05女王予定と神様
「……あんたの目的は解った」
灰すら残らずに燃える煙草も、もう短くなっていた。ケイネはそれを右の掌に乗せ、青い炎と共に消滅させる。
「!」
「刺青だ。入れて無い奴のが、今時珍しいだろ」
左目の直ぐ下に入れた簡素な刺青をなぞりながら、ケイネはオリヴィエに笑いかける。オリヴィエは驚きを納得に変え、彼の七分袖から覗く、白い包帯が巻かれた右腕を見た。指先は出ているが両手共に手袋をしている。何を思っているかはケイネの知る所ではないが、視線を集めているので、その右手をぱたぱたとオリヴィエの前で振って見せた。
服で殆ど隠れているが、ケイネの身体にも、当然のように数多の刺青が入れられている。両太腿に両足首、背中と右腕――肘から手の甲にかけてびっしり埋められたそれは、ケイネの師匠に勝手に入れられたもので、左手の甲と、そして、左目の下。
それぞれに違う役割があり、背中と右腕以外は総て自分で必要に応じて入れたものである。
皮膚を焼くような痛みは慣れないし、慣れたくも無いが、必要だと思ったのだから仕方が無い。これでも必要最低限しか入れてないし、これ以上新たに彫るつもりも無い。この最低限で、ケイネはこれまでやってこれたのだから、なんら問題は無いし、絶対に増やしたく無い、というのがケイネの思うところである。《刺青師》をしているが、自身に刺青を入れるのは、やはり心持の違う話なのだ。
「次の話」
新しい煙草を取り出す事は無く、ケイネは両足を椅子の座面へ引き上げ、胡坐をかいた。脱ぐのも履くのも簡単な、その分踏みこみの甘そうな靴は、机の下に転がっている。
オリヴィエは訝しげに、それでも眉間には何も刻まず、少しだけ首を傾げた。
「次……ですか?」
「オリヴィエは、ウェラートに刺青を彫ってほしくて来たんだろ?」
「はい」
しっかりと視線を合わせて、こくんと頷く。ケイネはテーブルに頬杖をつきながら、やる気などこれっぽっちもなさそうに、次の質問を繰り出した。
「あんたは城下町を抜けて……どういう道を辿ったかまでは興味は無いが、そこらへんに《刺青師》は、良し悪しはあれど沢山いたんだろ。なーんでそいつらに頼まなかった?」
城を出て直ぐは、城下街。そこにはいくつも《刺青師》たちの店が立ち並んでいる筈だし、露店を出している者もいただろう。若い成長株から、年を重ねた玄人まで。
始めたばかりの素人や、未熟な者は兎も角として、天下の城下である。腕の立つ者がいないと言う方が、無理があるというものだ。
その中に、彼女の御眼鏡に適う人物がいないとも、思えない。
もしもそうだとするならば、この女、どれだけ我儘なんだ、という話になってくる。
「ウェラートなんて居るのか居ないのかも分かんない奴――しかも、いたとしても七十超えた、《刺青師》続けられてるかも怪しいジジイだ。そんなんに頼むより、宮廷《刺青師》みたいな、何かそう言う、城仕えしてるやつにでも頼んだ方が絶対に善い。城に仕えるだけの実力があるんだ。そう難しい事でも無いだろう」
《刺青師》という存在は、元々城に仕えていた魔術師たちが由来である。最近では――とは言っても二百年ほど前から――《刺青師》の名は登録制になり――登録せずに彫ったからと言って、罪に問われたりはしないが――始まりはFランクから、地道に顧客やデザインを認めさせることにより、王宮仕えができるデザイン共に能力も秀でたAやSランク、そして登録などしていなかった筈なのに、勝手にウェラートの名前がその位置に置かれた、SSという最高ランクまでの、合計八ランクが存在する。
店を構える事が許されるのがDからで、FやEの人間は師事した《刺青師》に付いて技を学んだり、仕事をさせてもらったり、師匠の居ない者は喫茶店の隅や適当な露店で客に土下座して刺青を入れさせてもらうのが普通となる。
城下はさておき。
