37愚者
幼い頃、オリヴィエの見上げる星空は、いつも途方も無い気持ちにさせるものだった。
死者の魂は、その身を星にして夜空に輝くという。父にもそう言われ、幼いオリヴィエはそれを鵜呑みにした。
それは、母を亡くした夜の事。
父親と眺めて、母の光を捜す。他の星々との見分けはつかず、世界には母以外にもこれほどの人が死んでいるのかと思うと、オリヴィエの心は静かに沈んで行った。
結局母が解らぬまま、次の日も、また次の日もオリヴィエは星空を捜した。それでも見つからない星空の下、オリヴィエは――
(…………あれは……)
白いワンピースが胴を纏い、四肢は黒い布の素材を纏った少女。少女とは言うものの、その頃のオリヴィエからしたら、彼女は充分過ぎるくらいの大人だった。
祖父よりも母よりも小さいが、自分よりは大きい。
祖母の墓の前でぐったりと横たわるその姿と、暗いせいで精確な色合いの解らない青色の髪が、ベッドに横たわって死んでいった母を思わせ、オリヴィエを酷く不安にさせた。母の髪も、暗い部屋で見ると青色に染まりあがるのだ。月は丁度雲に隠れ、目元も黒い布で覆われた少女の顔を確認することは出来ない。
おろおろと涙目になりながら、オリヴィエは周囲を見回して。
それから。
それから――
(……どう、なったんでしたっけ……)
覚えていない。
霧の立ち込めた森の中の様に、記憶に靄がかかっている。手探りで手近な木を伝いながら、晴れぬ白い闇の中に閉じ込められているみたいな感覚。
記憶にあるのは、それ以来星空を眺めるのが苦手では無くなったという事。そして、彼女の手が暖かく、オリヴィエの頭を撫でてくれた事だけ。
「…………」
彼女のおかげ、かは解らない。ただ、今ケイネと眺める星空を美しいと感じられる事が、オリヴィエにとって、何よりも嬉しかった。
「オリヴィエ様、ケイネ殿」
お呼びがかかったのは、それから直ぐ後の事だった。
棘の無い、それでいて芯の強い声色は、バートルミーの物だ。呼び方では無く、声で解る。振り返った先に居たのは、想像に違わぬ、背筋を伸ばしたバートルミーの姿。想像と違ったのは、その表情が、オリヴィエを諭す時以上に引きしまっていた事である。
「どうした。キルベアに出会ったバリーみたいな顔をして」
よく解らない例えである。
ちなみに、「キルベア」とは棲息地を限定しない、通常の熊よりも倍以上の巨体を持つ凶悪な熊のことである。
別名、「キラーベア」や、「アンラッキーベア」。詳しい説明は、割愛。
バートルミーは虚を突かれたように眉を寄せ、曖昧に返事をした。
「お話がございます。下へ、お越しいただいても、よろしいでしょうか」
「?」
畏まって伝えるバートルミーに、オリヴィエが疑問符を飛ばす。彼の表情は真剣そのもので、引き締まり、瞳の奥底には鉄よりも固い覚悟が見受けられた。
ただならぬ様子を感じとり、オリヴィエは視線をケイネへと移す。
オリヴィエと同じように、ケイネもまたバートルミーを窺っていた。瞳には底知れぬ深みがあり、それは刺青の効果か、それともオリヴィエよりも生きて来た経験の差か。オリヴィエにはどちらかなど解らない。だが、ただ一つ解ることは。
「……了解した。行くぞ、オリヴィエ」
手摺からベランダへと降り、入口に近いオリヴィエの背を叩く。
彼には解っているのだ。
バートルミーが言う、話の内容が。
彼の言葉と手に従い、オリヴィエは部屋の内部へと入る。壮大さに押しつぶされそうな感動のある星空と別れ、ケイネは扉で、その髪のような神聖な月光を遮った。
□■□
バリーの私室から食堂内へと足を運ぶと、アオイとデリクが、元々話し合いをしていたテーブルに既に着いていた。各々の表情は芳しくない。拗ねたような、納得しがたい事を無理矢理納得されたかのような、子供らしい表情だ。子供らしいと言っても、デリクはオリヴィエの倍ほど生きているのだが。
バートルミーがオリヴィエの椅子を引き、ケイネが自身の場へと勝手に座る。一拍遅れつつ、オリヴィエも椅子に座り、役目を終えたバートルミーが、ケイネが座った事により狭くなった廊下を通り、オリヴィエの目の前へと腰を下ろした。
何かが横切ったと視線を厨房へと向ければ、そこではバリーが手拭を持って作業に勤しんでいた。どうやら食器を拭っているようなのだが、食器が重なり合う時、一切の硬質な音が鳴らないのは如何いう事なのか。それが出来るからこそのプロかと自身を納得させつつ、オリヴィエは瞳をバートルミーへと戻した。
此処まで来て、解らないとは言わない。恐らく、昼間の話の続きを、今しようとしているのだろう。
