03猫と煙草
風呂が沸くまで時間があるので、やはり話は風呂の前に。
ケイネの総ての予定が狂うため、嬉しい展開ではない。
とりあえず食器だけは水桶に浸けて、ケイネはオリヴィエの待つ、山小屋の中へと戻った。
襤褸くも小ざっぱりとしたリビングに、美しい女性が一人。
絹の様な滑らかな髪。陽の光のように眩しい色彩の色白の少女だ。
不似合いを通りこして、彼女だけがこの部屋で浮いていた。色彩自体はケイネの方が倍も奇天烈だが、瞳以外はくすんで汚れて見えるケイネに比べ、彼女の色は輝かしすぎる。
人通りも無い森の奥。いくら木々が若々しい葉をその手に広げ、黄緑色を反射し世界を明るくしているのだとしても、太陽そのものの様な少女が滞在するには、此処は些か別次元すぎるのだ。
ケイネの登場に気付き、オリヴィエは椅子から立ち上がり、丁寧に腰を折った。やはり、身長は彼女の方が高い。ケイネは苦い気持ちを味わった。身長は彼のコンプレックスなのだ。
何も言わずに、彼女の正面の椅子を引き、ケイネはそこに座る。オリヴィエも彼に倣い腰を下ろし、「申し訳ございません」と謝罪した。
「わたくしの我儘で、ケイネさ……ケイネさんに、予定を変更させていただいて……」
「いーよ。それより、予定が詰まってるからさっさと終わらせよっか。先に俺から一つ質問。あんた、どっからこの山に入ったの?」
一般的な遭難者と彼女の違いは、彼女が中腹にある村の存在を知らなかった所に存在する。
普通の人間であれば、山の中で道から逸れるような馬鹿はしない。道こそが人がいる証であり、集落へと続く命綱の様な存在なのだから。そこから出れば、森の栄養になる覚悟を決めなくてはならない。
一般のウェラート・エングストランド捜索隊であれば、先ずは中腹に在る村を目指し、そこで何かしらの情報――何も出て来ることは無いが――を収集し、それからやっと木々の生い茂る、道無き場へと出るのが賢いやり方と言える。
特にこの山では、何を思ったのか自発的に道から逸れた故の遭難者が相次ぎ、一日二日かけて麓の町に生還する事件が何度も起こっていた。幸運な事に、何故か死者が出ることは無い。それでも、軽率に道を外れるなど馬鹿のすることでしかないのだ。
何らかの理由があったのか、作戦の一つだったのかただの馬鹿か――どれにしても、遭難して倒れていたわけだから、無謀以外の何物でも無いことは解ってもらえた事だろう。
オリヴィエはうっと言葉を詰まらせ、苦虫を噛み潰したような表情で、ケイネから視線を外した。恐らく、森を彷徨った記憶を思い起こしているのだろう。
「……祖父より――」
祖父。
此処にいない登場人物の存在にケイネは眉を寄せたが、オリヴィエは気付かないまま話を進めた。
「――ウェラート様は、芸術家肌と言いますか……少々、不思議な思考回路の持ち主だと、お聞きしておりました。ですので、山では道から外れるなときつく言い含められましたが……その裏をついて、ウェラート様ならそこまで奥深く無い、ちゃんとした道が存在する山の麓近くに居らっしゃると思いまして……麓の道から山へ入ってすぐ、自主的に森の中へと歩みを進めました……」
「対策は?」
「へ?」
「だから、迷子対策。山の中――危ないことを解ってて、自発的に、突発的な事故でも無く森に入ったって言うなら、それなりの対策、したんじゃないのか?」
「え……えぇと」
オリヴィエは一度視線を合わせたが、ケイネの指摘にあちらこちらへ視線を動かす。
馬鹿だった。
いくらウェラートを捜すにしても、無鉄砲にも程があると言う物だ。相応に迷わないための準備をしたと言うならまだしも、彼女はそれもなく、ただ思いついた事を実行しただけ。そこから迷い、惑い、只管キツいだけの山を登り、時折川に遭遇しては水を手に入れ、動物は狩れず、植物は知識が無いから口には運べず、胃の中を空にして三日三晩迷ったところで、ケイネにその身を拾われたのだ。
何と言う無鉄砲。
何と言う馬鹿。
ケイネは俯き、片手で額を抑えた。あぁ、頭痛い。
「……次代の王がこれじゃ、この国は終わりだな……」
「え?」
「『え』?」
彼女の感動詞に、ケイネは掌から顔を少し上げ、彼女と視線を合わせた。
最初はきょとんと、そしてゆっくりと表情を強張らせていく。
「え……えっ?」
「『え』ー?」
何か失言をしただろうか。ケイネが顔を上げ、背もたれに背を預け、顎に拳を当て考えこむ。
