事件が起きている。
一例として、天正9年に安土城の様子を描いた狩野永徳の屏風(安土屏風)をイエズス会のアレシャンドロ・ヴァリニャーノに与えている。この屏風はキリシタン嫌いの正親町天皇が所望していたものだ。
快川和尚国師補任の9月6日は、第2次伊賀攻略の最中でもあった。
天正伊賀の乱として知られるこの戦いで、信長は、伊賀一国を根切りにしろと命令している。織田信雄率いる織田軍は老人、子供と言わず、人という人を殺戮し尽くした。
某歴史家は京都に近い伊賀の国をこの時期になって討伐する理由が判らないと言っている。
それは当時の人も同じで、なぜ今頃、あんな小国に信長が血眼になるのか、不思議がっていた。
天正7年に織田信雄が伊賀攻略をしている。その時は惨敗を喫して、信長の威信を失墜させている。信長の意趣返しという説もある。
快川和尚への国師特賜を考えると、朝廷に対する圧力と考えた方が理解しやすい。
馬揃え
惠林寺事件の1年前、天正9年2月26日、信長1代の盛儀と言われる天覧の午馬揃えが行われた。
1月15日、安土城で大がかりな左義長が行われた。華やかに飾った武者たちが爆竹を鳴らし、馬場に馬を走らせる行事だ。
この様子は直ちに天皇の上聞に達する。その左義長を京で再現するよう、2月6日に朝廷から信長に要請があった。
ところで信長公記によると、馬揃えの準備は、すでに1月23日に明智光秀に命じられている。
この事は、左義長の天覧は、天皇の希望というよりも、廷臣近衛前久が信長の意を体して天皇に働きかけたものと考えられる。
一か月後、天覧の馬揃えは上京の東、御所近くに特設された南北4町、東西1町の広大な馬場で行われた。5畿内の大小名の全てを挙げた織田軍、見物人は農繁期にもかかわらず、都の人口を上回る20万人と言われている。
織田軍による大パレードが行われる。
大将格の騎馬隊の行進、信長の息のかかった公家衆がきらびやかな衣装で進む。弓衆が粛々と進む中、数ある名馬が引き廻される。さらに文官、美々しい衣装を着た小姓衆が続く。
そして――、真打の信長の登場となる。信長の異様な装束をみて、群衆の中から興奮と歓声が渦巻く。
――御眉にてんきしゃを以ってほうこうめされ、御頭巾とうかむり、御後ろの方に花を立てさせられて、高砂太夫の御出立か。御肌にめされられ候御小袖、紅梅に白のだん、段々にきり唐草なり。其上に蜀江の錦の御小袖、御袖口にはよりきんを以てふくりをめされ候。
御肩衣、べにどんすにきり唐草なり。御袴同前なり。御腰にはぼたんの作花をささせられ・・・。御腰蓑白熊。御太刀御のし付、御はきそえはやさを巻き熨斗付きなり・・・。
花やかなる御出立ち、御馬場入りの儀式、さながら住吉明神の御影向(神仏)もかくやと・・・――(信長公記)
信長の出立ちは威容である。錦紗を身につけている。これは天皇以外には着用は許されていない。
それを堂々と衆目の中で着用している。。これは天皇への当てつけだ。本来なら不敬だ。
正親町天皇は馬揃えが気に入ったとみえて、直後信長に対してアンコールを下された。結果、6日後の3月5日に2度目の馬揃えが行われる。
2度目の馬揃えは、期間の短さから考えると、初めから予定に入っていたと考えるのが妥当ではないか。
「もう一度やれ」天皇に命じられたからではない。信長がそのように仕向けたとみるべきだ。
2度目の馬揃えの衣装は1度目と大きく違っている。黒ずくめの衣装だ。それが5百騎の名馬に乗った姿は異様に写った筈だ。
信長公記は2度目の馬揃えについては、群衆の歓喜の声を伝えているのみ。その他については何も語らない。
馬揃えの目的は何か。
朝廷への示唆行為とするのが有力だ。この頃信長は正親町天皇に対して譲位を要求していた。天皇はそれを拒んでいたので、信長が強行手段に出たというものだ。
信長は危機の度に朝廷に頼って、幾度となくそれを乗り越えてきた過去がある。
誠仁親王に二条御所を献上して、その息子の五の宮を猶子として朝廷を自らの意のままにしようとした。この信長の意図を見抜いた正親町天皇は譲位をかたくなに辞した。
だがこの説を否定する見解もある。
この年正親町天皇は57歳だった。頑強な体質ではなかったので、早晩譲位の事が問題になるのは眼に見えていた。譲位はむしろ天皇の望むところだったというものだ。
馬揃えの経過を見てみる。
1度目の馬揃えの後、朝廷は信長を左大臣に任じようとした。それに対して信長は2度目の馬揃えを行う。信長の真の目的=譲位の事が朝廷から出なかったからだ。
ところが馬揃えという信長の恫喝を無視して、3月9日に朝廷は左大臣兼任を信長に伝える。
――左大臣は天皇譲位、新帝即位後に受ける――朝廷への返事だ。(御湯殿上日記)
3月19日信長の返答を受けて、朝廷は対処方法を協議する。その結果朝廷は”譲位は不可”と伝える。
以上に対して別の見解が出ている。
1度目の馬揃えの後、天皇と誠仁親王は勅使を立てて信長を慰労するのみ。これに不満を抱いた信長は左大臣推任の勅使派遣を要求する。しかし誠仁親王が反対したため、信長は2度目の馬揃えで朝廷を威嚇した。
その後信長が天皇の譲位を出した事で、3月9日に左大臣に推任して、信長の左大臣就任に備えた。
ところが左大臣推任を望んでおきながら、4月1日になって、信長は態度を変えた。結局、譲位の話や、左大臣就任の事も立ち消えとなる。
話は前後する。天正5年(1577年)に信長は右大臣に就任するが天正6年に辞官している。
その理由として兼見卿記には
――4海平均なった暁には、再び官職に就くといっている――
左大臣を辞して、残る官職は征夷大将軍だ。だがこの官位は源氏が就くもので他の姓氏の者にはなれない。織田家は平氏だ。信長は将軍にはなれない。
信長は征夷大将軍を目指した訳ではない。
その理由として、将軍職は朝廷が与えるポストではない。将軍就任の最大の要因は天下統一を成した者に与えられる職なのだ。朝廷の意志だけで与える事が出来る官職ではない。本質的には征夷大将軍は武家の問題となる。朝廷の出来る事は武力で天下を統一した者を征夷大将軍とし追認する事だけだ。
朝廷の主体的な権限で征夷大将軍を与えたのは、建武の頃の親王方、坂上田村麻呂だけだ。はるか昔の事だ。
馬揃えの後、天正10年5月29日までの1年2ヵ月の間信長は京を留守にする。天正9年に武田討伐が成る。その翌年に京に姿を現す。
天下統一を間近に控えた信長――しかし無位無官であった。朝廷は信長に望みの官位を贈るとまで言っている。この時はじめて朝廷は信長の不気味な一面を見る事になる。信長が官位に就けば形の上では朝廷の家臣となる。朝廷の権威は保たれる。
無位無官――朝廷とは無関係、しかも信長の軍事力に対抗できる勢力はもはやいない。朝廷は恐怖した筈だ。
信長はイエズス会を通じて、”神”を見ている。信長自らが神と宣言した時、朝廷は無用の存在となる。
天正10年、本能寺の変の前日、入洛した信長のもとへ公家衆が挨拶に出かけている。公家に向かって、この年の12月に閏年を入れるべきと主張した。
永禄8年(1563)8月歴道を家業とした賀茂氏の当主賀茂在富が死去した事により、朝廷は歴道の仕事を土御門家が兼務するよう命じた。暦の作成は朝廷の独占的な事業だった。
戦国時代朝廷より出される京暦に対して関東では三島暦が使われていた。
信長が公家に提示した暦問題は、朝廷の独占権を取り上げようとするものだった。
この問題は天正10年の正月にすでに信長が取り上げていたが、朝廷側(土御門家)が一蹴している。
信長は朝廷の権威を1つずつ剥しにかかっていたのだ。
そして――この時期信長は朝廷=天皇を消去する案を考えていた。秀吉や近習に語っていたのだ。
朝鮮征伐――
天正20年(1592)5月18日、秀吉から関白職を譲られた秀次に宛てた書翰の中に、2年後にも大唐(明国)の都(北京)へ後陽成天皇をお移しする準備をするように。都の周囲の10ヵ国を進上しよう。公家衆もここから知行を受ければよい・・・。以下略
秀吉は信長の天下布武を忠実に受け継いでいる。信長は天下統一が成った後の天皇をどう扱うか答えを出していたのだ。
中国の都に天皇を移す。中国には天皇という称号はない。天皇という称号は日本国内での正統な主権者という意味だ。中国に移してしまえば、天皇から皇帝にになるが、日本国内の主権者とは無関係になる。
天皇家は武力を持たない。それを武力で倒すのは困難だ。信長が朝鮮征伐の構想を持っていた事を朝廷は察知していた。中国を征伐後、朝廷が中国に強制的に移住させられる事も・・・。
朝廷は明智光秀を煽って信長殺しに奔走させる。
高坂登の資料を読み終える。内田と澄子はため息をつく。これをあの茫洋とした高坂が書いたのか。彼の風貌からは想像できない。簡単だが当時の信長と朝廷の軋轢が書かれている。
上村秋彦
平成20年12月上旬、上村秋彦宅を訪問。彼の住まいは奈良県生駒市。生駒山麓公園の近く、京都にも近い。
彼の家は代々林業で生計を立てている。30年ぐらい前に外国産の安い木材の輸入に押されて廃業。
父の代から富岡潤一との付き合いがある。富岡の紹介で京都や大阪の建築屋や建具屋、指物店などと取引があった。建材業を廃業する時冨島に相談。印鑑の製造を勧められる。それも機械で作る大量生産だ。