Sランクに所属する者ならば、数人がかりでその刺青を入れる事が可能だろう。恐らく登録など絶対にしていないであろう、ケイネの師匠ならば一人でも事足りる。あの人間的に破綻しまくっている存在は厄介だが、アレは女性にはとびきり優しい。と言うか弱い――否、甘い。放浪癖のある輩なので捕まえることは難儀だが、「ここに超美人の女性がいる」とでも唆せば、恐らく奴は来る。確実に。
それは同時に、オリヴィエを師匠に売ることを示していたため、ケイネには決して実行不可能な選択肢ではあったが。
オリヴィエは首を横に振った。
「今の宮廷《刺青師》は、五人ほどしかおりません。勿論、出来ないということは無いでしょう。Sランクが二人、Aランクが三人……宮廷に仕えず、城下や迷宮区に居住するSランクの者を尋ねれば、あるいは……」
ならば、そうすればいい。態々ウェラートなどという幻影を追わずに、現実に在ると解りきっている存在を寄せ集めればいいのだ。
病床の王にどれほどの時間が残っているかなど、ケイネには解らない。だが、歴代の王の中でも群を抜いて屈強と謳われた存在の彼が、臥せっているのだ。臥せ続ける限り、公務に支障が出る限り、彼は王の座には居座れない。
王は飾りでは無い。結界のための礎でも無い。
王こそが、この国を動かしているのだから。
オリヴィエの表情は悲痛な物だった。
「ですが、わたくし……」
ケイネには見えない机の陰。自身の膝の上で、オリヴィエはぎゅっと両の拳に力を込める。
「わたくし……」
徐々に俯いて、終いには、ケイネからその表情を窺う事が出来なくなる。微かに体が振動しているのが解り、ただ事で無い様子だけは伝わった。
確かに、そうだろう。
理由が無ければ、神とまで呼ばれた幻影を追う必要など無い。幻影は、幻であり影である。実在を許さず、実像を結ばず、虚像だけが顔を覗かせ、期待を持たしたかと思えば、そのおぼろげな存在を消してしまう。そんな砂漠の蜃気楼のような存在を追いかけるのだ。そこに、理由が無い筈など――
途端、彼女は思いっきり立ち上がった。
膝裏で押された椅子は後方に倒れ、ガタガタと大きな音を立てる。オリヴィエは躊躇い無く振り下ろした両手で、テーブルを打ち鳴らし、大気の波を鎮める様に急停止した。
声をかける事も出来ずに、驚いて身を後ろに退いたケイネを逃がさない様、必死な形相の顔を鼻先三センチのあたりまで近づけ――
「わたくし!ウェラート様の大っっっファンなんれすううぅう!」
勢い余りすぎて、台詞を噛んでいた。
肩で息をするオリヴィエに、ケイネは暫し沈黙を返す。呆気にとられていて、思考が上手く纏まらない。
王は病床で。オリヴィエは王位を継ごうとしていて。そのための刺青をウェラートに頼みたくて。彼女はウェラートの大ファンで……――
(つまり、それは)
ケイネの思考は、着実に落ちつきを取り戻す。ケイネは一度息を吐き出し、静かに、限界まで、肺の中を新鮮な空気でいっぱいにした。ゆっくりと脳に浸透する情報と、そこから弾き出されたその解答は――なんか、アレだ、要するに、
「お前の我儘じゃねーか!!」
「そうですよ!!それが何か!?」
逆切れである。この女。
ケイネの内に在った、欠片程の彼女に対する尊敬の念が、音を立てて瓦解する。歴代でも数少ない、女王としての覚悟を背負ってきたのかと思ったら、とんだおっかけ精神である。確かに凄いが、その凄さは決して、今必要な物では無い。
ケイネは頭を手で押さえてもう片方の手を振り、話にならないとばかりに立ち上がり、食器を洗いに外へと向かった。
「ちょ、ケイネ様!」
「さん」
「ケイネさまん!」
「オネエか!?」
どうにも『さん』付けに慣れていないらしく、テンパると様で呼びがちだ。
もう話を聞く気の無いケイネを追い掛けて、オリヴィエは必死にウェラートの良さを語った。
