06男心と秋の空
洗濯、と水汲みを終わらせて、序にオリヴィエのための服、そして今後の食料を買いに行ったら、酷く村人に驚かれた。ケイネが一日に二度村に顔を出すことは非常に珍しい。何があったという問いかけに「内緒」と答えれば、村長の娘であるビアンカは拗ねたように頬を膨らませた。
一回り以上も年下の少女に懐かれて、ケイネも悪い気はしない。オリヴィエはウェラートのファンだが、彼女たちはケイネの友人であり、子供たちなのだから。
あやすように頭を小突いて必要用品を手に入れて、序に珍しく魔術に関する書物が入っていたので、それを入手し、村の中をフラフラと不審者の如く歩きまわっていた髭面の頭にチョップを入れ、ケイネは文字通り『ひとっ飛び』で山小屋まで戻ってきた。
現在、オリヴィエが風呂から上がるまで待機中である。洗濯、水汲み、村まで行ってまだ出て無いと言う事は、一体何時間の風呂なのか。
のぼせているのかと帰宅当時は心配したが、一度生存確認を取れば「生きてます」と焦った泣きそうな声を返されたので、気分を悪くしないうちに上がれとだけ声をかけ、ケイネはそのまま、リビングで読書中である。椅子の向きを変え、高い位置に窓がある竈や水瓶の方を向き、読んでいる書物は膝の上。
不都合は無いが薄暗い室内は、読書に適さない。
本を読む時眼鏡が必要になってきたのは、環境の問題か、それとも何だかんだで、ケイネも年を取っている証拠なのだろうか。
ケイネはニコニコと、粗悪と言わざるを得ない文章に目を通し、そして声を発した。
「服のサイズ、良さそうか」
「!?」
声無く驚かれたのを察知する。ケイネは眼鏡を外し、背後になっていた風呂場のある方角に顔を向けた。
そこには庶民的な女性服に身を包んだオリヴィエが居り、風呂の影響か、それともケイネが突然呼びかけたからか、顔を真っ赤にしてあわあわと焦っているようだった。何故か辺りを見回し、タオルに包まれた髪を両手でぎゅうと握り、震える声で「だいじょうぶです」と返事をする。
「gut 重畳重畳。じゃ、ちょっとその場に気を付け。回れ右」
「へ?え……は、はい!」
「吸うけど良いか?」
「なっ何をですか!?」
「煙草もどきだ。逃げるな馬鹿」
回れ右させた筈の身体を態々反転させ、オリヴィエは凄い勢いで後ずさりをした。顔は最早熟した林檎のように熟れており、ケイネは彼女の頭から煙が立ち上ってしまうのではないかと懸念を抱く。実際にあり得ないことは解っていながらも、心配せずにはいられない。それほどまでに、真っ赤だったのだ。剰え、瞳の奥はぐるぐると渦巻いている様にも見える。解り易い混乱の仕方だった。
「煙草もどき、吸うけどいいか?」
ポケットから取り出し、彼女の前に示しながら許可を取れば、オリヴィエはゆっくりと理解を示し、「は、はいぃ」と疲れ切ったように了承した。
最早気をかける必要も無く、彼は方言で礼を言うと、青い光を発する煙草を咥えたまま、再び彼女に回れ右の指示を出した。
身長はケイネより少し高い。ケイネが猫背で彼女の姿勢が良いので、ケイネが姿勢を正せば、恐らく同じくらいだろう。女性なので、肩幅は当然男性に劣る。服の上からでも解る体のラインは柔らかな曲線で、彼女が如何に華奢で頼り無い存在かを物語っていた。
「髪、前にやって」
「は、はい!」
ケイネの指示にビクリと体を跳ねさせ、忙しない様子で髪を手櫛で前へと回す。
何をそんなに怯えているのか。
先の大はしゃぎでウェラートについて語る活き活きとしたオリヴィエを見ていただけに、この様子は地味にケイネを傷付けた。
仕事の依頼を請けたからには、ケイネはオリヴィエに対し嫌悪の感情は抱いていない。彼女もケイネ――ウェラートを好きだと宣言している。なのにこの態度は、あんまりではないだろうか。何処からか、心の中に隙間風が入るのを感じるようだった。
「……言っとくけど、俺怒って無いから。あんま怯えられても困るし、気楽にしてくれると助かるんだけど」
隙間を埋めようと、努めて明るく――という事も無く、通常通りに彼女に言葉をかけた。ケイネの通常が些か暖かみに欠けるという事は自覚していたが、自分を殺して接するより、こちらの方が長く付き合える。それは彼が経験から得て来たものだが、長く付き合いたいから取り繕わないわけでなく、そう言ったことがケイネはあまり得意ではないだけである。言わば、怠惰だ。
オリヴィエは小さく「はいぃ」と返事をするが、肯定と取るには態度が変わらな過ぎる。もじもじと髪を拭くように弄る姿は、恐縮しているようだった。
短く息を吐き、仕方なく作業に戻る。右へ行ったり左へ行ったり、近づいたり遠ざかったりしながら、彼女の身体の確認をした。
ケイネが背をまるごと使うような大きな刺青を入れたのは、過去三度だけ。その内最後の作品が、現王の背にある結界魔法となる。
彼は身長が百九十を超える巨体で、肩幅、そして当然背幅も広く、背と首周り、補助として腕に色を入れて完成した。魔力の方には不安があったが、それは外用薬で補う方法で対策をし、事なきを得た。
だがオリヴィエはどうだ。
魔力は現王以上のものを感じる。だが――小さい。