印鑑の篆刻は長年の技術の修得が必要となる。縁起をかついで何十万もする実印の需要も多い。材質も象牙などにこだわる客もいる。
むしろ認印などの安価な印鑑を作ったらどうかという。冨島は顔が広い。数多くの印鑑を売る店を紹介してくれた。
冨島の予想は当たった。販売店へ安く卸す。徹底して原価を下げる。認印は十数年前は5、6百円した。今、百円ショップで売っている。大忙しの毎日だ。
彼は60歳。55歳の奥さんと2人暮らし。2人いた子供達は結婚して独立している。
彼の住まいは西に生駒山麓公園を見下ろす丘の上にある。北に光陽台団地がある。住宅が立ち並んでいる。家は総2階の入母屋、母屋の横にスレート瓦の工場がある。広大な敷地だ。
電話で朝10時の訪問を約束している。上村秋彦は玄関まで出迎えてくれる。白髪で背が高い。金縁の眼鏡が光っている。顔の艶が良い。柔和な顔が人懐こい印象を与える。
玄関は畳3枚程の広さだ。玄関引き戸は黒のアルミサッシで4枚引き。上り框は3尺の幅がある。
「どうぞ、上がってください」上村は手招きする。彼は紺の作務衣姿。生駒山中だ。寒さが厳しい。
玄関を上がる。幅2間の広縁が東西に走っている。掃き出しのサッシ窓から差し込む陽が暖かい。玄関から真直ぐ奥に2間幅の廊下が続く。廊下の左手が8帖の和室が4つ。田の字型になっている。
右手は16帖の応接室。その奥がキッチン。
「どうぞ、こちらへ」上村は2人を応接室に案内する。ソファーに腰を降ろす。テーブルは樫の木の一枚板。奥のキッチンから、奥さんがコーヒーを運んでくる。
「随分立派なお宅ですね」内田が感嘆の声を上げる。
「昔、製材をやってましたから」上村はソファーに腰を降ろす。築50年という。
「粗末な物ですが・・・」間瀬澄子が贈答用の包み箱をテーブルに置く。
「常滑焼の朱泥の急須セットです」内田の口上。
「これはこれは、おおきに」上村は丁寧に頭を下げる。
しばらくは3人とも無言のままコーヒーを飲む。
内田は高坂の話を切り出そうとタイミングを計っている。
「間瀬さん、残念な事をしましたなあ」上村は溜息をつく。澄子を見る。
「奥さん、まだお若いのに、大変ですなあ」
「警察の事情聴収、ご迷惑をお掛けしました」内田は頭を下げる。澄子も右に倣う。
「仕方がありませんわな。まあ型通りの聞き取り調査でしたがな」上村は如才がない。
「ところで高坂さんから資料を頂いたんですが・・・」
内田は本題に入る。テーブルの上に高坂から貰った資料を載せる。
「本能寺の変、朝廷陰謀説、説得力がありますね」と褒める。
この資料は上村さんと2人3脚で調べたものだから、詳しい事は上村さんに尋ねてくれと言われていると切り出す。
「それと・・・」内村は上村の金縁眼鏡の奥の柔和な眼差しを直視する。
「望月さんや広岡さんからお聞きしたんですが・・・」上村の顔をうかがう。
「朝廷陰謀説を選ばれたのは上村さんと高坂さんだとか」
「それがなにか・・・」上村の表情に曇りがない。
「高坂さんは、上村さんから朝廷陰謀説をやれと言われたとか・・・」
「高坂がそう言いましたか。やはり正直な男だ」
上村は破顔する。納得したように1人合点する。真顔になる。2人を見詰める。
「ここだけの話にしてくれませんか」表情は柔和だが言葉が固い。2人は真剣な面持ちで上村を見る。
――京都歴史研究会は冨島の発案。何をやるかを決めるのが望月と広岡。
上村はインターネットでホームページを開いて会員募集を呼びかける。会員への連絡も欠かさない。
上村は歴史には興味がない。冨島には随分とお世話になっている。手伝えと言われて嫌だとは言えない。高坂を引っ張り出して少しでも楽になろうと考えた。
高坂はもとは奈良に住んでいた。若い頃は上村の製材所で働いていた。言われた仕事はきちんとこなす。
上村製材所が廃業してから今の仕事に就く。
上村は富島に頼み込んで、高坂の仕事が増えるよう便宜を図ってもらっている。高坂も富島に感謝している。
「お前、歴史をやらんか」富島の要望だと念を押す。
高坂の風貌からは歴史を論ずる男には見えない。だが、彼は言われた仕事はきちんとこなしていく。出来ないことは出来ないとはっきり言う。
「高坂はねえ、嘘の言えないたちなんですよ」だからこそ高坂に全幅の信頼を置いている。
上村の口調は静かだ。
――本能寺の変の発案者は望月。いつもなら富島が決める。望月から信長をやってはどうかという声が出た。信長の何をやるか、富島、望月、広岡で決める。本能寺の変と決定。
本能寺の変の首謀者は明智光秀という通説を取り上げたのが望月と広岡。
2月頃、富島から電話が入る。君と高坂は朝廷陰謀説をやってくれ。
「私は高坂に富島の話をそのまま伝えました」
――高坂、後は頼んだぞ――私は気の重い役目を高坂に押し付けたのです。
上村は思い出したように含み笑いをする。
富島は上村にお前はこれをやれと命令?する。その一方で会員達には自由に選べという。
「冨島さんには他意はなかったと思いますね。
まず通説を取り上げる。最初に朝廷陰謀説を取り上げる事で次回からの会合に弾みをつけたい。そんな思惑ではなかったのか。
内田と澄子は顔を見合わせる。
・・・多分そんなところだろう・・・2人の顔に書いてある。
――ところで――内田が気持ちを切り替える。
高坂の発表に対して、何か意見が出たかと聞く。
高坂が発表したのは4月。高坂が述べた後、冨島が質疑応答の形で、通説への疑問が提示される。高坂の発表した意見の質疑応答は5月だ。
「そう言えば、間瀬さんが質問しましたね」
「ほう」内田と澄子は面を革める。上村を見る。
間瀬耕一の質問は暦の事だ。高坂の説の中に、賀茂氏の当主が死んだので朝廷は暦作りを土御門家に命じたとある。
――暦はそんな簡単に作れるものでしょうか――
暦作りは専門の知識が必要と思われる。代々暦作りを担ってきた家が無くなる。代わりをお前がやれ、そんな気軽にやれるものだろうかという疑問だ。
予期しなかった質問に高坂は面食らう。暦作りは朝廷の専売特許だった。信長が朝廷を追い詰めるために用いた手段の1つだ。その説明のために取り上げた。
「本題から外れてましてなあ」高坂は困った顔をしている。戦国時代の暦など調べた事がない。
この時冨島が助け舟を出す。
「間瀬さん、賀茂神社をご存知か」眼を細める。
賀茂神社は上と下がある。どちらでも良いから、社務所で私の名前を出せば、暦について詳しい人が教えてくれると思う。もし行く日が判れば私の方から電話を入れておく。
「主人は出かけたのでしょうか」澄子は身を乗り出す。
「さあ、以来賀茂神社の事は間瀬さんの口から出ませんでしたなあ」
・・・携帯電話の通話記録にもなかった・・・澄子は頷く。
電話は警察が調べ尽くしている。歴史研究会の会員とのやり取りもなかった。行くなら主人の事だ、自分も連れて行ってくれる筈だ。
「まあ、その場限りの質問でしょうな」上村の言。
「ところで・・・」上村は言葉を改める。
高坂と自分は間瀬耕一が殺された夜のアリバイがない。高坂は独身で人とめったに付き合わない。自分は工場にいた。妻は実家に帰っていた。警察にも聴かれたが、自分達には間瀬紘一を殺す動機がない。
内田と澄子が上村邸を出たのが11時半。帰りに東大寺や春日大社、興福寺を参観して帰宅する。
菊池邸
上村秋彦への訪問後、内田は多忙になる。
常滑市内での建売が2軒売約済みとなる。間取りの1部変更、追加工事が出る。常滑で過ごす日が多くなる。妹の澄子も常滑に帰る。亡夫の遺品の整理や間瀬家の跡取りの件で忙しくなる。亡夫の弟の末っ子を養子に迎える事で決着する。間瀬家の財産は澄子が受け継ぐ。養子への財産譲渡は遺産譲渡となる。
澄子は兄の会社で働くことになる。
平成21年1月下旬、内田不動産の2軒の建売の引き渡しが終わる。
2月のはじめ、内田と澄子は京都の間瀬の家に行く。残る訪問者は菊池学、権藤昭一、瓜坂舜造、成島守、日下部修一の5名だ。
菊池は滋賀県犬山郡多賀町、多賀大社の近くに住んでいる。彼は彦根高校の日本史の先生だ。40歳。
内田は電話を入れる。要件は望月から伝わっている。
「実は私達もぜひ、お会いしたいのです」
菊池の声は女のように甲高い。
「私達?」内田はオーム返しに問う。
以下菊池の返答。
1人1人面会するのは大変だから、菊池を含めて4人が菊池邸に集合することにした。2月の第2日曜日に来訪する。
内田は改めて他の3人の住所を調べる。
権藤昭一は大阪、65歳、無職。瓜坂舜造は滋賀県長浜市、50歳。不動産業。成島守は京都府亀岡市、49歳。農業。
「日下部修一が欠けているな」内田は澄子に言う。
「この方は11月に発表する予定だったわ」
間瀬耕一は10月に発表する予定だった。殺害されたため、10月以降の会合は開かれていない。冨島の話だと、事件が解決するまで”開店休業中”との事。
約束の日、内田と澄子は朝8時に出発する。名神高速の彦根インターまで30分。約束の時間は午前10時。インターを降りた近くの喫茶店で休憩をとる。菊池の家は多賀大社から東に1キロ行ったところにある。数十軒の集落の中にある。周りは田や畑が拡がる。集落の北側は山々が連なる。菊池の家は築100年の大きな屋敷だ。古い家が好きなので20年前に土地ごと購入している。屋敷は元々農家だった。家の中を改造している。
