12生命と温度
「放せと言うのが解らぬか!!」
「入るなと言うのが解らんか!!」
「赤子を己が救ってやると言っておるのだ!!そこを退け!!新たな命が死の神に攫われるのを、おめおめと眺めておるなど己にはできん!!」
「あの子を助けるのはあんたじゃない!!救ってくださる方は他に居る!!手を出さんでくれ!!」
「居らぬではないか!!このような寂れた村に、A級以上の手練が居るとも思えぬ!!赤ん坊を救うには、それなりの魔法が必要となるのだ!!ここには己が居る!!己がやれば直ぐに救う事ができるのだ!!早く放せ、手遅れになる!!」
「頼んじゃいない!!俺達には――俺達には、師が居るんだ!」
「そうよ、あんたみたいなヒゲでハゲじゃない美人でかっこいい師がいるんだもの!!」
「他所者が何よ!ベティにも子供にも、指一本触れさせたりしないんだから!!」
「ハゲとヒゲは関係無かろう!!己はこれでもまだ三十七だ!!」
「――……何がどうなってんの?」
「え、ええと……」
一歩引いた位置から、ケイネとオリヴィエは並んで事の成り行きに圧倒されていた。
夜を感じさせぬ熱気。ベティとバリーの父親と、村の娘たちが自称A級《刺青師》を抑えこみ、入口で地面と水平に手を広げ、バリケードを作っている。
周囲には、自称A級《刺青師》と似たようなローブを纏った男が傍に一人――こちらも取り押さえられている――と、似たようなローブを纏った少女が傍に一人、こちらは取り押さえられることなく、腕を組んで我関せずとそっぽを向いていた。
「オリヴィエ、知り合い?」
「…………はい」
傍で両手で顔を覆うオリヴィエに問えば、彼女は充分間を取った後、肯定を示す。
彼らのローブには、ケイネも見覚えがあった。裾にシンプルな刺繍が施され、深い緑色をした、綺麗で触り心地の良い、高級品である。
同じ物を使っている事、そしてオリヴィエの居た堪れなさそうな反応。知り合いで無いと言ったら、それはもう虚偽以外の何物でもないだろう。偶然同じ物を使った人が集まりました、でも無理があるのに。
ケイネはオリヴィエの肩に手を置き、項垂れる彼女の耳に口を寄せ「あいつらは頼んだ」と伝える。きょとんと大きな瞳をさらに広げるオリヴィエの肩を叩き、ケイネは口の端で微笑みかけた。
「序に、あいつらに上手い事、俺があんたに刺青を入れることを了承させろ。これも、条件に追加させてもらう」
ついでで、ケイネはオリヴィエに大変な仕事を託していった。
打ち拉がれるオリヴィエの横を通り過ぎ、ケイネはゆるりとした動作で人混みへと向かう。慌てて彼を追うも、オリヴィエの「ケイネさん!」と言う言葉に、集会所前に集う面々の視線の総てが、一斉にケイネ、そしてオリヴィエの方へと注がれ、オリヴィエは恐縮して立ち止まってしまった。
当の本人であるケイネはどこ吹く風である。「よう」と軽く右手を上げ、笑みも無く集団の中へと立ち入った。
「どういう状況?」
「ケイネせんせぇ……ベティが……子供が……っ」
「生まれた?早いな。難産って半日かかるんだと思ってた」
「ベティさんいっぱい痛がってて、子供も、生まれたけど、泣かないんです……ぐったりしてて……全然、動かなくて……!」
入口に立ち塞がっていた少女たちが、真っ青な顔で現状を告げる。知らない人間を警戒しその場から動く事は無かったが、ケイネの登場に安堵したらしく、腕を下げ、胸の前でぎゅうと握りしめた。
「オス?メス?」
ケイネの言葉の選択は、非人道的なことも多々ある。慣れているけれど、村人は呆れないわけではない。肩から力を抜ききって、正しく聞かれた情報を伝えた。
「……赤ちゃんは、男の子ですぅ」
「あー……了解。おっけおっけ」
答えた少女の頭を撫でる。少女は不覚にも歓びを覚え、緩みそうになった頬を自身の両手で殴打した。
一瞬ケイネは怯えたが、それも、直ぐに別の声にかき消される。