(首――は、刺青が入ってることが解る程度。個人の特定は出来ない様に。背面になるべく収まる様にして、正面は腹にラインだけ引く。腕は夏場出すだろうからなるべく何も入れ無いとすると、尻かふともも、もしくは両方に結界の厚さを均一にするための補助魔法を――)
出来なくは、無い。なるべく緻密に、模様の大きさを、縦横の比率を変えずに圧縮して彫れば、できないことは無いだろう。難易度の高い技術ではあったが、ケイネは自分が大きい刺青を入れられるのが嫌なので、それは案外得意だ。
ただ、問題は。
「あ、あの……」
控えめな掠れた声が、ケイネを思考から引き戻す。
彼女の傍らに座り、足を凝視したまま考えこむケイネが顔を上げると、やはり彼女は肩を震わせて、ケイネに向けていた視線を彷徨わせた。
心なしか、先程よりも顔が赤らんでいる気がする。気のせいだろうか、と自身の眼を疑いつつ――刺青で底上げされている観察眼に、疑う要素など皆無なのだが――視線を合わせるために、ケイネは彼女の横で立ち上がった。掛け声が「どっこいしょ」なのは、年齢に適っていると言えるかもしれない。
「何?」
煙草を左の指に挟んで遠ざけ、オリヴィエに応える。彼女は「ふぁぁ」と言葉にならない悲鳴を上げて、ケイネから数歩分距離を取った。内心ケイネは「えええ」と叫び声を上げる。まるで得体のしれない珍獣を相手にされているようで、かなりヘコんだ。
「なんだよもー!なんなんだよー!」
泣き真似をするように腕を目元に当てて俯けば、オリヴィエは慌てて謝罪を入れた。
「すすすみません!その……は、反射で……!」
果たしてそれは、謝っているのだろうか。
「……で、何だよ。何の用?」
若干拗ねつつ、半ば諦めつつ。ケイネは彼女が怯えない様に自ら距離を取ってテーブルから椅子を引き出し彼女の方を向け、それに腰かけた。足を組んで、机に頬杖を突く彼の姿は尊大すぎて、確かに友好的にしたいとは言い難いのだが、彼はそれに気付いていない。
オリヴィエは小さく返事をしつつ、数歩だけケイネに近寄った。しっかりと現王一人を横にした分の空間を確保しつつ、顔を俯かせ、時折顔を上げてケイネを盗み見ながら、オリヴィエは少しずつ言葉を発した。
「そ、その……あの、ケイネ、様は――」
「ケイネ『さん』」
「ケ、ケイネ、さん、は……ほ、ホントの、本当に……ウェラート・エングストランド様――なの、です、か……?」
「…………」
彼女の疑問は適切だ。確かに、ケイネは誰もが抱くウェラート・エングストランド像からは、かなりかけ離れた人物だろう。
それは本人も自負する所ではあった。巷でどんな風に言われていたかも知っていたし、第一彼は若すぎる。本物であるとすれば、現在のウェラートは、最低でも六十を超えた老人なのだから。
昔まだ十六歳だった頃、ケイネは師匠に拘束され、その背に不老の刺青を刻まれた。身長をまだまだ伸ばす予定だったのに、彼の成長はそこで止まり、それ以降一ミリメートルたりとも、彼の身長が伸びることは無かった。
そんな悲しい過去の話は無視して、背の刺青を知る者は極少数である。
彼の背に彫った張本人である師匠と、数少ない友人たちだけ。
流石に『不老』等と言うトンデモ特性は、噂として出回ったことなど一度も無い。彼女が「ウェラート=ケイネ」の図式を疑うのも無理は無いし、むしろ、疑わない方がおかしい、と言うものだろう。
ケイネはふうと煙を吐き出し、「残念ながら」と述べる。
「あんたの考えてるウェラートがどんなかは知らないが、俺が『ウェラート・エングストランド』だよ。まぁ、七十過ぎのジジィだけど耄碌して無いからマシとでも……」
思ってくれ。そう続けようとした言葉は、奇しくも途中で止まった。
ケイネは目を丸くして、目の前の丸く縮こまった物体を見やる。二メートル程の距離を空けた所に存在する、巨大な丸い物体。勿論、唐突に顔を覆ってしゃがみ込んだオリヴィエなのだが。
「……どうした?」
「…………」
控えめに声をかけるが、ケイネに見えるのは彼女の膝から下、形の良い丸い頭から背中の途中にかけてのみ。ケイネから距離を取ったと思えば質問してきたり、突然しゃがみ込んだり、オリヴィエの行動は、ケイネの理解の範疇を時速三百キロメートルの勢いで超えていた。
新魔術式を組み立てるよりも難解で、コミュニケーション能力に長けているとは決して言えないケイネには、逃げ出したい気持ちが見え始めてしまっている。
(誰か、まじで助けてくんないかな……)
女心と秋の空、とは言うが、自然現象と感情の飛躍を同列に並べている時点で、無理があるのではないかとケイネは思っていた。秋の空はどうとでもなるが、人の心というものは、十人十色では計り知れない。肌の色、瞳の色、髪の色に身長体重耳の形から唇の厚さ、指の長さから黒子の数や位置まで違うのに、何故人は、他人という生き物が自身と同じである可能性等と言う、決して体に入らないものを求めてしまうのだろう。
本当に、無茶苦茶だ。
そして今、ケイネはその無茶苦茶に、振りまわされている。
最早隠す事も無く、ケイネはゆっくりと大きく、煙草の煙と共に、肺の中を空にするまで息を吐きだした。
「……死んじゃうかもしれません」
ぼそりと一際小さい声音で呟かれた言葉は、オリヴィエのものだ。
(それは俺の台詞だ……)
心の中で毒づいて、ケイネはもう一度溜息を吐いた。