田の字型の和室を中心にして、10帖ある台所、風呂、トイレ、応接室を改造している。書斎や書架もある。自分たちの寝室、子供部屋もある。
外見は入母屋で、掃き出し窓はサッシに替えている。奥さんが家庭菜園をやっている。
内田達は約束の時間に到着する。広々とした駐車場には6台の車が並んでいる。
玄関は1間幅の引き戸。インターホーンを鳴らして玄関引き戸を開ける。奥から菊池が現れる。2人は玄関先で挨拶する。
セーターを着た菊池はひょろ長い体を折り曲げる。眼鏡をかけて、長い鼻と薄い唇が印象的だ。
「どうぞ、お上がりください。皆さんお揃いです」
甲高い声が家の中に響き渡る。通されたのは田の字型の和室の1部屋。天井の梁や土壁、柱がむき出しで黒ずんでいる。床の畳を合板に張り替えている。セントラルヒーティングが効いていて暖かい。真ん中のテーブルを囲んで3人の男が腰かけている。内田と澄子は一礼して外套を脱ぐ。3人と対峙する形でソファに腰を降ろす。内田の隣に菊池が座る。
菊池は3人を紹介する。3人とも軽く会釈する。内田と澄子は立ち上がって頭を下げる。菊池の奥さんが襖を開けてコーヒーを運んでくる。
「間瀬さん、残念でしたね」菊池が哀悼の意を表す。3人も頭を下げる。
「ごていねいに・・・」澄子は謝意を表す。
内田は今日までの経緯を述べる。そのうえで各自が警察の事情聴収を受けた事の失礼を詫びる。
「今日は皆様が歴史研究会で発表された事をお聞きしたい」
それと間瀬耕一の言動について何か心当たりがあればお尋ねしたいと率直に切り出す。
しばらく沈黙が続く。皆一様にコーヒーを飲む。静寂を破ったのは権藤昭一だ。
「私から話してもよろしいかな」菊池の同意を求める。彼は流暢な大阪弁でまくしたてる。
――間瀬さんが殺されたのは大変ショックだった。京都歴史研究会のメンバーの中には犯人はいないと断言したい。彼が死んで得する者は誰もいない――
言葉は柔らかいがズバリ突っ込んでくる。嫌味はない。言葉に真摯な響きがある。権藤は丸顔で大きな眼をしている。八ノ字の眉が黒々としている。ぶ厚い唇が蛭のように動く。
権藤は内田を見据える。
「私ら、昨年12月で歴史研究会を辞めましたわ」
同意を求める様に他の3人の顔を見回す。3人は軽く頷く。
「私達が辞める事、冨島さんから聴いていませんか?」
瓜坂舜造が7・3に分けた白髪を手で撫ぜ付ける。彼だけがダブルの紺のスーツを着ている。金縁の眼鏡の奥の眼が光る。朱色のネクタイが紺色に映える。
内田は冨島や望月、広岡からは何も聞いていないと話す。
「やはりな・・・」瓜坂は失望の色を見せる。
「私達ね、間瀬さんが不幸な目に会わなかったとしても、昨年いっぱいで辞めることにしていました」
49歳の鳴島が瓜坂の後を引き継ぐ。
「何か問題があったのですか」畳みかける内田。
「言いにくい事は、私が話しましょう」菊池は3人を代弁する。
「私共は歴史研究会に入って2~3年しかたっていません」
――会に入りたての頃は先輩格の冨島達に遠慮がある。特に冨島と広岡は京都の名士で実力者と聞いている――
「ほう、名士ですか」内田が驚きの声を上げる。
「ええ、上村さんから聴きました。この2人は土地やアパートを持っている。食うに困らない身分だとか・・・」
菊池の甲高い声が響く。
――京都を舞台とした歴史のテーマを1ヵ月に1回会合を開く。それを1年間続ける。しかしどんな歴史上の事件でも、10以上も異説があるわけではない――
菊池は一旦口をつぐむ。
「私が話してもいいですかな」瓜坂が艶のある顔をつるりと撫ぜる。菊池はどうぞとばかりに席を譲る。呼吸が合っている。
――瓜坂が入会した時は桓武天皇をやっていた。都を京都に定めた天皇だ。異説珍説と言われても、そんなにあるわけではない。望月から手渡される資料に目を通す。自分なりに調べてみる。調査しても広岡や望月らと似たり寄ったりの意見になる。後は歴史研究会に名を借りた観光名所めぐりだけ――
「それが悪いというのではありません」瓜坂の眼鏡が天井の蛍光灯に反射する。こんな会合なら出席するまでもない。
「それに・・・」今度は権藤が横槍を入れる。瓜坂が引っ込む。
内田と澄子の来訪が幸いとばかりに、うっぷん晴らしの感じだ。2人はいいカモだ。
「はじめからレールが引かれているんですな」
自分は無職だから時間が有り余っている。納得のいくまで調べる。
信長殺しは明智光秀と定説づけられ世間に膾炙している。望月や広岡は明智光秀説、上村と高坂が朝廷陰謀説。後に残るは秀吉と足利義昭、イエズス会ぐらいなもの。
「我々はね・・・」権藤が間瀬澄子の顔を見る。
「あなたのご主人、それに日下部君には申し訳ないが、この4人で決めました」
彼は以下のように言う。
6月の発表会では菊池が秀吉主謀説を取り上げる。7月は権藤が足利義昭、8月は瓜坂がイエズス会、9月に鳴島が明智光秀非犯人説を取り上げた。
「まあ、間瀬君と日下部君が何を取り上げるか、薄情な言い方だが”知ったっこちゃない”でしてな」
「9月の発表会の後の酒の席でしたね」菊池の甲高い声が権藤声を遮る。
「間瀬さんに、あなた何やるの」と尋ねました。信長殺しの推定犯人説が出尽くした後でしたからね。
間瀬さんはにやにや笑いながら「アッと驚く為五郎をやりますよ」古い洒落を持ち出しました。
「そういえば、日下部くんだが・・・」鳴島が口をはさむ。
日下部は間瀬耕一とほぼ同時期に入会している。酒の席でも間瀬と2人で話し込んでいる。
「あんたは何やるのって感じでしたな。2人の雰囲気は」
日下部は口が軽い。秘密を持たない主義なのか、何でもペラペラ喋る。
「あんたは何をやるの」と聞くと、自分は信長の人物像を取り上げたい。そうすれば犯人像も浮かび上がってくるんじゃないか、その準備中と言ってました。
取り止めのない発言が次々と飛び出す。内田と澄子は聞き役に徹する。。にわか雨のような発言も止む。
・・・今回も収穫なしか・・・内田は失望を覚える。
間瀬耕一殺害の夜、4人にはアリバイがある。菊池が4人が発表した資料を内田に渡す。冨島から貰ったコピーと同じだ。
秀吉主謀説
6月の歴史研究会に菊池が発表した秀吉説。
信長が死んで一番得をしたのは秀吉だ。秀吉主謀説は昔からある。秀吉本人はアリバイがある。配下の者にやらせる事になる。どうやって殺したのか、そしてその殺しの動機だ。
通説による、本能寺の変の前後の秀吉の行動を見る。
本能寺の変が起こった時、秀吉は備中高松城を攻めていた。三木城、鳥取城攻めと、5年間の死闘は備前、備中の国境まで後退していた。この国境線を守る毛利方の城を、”境目七城”という。その中心が備中高松城だった。境目七城を次々と攻略し、最後の本城が高松城なのだ。
高松城は三方を深い田に囲まれた堅固な城だ。攻め口が見つからず、水攻めを行う。城の周囲に長さ3キロ、高さ7メートルの堤を築いた。10日間という突貫工事のため、賞金を出して競争意識を煽っている。その資金の出所は不明、高松城攻めは、天正10年(1582)5月8日から始まっている。
6月3日夕刻、光秀が信長を本能寺に襲って殺害したという情報がもたらされる。その情報は光秀が毛利方の小早川隆景に宛てた密書と言われている。密書を持った密使が小早川の陣所と間違えて、秀吉の陣所に紛れ込んだのだ。警固の者に見咎められた逮捕される。密書が秀吉の手に渡る。――信長死す――
秀吉の狼狽ぶりは見る者を驚かせた。黒田考高は秀吉に囁く。
・・・天下取りの機運が巡ってきましたな・・・
この後の秀吉は迅速な行動を示す。信長殺害の情報が毛利方に漏れないように街道を封鎖。毛利方の使僧安国寺恵瓊を呼ぶ。進行中の講話の話を急がせる。本能寺の変後の6月3日の深夜の事だ。
秀吉の依頼を受けた安国寺恵瓊は、城主清水宗治の切腹、備中、美作、伯耆3国を信長へ移譲するという講和条件を持って毛利陣中へ急ぐ。吉川元春、小早川隆景と協議する。
秀吉が講話を急いだのは、毛利方が信長の死を知る前に撤退したかった。これが1つ。
2つ目は一刻も早く東上して明智光秀の首を討つ事。天下取りのための最大の条件なのだ。
撤退しても毛利軍が追撃しない事が絶対条件になる。その為にまず毛利方が先に兵を引く事が必要になる。
6月4日正午、清水宗治が湖と化した水面の船上で切腹。午後3時、誓書交換。
5日午後2時、毛利方の軍勢が岩崎山の陣営を引き払う。それを見て秀吉は全軍の撤退命令を出す。
後日談だが――。吉川元春は秀吉追撃を主張、小早川隆景はそれに反対している。吉川の軍が引き上げても、秀吉は慎重に毛利軍の出方を窺っていた。
ここまで迅速に事が運んだのは、安国寺恵瓊の働きが大きかった。彼は毛利方の使僧にも拘わらず、秀吉方と連繋しているかのような動きをしている。
吉川軍撤退の知らせは安国寺恵瓊が知らせたのではないかと推測される。後年、彼は豊臣政権の中核にのし上がる。
備中高松城攻めに参加した秀吉の軍勢は2万5千人。その他に兵糧を調達する者、将の馬や世話係等を含めると、優に3万人は超えていたと思われる。それらをすべて姫路城まで移動させねばならない。その行程80キロ。