「わかりますか、ケイネ様!ウェラート様のあの曲線美!そして直線の美しさ!肉体の隆起すら意匠の一つとしてしまう、人体をより美しく魅せるための線!人体というキャンバスはウェラート様のために神がお創りになられたかのような錯覚!いえ、錯覚では無いのかもしれません!人間と言う生き物は、ウェラート様という存在のためだけにこの世に存在――」
「あーあーあー!五月蠅い五月蠅い!Halt's Maul!このミーハー女!」
「『みーはー』って何なのですか!?ちょっと語感が可愛らしいです!」
「だーー!もう、何なのこの娘ウッザ!!」
ちょっとズレたケイネのツッコミも、テンションの限界点を突破したオリヴィエには敵わない。
食器を浸けておいた水桶の傍の石に座り、ケイネは腰を折ってその食器を拾い洗いながら、横でウェラートについて堰を切ったように話すオリヴィエの言葉の大方を無視した。
「幼い頃から、お爺様の背を見て育ちました!お爺様は筋骨隆々なお方で、背も広く、幼い頃は石碑の様だと思いながらそれを眺めておりました!曲線と直線、文字と模様、両方が合わさり、人体の中で一つの魔術として成立している。そんなことは勿論最近になってやっと理解の及んだ範囲ですが、それでも、ウェラート様が素晴らしいということは、一目見た時から重々理解しております!」
コップを洗い、持ってきた布巾でそれを拭きながら、一緒に持ってきたお盆の上に拭き終えたコップを逆さにして乗せる。埃が入るのを防ぐためだ。
「色んな刺青書物や雑誌を漁り、ウェラート様の作品を拝見いたしました!同じ注文を受けたにも関わらず、一切同じ意匠のものを作らず、個人でデザインを変える拘りの深さ!一つ一つの作品に対する愛情!わたくしは何故五十年前に生を受けなかったのか嘆き悲しみましたが、総てはこの時のため!ウェラート様に、この背に魔法を刻んでいただくために他なりません!!」
いや、なるだろう。
先ずウェラートはいないし、仮にいるとしても、彼がオリヴィエの注文を聞くとも限らない。
五十年前、名を馳せたにも関わらず、その身を山奥に隠したと噂されるウェラート。そこに理由が無い筈がない。そして未だ新しい彼の作品を見ることが無いのは、彼が誰にも刺青を入れていないから。確かに、生死は誰にも知りようも無い。だが、彼が刺青を入れていない。これだけが事実であり、捉えるべき真実だ。
彼女は見えていない。
ウェラートのことも。自身のことも。
「ケイネ様は、わたくしを我儘とおっしゃいましたし、事実、これはわたくしの我儘です」
テンションは高いままだったが、彼女は幾分静かになり、ぎゅうと自身の丈の長い衣服を握り締めた。
表情には哀が滲む。これから王になるための、最後の我儘。
本当は、オリヴィエも殆ど諦めているのだ。
祖父から聞かされた話では、ウェラートという人物は偏屈で、自由気ままな野良猫のような人間だと。やると決めた仕事はやるが、それを決めるまでの振り幅が大きい。話を保留にしたかと思えば隣町に移動していたり、もうだめだと諦めた頃に現れ、金の支払いもさせずにその場を去ってしまったり。作品総てに名前を付け、わが子として大切にしていたり。
「でも――」
オリヴィエは、祖父からもらった『グローリア』という名前より、『オリヴィエ』の名を大切にしていた。祖父には申し訳ないが、それでも。
彼女にとって、『オリヴィエ』という――ウェラート・エングストランドから貰った名は、彼の作品を持たないオリヴィエにとって、最高の宝物だったのだ。
「やっぱりわたくし、初めては、一番好きな人が善いです」
我儘と言われては、それまでだ。
オリヴィエはこれから、王にならなくてはならない。
一途に民を想い、民を助け、民のために生きなくては。
もう、オリヴィエが自分のためにできることは、何も。
ケイネは手を止め――総て洗い終えたため、ウェラートに対する語りを止めたオリヴィエを、真っ直ぐに見詰めた。
