14食事と面倒
レベッカの腕に抱かれたベティの子が、入浴を終え、清潔なタオルに包まれて母親の許へとやってきた。
「Willkommen zurück」
小さくそれだけ呟いて、ケイネは赤子に巻かれたタオルを剥いた。刺青の確認だけさせてもらうと、真っ赤だったケイネの鮮血は黒く染まり、既に赤子の皮膚の一部として滑らかな肌と同化している。そこに触れても赤子が泣き喚く事は無く、上手く定着したことを示す。
何度も行っている施術なだけに、熟練度も相応に高い。周囲からの不安に答え、
「経過を見なきゃわからんが、紋の方は一週間か二週間で消える。上手く魔力も循環しているし、問題は無い。明日麓からユイが来るんだろ?そこの診断さえ乗り越えれば、多分今後も平気だと考えていいだろう。だがまぁ、油断だけはするなよ。外には決して出すな」
タオルをしっかりと巻き直してやり、ケイネは告げた。
ユイとは、麓に住む活発で溌剌とした医者である。この村の出身で、医学を学んだらこちらへ戻ってくる予定だったのだが、麓を中心に、他の地域での医者不足が目に余り、ならば麓を拠点に、村や麓以外の所にも赴こう。そういう意思とやる気に満ちた、中々有能な女性であった。
ケイネの言葉に、その場の人間は皆安堵の息を吐き出し、半オクターブ上がった声で歓喜した。
ベティは赤子を抱こうと手を伸ばしたが、外の喧騒が内側まで響き、人員が到着したことを知らせる。やらなくてはならないことは山ほどあり、その中には、当然ベティの休養も含まれているわけで。
「全部終わったらアンタのとこに寝かせてやるから、それまでちょっと我慢しなさい」
実の母に言われてしまえば、ベティは頬を膨らませることしかできない。娘として「はぁい」と不機嫌に聞きわけると、ベティはサイラスの胸に頭を預け、疲労からかそっと瞼を下ろした。
「じゃ、俺もそろそろ行くかな」
立ち上がって、ケイネがそう言うと、不平を漏らすのがベティの妹の役目である。
「師、行っちゃうの?」
「行っちゃう行っちゃう」
不満げに頬を膨らませ、ベティよりも幾分薄い茶の髪を揺らして上目に睨む。ケイネの腕に腕を絡め、肘を覆い隠した辺りで止まった七分の袖を握り締めた。
妹の名はクララ。まだ十三の我儘盛りで、『十代以下の子に聞きました、将来の夢は何ですか?』をこの村限定で統計を取った場合、女子十割が掲げる将来の夢である「ケイネ師と結婚」を未だ諦めていない、恋に恋する少女である。早熟な初恋は、憧憬の極致。それが恋でないとは言わないが、残念ながら、ケイネがコレなので、決して叶うことは無いのだ。
子供達の気持を知ってか知らずか――知ってはいるが、そういう方向で相手にする気が無い、が正しい――ケイネは加減のされたデコピンをクララに施し、怯んだ肉体からするりと拘束されていた腕を回収する。わしわしと雑な手つきで頭を撫で、最後にぽんと軽く叩いて、ケイネはクララからの逃亡に成功した。
背に突き刺さる非難の視線だけが容赦無く、振り向かないまま軽く手を上げてやれば、やっとそれから解放される。
「ケイネ師!行っちゃうんですか?」
「お帰りですか?」
「ご飯持って来たんですけど……食堂で食べられますか?」
「おー?」
入れ違う村人に質問されつつ、ケイネは笑って手を上げた。昼間会った面々ではあるが、顔を見ると必ず挨拶をくれるような人々である。視線を合わせただけで笑顔になれる存在を、ケイネはとても愛おしく思っていた。
大きなやかんと食器を持つ女性たちに、大きな鍋を両手に持った男性。
それらを見やり、ケイネは鍋を持った男性を指で呼び、少し頭をさげさせた。ケイネより頭一つ高く、図体もでかい短髪の青年で、名前はジョン。髪は綺麗な少し明度の低いクリーム色で、ケイネが幼少時に飼っていた大型犬を彷彿とさせる、穏やかな好青年である。
ジョンは慣れたように少しだけ顔を傾けると、現れた頭頂部をケイネが撫でる。
ケイネがスキンシップとして『頭を撫でる』ことを好むのは、村の住人の全員が知る事実であった。本人は無意識に行っていることなので、全く持って気付いていないのだが。
最後に二度、ジョンのふわふわした毛をぽんぽんと叩く。意図していない、傍から見たら至極満足気な表情をして、ケイネは彼らに別れを告げた。
「俺はいい。食堂でもらう」
「解りました」
「師、お気を付けて」
「お前らも。体壊さない程度に頑張れよ」
せっかちと言うか、マイペースと言うか。ケイネは自分の都合で動くので、会話が終わる前に場を去ろうとすることが多い。最後の方の会話は、基本的に背中で聞く事が殆どだ。今回も、例に漏れない。
「あっケイネ師!」
やかんを持った女性――名はリーラ、短いセピア色の髪に、同色の瞳が可愛らしいジョンの恋人である――に声を投げかけられ、ケイネは足を止めて振り返った。
三人は笑顔でケイネに視線を送っていて、見方によれば一種異様な光景である。陽はとっくに落ちていて、世界は鈍った紺色に染まっている。
世界は夜だ。
闇の世界。命を攫う目に見えぬ存在が闊歩する時間。
一度集会所内へ視線をやり、リーラはすぐにケイネへと視線を戻す。
内側にカールした、纏まった髪をふわりと揺らしながら、兎のような可愛らしい仕草を駆使してゆるりとお辞儀をした。
