07仕事と昔話
「先程は、取り乱してしまいまして……」
あれから泣きだしてしまったオリヴィエを椅子に座らせ、ケイネの故郷のよく呑まれている緑茶――女性は紅茶の方が好きらしいと聞くが、生憎ここには緑茶しか無い――を淹れてやり、かれこれ数十分が経過していた。
やっと落ち着いたらしく、オリヴィエはケイネに謝罪を入れる。髪を拭くために肩にかけていたタオルで、真っ赤に腫れてしまった目元をやんわりと拭き、そのままケイネの視線から逃れる様に顔を覆った。
「慙愧の念に堪えません……」
うううと唸りながら俯いて行き、ゆっくりとテーブルに頭を下ろす。もぞもぞと動く頭頂部は未知の生命体のようで面白い。軽く突きたくなる衝動を堪えながら、ケイネは緑茶を啜った。
「いや、うん。もう避けないでくれんなら、俺はそんで良いけど」
「序に、記憶から抹消していただけたりは……」
「Nein 無理無理。俺超傷ついたから、一生忘れる気は無い」
ケイネは案外根に持つタイプである。元より記憶力は悪くない。変に興味を持ったり、自身が巻きこまれてしまったり、今回のように強く脳裏に焼き付いてしまった場合、時間と共に忘却に帰すことが、甚だ難儀となってしまうのだ。
忘れてほしい様だったので、半ば当て付けのような気持で言ってやれば、オリヴィエは俯けていた顔を少しだけ上げ、真っ赤な目元を覗かせた。
ケイネに向けられた視線は、どう好意的に捉えても暖かいものではない。眉間にはサラダに添えられたパセリのような密やかさで皺が寄っていて、腫れているにも関わらず、瞳は丸く、些か訝しんだ様子で見開かれていた。
「ケイネ様は、マゾヒスト様ですか?」
「Es ist , warum so」
どうしてそうなる。ケイネはそう言ったのだが、どうにもオリヴィエには伝わっていない様子だった。
お茶を飲んでいる間でなくて良かったと、ケイネは心底思う。もし真っ最中であれば、うっかり彼女の顔に茶をぶちまけていたかもしれない。仕返しという点で華美な誘惑を感じるが、再度風呂で洗う手間を考えれば、やはりこれで良かったのだろう。
溜息交じりに立ち上がり、ケイネは態々小突くためにオリヴィエを仲介し、一度寝室へと足を向けた。洗濯済みの丁度いい手ぬぐいを見つけ、それを持って今度は竈付近の水瓶へ。柄杓で水を掬い上げた所で、左手の手袋の存在を思い出す。右手に柄杓を持ったまま、上手い事手ぬぐいをそちらの手へ。手袋は歯で上手い事ずらしながら外し、それをそのままポケットへと仕舞う。
《刺青師》の必須アイテム、ということは無いが、ウエストポーチよりは好んで使われるのが、薄い腰回りに装着するタイプの、多目的独立ポケットだ。シザーポケットにも似たそこには、いくつもポケットが付いていて、用途により使い分けることが可能。
煙草は潰れない様にジッパー付きで正面寄りの位置に固定されており、手袋は踏んでも問題無いので、尻側の大きめなポケットへと突っ込まれた。左手の甲に入った刺青が露になり、後方からの視線が刺さるようだったが、それは確り無視させてもらう。ファンの視線と言うやつは、些か怖すぎるのだ。特に、ケイネにとって、別段ファンというものを必要としない人間にとって。
手ぬぐいを左手に持ち直し、水にぬらす。右手は手袋をしたままなので、指先だけを駆使して器用に絞ると、ケイネはオリヴィエが項垂れた様子で席に着くテーブルまで戻って行った。
オリヴィエの脇に立つと、彼女はビクリと肩を震わせる。恐る恐る、ケイネの顔色を窺うように視線を上げ、痛々しい目元がケイネの視界に入ったところで、
「おら」
「ひぎゃっ!」
軽くデコピンをお見舞いさせてもらった。
鉛玉の如き中指が額に命中し、オリヴィエは患部を押さえて呻いた。自身にはやったことは無いので解らないが、ケイネのデコピンは、只管重く抉る様に痛いとなかなか評判が高い。
オリヴィエの頭を強引に天井を向けさせ、「手、邪魔。どけないとまたデコピンな」という呪文を唱えれば、彼女は涙の滲んだ瞳を閉じたまま、従順に赤くなった額を晒した。
一度広げて、綺麗に折り畳んだ手ぬぐいを、オリヴィエの赤くなった目元、そして額を覆うように、彼女のそこに置いた。
「冷やしとけ。見るに堪えない」
「……それは……ありがとう、ございます」
不満げに唇を尖らせながら、オリヴィエは顔の上半分にかかった手ぬぐいの位置を調節する。
女性が目元を腫らしている姿など、見ていて気持ちの良い物では無い。