ケイネは相変わらずの我関せずで、関している筈のデリクとアオイはそっぽを向いている。だが、彼らがそっぽを向いている事実が、オリヴィエにとって好都合な結果を予測させた。
彼らはケイネに仕事の依頼をすることを反対していた。
自身の気に入らない事に対して、積極的に不機嫌を振りまくのが二人の性格だ。
それはつまり、彼らの気に入らない結果が、彼らの夕食後の話し合いの内に出たのだろう。
それがそのまま、オリヴィエにとって絶対的に良い条件とは、限らないのだけれど。
バートルミーが、真摯な瞳でオリヴィエに語りかける。
「先程、お時間を頂きました際、我々も結論を出させていただきました」
夕食が終わってすぐ、バートルミーが『三人での意見を纏めたい』と願い出た。なのでオリヴィエはバリーの用意した風呂を先に借り、上がったところで、ケイネを捜してベランダへと出たのだ。まさか見当たらないと思って呼んだ声に、頭上から反応が返ってくるとは、全くの予想外だったけれど。
そう、最初から、バートルミーが二人を呼びに来た時から、オリヴィエは解っていたのだ。
彼らの結論が出る。
山ほどある意見を吟味した結果の、彼らの結論が。
けれど、もしだめでも、オリヴィエは諦めないつもりでいた。どんなに反対されようとも、オリヴィエの意思は固い。ケイネ以外の《刺青師》に、己の肌を触らせるのは、絶対に嫌だ。
例え我儘と言われても。
その身を預けるのは、他の誰でも無い、オリヴィエ自身なのだから。
「結論から申します。我々は、オリヴィエ様の意思を尊重し、ケイネ殿の刺青を入れることを、許可しようと思います」
固めていた決意の目の前で、迫っていた槍が方向転換したような気分だった。
バートルミーの口から出たのは、紛う方なき、オリヴィエのとって最良の答えである。
けれど、だからこそオリヴィエは身構えた。
あれだけ反対していたかれらが、何故こうもあっさりと、意見をひっくり返したのか。
「……オリヴィエ様?」
彫像のように固まり反応を寄こさないオリヴィエに、バートルミーが訝しげに名を呼ぶ。彼の様子に、これが夢ではない事を知る。だが、一瞬の時間は今を過去へと変えた。先程の彼の言葉を上手く思い返す事が出来ず、自身に都合の良い勝手な解釈を与えてしまったのではないかと、オリヴィエは己を疑った。
「はい……はい、いえ、あの……」
確認をするにも、どうにもしどろもどろになってしまう。
心変わりは嬉しい。彼の言葉に嘘が無いこともわかる。だが、経緯の定かでない不安がオリヴィエを襲う。
けれど、時間を置いて。
確かに、彼らが賛成してくれた事に対する喜びに、心が震えた。
「一つ」
声が響き、同時に挙げられた手に視線が集まる。
それはオリヴィエの目の前では無く、左に寄った場所に座っている青年のものだった。
「決め手は?」
素手に手袋をはめただけの左手を軽く上げ、真剣さの窺えない無表情で、ケイネは短い質問を投げかける。彼の瞳に窺える真意が解らず、バートルミーは怪訝そうな表情で身体の向きをケイネへと正した。
「オリヴィエ様の強い要望。ケイネ殿の《刺青師》としての心構え。そして、貴方が神族の者だという事です」
「……続きを」
最早猫を被る気など無いケイネは、ただ短く続きを促す。無感動な瞳は、無関心を装った真剣さが窺え、オリヴィエは小さく息を飲んだ。
彼の言動は予測ができない。何に対してその真剣さを費やしているのか、オリヴィエには全く解らないのだ。
うっかり彼が意見を変える事の方が、バートルミー達の反対よりも重大だ。数年を一緒に過ごした部下と、初めて出会った未知の思想を持つ仕事相手。どちらが厄介かは、明白だろう。
治安のよく無い国へ赴く父を見送る気持ちで、オリヴィエはケイネとバートルミーを見つめた。今オリヴィエの命運を握っているのは、間違い無くバートルミーである。
彼はそれを解っているのかいないのか、通常通りの真摯さで、ケイネへと対峙している。
一度瞑目し、ケイネを見据えゆっくりと瞳の姿を顕にする。
落ち着き払ったその姿は、オリヴィエの心を落ちつけるのに十分なものだった。
「ケイネ殿の信頼を確固たるものにしたのは、貴方様が神族であるという事で、相違ありません」
「…………」
「ですが恐らく、認識の違いがあるかと思われます」
「ほう」
ケイネの瞼が、僅かに持ちあがる。
若干の好奇を伴って、赤紫の瞳が仄かに輝く。感情の色を映さずとも強く主張する瞳が光を帯びると、それだけ顕著に反映されるものか。
つまり、ケイネが瞳に表情を灯さぬ時は、本気で周囲に全く興味が無い時――という結論に目を塞ぎ、オリヴィエは動向を見守った。