6日の午後1時に高松を出発、7日の夜、あるいは8日の早朝までに姫路城まで戻る。されに東上して光秀の軍と戦わねばならない。
姫路城は天正5年(1577)10月、秀吉が中国征伐の命令を受けた時から根拠地に据えている。
約3万の軍勢を1日で80キロ移動させる。
――不可能――というのが当時の常識だった。明智光秀もそう考えた筈だ。
――中国大返し――戦国史上名高いこの作戦はどのように行われたのか。
備中高松を引き払った秀吉軍は、山陽道をかける。その日のうちに備前の沼城に入る。ここは宇喜多秀家が天正元年に岡山に移るまで拠点とした所だ。
7日、沼城を出発。福岡の渡しで吉井川を渡る。その日の大雨で増水の川は危険だったが、渡河に成功している。
この福岡は黒田官兵衛の出身地だ。黒田官兵衛の子、長政が筑前福岡で新城を築いた時、福岡と名付けた。黒田氏ゆかりの福岡にちなんだものだ。
吉井川を渡る。伊部、片上、三石、船坂峠を通り播磨に入る。
ここで問題となるのが、船坂峠は険路である事。その為に片上から船で赤穂に上陸したという説がある。その他に沼城から牛窓に出る。赤穂の佐古志(坂峠)に入るという説。3万余の大軍が行進する。1つだけの道では難渋する恐れがあるある。3方に分かれて行進したとも考えられる。
姫路城には戻ってもすぐには光秀軍と対峙できない。軍団は夜通し走っている。遅くとも8日の払暁には姫路城に入っている。一昼夜で55キロの強行軍だ。
ちなみに旧日本陸軍の行軍の基準は、大部隊で約24キロ、騎馬大隊で40キロから60キロ。行軍のスピードは1時間で4キロとしていた。
中国大返しは3万の軍勢が移動する。しかも大雨の中、人馬一体の大移動だ。行軍の途中の食事や休憩、馬の世話もある。姫路城に着いたときは人馬ともに疲労困憊の極みにあった筈だ。
その上、光秀軍の情報収集から武器の運搬、軍の移動や手配、周辺の豪族への協力要請も欠かせない。大変なエネルギーと時間が必要となる。
秀吉は軍団に対して、姫路城ににあった兵糧と軍資金を洗いざらい分け与えた。米8万5千石、金8百枚、銀7百50貫と言われる。
天下取りの為に、姫路城の兵糧米、金銀すべてを吐き出す事ぐらい、秀吉には安いと考えたのだ。配分に預かった将兵の士気は盛り上がった。秀吉の人心掌握術の見事さを表している。
秀吉は姫路城に戻った軍団を1日休ませる。翌9日出陣。11日朝、秀吉は摂津の尼崎に到着。秀吉自身は10日には尼崎に入っている。軍団よりも早く移動した秀吉の周辺には秀吉直属の一団が従っていた。
尼崎に着くと、大阪にいた信長の3男信孝、丹羽長秀、有岡城の池田恒興らに、秀吉軍への参加を呼び掛ける。
本来ならば信長の遺児、信孝が総大将になるべきだった。しかし、信長死後の混乱、光秀軍との決戦を直前に控えている。緊迫した状況にある。秀吉が主導権を握り、総大将の地位を占める。光秀との決戦をリードする立場になっていた。主君の弔い合戦を果たすために、その後の地位は大きな意味を持っていた。
山崎の合戦で光秀軍を破るのは通説の通り。
菊池は以上の通説にいくつかの疑問を呈している。
1、秀吉に信長殺しの情報が入ったのは、光秀の密使が小早川軍の陣営と間違えて秀吉の陣営に入ったため
――戦国時代の戦いは陣地には必ず陣幕を張りめぐらす。陣幕には陣地内の大将の家紋が入っている。そ 上、陣旗が何本も高々と掲げられる。ここが何々隊の陣営だと誇示する。夜間ともなれば明々と松明の 灯がつく。遠目からでも陣幕や陣旗が目に付くためだ。
その理由は2つ。夜でも急な知らせが入る場合がある。それと敵の夜襲を防ぐためだ。夜間の見回りによ る警戒は厳重を極める。
こんな状勢のの中で味方と敵の陣地を見誤るだろうか。明智光秀の事だから、小早川勢に密使は送った だろう。だが小早川勢に伝わっていないという事は、秀吉は信長の死を知っていて、毛利勢への進路を すべて封鎖したとみるべきだ。
2、高松城攻めは天正10年5月8日から始まっている。信長の死の知らせが入るのは6月3日夕刻。この 間1ヵ月有余、講話の話も同時進行していた。
安国寺恵瓊を呼んだのは6月3日深夜。講話締結は6月4日午後3時。講話の交渉には1ヵ月余りか かっている。毛利方にすれば自国の命運がかかっている。講話締結が僅か1日で出来るものだろうか。 これはあらかじめ講話の条件が整っていたとみるべきだ。信長の死の知らせと併せてこそ、光秀討伐の 大義名分が成り立つ。
3、中国大返しの謎。常識的には約3万の軍勢を1日80キロを移動させるのは不可能である。しかも途中で 大雨に見舞われている。
だが――、信長の死を予見して、全軍退却の準備をしていれば不可能ではない。
その後例が後年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに見られる。この戦いは佐久間盛政、柴田勝家率いる1万 5千の軍が、余呉湖の南、賤ヶ岳の麓を通り、中川清秀が守る大岩山の砦を襲った事に始まる。
この知らせを受けた秀吉は、ただちに移動を開始する。
美濃岐阜から近江木之本まで約50キロ。
まず50人の屈強の者が選ばれる。近江に走る。50人の内の20人が長浜の城下に入る。松明の手配 をする。残りの者は領内の村に入る。村民に炊き出しの準備をさせる。
別動隊の加藤清正が近江の商家、豪農を訪ねる。通常の倍の利息で金銀やコメを借り受ける。5万人の 兵糧を確保する。
こうした下準備の後、1万5千の秀吉軍が動き出す。
約50キロの道を走り抜ける。夜には木之本に到着。その行軍は煌々とした松明に照らし出され、ふん だんに握り飯がふるまわれる。
大移動したその日は休息をとる。
以上のような行動が中国大返しでも取られたとみる。
賤ヶ岳の戦いでは、秀吉は佐久間盛政が動くと読んでいた。村々に炊き出しを命じたり、金銀米の供出 は事前に知らせてあった。そうでないと時間的に間に合わない。
中国大返しも信長の死を予期していたからこそ、事前の準備が出来ていた。
姫路城到着から山崎の合戦まで勝利するまでの駆け引きは実に巧妙である。
これはその場その場の即行というより、前もって考え抜いた行動であった、というのが妥当ではない か。
秀吉の動機
秀吉が信長を殺す動機は何か――。
菊池はまず下剋上説を取り上げる。
天正8年(1580年)8月、佐久間信盛は主君信長から19ヵ条にわたる折檻状を突き付けられ、嫡男信栄と共に高野山に追放される。
この年は信長自らが朝廷を動かして本願寺と和睦している。10年続いた戦いに終止符を打った年である。
佐久間信盛は、この時点まで近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括していた。信長が尾張を相続する前からの古参であった。織田家を会社に例えるなら、信長が社長、佐久間信盛が副社長級の地位にあった。
彼は若い頃から信長の父織田信秀に仕えた。後に幼少の信長の重臣となる。信秀死後の家督相続問題でも信長に与する。信長の弟、信時を守山城に置く際に、城主だった織田信次の家臣、角田新五らを寝返らせる。信長の弟、信行の謀叛の時も稲生の戦いで信長方の武将として戦う。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われる。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守り、戦後鳴海城を与えられる。
永禄11年(1568)近江の六角義賢、義治父子との観音寺の戦いで箕作城を落として戦功をあげる。長島一向一揆の戦いでも活躍している。
その他大和の国の松永久秀を交渉で味方につけたり、浅井長政が敵対したあとの野洲河原の戦い、姉川の戦いなどでも戦功をあげている。
ただ、元亀3年(1572)の三方原の戦いでは徳川家康の援軍に赴くが、ほとんど戦わずして退却。
天正元年には足利義昭を匿った三好義経を討伐。
天正4年(1576)石山本願寺攻めでは、畿内7ヶ国の軍勢を率いた信盛の軍団は織田家中最大規模だったが、本願寺の熾烈な抵抗に会い、戦線は膠着状態に陥った。それが5年間にも及んだ。業を煮やした信長が朝廷を動かして本願寺と和睦した次第だ。
19ヵ条に及ぶ折檻状は佐久間信盛の武功を否定した内容となっている。
信盛追放の真相は畿内、美濃に多くの領地を有する信盛の存在が邪魔になったので、領地を取り上げるための言いがかりであったとする。事実、信盛追放後にその領地の大半は信長と信忠に分割されている。
近畿地方での大軍団の統率は明智光秀に任せられる。
この時期に林秀貞、安藤守就、丹羽比勝の家臣たちが有無を言わさずに追放されている。
ただし佐久間信盛の場合、折檻状で命を惜しんで隠棲するか、命を懸けて武功を挙げて挽回するかを選択させている。信盛自身が隠棲の道を選んだのであって、信長が一方的に追放しているのではない。(前田利家は功績を挙げて挽回している)
佐久間信盛追放事件は織田家の家臣に甚大な衝撃を与えている。特に信盛は織田家最大の重臣である。
――軍功を挙げぬ者に明日はない――織田家の武将たちは震え上がった。
この事件が本能寺の変の引き金となった。