否、やはりしていない。
ケイネは何も間違ったことを言ってはいなかった。
「な、何故……」
顔を青褪めさせながら、オリヴィエが震える声でケイネに問う。
どうして、と。
「何故――わたくしを、次代の王、と?」
オリヴィエからしてみれば、それは一世一代の告白のような心境だっただろう。
彼女は一応、身分を隠して彼と接してきた。元々王女らしくないやんちゃな性格をしていた事もあり、城から出てこの山を訪れるまでの道中、どこぞの姫君がお忍びでやってきた、くらいの噂は裏で流れていたのを知ってはいたが、王族であるとバレたことは一度も無い。勿論それはオリヴィエの主観でしか無いため、実際には何度か見破られていたかもしれないが、それはさて置き。
着衣の方も、これでもランクを落としてきた。持ち物に王族を示すような物は一切所持せず、絶対にバレない自身が、オリヴィエにはあった。なのに――
オリヴィエの混乱を他所に、ケイネは「あぁなんだそんなこと」と酷く軽い。
「そりゃあ、解るだろ。俺でも流石に、じぶ――違った、王族の名前くらい、頭に入ってる」
右足を左足の膝に乗せた格好で、右手で自身の結いきれていない横髪を弄る。彼の姿は本気で「そんなこと」と思っているであろうことを物語っていた。
けれど、あり得ない。
確かにオリヴィエは、名前まで偽ろうとしなかった。だが、オリヴィエはどこにでもある名前だ。貴族たちの中にも、三人ほどその名を聞いた。庶民にも浸透していて、去年の『赤ちゃんにつけたい名前女の子編』では、見事十二位と言うとても微妙なランクインを果たしたのだ。それだけで気付くなど、あり得ないを通りこして、他のオリヴィエを一切知らない者にしかできない芸当である。
つまり、自身の知る情報以外の可能性を見出す事が出来ない、ただの馬鹿の発想である。
「オリヴィエ、今俺の事、馬鹿とか思ったか?」
「ひっい、いいえ!滅相もございませ……」
ケイネは何となく言ったまでだが、それは地味に的を得ていたらしい。ぶんぶんと横に顔が振れる。無駄に綺麗で軽い髪が散るが、彼女が動きを止めれば、元あった位置に戻る。どんな形状記憶合金かと、ケイネは奇異の瞳で彼女の髪を見つめた。
「あ、あの、でも、オリヴィエは、それほど珍しい名では、ございません…………」
決定打にはならない。その考えは正しい。
ケイネは右手でがしがしと己の頭を掻き、足を入れ替え、左足を右足の上に置く。その左足首に右手を置き、解放された左手で、オリヴィエの方を指差した。
「ピアス」
簡潔に告げると、オリヴィエは先ず視線を耳の方へやり、でも当然ながら見えず、自身の手でそっとその耳に輝く宝珠に触れた。
「左に赤、右に青。どちらも魔石では無く、ただの価値ある宝石。青は此の地を守護する何事にも動じない、けれど此の地を脅かすものにのみ荒れ狂うその広き心を、空や大海に例えて送られた、現王の私物。赤は王の娘、身体の弱かったシルヴィア姫に送られた、生命力の呪い石――今はもう、形見か。最近、宝石と言えば大抵が魔石だ。魔力を宿し、自身の魔法を高めるものばかり……そんな中、何の力も有していない極一般的な宝石を耳にくっつけて、『オリヴィエ』。これでバレないと思ったなら、片腹痛いってもんだよな」
王は一夫多妻を嫌い、側室を持たず、王位継承権を所持していたのは、その場では娘であるシルヴィアのみであった。だが彼女は体が弱く、王室の仕事を三日も耐えられず体調を崩してしまう。王の兄弟は皆命を落としていて、他に継げる者はいない。
そんな中、シルヴィア姫は貴族の三男と恋愛結婚。その体の弱さから、子供を一人しか身籠ることができなかったが、幸せな生涯の幕を閉じたのは、愛娘が十になる頃の話。
刺青の無い綺麗な体は煙と成って天に昇り、彼女は神の御許へと召されたのだ。
「三男の貴族は、王族との血縁関係を持たない。当然、王位継承権は無い。王がもっと子供作っときゃよかったんだろうが、今更な話だしな。で、今唯一、王位を継げる権利を持つ者は、シルヴィア姫の娘――
グローリア・オリヴィエ・ミリアム・プロウライト
あんただけさ」
「…………」
本名まで、一字一句違う事無く、当然のようにケイネは言い放つ。国民ならば確かに可能だと言えよう。国王に対して忠誠を誓う、一民としては、当然と言えよう。
勿論、ケイネに国王に対する忠誠は微塵も無い。彼にとって地位や権力は意味をなさない。