「なんだこの男は」
自称A級《刺青師》の男である。
「オリヴィエ!食堂行ってろ!俺も後で行くから、誰かに案内してもらえ!あとバリーに俺の夕食作れって言っといて!」
他所者に何かしら難癖をつけられる前に、ケイネはオリヴィエの名で彼らを制する。ローブ三人衆はそれぞれにケイネの視線の先、強く返事を返すオリヴィエへ顔を向け、「オリヴィエ様!」だの「姫様!」だの言いながら、誘導に引っかかり、素直にそちらへと注意を持って行かれた様子だった。これで後は楽になる。
彼らが全員オリヴィエの方へ行ったのを確認し、ケイネはライラを捕まえ「あいつらを食堂まで連れてってやって。邪魔されたら困るから。それと――」と仕事を与える。ライラは従順に頷き、彼らの許へ駆けだす。
さて、あとは中である。左手で右肩を押さえ、肩甲骨をぐるりと回すと、両脇から服を掴まれ、ケイネは足を止められた。
脇に居るのは、ビアンカと、その妹のコリーンであった。
「ケイネ師……だいじょうぶ、ですわよね……」
「ベティさんと赤ちゃん、だいじょうぶ、だよね……」
青い顔、涙と不安を湛えた瞳に問いかけられ、ケイネは一度視線を集会所内へやり、頭を掻く。
滅多なことは言えない。当然ながら、ケイネは神ではないし、ましてや医者ですら無い。彼らが憂慮する者達を救う事ができるかなど、ケイネには解らないのだ。
「…………」
だが、それでも。
ぽん、と。それぞれの手で、軽く彼女たちの頭に手を置く。そのまま優しく撫でてやり、真っ直ぐに瞳を逸らさない二人とゆっくり視線を合わせ、安心させるように、ケイネはにっこりと微笑んだ。
「全力を尽くす。俺は万能じゃないが、とりあえず赤ん坊が泣いてくれるように、そこで祈ってろよ」
軽い、けれども決して浮ついてはいない彼の言葉に、ビアンカもコーリンもゆっくりと手を放す。彼の背後で顔を見合わせ、安堵の笑顔に震えの止まった手を繋いだ。
□■□
集会所は案外広い。そこは一室しか無く、外から見て横長の壁の中央に出入り口。内部では右側に出産を終えた母親が、その上半身を夫であるサイラスに預けていた。布団の上に敷かれたタオルは、結構な量の血液で汚れている。出血が多いのは心配だが、彼女の息はしっかりしているようで、ケイネは小さく安堵した。
彼女の安否を確かめるべきかと思案したが、先にサイラス、そしてベティと視線が合う。真っ青な顔の二人が揃って、左側の方に集まる女性達へ視線を投げるので、ケイネは頷き、紫煙を燻らせながら、そちらへ近寄った。
本来ならば、消毒もせず、煙草を吸って生まれたての赤子へ近づくなど言語道断であろう。だが非難の声は上がらない。これは彼が手袋を外して手を消毒することが出来ない理由と、煙草が世に出回る、人体に悪影響のあるそれでは無いと、村人たちがきちんと理解しているからだ。
「どういう状況だ」
「! ケイネ師!」
「ケイネ師!」
「ケイネせんせ!!ケイネ師ぃ……っ」
「俺の名前は良いから……」
一様に青い顔をして、口々にケイネの名を呼ぶ。事は深刻らしく、ベティの母親の腕に抱かれた、真っ白なタオルを汚す赤い固まりを見て、ケイネも眉間に皺を寄せた。
それはぐったりとしていて、そこには一切の動きという物が存在していない。呼吸を主張する胸の浮き沈みも、鼓動を示す微動も、総て。
「ケイネ師……赤ちゃん、大丈夫ですよね?」
「せんせいが、助けてくれるよね……?」
ケイネに縋るベティの叔母と、ベティの妹。二人には「ベティの傍に」と指示を出し、ベティの母であるレベッカ、そしてレベッカに抱えられた赤子と相対する。
左手で煙草を遠ざける。特筆すべき臭いは無いはずなのに、特別な煙が、清浄な何かを伴って、呼吸と共に肺に溜まった重たい何かを融かし、吐き出させる。三回、段々と深くなる呼吸を繰り返し、レベッカはやっと、自身が如何に不安を覚えていたかを悟った。