明智光秀は自身の領地である近江坂本、丹波を召し上げられて、将来に対する危機感を覚えて、信長を殺したというのが通説だ。
秀吉の場合――。菊池は行を改める。
佐久間信盛追放――秀吉にとっても衝撃的な事件となった。信長の天下統一は目前に迫っていた。
日本全土が信長のものになった時、自分達はどうなるのか、1国を与えられて余生を送るか――秀吉なら頭を振ったに違いない。信長がそれを許す筈がないのだ。佐久間信盛のように領地を召し上げられて追放される。それが関の山だ。
――全国平定の暁には、私を朝鮮征伐の先陣に・・・――
秀吉が信長に進言したともいわれている。
――信長を殺して、天下をお取りなされ―― 黒田官兵衛なら秀吉を囃したに違いない。
信長から使い捨てにされて朽ち果てるならば、いっそ天下を狙う。秀吉がそう考えたとしても不思議ではない。
次に菊池が取り上げたのが怨念説だ。
菊池は秀吉の家臣、蜂須賀小六と前野長康に注目する。
蜂須賀小六は川並衆(川筋衆ともいう)、船頭衆、地侍約2千人を率いる蜂須賀党の頭目。
前野長康は前野一統衆約3百名の頭目。前野は配下の者を”角、乱、振”の3つに分けている。
角は地侍、浪人郷士を中心とする戦闘集団、乱は乱波衆、情報収集と後方攪乱を目的とする。振は飛人で乱が集めた情報を、いち早く伝えたり、指令を迅速に伝える役目を負う。健脚で水泳の達人が選ばれる。
蜂須賀党、前野党共に、長良、木曽、揖斐川の周辺に根を張る野武士集団である。彼らは山の民、川の民と呼ばれるサンカである。
蜂須賀小六、前野長康の呼び掛けに、坪内一党、柏井党など、尾張、美濃の川並衆、約2千名が集まる。彼らは念仏僧、陰陽師、修験者、針売りに変装して敵国に偽の情報を流すのである。
サンカ(山窩)は漂泊者集団がルーツと言われる。
サンカは出雲に深い繋がりがあるとされる。出雲は古代から砂鉄、鍛鉄などの産鉄の産地だ。修験者、山の民、木地師、マタギは朝鮮半島や鉄との関係が深い。
サンカにとって刃物は命の次に大切なもので、鍛冶技術に優れていた。出雲に限らず全国各地の鉄の産地を渡り歩く。
職業区分が明確でなかった古代、鉱山を捜して山中を歩く鉱山師集団があった。年月を経るに従い、木椀などの生活用具を作る木地師、クマやイノシシをとるマタギと職業が分化していく。定着を嫌い山中を漂泊する集団がサンカのルーツであった。
そのサンカも、室町、戦国時代になると山を下りて、村里近くに定着するようになる。彼らの持つ情報収集力、山中を自在に移動する機動性がかわれて諸国の武将たちに利用される。彼らは修験者と同様、スパイや奇襲戦法の要員として重宝される。
修験者とサンカは元は同じ根と思われる。長い歴史に中で一方は宗教に傾注していく。一方は野山を漂泊する道を選んでいく。
サンカは独自の生活圏を築いて、1ヵ所には定住しなかった。にもかかわらず厳格な規律を敷いて組織化していた。組織の頂点が乱波、乱波の下に透波、突波があって組織をコントロールしていた。
塙保己一が編纂した”武家名目抄”に戦国時代を描いた記録がある。その中に乱波、透波が数多く登場する。
――これらは常に忍(術)を役する者の名称にして、一種の賤人たり――としている。
彼らはおおむね野武士、強盗などから呼び出されて召し抱えられたものと記している。
つまり乱波、透波、突波の多くは野武士で忍者集団である。彼らは諸大名に召し抱えられて扶持を与えられた。
三角寛のサンカ研究によると、
サンカの男子の子弟は12歳になると春に丹波に行く。二年間ミシリ(見知り)=訓練を受ける。これを丹波行きという。サンカ修行であり、武技と職業の訓練を受ける。この修行を終えた者を丹波戻りと呼ぶ。1人前のサンカになったことを意味する。
サンカは全国各地に存在して、お互いが意志の疎通を図っている。いわば情報交換である。伊賀、甲賀の忍者も同じサンカの系統に属している。
永禄九年(1566)の美濃攻略の拠点として、墨俣の一夜城は蜂須賀小六、前野長康の協力なくしては出来なかった。後年長康は築城や土木事業に専念している。大阪城築城、東山大仏殿の造営に携わる。
秀吉の少人数で短期間のうちに作戦を遂行する作戦は、墨俣の一夜城が出発点となる。この一見不可能に見える作戦を可能たらしめたのは川筋衆というサンカの異能集団の存在があった。
彼らは山中で金属資源採掘を本業とする鉱山師であった。水路によって山の民や海辺の海人とも結びついていた。彼らの結束力は強く、強大なネットワークを形成していた。
後年の備中高松城攻めで、巨大な土塀を築いたのは蜂須賀小六の川並衆である。
ここで菊池はサンカ問題でくどくどと述べる事の理由を記している。彼は高校で日本史を教えている。
歴史教科書の中で、サンカ、ササラ者、忍者、鉱山師などが出てくる事はまずない。
京都歴史研究会の会員もなじみ薄いと考えた。
信長殺しの動機を怨恨説とするならば、秀吉とサンカは深い関りがある。サンカ問題を抜きにして怨恨説は成り立たない。
サンカ問題は日本史という大河の底を流れる巨大な力である。サンカ問題をまともに取り上げるなら優に百科事典並みの大冊になってしまう。
しかしサンカが主題ではない。サンカがどういうものかを知ってもらうために、大ざっぱに説明する。
秀吉の謎
秀吉が織田軍団の中で頭角をあらわしていったのは、木曽川系の川並衆、木曽川と飛騨川の合流地点の美濃加茂郡八百津家の存在が大きかった。八百津家は木曽川舟運を主業としていた。彼らの彼らの活躍なくして墨俣城築城の成功は有り得なかった。特に川並衆の頭目、蜂須賀小六なくして秀吉の出世は有り得なかったと言っても言い過ぎではない。
ここで1つ大きな謎に突き当たる。
蜂須賀党のリーダー、蜂須賀小六は大永6年(1526)に生まれている。秀吉より11歳年長である。
彼は尾張国海部郡蜂須賀の土豪の長である。
犬山攻めの時、百人組鉄砲足軽のの頭に過ぎなかった秀吉とは比較できない大きな勢力を有していた。
その蜂須賀小六がどうして秀吉に従う様になったのか謎である。信長とて、この頃は尾張の領主に過ぎない。
この謎を解く鍵が秀吉の父の弥右衛門にある。
弥右衛門の出生地は丹波日吉の川筋衆とみられている。弥右衛門は弓削、有頭などの山中から伐り出された木材を大筏に組んで京都嵯峨まで流していた。
山崎の合戦で光秀を破った秀吉は、腹心の松下加兵衛にこの一帯を支配させている。
秀吉による筏の発給は朱印状で行われている。宛先は寺沢忠二郎である。彼によって丹波日吉の川筋衆への筏の発給が仕切られている。
以下は菊池の推測である。
寺沢家は秀吉の父弥右衛門とは昵懇であった。寺沢家が蜂須賀小六、前野長康に秀吉のルーツを伝えて、協力を要請したのではないか。
秀吉は信長に仕えた頃、猿と呼ばれた。幼名を日吉というと伝えられている。猿、日吉に秀吉の出生の秘密が隠されている。
日吉大社、滋賀県大津市坂本にある。
日吉大社は比叡山系の最高峰、大比叡峰東方山麓に鎮座する。比叡山延暦寺の鎮守社となっている。
創建は10代崇神天皇の頃、古事記に、――大山昨神、亦の名を山末之大主神、この神は近淡海国の”日枝の山”に座します――と記されている。日枝の山とは比叡山の事。
日吉大社の神使は猿とされている。現在でも日吉大社では猿が飼われている。この猿の事を日吉大社では、”真猿”と呼んで信仰されている。
猿は申と書く。猿に示偏をつけると神になる。かって怨霊と神とは同義語と言われている。猿も怨霊とみなされていた。
山城国風土記、賀茂神社縁起によると、ある日大山昨神は丹塗りの矢に姿を変えて川から流れてきた。玉依姫がこれを持ち帰り、枕元に置いて寝るとやがて妊娠した。こうして生まれたのが上賀茂神社の御祭神、別雷命である。
大神神社にも同様の伝説がある。
大神神社の御祭神、大物主命は丹塗りの矢に姿を変え、用を足しに川へやってきたセヤダタラヒメのほとを突いた。セヤダタラヒメが矢を持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、2人は結ばれ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)が生まれた。このヒメは後に神武天皇の后となった。
大物主神の正式名は倭大物主櫛甕魂命。
大和国の神、ニギハヤヒの正式名は天照国照彦天火明櫛饒速日尊という、この2神は同一神である。そして猿田彦は高天原から葦原中国まで照らす神と言われる。
つまり、大物主神=ニギハヤヒ=猿田彦神=大山昨神となる。猿は神の化身として崇拝されてきた。日吉大社には生きた猿の他に、猿の霊石、猿の像が至る所に見られる。
古代から、日吉大社の山の神は春になると地上に降りてきて田の神になると言い伝えられている。
それを実証するかのように、古代から中世にかけて、日吉大社の猿が里に降りてきて、家々の豊穣を約束したと言う。これが後々の猿回しの起源となる。
もう1つ特記すべき事は賀茂神社縁起、大神神社の縁起の中にセヤダタラヒメ、ヒメタタライズヒメの名前が出てくる。この2神の名前に共通するのはタタラである。