気遣い寄りで出た言葉と行動であったのだが、どうにもオリヴィエはそう捉えてはいないらしい。言葉の選択がよろしく無い自覚はあるが、ケイネは基本、言葉として出してから気付くので気をつけようも無い。こればかりは、慣れてもらって、悪意が無いことを知ってもらうほかないだろう。
先ほどの彼女の態度に比べれば、瑣末なことである。
ケイネは自身の湯呑に改めて茶を注ぎ、左手に手袋を装着し直し、椅子に深く腰掛けた。
「そのままで良いから、聞けよ」
「? はい……」
机に対して斜めに座りながら、ケイネは必要な確認作業を始める。
「オリヴィエ、あんたは俺に依頼し、俺は依頼を受けた。これは良いか?」
「は、はい。恐悦至極という状況で、先程は……」
「その話は良いとして」
蒸し返されて羞恥に懊悩されてはたまらない。ケイネは強引に話を打ち止め、自身の、そして彼女のために必須となる、大切な話を始めた。
「あんたの依頼を、俺は受けると言った。が、俺がいくつか提示する条件を、あんたには飲んで貰わなくちゃならない」
「はぁ……解りました……」
「一つでも呑めなものがある場合、この話は無かった事にさえてもらう」
「はえ!?」
強引すぎる物言いに、オリヴィエは虫のような擬音語を発しながら顔を起こす。うっかり手ぬぐいが膝に落ちてしまったので、急いで拾って、顔の位置は戻さないまま、両の手でそれを目元へと戻した。
「ウェ、ケイッ……あの、それ……は……!?」
奇声が彼女の得意技の一つであると言う事は、ケイネも既に充分過ぎるほど学んだ事実である。つまりどういうことか、そう聞きたいのだろうが、どうもこうも無い。ケイネの言葉通り以外の、何物でもないのだ。
「客が注文をつけるのも当たり前なら、企業側が客にルールを敷くのも又当然ってヤツだろ。『ご自由にお取りください』の中にも暗黙の了解があるんだ。それくらい、呑んで貰わなくちゃ困るんだよ」
ケイネの論理にはちゃんと筋が通っていたが、如何せん後出しじゃんけんである。つまり、反則。
けれど、例え個人同士間であろうと、取引は取引だし、契約は契約。仕事は仕事。妥協点を見つけることも大事だが、今現在、条件を提示したのはオリヴィエだけだ。オリヴィエはケイネの「受ける」という発言だけに諸手を上げて喜んだが、受諾に至るまで、提示される条件という名の関門を突破しなくてはならないと言われても、それはなんらおかしいことではないのだ。
勿論、対策としては、ケイネが最初から条件の存在を提示していれば、オリヴィエがこれほど慌てることも無かったのだが。
オリヴィエは暫し沈黙していたかと思うと、目元の手ぬぐいを退けて姿勢を正し、一取引相手の顔をして、気を引き締めていた。
「……わかり、ました……国と、規格外の報酬以外でしたら、その、なんとでも、させていただきますので……」
お手柔らかに。そう言おうとしたオリヴィエを遮り、ケイネは「違う違う」と手を振った。
「そういう話は最後で良い。俺が言いたいのは、『ウェラート・エングストランドの刺青を入れるという覚悟をしろ』っていう話だ」
「…………?」
首を傾げ、表情と全身で「解りません」を表すオリヴィエに、ケイネは茶を飲む時間を置き、一つ一つ、解るように説明を始める。
「先ず――そうだな、じゃあ俺が五十年前、何人くらいの客を取ったか、あんた知ってるか?」
「二十七人です。祖父を含めて」
「……、……ja. Richtige Antwort」
正解である。が、さも当然であると言わんばかりのオリヴィエの即答に、ケイネは若干引いた。
成程。ファンとは怖い生き物である。
「……その二十七人のうち、今まだ存命なのは何人か知ってるか?」
次は流石に暫しの時を要した。違和感を感じるらしい目元を擦ってしまわない様に、時折手ぬぐいで冷やしながら、オリヴィエはファンという言葉を超え、一人の記録者として答えを出す。
「二十二名――の、はずです。祖父を含めて」
「……Rich――正解」
ハッと気付き、方言という名の独立言語を抑えこみ、ケイネは言い直した。思えば、先程もそちらで返してしまった事に気付き、ケイネは後頭部をわしわしと掻き回す。オリヴィエが故郷寄りの見た目、そして雰囲気を醸すので、ケイネはどうにもそちらに戻りがちだった。簡単な単語なら問題無いが、二つ以上単語をくっつけた場合、発音と早口のおかげで、常日頃そちらの言語を使っていない者には、何かの呪文のようになってしまうのだ。