そして、ケイネという存在の安心感と、彼が好む煙の効能。
幼い頃から見て来た絶対的な存在は、今も変わらず、レベッカを、子供達を、そして孫を、きっと助けてくれる。それでも、彼は「無理かもな」などと毎回不安を煽るから気を抜く事はできない。彼の持つ力に対する不安では無く、言動に対する同様である。
「最初から?」
言葉少ななケイネの問いに、レベッカは神妙に頷く。
「へその緒が……首に、巻き付いていたんです。最初からぐったりとしてて、呼吸はありませんでした。心臓は微かに動いてましたが、今は、止まってしまって……」
震える腕で、それでも赤子を落とさない様にとしっかり抱きかかえるレベッカ。真っ青な顔。不安と悲愴が色濃く残る表情。
けれど、彼女の瞳の奥に、諦めの色だけは窺えない。むしろケイネが来たことで、その焔は大きさを増し、彼女の中に存在を主張した。
それは、ケイネに対する信頼。
村人は、絶対的な信頼を、ケイネに寄せているのだ。
ケイネからすると、それらは買い被りに他ならない。正当な評価では無く、彼らにとっては『ケイネしかいなかった』から付いてしまった、過大評価でしか無かった。
『ケイネさんはきっと神様なのですね』
頭の中で反芻される、屈託の無い無垢な言葉。
(――違うよオリヴィエ)
ケイネは神では無い。《刺青師》であり、ただの人だ。
だから、必ず助けることなんて、できやしない。いくら人より少し有能でも、いくら《刺青師》の神と呼ばれても、ケイネにできることは、ただ――
「仰向けのまま、しっかり支えてろ。やれることはやる。あとは――コイツ次第だ」
煙草を咥え、多目的用ポケットの、細長く蓋の付いた部分から、筆を一本取り出す。筆の先から三分の一ほど上に行った箇所に、三日月のような刃物が埋め込まれている。ケイネが師匠からいただいた、特注品だ。
刃物の位置に、躊躇い無く人差し指を添え、ケイネはしっかりとその筆を握る。
煙草を外し、深呼吸をする。
筆の先を、風前の灯火に在る命の真上へ。
「…………」
瞬きもせず、深くゆっくりと息を吸い、
ぷつん
と、その人差し指を滑らせ、じわじわと筆の先を、鮮血で滴らせていった。
後は思った所に線を引くだけ。
心臓の真上を中心に、迷い無く血を滑らせる。洗われていないその肌を、ケイネの血と混ざり、母親の血が意味を持った装飾に彩られていく。集中したケイネの動作は早く、それは数秒の出来事だ。ケイネがただ心に決めた線を描くのに、時間をそれほど必要としない。
総てを描き終えると、ケイネは筆を左手に持ち替え、深く刺した人差し指をぞんざいに、赤子を包んだタオルの端で拭う。流血が止まる様子は無いが、大方はタオルに吸い取られ、数秒程度の間、それが滴り落ちる心配は無くなる。
それでいい。数秒で、充分だ。
準備は万全。時は一刻を争う。
というのに、右手を血で描いた紋様の上に翳した状態で、ケイネは動きを止めてしまった。
「…………ケイネ師……」
ケイネの様子を怪訝し、レベッカは小さく名を呼ぶ。
ケイネの表情は真剣そのもので、窺うレベッカの声は届かない。視線は温度をという概念が存在しないかのような冷徹さなのに、その根底にある何かは酷く熱を帯びているという事を、レベッカは知っていた。
見たことがあるのだ。六年前。
レベッカの子供も、こうして、同じようにケイネに助けられたのだから。
そのままふっと、ケイネは息を吐き、視線を和らげ、口の端を緩やかに持ち上げた。
「還ってこい。皆が、お前を待ってる」
――Kommen
手を。
翳した右手を、紋様の上でスライドさせる。
それに呼応し、鮮血で描かれたそれは、左端からジリリと熱を発し、鈍く肉の表面を灼くような、じわりと焦げた臭いがその場に立ちこめた。
瞬間、赤子がビクリと体を動かし、皮膚を焼かれた痛みからか、それとも生への喜びからか、大きな声にならない声で泣き喚きはじめた。