タタラ――足で踏んで風を送る、大きなフイゴの事を言ったが、後に砂鉄と木炭から鉄を製錬する方法を意味するようになる。鉄とは切っても切れない関係にあるのがタタラである。
修験者、山の民サンカ、木地師、マタギは鉄との関係が深い。
日吉大社はサンカ、マタギ、ササラ(タタラ)などの漂泊民から厚い崇拝を受けていた。
――もし秀吉が日吉大社に縁があるとしたら――
菊池は秀吉の母、なかが日吉大社の社家の出であるという伝承を見つけている。
母なかは名古屋の御器所で生まれたとか、愛知郡曽根村の農民の娘という説もあるが定かではない。
なかが弥右衛門と結婚した事は事実で、弥右衛門の死後築阿弥と再婚している。
以下は菊池の推理である。
日吉大社の社家の娘として生まれたなかは、春になると里に下りて、猿を連れて歩く”猿回し”を業としていたのではないか。弥右衛門との出会いは不明だが、弥右衛門の方が入り婿として日吉大社に入ったのではあるまいか。
春になると生まれた秀吉を連れて、”猿回し”の旅に出たのではないか。
後年弥右衛門はなかと秀吉を連れて、織田信長の父信秀に鉄砲足軽として仕えるが戦場でうけた傷がもとで、中村に引退する。
ここで注目すべきは彼が鉄砲足軽として仕えたという事実だ。弥右衛門はどこで鉄砲を習ったのか。
ずばり日吉大社である。
日吉大社は正確には山王総本宮日吉大社という。俗に山王権現、又は日枝大社ともいう。延暦寺の守護神である事から天台宗の仏徒によって、天台神道も起こっている。
山王信仰は春日大社、八幡宮とともに、全国各地に4千近くの末社をかかる。
比叡山延暦寺は古代から渡来系の人々の霊峰とされている。
義経記は修験者が根を張っていた場所として、日吉山王、出羽国羽黒山をあげている。
修験者は本来、山間で密教の呪方を修める験者である。同時に彼らは山中に埋もれた金属資源を見出す知識や技術をも身に着けている。彼らが聖と呼ばれたのは山中で治金の火をおさめる、火治りからきている。
金属の製錬技術から、戦国時代には鉄砲の生産技術さえ身に着けていたと思われる。鉄砲は戦国大名には、垂涎の的だった。
秀吉の母なかと結婚した弥右衛門は日吉大社に移り住む。鉄砲の技術をマスターしてもおかしくはないのだ。
弥右衛門の死後、母の再婚相手の築阿弥に養育される。しかし、築阿弥との折り合いが悪く、秀吉は家を飛び出す。針売りをして諸国を渡り歩いたと伝えられる。
戦国時代は国境に関所が設けられていた。身分の怪しい者、商人等は厳しい詮議を受ける。細作や暗殺者の侵入を防ぐのが目的だ。
秀吉が諸国を渡り歩く事が出来たのはどうしてか。
彼は母なかより、日吉大社の鑑札を所持していた。一種の通行手形で、それを見せる事で関所を通る頃が出来た。
神社、仏閣の関係者――修験者、サンカ、ささら、猿回しのような大道芸人などは鑑札を所持して全国を渡り歩いていた。
一時期、秀吉は遠州浜松の頭陀寺城の松下嘉兵衛に仕えた事がある。
主人の松下嘉兵衛は秀吉の才能を見抜いていた。秀吉も懸命な奉公の末、異例の出世をとげる。しかし他の家臣に疎まれ、松下嘉兵衛は家中の混乱を避けるために、秀吉をクビにせざるを得なかったと言われている。
菊池は言下にこの説を否定している。
松下嘉兵衛は今川の家臣に珍しく、人柄や才能で人を使った武将である。
だがサンカ出身の秀吉を家臣達は忌み嫌ったのだ。
部落差別は明治、大正、昭和の時代の問題だけではない。戦国時代も深刻な問題だった。サンカ、ささら、修験僧はお金のためなら何でもすると思われていた。人さらいも日常茶飯事に行われていた。
秀吉の父弥右衛門は、なかを連れて、名古屋の中村に引退して農民となったと言う伝承がある。なかの素性は美濃の刀鍛冶、関兼貞の娘とか愛知郡曽根村の農民の娘とか、確かな事は不明だ。
要はサンカという身分を隠さない限り、里の人間として生きてはいけないと言う事情があった。
秀吉が放浪したのは、職探しのためだ。松下嘉兵衛に拾われたのは、奇遇だった。秀吉は感涙したに違いない。松下家をクビになったのも、松下嘉兵衛のせいではない事を知っていた。
後年秀吉は松下嘉兵衛を大名に取り立てる。苦難の時に拾ってくれた恩は山ほど大きいのだ。秀吉は松下嘉兵衛のような人物が他にもいる事を知る。尾張の武将織田信長である。
彼は一路尾張へと急ぐ。目指すは生駒屋敷である。
生駒屋敷
生駒氏は大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁の子孫。生駒山麓谷口村に住んでいた。応仁の乱前後に尾張の小折に移住する。
生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大勢力となる。
生駒氏3代家宗の娘、吉乃(本名お類)は織田信長の側室となり、信忠、信雄、五徳を産む。織田家で重要な地位を占めて、尾北の豪族として小折に城を構える。
信長、秀吉が天下制覇への第一歩を踏み出したのが生駒屋敷である。
弘治元年(1555)秀吉は生駒屋敷に姿を現す。生駒屋敷を仲介として、蜂須賀小六の輩下となる。その時、吉乃のとりなしで信長の下僕として士官する。
永禄三年(1560)桶狭間の合戦の奇襲や、西美濃攻めの戦略は生駒屋敷で練られた。蜂須賀小六、前野将右衛門等によって各地の情報が集められる。戦費は生駒八右衛門家長によって賄われている。
永禄六年(1563)小牧山築城に始まる尾張北部の平定で、秀吉は鉄砲足軽百人組の頭として頭角をあらわす。
蜂須賀小六の輩下だった秀吉に、逆に蜂須賀小六が使えるようになる。その秘密は、信長からの要請もあったであろうが、母なかが日吉大社の家人、宗教儀式としての”猿回し”の出であることが原因だはないか。いわば秀吉は、小六が信仰する教祖の”家族”のような存在だった。
信長は蜂須賀小六、前野将右衛門等の川並衆等の特殊技能や、秀吉の類まれな能力を正当に評価していた。
里(村)人から恐れられ、忌み嫌われていたサンカ。信長に仕える事で歴史の表舞台に登場出来た秀吉や蜂須賀小六等は寝食を忘れて働いた。
――信長のためなら命を投げ出しても惜しくはない――
信長の天下統一の前に立ちはだかった勢力の1つに、一向宗がある。秀吉は修験僧、サンカ、ささらなどが一向宗に関わらないように苦慮している。
比叡山延暦寺、日吉大社焼き打ちの時、秀吉は陸路の香芳谷を攻めたが避難してくる人々を見逃している。
修験僧、サンカ等の崇拝の的、日吉大社焼き打ちは秀吉や蜂須賀小六達に暗い翳を落としていく。
――天下統一のためとはいえ、日吉大社を類焼させてよいのか――
信長の死後、秀吉は延暦寺や日吉大社の再建に尽力する。
天正伊賀の乱――天正六年(1578)信長の嫡男信雄は、父に無断で伊賀に手を伸ばす。拠点として丸山城を修築する。伊勢国司北畠家を継いだ彼は、丸山城を拠点にして伊賀攻めを行おうとしたのだ。丸山城は伊賀の地侍達(忍者)によって破壊される。
怒った信雄は、翌年青山峠を超えて伊賀に侵入する。侵入する前、彼は信長に泣きついた。信雄の不甲斐なさに、信長は父子の縁を切ると叱責している。
信雄軍は無惨に敗北する。この戦いを第1次天正伊賀の乱という。
敗戦に怒った信長は、石山本願寺を下した後、4万2千の大軍を率いて伊賀攻略に当たる。これを第2次天正伊賀の乱という。信長軍は、伊勢、甲賀、南甲賀、大和の4方向から伊賀に侵入する。手あたり次第に殺戮、放火を繰り返した。その火は奈良興福寺からも望見できたと言われる。
――5百年を乱不行の国――と言われた伊賀国は、信長によって蹂躙され滅びた。
伊賀は忍者の伝統が古くから保たれた聖地であった。4方を嶮しい山に取り囲まれ、鈑道山、油日岳などの修験者の山も多かった。
「寄せての軍兵、所どころの要塞破却して神社仏閣焼き払い、僧侶男女わきまえず殺害・・・」(伊乱記)
この皆殺し作戦にもかかわらず、百地丹波、藤林長門などの忍者は逃げ延びて諸国に散る。以来彼らは伊賀無速足人となる。
比叡山延暦寺、日吉大社焼き打ち、伊賀殲滅、一連の事件は山の民、サンカや修験僧らは反信長勢力となった。
蜂須賀小六を頭目とする川並衆、日吉大社を心の支えとして崇拝するサンカ、修験僧達は秀吉を担ぎ出して、信長の天下布武の大きな推進力となっていた。
だが天正伊賀の乱以後、歴史の流れは大きなうねりを見せる。信長憎し!諸国に散らばる山の民サンカ、忍者衆、川筋衆、ささらと呼ばれる鉱山師達の結束は固い。
蜂須賀小六、秀吉を突き動かして反信長勢力と成す事も不可能ではない。
そこに、佐久間信盛事件が加わる。
信長が天下を平定した後、どうなるのか。ありもしない罪を着せられて追放されるか、朝鮮征伐の名目で彼の地に追いやられる。その可能性は否定できない。
秀吉の心の内に信長はの不信感、憎悪が芽生えたとしても不思議ではない。
信長暗殺
内田茂と間瀬澄子はここまで読んで暗然とした気持ちになった。学校ではこのような歴史は習わない。
蔑視され忌み嫌われていた山の民が歴史を動かしていた。
闇の勢力――このような勢力が現在でも存在するのだろうか。内田や澄子の伺いしれない世界である。
平穏な時代なら、水底の沈殿物と同じで、表には出てこない。動乱の時代になると、水底を掻き回すと同じで、闇の力が表出してくる。