普段はちゃんと気をつけているのだが――簡単な返事や挨拶の類は見逃してほしい――まだまだ修行が足りないらしい。
ケイネが大きく溜息を吐くと、オリヴィエに話の続きを促されてしまった。
短く「Es tut mir leid」と謝罪を入れ、先程気を付けたばかりだと言うのにそちらが出てしまい、ケイネは自身に苛立ちながら「悪い」と再度彼女に頭を下げた。
「えーっと……そう、二十二人が、今生きてる人数な……つまり五名、今亡くなっているわけだ」
単純な計算である。
「その五名――そいつらの、死因は?」
「…………」
段々と、ケイネの言わんとしていることが、オリヴィエにも伝わってきたらしい。オリヴィエは眉を下げ、瞳に悲痛の色を浮かべた。顔から血色を薄くし、震えた肩を優しく擦る。
「お二人は――病死、です。高齢の方で、お一人は風邪でぽっくりと往生。もうお一方は、長く患っていた病魔に、遂にお迎えが来られた、とのことでした」
いくら王位継承権があるとはいえ、彼女が総ての国民の生死を把握しているわけではない。彼らの死とその死因を知っているのは、オリヴィエが只管に、ウェラートの崇拝者たる一人であるからだ。
最早ウェラートの新たな作品を見ることが無くなった世界に生まれた彼女は、過去の彼の作品を、書物を漁り、城の資料を総て駆使しその所在を露にした。
そして、知ったのだ。
過去、彼を中心に起こってしまった、残酷で残虐な、醜悪で凄惨な事件――
「三人は、各々没年に差はありますが――
死因は、ウェラート・エングストランド様に彫っていただいた筈の刺青を――その地肌を剝がれたこと――です」
約五十年前、ウェラート・エングストランドが現れた。
彼の名は瞬く間に広がり、古風な黒一色というシンプルな美しさと、先駆者的な独創性のある意匠は、人々の羨望の的となっていた。運良く、もしくは出会うべくしてウェラートと出会い、自慢に適した、人に見せびらかせる箇所に刺青を入れ、彼らは己の強運を触れ回る。
だが、それは羨望だけにはとどまらなかったのだ。
それが起こったのは、ウェラートの噂が流れ始めた三年程後のこと。
近隣住民の通報により駆けつけた憲兵は、体中に傷を負った死体を目の当たりにすることとなった。
金品目的の強盗か、それとも怨恨による殺害自体が目的の殺人か。
一見すれば、そんなところであっただろう。人と人の争いは無くならない。どんなに人数が減ろうとも、最後の一人にならない限り、他人が存在する限り、人とは小さな齟齬から殺し合いに発展させることに長けた生き物なのだから。
だが、違った。
その異常性に気付いたのは、憲兵の一人が、顔を確認しようと、右の腕を下敷きに、俯せて横たわっていた死体を、仰向けに変えた時だった。
その死体の右腕――肩から肘にかけて。
ごっそりと、そこにあった筈の肉ごと削ぎ落とされていたのだ。
その死体を引き金に、各地で肉を、皮を削がれる事件が相次いだ。
年齢、性別、職種も性格もまるっきり違う人々の中で――唯一。
彼らはウェラート・エングストランドに刺青を入れてもらい、そして、残虐な行いで、それを奪われてしまったのだ――
「……死者が減ったのは、最初の一人目で、死人から剥いだ刺青には魔法力が存在しないことに気付いたから、だろうな。だがその変わり、それ以降そいつは、『生きたままウェラートの刺青を剥ぐ』蛮行を行うようになった」
そして、そいつはまだ特定されていない。
通称『皮剥』もしくは『肉削』と呼ばれた犯人は、何かしらの要因で死亡していない限り、うっかり生きていたウェラートの如く、どこぞでのうのうと生存している確立が高いのである。
「現在、生き残っている二十二名の内――俺の作品が残っている人数は?」
ウェラート・エングストランド。
生ける伝説となり、《刺青師》の神とも呼ばれるようになった、彼の作品。
腕に、足に、顔に――時には広く背に、内臓の詰まった、腹に。
残っている、作品は。
「……祖父の、背。あれ、唯一つ、です」
※横文字は翻訳サイト及び辞書を扱っておりますが、正確かと問われれば自信はあまりありません。何故なら再翻訳するとえらいエキサイトするからです。深く考えないことをオススメします。
あと、これから横文字にルビを振らないことにしました。何故ならカタカナにしてしまうと!本来のかっこ良さが!なんか損なわれてしまうので!!というただの我儘です。申し訳ございません。