「ベティちゃんの赤ちゃんとか……他にもいっぱい、いつも、ありがとうございます」
彼女がそこまで言うと、食器を持った女性と、ジョンがバラバラに頭を下げる。動きこそバラバラだが、彼らの想いは同一だった。
いつもそう。村人は皆、当たり前にケイネに感謝し、ケイネを『師』と、親しみを込めて呼んでくれる。
だからこそ。
ケイネは頭を変な顔をして、頭を掻きながら
「ばーか」
とだけ言って、進行方向へと足を向けた。
「あ、ジョン!」
と思ったら、彼は再度振り返る。女性が先に集会所へ入り、ジョンは中から出てきたクララに鍋を渡しつつ、ケイネの呼びかけに返事をした。
「なんですか?」
「今日、お前家に帰るな。集会所に泊めてもらえ――サイラスも一緒に」
「?」
ジョンが首を四十五度傾け、ケイネの言葉に疑問を表にする。けれども直ぐに顔を戻し、「わかりました」と爽やかな笑顔で頷いた。
「空が暗いうちは絶対の外に出るな。村長伝いで俺が良しって言うまで、絶対だめ。いいな」
「はい。バリーから聞いた、アレですね」
「そうそうアレアレ」
「お昼は大丈夫ですか?農作業しないと……」
村人の職業は、八割の確率で畑仕事か家畜の世話である。彼らに休みなど存在せず、休んでいる暇があれば、作物の改良や動物小屋の環境改善に努める勤勉さだ。それしか無い、という考えが根深いことは否定しない。だが、それ以上に、彼らはこの地上、そして生命によって生かされている事を、しっかりと認識しているのだった。
ケイネは手を振り、苦笑するジョンに応える。
「いいよ。太陽サマサマだ」
挨拶らしい挨拶は無い。強いて言えば、振った手が別れの挨拶に当たる。
何を言わせる暇も無く、ケイネは自分勝手に話を切り上げ目的地への歩を進めた。だから、ジョンが綺麗に体を四十五度曲げ、たっぷり三秒お辞儀をしていることなど、ケイネはまるっきり知る由も無い。
□■□
宵の闇には魔が嗤う。
月光の内には人で無きものが潜む。
善いも悪いもそこには無く、彼らはただ佇むだけ。
目に見えぬ彼らは、悠然とただ、そこに存在をしているだけだ。
(――そんな訳があるか)
ケイネは胸中、そう毒を吐いた。
目に見えぬ彼らは、確かにそこに存在するだけだ。魔も妖精も、神も、広い範囲で言う人で無きものも。だが、『ただ存在している』ということが、イコールで『害を与えない』という訳では決してない。
存在するだけで害を発する。そういう類のものは、確かにこの世に存在する。それらは決して『悪』では無い。それらの存在は人間にとっては確かに『悪』かもしれないが、その他の存在に対しては無益であり無害であることが多いのだ。
人にとって邪悪ならば、人はそれを『悪』だと述べるだろう。
だが、それを定義した者は、それを『悪』と呼ばなかった。
『地上には人間以外に多種多様な生物がいる。中には人に害を為すものもあるだろう。だが、それらを総て、悪として断罪するのか?その定義は何だ?犬が噛みつけば、それは人に仇をなすことになるのか。猫がひっかけば、その種属は総てが悪なのか?
――そうではない。必要なのは棲み分けだ。彼らはどこにでも存在する。だが、彼らにも望むべき場所がある。我々はそこに立ち入らない。屈するのでも臆するのでも無い。彼らを受け入れ、共に過ごすことで、害のある時と無い時を見極め、我々の時間と彼らの時間を相容れぬものとするのだ。我々がしているのは勝負では無い。勝利も敗北も無い。人が持つ『理解』という何よりも賢い選択で、生きる道を探すのだ』
大聖者、ライナルト・ペーベルの言葉である。彼は魔術師すら居なかった時代。現代における『神族』の始祖である。
だからこそ人間は『棲み分け』をした。
闇は彼らの時間で、光は我らの時間。
宵の闇は魔の時間で、陽の光は人の時間。
だから、『彼ら』が此処に居る。その事実自体に、特筆すべきことは何もない。
これといった言葉も無い。だが、
「――zurück」
虚空に、ケイネは告げる。
ざわりと風が動き、乱雑に紐で括られただけの、月の光に透けるような髪を、漂うだけの紫煙と共に揺らした。
清浄な気配と呼びかける声に、風はその身を潜め、燻る煙と揺らめく青い炎に神経を寄せる。灰も残さないケイネのそれは、ただの嗜好品では決してない。
「ここはお前らの来るべきところでは無い。……あぁ、境界を破ったのはお前らじゃ無い。お前らは何にも悪くはないよ。強いて言えばタイミングが悪かったが――いや、こっちの話」
目前の空間相手に、ケイネは表情を変え、頭を掻いたり言葉に惑ったりしながら唸る。異様な光景を見る者はおらず、それだけが唯一の救いであった。見られていたところで、村人のケイネに対する信頼が落ちることは、決して無いのだが。
うっかり煙草を咥え大きく吸い、そして煙草を放して大きく吐き出す。
「あ」
小さく声を上げ、自身の失態を思い知る。失態と言っても、大きなものでは無いので、ケイネは「まぁいいか」と動じずに呟く。
平を上に向けた手を虚空に差し出し、ケイネは横目で村の外を見た。
「出してやる。解かれたのが一部のせいで、方向感覚が狂ってるんだろ。好奇心に負けて近づくもんじゃない。ほら、還るぞ」
差し出した手を取る者はいない。
けれどケイネはしっかりと空を握ると、満足そうに微笑んで、一緒に村の外へと歩き出した。