「もしかすると・・・」澄子の声が上ずっている。
間瀬耕一は信長殺しの、知ってはならぬ何かを突き止めたのではないかと言う。
「そのために殺された・・・」内田の沈痛な声。
「でも信長殺しって、16世紀の事件よ。それが何故今頃・・・」
信長殺しに秘密があったとしても、今の世に通用するのか・・・。これが2人の疑問だ。
秀吉の信長殺しの主犯を杉原七郎左衛門家次とする、菊池の推測は以下の通り。
菊池が着眼したのは、天正8年3月、十郎兵尉家利の息、杉原七郎左衛門家次、福知山三万石城主となるとの伝承である。ちなみに杉原七郎左衛門は秀吉の妻おねの叔父にあたる。おねの兄木下家定の妻は杉原七郎左衛門の娘である。彼女の腹から産まれた子の内五男が後に小早川秀秋となる。
通説によると天正10年6月13日の山崎の合戦で、明智秀満の居城だったのを没収され、杉原七郎左衛門が秀吉の命を受けて三万石の領主になったとする。
明智光秀が丹波亀山城主になった後、福知山城は明智光満に預けられる。この城は土塁で固めただけの小城だった。だがこの城は亀山朝日城を囲んだ篠山城や綾部城と共に要害の地固めの城でもあった。その為に光満は3年かけて石垣を高く築いて3層建の城にした。
丁度そのころ、安土の織田信長より、杉原七郎左衛門に引き渡せという命令が下ったのだ。
杉原七郎左衛門は播磨の神吉城にいた。名目は天正8年から福知山城主となる。だが光満の城の修復は完全に終わっていない。
明智光秀の方は細川藤孝の本城のある丹波領内に4つもの城を貰っている。光満も横山砦跡に新城を築き、家族を福知山城から移す。すべて完了してから杉原七郎左衛門に引き渡している。時期は天正10年正月から2月頃までとする。
城持ちになると浪人者を雇い入れて家臣とする。
杉原は秀吉に言い含められて丹波の山の民を雇い入れる。その理由は杉原も理解できた。信長殺しに丹波のサンカを使うためだ。
それともう一つ、秀吉の父弥右衛門は丹波のサンカだ。秀吉の出生地は丹波かもしれない。今や功名なり遂げた秀吉を慕って家臣になる者も多い。秀吉の名を出せば多くのサンカが馳せ参じる。
信長殺しの首謀者を杉原七郎左衛門とすると疑問が生じる。本能寺の変の前後日、彼は備中高松攻めに参陣していた。アリバイがあるのだ。
天正10年6月2日に秀吉に従って蛙ヶ鼻の本陣にいた。6月4日には高松城城生洲清水宗治に切腹させてから、秀吉の命令で高松城の受け取りをしている。その後も引き続き、城代として高松城の留守役をしている。
以上の疑問に対して菊池は偽装工作を主張する。杉原七郎左衛門は影武者を立てたかも知れぬ。高松城受け取り後、仰々しい程の旗行列を湖面に浮かべる。
杉原七郎左衛門の不在は、秀吉の首脳部のみ知り得た事だろう。
サンカが得意とするのは忍び、情報収集、敵陣の攪乱、調略、毒殺、変装などがある。目的達成のためのは手段は選ばない。
本能寺の変の前夜、多くの公家達が本能寺に集まっている。彼らが退去した後、千名の及ぶ杉原の手の者は本能寺に忍び寄る。あるいは本能寺に出入りの召使いとして入り込んだ者もいるかもしれない。彼らは野山を駆け巡る山の民だ。燃やせば毒の出る煙の調合も心得ている。
本能寺に居候する者すべてを毒殺する。信長も例外ではない。
早朝明智軍が本能寺に到着する。
本能寺は単なる寺ではない。軍事的要素を兼ね備えている。鉄砲のための火薬を保存されている。杉原の手勢の者が火薬庫に火をつける。大爆発と共に、本能寺が火焔に包まれる。
本能寺の外では町人に変装した杉原の部下が
――明智が信長を殺したと叫ぶ――
その上で朝使に扮した杉原の家臣が明智光秀に対面する。
「朝廷を警固するように」
二条城には信長の長子信忠がいる。これを攻め落とさねば信長殺しの犯人として誅殺される。
足利義昭とイエズス会
2人は菊池学の秀吉首謀説を読み終える。
言いようのない寂寥感が2人を襲う。権力と富を手にした者の行く末は皆同じなのだ。秀吉とて天下統一を目前にして杉原七郎左衛門が丹波で雇ったサンカを皆殺しにしている。その理由はただ1つ、丹波のサンカ出身という自分の出生の秘密を殲滅するためだ。天下統一後、秀吉は刀狩りを行っている。地侍、農民から武器を取り上げるのが目的と言われている。事実は山の民、川筋衆などサンカ、ささら、修験者、忍者などから武器を取り上げるためだ。秀吉は彼らの恐ろしさは身に滲みている。武器を取り上げる事で彼らの力を殺ごうとしたのだ。
「兄さん・・・」澄子の声が小さい。
内田は何だとばかりに妹を見る。
「私達、勘違いしているのかも・・・」
間瀬耕一の京都歴史研究会の資料が無くなっている。その資料の内容さえわかれば犯人の手がかりが判ると思った。
「夫は何かの利害関係のもつれで殺されたのかも・・・」
資料の入った風呂敷包みを、犯人は中身も確かめずに持ち去ったのではないのか・・・。
宅名刑事からは何の連絡もない。音信不通というのは、事件の進展がないと言う事なのだろう。
内田は尤もな事と頷く。しかし万一という事もある。歴史研究会のメンバーの資料は漁ってみようという事になる。
今のところ間瀬耕一殺害の犯人に結び付く手がかりはない。
菊池邸を出て奈良に向かう。京都の自宅に帰ったのが夕方6時。夕食は外ですましている。コタツに入って菊池の資料を読み漁っている。
・・・もう8時か・・・内田が呟く。澄子がコーヒーを入れる。
その時内田の携帯電話が鳴る。スイッチオンにする。
「今枝不動産ですが・・・」若い男の声だ。
声の主は、京都の間瀬邸をみたいというお客が現れた。明日朝10時にお伺いしたいがどうだろうかという内容だ。
内田は澄子と相談の上、この家を売却しようと考えた。京都市内の今枝不動産に売却の依頼をしたのだ。
翌朝、今枝不動産が若い夫婦を連れてくる。奥さんは赤ん坊を抱いている。一通り建物を見て回る。気に入って、1週間後に今枝不動産の事務所で契約の運びとなる。
内田と澄子はその日の内にいったん常滑に帰る。
内田不動産は常滑市役所と常滑駅の中間にある。繁華街の土地に店舗を構えている。
不動産は高額商品だ。売買や仲介は1ヵ月に2~3件あればよい方だ。昨今は不景気だ。成約数も減っている。澄子が店の留守番と帳面を手伝っている。
一週間後に京都に行く。自宅内の荷物の整理と、歴史研究会の最後の訪問者、日下部修一を訪ねる。電話連絡で当日訪問の予約は取ってある。
その日まで権藤昭一の足利義昭陰謀説、瓜坂舜造のイエズス会主謀説、鳴島守の明智光秀非犯人説に眼を通す。
権藤と瓜坂の資料は少ない。参考すべき文献が乏しいのだろう。間瀬耕一殺害犯の手がかりがあるようにと、すがる気持ちで読むことになる。
足利義昭
権藤の足利義昭陰謀説は、足利義昭が織田信長軍と浅井長政軍に警固されて上洛を果たすところから始まる。
朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任、幕府の管領家の細川昭元、畠山昭高、関白家の二条昭実の領地を手にして政権の安定を計る。山城国の御料所をも掌握する。
山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置。幕府の治世の実務は兄の義輝、摂津晴門を政所執事に起用、飯尾昭連、松田藤弘らを奉行衆として、幕府の機能を再興する。
永禄12年(1569)1月、織田信長が美濃に帰還、足利義昭が仮奉行所としていた本圀寺を三好三人衆に奇襲される。幸い浅井長政や和田惟政らの奮戦により撃退する。
義昭は信長に命じて烏丸中御門(旧二条城)整備する。ここに義昭念願の室町幕府が再興された。
この頃義昭は父織田弾正忠(信長)殿と呼ぶ程、信長との関係は良好だった。
信長自身、旧三好領だった堺を含む和泉一国の支配権を得た。義昭は信長を副将軍として推挙したが、信長は受けず、弾正忠への推挙のみを受けた。
幕府再興を念願とする義昭と天下布武を狙う信長との関係は思惑のずれから悪化していく。
信長は将軍権力を制約する為に、永禄12年(1569)1月。殿中御掟の掟書を義昭に承認させる。だが義昭はこれを無視する行動に出る。
信長の専横に不満を持つ義昭は、元亀2年(1571)頃から、上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を下し始める。これは一般に信長包囲網と呼ばれる。この包囲網には朝倉義景、浅井長政、延暦寺、松永久秀、三好三人衆らも加わるようになる。
元亀三年(1572)10月、信長は義昭に17条の意見書を送りつける。ここにおいて義昭は挙兵、武田信玄も上洛を開始する。信玄の死により形勢は義昭に不利となる。
信長が京に入ると義昭は烏丸中御門に立て籠もり抵抗を続ける。朝廷の仲立ちで和議が成立する。
7月3日、義昭は和議を破棄。南山城の要塞、槇島城に移り挙兵するが、7月18日の織田軍の攻撃で降伏。
信長は義昭を京都から追放する。
いったんは妹婿の三好義継の河内若江城に移る。護衛は羽柴秀吉が行っている。
しかし信長と義継の関係も悪くなったので和泉の堺に移る。天正2年(1574)紀伊国の興国寺、ついで泊城と居城を転々とする。