彼女の金の瞳は、これから何を見据えるのだろう。
先ほどの彼女の瞳は、自身の事を諦めた瞳だった。
民のために生きることに迷いは無い。だが、自身を捨てることには、まだ少し、未練がある。
「……母が、言っておりました。結婚相手以外に素肌を見せる気は無い。だから、わたくしも刺青を入れません、と」
体の弱かったシルヴィア姫が、一切の刺青関係の呪いを拒否した理由。
オリヴィアが生まれた頃には既に手遅れで、生命力を上昇させる刺青を入れるには、彼女は弱りすぎていた。
「女性の《刺青師》もいるのに?」
「『初めては、好きな人のために』」
目の端を赤く染め、オリヴィエは困ったように笑った。
好きな人と結ばれて、そして、彼女は笑って逝った。これで良いのだと、遺された者のことだけを、ただ心配して。
「……リヴィエルは、美人だったよなぁ」
お盆を持って立ち上がり、ケイネはオリヴィエの横を通り過ぎ、山小屋へと戻る。
唐突の祖母――現王の細君に対する賛辞に、オリヴィエは混沌と頭を傾げさせた。先ほどまでの感傷の余韻と、それを凪ぎ払った彼の言葉にまったくついていけていない。何故ここで、祖母?オリヴィエは、母の話をしていたのに。
「え、えっと……」
「銀の髪に銀の瞳。神域から出たら早死にするっつわれたのに王にくっついてった変わり者――娘のシルヴィアは早死にしちゃった母親の思い出が無いから、父親にくっついて公務を覗いたり、直ぐに熱出すから本ばっか読んでた空想少女」
訥々と、まるで見て来たかのようにケイネは語る。
生来体が弱かったらしいリヴィエルは、シルヴィア姫を生んで直ぐ、息を引き取った。シルヴィア姫は母親の愛情と言う物を知らずに育ったが、だからこそ、自身の命よりも、想いを優先したのだろう。母親がいない苦しみを知りながら、それでも彼女が延命のための処置を望まなかったのは、彼女の父親が、しっかりと母親の愛情を娘に聞かせていたから。
そして彼女は、初めてを最愛の人物に与え、愛娘に総てを託し、この国から去った。
美しい人だった。
リヴィエルも、シルヴィアも。
屈託無く他人を愛し、その人のために生きることを望んでいた。
シルヴィア姫が結婚するという知らせを聞き、王都で大々的に催されたセレモニーにふらりと参加し、久しぶりに見たそのシルヴィアの顔は、愛する者の横で、幸せそうに微笑む姿。
「das Versprechen ……約束かぁ……」
時効、だろうか。もう随分と時間が過ぎた。リヴィエルは死に、シルヴィアも死に、その娘は既にケイネの身長を超えている。
ケイネは一度瞼を下ろし、脳裏に刻まれた記憶を思い出す。
銀髪の少女。色とりどりに咲き乱れる花々。彼女はその花を摘んで、風が舞い、花弁がしたから舞いあがって、少女の世界を色付けた――
――約束は約束だ。
「受けるよ」
「へ?」
煙草を取り出し、人差し指と親指で摘んで火をつける。腰はテーブルに凭れさせ、彼は行儀悪く青を点滅させながら、清浄な空気を吐き出す。
オリヴィエは只管意味が解らないと言うように首を傾げ、全身から疑問を迸らせていた。面白いは面白い、が、それでは話が進まない。
ケイネはくすりと、オリヴィエが見た中で一番美しい微笑みを浮かべ、うっかり呆けて見惚れていたところに、左手で軽く、彼女の額を小突く。
「にゃっ」
「一度しか言わないから、良く聞けよ」
両手で額を押さえるながら、自身より小さな男を上目遣いに窺うオリヴィエ。
一度煙を吸って、吐き、ケイネは先ほどと同じように、透き通った美しさを醸し出す微笑をその顔に湛え――
「俺は――ウェラート・ケイネ・エングストランドは、お前、グローリア・オリヴィエ・ミリアム・プロウライトの依頼を、受ける。――いいな」
オリヴィエは、返事をするのも忘れ、ついでに呼吸をするのも忘れて。
彩度の高い赤紫の瞳を、ただ涙を流しながら、只管見つめ続けた。