「ケイネ殿は、仰いました。『種族の名に踊らされ、持ち上げてやる必要も、謙る必要は無い』と」
「言ったな」
「それに、感銘を受けました」
言いながら、バートルミーは頭を下げた。
それは今まで彼が行ってきた、礼義的なそれでは無い。
一人の人間として、一人の人間に尊敬の念を抱くのは当たり前の事。
バートルミーの下げた頭には、オリヴィエが祖父に抱くそれと同質の、清らかな敬意に満ちていた。
「ケイネ殿が神族であろうと無かろうと、《刺青師》であらせられる貴方に関係はございません。ただ、名の知れぬただの《刺青師》に任せられるほど、オリヴィエ様は軽い存在でも無い」
一国の、長たる一族。
彼らが戴く、王の孫娘。
そして、魂の定めた、主。
「オリヴィエ様の想いを叶えるには、そこに着目しないわけには、行かなかったのです」
神族は、神のために存在する一族だ。
神の声を聞き、神と共に生き。神の意志で地上の総てを守り、人と人で無いモノの境界を見定め、害悪との『棲み分け』を行う境界線上の人々。
「神は、地上に関心がありません。どこで戦争が起ころうが、何処で病気が蔓延しようが、あの方々には、なんら影響は無い。あの方々にとっての大切は、自身の領域の安全と、自身の好奇を満たす存在。我々人類は、その筆頭に存在する。故に、神は我々に心を砕いて頂ける割合が高い」
「……よくご存知で」
神にとって、人と兎と猫と鰐は、それぞれ似たような物にしか映っていない。神域には世にも珍しい銀に煌めく毛並みを持つ兎も、猫も存在する。それらもまた、ケイネ達と同じく神に見染められた存在で、ある種の兄弟と言って過言ではない。
神故に人語を扱わない多種族との交流も可能だが、それ故に彼等は、獣の従順性を良く知っていた。
神は懐が深い替わりに、とても飽きっぽい。
例にして、ケイネが傅くヴェルト。彼女は一時期狼にハマり、十年そのマイブームを貫き、従順で愛らしい狼に唐突に飽きた。それはもう、ある日、突然。
それ以降、ヴェルトは狼を内に加えることは無い。既に加わっている一族を大切に育んではいるが、それ以上増やす気は無い様子だった。
だが、どの神も、何故か『人間』だけは耐えること無く許しを与え続けた。
理由は簡単だ。
人は単純で従順だが、時に思い掛けない行動を取る事がある。
基本的に種族で行動が統一されているのが獣だ。だが、人は個性と言うものを求め始めて以来、種族の総てを統率することは叶わず、その一族すら懐に入れるには信仰に差があった。
神には、それが面白いらしい。
一人が野菜を育てるなら、一人が家畜を育て、一人が本を読むなら、一人が神へと問いかける。万物、この世に生を受けた物は、神にとっては等しく命に過ぎない。だが人間は、人間と言う種族の内だけでも、酷く差の在る生き物だ。
それなのに、跪くと言う意思だけは、どんな獣よりも本物。
だからこそ、人類はどの生物よりも神に近い場所を与えられた。
神の声を聞き、神の手足となり、神から施しを受けられる立場を。
神は人間に興味がある。
従順な獣として育て上げられる存在でありながら、一切の言葉を無視して戒律を破る、勝手な獣の一面も持つ、人間を。
けれど、どんな獣も人も等しく同じに見えると言う割に、あからさまな好奇心を人に向ける神。人に言える多面への興味は、正しく神にも言えること。それに、神は基本人を模ることが多い。神が自身に似せて人を創ったのか、人を真似てその形を得たのか。それは、誰にも解らぬ事実である。
「オリヴィエ様は、我々人間にとって、掛け替えのない存在です」
バートルミーは、静かに続けた。
強い瞳を正面に受けても、ケイネは一切動じない。
先程見せた色を潜め、瞳は温度の無い赤紫色。鮮やかで美しいそれは、まるで血が通っていないかのような、硬質な光が宿っている。
人で無いかのような。
まるで、意志を持たぬ道具であるかのような。
「我々人間にとって、神族の行いは、即ち神の意志」
ケイネは反応を示さない。それを見届けて、バートルミーは良く通る低めの鎮まった声音を、腹の底から吐き出した。
「貴方がオリヴィエ様に危害を加えた時は、それが、神の意志であるという事。
――その時我々は、神に弓引く事も、厭いません」
洗練された、覚悟。
これこそ、神が惹かれる人の愚かさだ。
神に、絶対である存在の頂点であり、概念。それに楯突く愚者は、比べるまでもなく『人間』という矮小な獣だけ。
ケイネは暫し茫然とバートルミーを見つめ、やがてその口元に、密やかな微笑みを浮かべた。
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