05.5女王予定と初恋の王子
※珍しくいつもよりちょっとだけ短いです。
死ぬかもしれない。
いや死にたい。
オリヴィエは深くそう思った。
「…………」
ぴちゃん。音を立てて、雫が湯船に落ちる。
現在、湯浴み中。湯船に浸かり、自身の思考を落ちつけている真っ最中である。
ケイネはオリヴィエが泣き止むのを待ち、ベッドのシーツ、布団、オリヴィエのローブ等を集めながら、オリヴィエを風呂へと誘った。
彼はそのまま脱衣所から出て行き、オリヴィエはのそのそと心ここにあらずな様子で服を脱ぎ、髪を洗い、身体を洗い、湯船に浸かって、やっと今である。
かれこれ一時間以上風呂に入っている気がしたが、最早その判断をする余裕はオリヴィエには無い。否、余裕はいくらでもあるのだが、判断をするための機能の一切が、軒並み停止してしまっているのだ。
(……ケイネ様が、ウェラート様……)
からかわれているのかもしれない。だが、彼が名乗った時、オリヴィエは疑うことなくその言葉を飲み込み、受け入れてしまった。
すとん、と心に落ちて来た。
憧れの人に会った衝動か、自身の行為が報われた安堵か、彼女の眼からは止まることなく涙が零れ、彼はそれについて一切の言葉もかけなかった。けれど面倒くさそうにすることも、嫌煙することもなかったので、それが酷くオリヴィエを安心させた。
だが。
「…………」
逆に、今は心乱れてしょうがない。
オリヴィエは「すうー」と大きく息を吸いこんで、水面に「どぼん」と顔を叩きつけた。水中で思いっきり叫ぶ。濁った母音が響き、これが聞かれている可能性がオリヴィエの頭の端に過り、うっかり鼻から水を吸ってしまい、勢い良く顔を上げる。
敢えて言葉に置き換えるなら「うあー」に似た音を口から吐きながら、つんと抜けるような鼻の奥の痛みを逃がす。間抜けすぎる。オリヴィエは額を浴槽にくっつけた。それはお湯が張られているにも関わらず、オリヴィエの体温より低く、ぬるいよりも冷たい温度が心地いい。
お湯に頭をぶちこんでしまったことにより、頭上でまとめあげていた髪が解け、浴槽の中に散る。器用にまとめ直し、ぐるりと捩じって質素な杭を差し込めば完成である。母譲りの髪はオリヴィエの自慢だ。さらさらと触り心地は良いが、結うには不向きで、それなのにいつの間にか絡まっていたりするから大層不便である。昔は起床と同時に母が梳かしてくれていたが、今ではそれも無い。オリヴィエの髪を梳かすのは、侍女の『仕事』となった。
『リヴィエルは、美人だったよなぁ』
母から連想し、先程聞いたばかりの祖母の名を思い出す。
懐古が籠ったその言葉は、オリヴィエの中に深く根付いた。
祖母を褒められて、嬉しい。
母しか知らないオリヴィエではあったが、祖母の存在は母や祖父から、その思い出をいくつも語って貰っていた。それはオリヴィエにとって、宝物だった。だから、とても嬉しい。けれど――
最初聞いた時は不審が勝ったが――まさかケイネがウェラート本人だとは思うまい――思えば彼の祖母を、母を想う声は、酷く暖かなものだった。再会の約束をする幼馴染との別離を思い出すような、甘酸っぱくて、どこか涙の味がする。
それはまるで――初恋を懐かしむような。
ゴンッ
浴室に鈍い音が響き渡る。
オリヴィエなりの、己の不埒で聊爾な思考に対する戒めだった。
浴槽に強かに打ちつけたには痛みが走り、それが思いの外響いて、脳の奥を通った痛みは真っ直ぐ後頭部から抜けて行く。残った額の熱はじわじわと侵食し、鈍い痛みが長い間隔で鼓動する。そろそろ出るべきだろうか。けれどオリヴィエには、ケイネと対峙する余裕が、まだ全然足りていなかった。
しかし、どうしていても時間は過ぎる。
時は金なりと言うが、王家に生まれた余裕からか、それとも本質を理解しているからか、オリヴィエにとってはお金よりも時間の方が断然大切に思えた。金を稼ぐことは出来るが、時間はただ通りすぎて行くだけ。オリヴィエがこうして風呂に入っている時間は刻一刻と過ぎていて、同時に、城で闘病のために眠っている祖父も――
そこまで考え、オリヴィエは総ての思考を断ち切り、風呂から出る決心をするよりも早く、反射で湯船から上がっていた。脱衣所の、浴室への出入り口付近にケイネが用意してくれたタオルを取り、脱衣所になるべく水を落とさない様に丁寧に体を拭く。
髪は解かないまま、こちらもケイネが用意してくれた衣服を順番に身に纏う。どう見ても女物なのが、オリヴィエにあらぬ疑惑を生む。
「…………女装趣味……」
そこで細君の存在や、彼に尽くす女性の存在を考えないのは、彼女の防衛本能なのか。
(大丈夫……此処には一人で住んでるって、ウェ、ウェラート様は言ってらっしゃったから……)
だからと言って、大丈夫の可能性があっても、オリヴィエにはどうすることもできないのだが。
初恋の王子様。
祖父の背を見ながら、その芸術を描いた存在を空想し、本気で惚れていた、幼い日のオリヴィエ。
(今から会うのはウェラート様じゃなくてケイネ様ケイネ様ケイネ様ケイネ様ケイネ様ケイネ様――)
只管自身に言い聞かせながら、湯から体を出した筈なのに上がって行く体温を振り切ろうと、オリヴィエはぶんぶんと強く頭を横に振った。