彼の中に在る基準は確立されている。
客か、否か――
グローリア――オリヴィエは、否、である。
腰に巻いた、シザーポケットのようなものから一本煙草を取り出し、「吸うぞ」と一言断りを入れる。右手の人差指に煙草の先を当て、じりじりと煙が立ち上り始めた辺りで指を離す。焦げて煙を出す先端は、赤ではなく、淡いブルーに彩られていた。
「猫を被るのも飽きた。そもそも俺は猫より兎派だ」
煙を吐き出しながら、ケイネはどこまでも自分勝手な事を言う。彼の顔に表情は無く、人当たりの良かった猫は、すっかり身を隠してしまっていた。オリヴィエは一気に突き放された気がして、少しだけ肩を窄めて背を丸める。まるで非を咎められた幼子のように、頬を膨らませた。
煙草とは称したが、彼の吸う煙は煙草のそれでは無い。見た目は確かにそっくりではあるが、それは擬態。そもそもケイネは煙草の煙が嫌いだし、あの臭いも好かない。自身の肉体だけならまだしも、他人の生命を脅かす類の毒物を、どう好意的に見ろというのか。
吸う人間をとやかく言うつもりも無いが、自身は吸わないと心に決めていた。
なので、これは煙草では無い。
先ず、原材料が違う。これは彼が昔、《刺青師》として働いていた時の縁で手に入れた、特注品なのだ。
だが、見た目が煙草であることに変わりは無い。この国では煙草は規制されており、未成年の喫煙は厳しく取り締まられている。
「……犯罪、ですよ……」
素姓の殆どを言い当てられて、若干拗ねたように上目遣いで睨むオリヴィエは、正しく子供だ。猫でももっと上手く睨むだろう。
「Nein 成人はしてる。法に触れるようなことはしていない」
煙草の細い煙は、辺りを清涼な空気で包み込む。神域と呼ばれる空間で栽培された、特殊な薬草を使っているらしく、臭いは無く、その煙は辺りを浄化するらしい。
ケイネもそれ以上のことは知らないので、説明のしようが無い。ただ事実だけを述べて彼女の言葉をやり過ごそうとすれば、彼女は目を剥いた。鳩が豆鉄砲を食ったような、とでも称するべきか。それほどまでに、間抜けた表情だったのだ。
「年上でいらっしゃったのですね……」
「見えないだろ」
「全然見えません」
彼女の言葉に悪意は無い。嗤う気持ちは欠片も無く、ただ己の勘違いを恥じ、目の前の事実を述べただけだ。
年齢と見た目の不一致はケイネのコンプレックスの一つではあったが、それは原因が他に在るため、彼女を責めるような事はしない。ただ彼女は只管素直で、純粋で無垢なだけなのだ。
「で、グローリア」
「オリヴィエとお呼びください」
ケイネの続きの言葉を遮り、オリヴィエは断固として主張した。
「……オリヴィエ」
「はい」
彼女はコロコロと笑いながら、そう呼ばれる事に至福を感じている様子だった。身分を隠す為の行動――オリヴィエは兎も角、グローリアという名前はまるで浸透していない――ならば、もっと淡々としたものになるだろう。だが、彼女の仕草は、まるで小さめのボールにじゃれつく猫の様な微笑ましさで、少女が憧れの異性に褒められた時の様な、そんな甘ったるい桃色の世界が広がっていた。
「……」
煙草を吸い、少し首を傾け、彼女に煙が当たらない様に吐き出す。
ツッコミは、入れない方が良さそうだ。
「話の続きだ。全然前に進んでない」
「ケイネ様がわたくしの身分を言い当てるからです」
それはケイネのせいではない。オリヴィエが隠すのが悪いのだ。
「様はやめろ。――隠すんなら、もっと上手くやるんだな。一応言っておくが、俺はあんたに態度を改める気は無いぞ」
煙の立ち上る煙草をオリヴィエに向け、指さすように言うケイネの態度は、はっきり言って不敬罪に当たるだろう。口調に気をつける気もさらさら無く、むしろ態度は先ほどより断然悪い。
これならば、煙草を吸う前の彼の方が、幾分マシだと言えるだろう。
「……猫は被ったままで居てほしいのですが」
「猫は営業を終了した。長期休暇を取って、国境を越えてバカンス中だ」
「……不敬罪……」
「なら俺は、王女を助けた礼に、その不敬の許しを乞うとしよう」
命の恩人。絶対の切り札である。
「……もう良いです」
「gut それは重畳」
ケイネの浮ついた切り返しに、オリヴィエは白旗を上げた。
年不相応のケイネの童顔は、女に見紛うことが可能な程度に整っている。自身の外見を曲がりなりにも理解しているケイネは、その表情を極上の笑顔に変え、可愛らしく微笑んだ。