天正4年(1576)義昭は毛利輝元の勢力下の備後国、鞆に移る。日明貿易を通じて足利将軍と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援を受けている。
義昭はこの地から信長追討ちを目指して全国の大名に御内書を下している。
権藤は信長殺しを秀吉に働きかけたのではないかとみている。
天正10年6月には、秀吉は備中倉敷から右手の山に入った所の高松城を攻めている。左手の海に向かって降りた鞆の在に義昭がいた。約2か月の間、2人は至近距離にいたのだ。
毛利の使者、安国寺恵瓊は、鞆に移った義昭を盛り立てている。義昭が浄観寺に移った後も、己の寺の安国寺を公方接見所として提供している。
秀吉に安国寺恵瓊を引き合わせたのは足利義昭なのだ。秀吉と毛利の和解工作も、安国寺恵瓊を通じて、実際は義昭が動いたのではないか。
京都を追われたとはいえ、名目は足利幕府の将軍である。足利尊氏以来、足利家は西国に勢力をはっている。足利将軍家が仲介の役に立つと言えば毛利家も無下な扱いもできない。
信長憎しの義昭が秀吉を誘惑しても不思議ではない。
6月2日の本能寺の変を、秀吉は3日の夜に耳にしている。その翌日毛利と和解、高松城の清水宗治を切腹させる。すぐに姫路城に引き上げる。
この鮮やかすぎる段取りに足利義昭の一枚加わっていたのではないか。義昭ならば毛利方を抑えることが出来るのだ。
本能寺の変以後、足利義昭は秀吉から1万石の大名に取り立てられる。前将軍なのでその待遇は大大名並みだった。
ここまで読んで内田はおかしそうに笑う。
「おかしい?」澄子が兄の顔を見る。
「いやね、権藤さんの顔を思い浮かべてね」
丸顔の権藤の大きな眼が脳裏に浮かぶ。分厚い唇が蛭のように動く。彼の言動は率直だ、ズバリ切り込んでくる。それでいて嫌味がない。初めの内、緊張した表情をしていた。穏やかな雰囲気になる。内田に資料を渡す。ずいぶん薄い。
「これだけ書くだけでも大変でした」
足利義昭の資料は少ない。調べるだけでも苦労している。
「もっと苦労したのは・・・」大きな眼が天井を向く。
7月の発表会の持ち時間は2時間。30分もあれば終わってしまう。
「それでね、我々が応援して質問攻めにした」菊池の甲高い声。
内田達が菊池宅を出る頃には和気あいあいとした雰囲気になる。
イエズス会
8月の発表は瓜坂だ。彼は好きこのんでイエズス会を選んだわけではない。4人が応援してくれなければ発表するまで至らなかった。瓜坂の述懐だ。
イエズス会は1540年にスペイン人のイグナチオ・ロヨラによって設立される。世界最大のカトリック修道会の1つである。1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来ている。
1557年、マカオがポルトガル領になる。多くの宣教師が日本にやってくる。彼らは時の権力者に近ずく。火薬を武器にして布教の協力を取り付ける事を常套手段としていた。
当時に日本は、刀や槍の時代から、鉄砲の数で勝敗を決める時代へと変わりつつあった。
その鉄砲に不可欠な火薬をポルトガルの宣教師達が握っていた。日本製の火薬は質が悪く使い物にならなかった。当時の日本には火薬は産出しなかったという説もある。
永禄12年(1569)頃は、信長とイエズス会とは良好な関係にあった。天正9年には京の馬揃えをイエズス会のヴァリニャーノに見せた。彼らが帰国する時は安土城の天守閣を提灯でライトアップして送別している。
信長は一貫して宣教師を保護し、優遇している。イエズス会も信長に鉄砲の技術を教え、貿易で莫大な利益を与えている。信長は宣教師たちの集めた海外の情報を利用する事が出来た。
信長軍が強かったのはイエズス会の強力な力添えがあったと言っても過言ではない。信長の全国制覇事業はイエズス会の協力の賜物であった。信長が造り上げた鉄甲船でもイエズス会の肩入れなくしては出来なかった。
天正9年以降、信長とイエズス会の間に亀裂が生じる。
天正10年5月、総見寺を建立。そこに信長自身の化身としての白目石を祀る。一般公開して参拝するように命じる。
この行為にイエズス会は態度を硬化させる。
それは――天に2つの神無く、地に2つの神無し――とするキリスト教への挑戦であり、神に対する冒涜行為と考えた。
その上、フロイスらの宣教師達は、信長がマカオを攻めて火薬の原料の硝石を押さえるのではないか――このような情報をキリシタン大名から得ていた。
天正10年5月29日に信長は本能寺に入る。それと前後して大阪の住吉の浦の沖合に7隻の鉄甲船と夥しいい数の軍用船が集結していた。
信長は少人数で現れると、2~3日中に膨大な数の軍勢を伴って戦場に出陣する。宣教師たちはその信長の行動を知っていた。
イエズス会への信長の態度の急変、夥しい軍船の集結、黒山のような軍勢――宣教師達は、マカオへの出陣を考えて緊張する。
これは四国平定のための中国地方地方出陣の軍勢集結であったのだが、宣教師達はそうは取らなかった。 6月2日早朝の本能寺の爆発は、イエズス会の意を汲んだキリシタン大名の鉄砲攻撃であった。
本能寺の変後の天正10年10月に、フロイスはイエズス会の総会長に報告書を出している。
フロイスは信長が総見寺で自分を祀り、多くの人が参拝している事を記述している。その後の文面で、
――信長がかくのごとく驕慢となり、世界の創造主、デウスのみに帰すべくものを奪わんとしたため、デウスはかくのごとく大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給わず、安土においてこの祭りを行った後19日を経てその体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた事は次にのぶるであろう――
フロイスの言葉を要約すると、信長はデウスのおかげで、全国制覇を成し遂げる事が出来たのに、自分の力だと錯覚して驕慢になった。信長は自分を神として人々に拝ませるようになってから、デウスは信長に19日の間の命しか与えなかったのだ――このフロイスの言葉は本能寺の変の首謀者は自分達であると言っているのに等しい。
イエズス会主謀説を取り上げた瓜坂は、発表会の2時間は長すぎたと話していた。
間瀬澄夫は兄の顔を見ている。
瓜坂舜造――きっちりと7,3に分けた白髪、金縁の眼鏡、ダブルのスーツを着込んだ老紳士だ。誠実な人柄だ。
2人は冨島からもらった資料のコピーと照らし合わせる。瓜坂や権藤の資料と同じ内容だ。
今のところ、これといった発見はない。いっその事、冨島からの資料のコピーだけ読んでしまおうかと考えた。だが2人はそれを制した。
発表者から直に資料を貰う事、彼らの肉声に触れる事が必要と考えた。事実、菊池達が歴史研究会をやめる事など、冨島の口から一言も出ていなかった。
夜も更ける。この日はこれでお開きとなる。
翌日、内田不動産に三人の客が訪問する。
1人は常滑駅近くにアパートを捜したい。もう一組は新婚さん、海が見渡せる高台の新築マンションを・・・。最後の1人は、古くてもいいから、一軒屋、場所は問わない。
三人同時の訪問だ。内田は一軒屋希望のお客に、午後再訪問してくれるようお願いする。
常滑駅近くのアパート希望のお客は澄子が案内する。新婚さんは内田の案内。
賃貸住宅の案内は家主に来てもらう。玄関の鍵を開けてもらい、建物内部を見てもらう。風呂やキッチン、トイレなど不良がないかをチェックする。設備などでお客が変更を希望する場合、それが出来るかどうか、家主に尋ねる。家賃や敷賃等を確認する。
お客が賃貸オッケーを了解すると、賃貸契約、引越しなどの日程を取り決める。その場で返事をもらえない場合は、後日確認する。
その日1日は3組のお客に忙殺される。
夜8時ごろ、間瀬澄子の自宅に日下部修一からの電話が入る。彼には内田が会いたいと連絡している。
――3月中旬の土曜日に来てほしい。菊池さんからも電話があった。間瀬さんの事で、何でもいい、思い当たることがあったら話してと言われた。1つ気にかかることがある。間瀬さんを殺した犯人に結びつくか判らないが、話しておきたい。電話では話せないので、直接会って話したい――
間瀬澄子は兄に日下部から連絡があったと電話する。内田は今日来社された3人のお客は何とか物になりそうだと、声が弾んでいる。ただし新婚さん以外の2人の賃貸物件は修理が必要になる。お客が入居するまで手が離せない。4日後に京都に行くことになる。それまで澄子に鳴島の明智光秀非犯人説に眼を通しておいて、その感想を京都に行く途中の車中で聞かせてほしいと言う。
間瀬澄子は鳴島の資料を取り出す。しかし日下部の言葉が耳にこびりついて離れない。
・・・主人は日下部さんに何を喋ったのだろうか・・・
――つづく――
・・・この小説の参考文献につきましては、本能寺の変・殺人事件 下に表示します・・・
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等と は一切関係ありません。
なおここに登場する地名は」現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景 ではありません。