09条件と契約
ケイネは一つ頷くと、話の軌道を修正した。
「俺とウェラートが、同一人物であっては困る。だからお前は『ケイネに刺青を頼んだ客』で、『ウェラートを見つけられなかったが故に、妥協した依頼人』だ。ここまでは、良いな」
「……はい」
復活しきらない心持のまま、それでもオリヴィエは真剣に頷く。一度ふやけてしまうと元に戻るまで時間がかかるらしく、形から徐々に中身を取り戻して行く心算のようだった。
ケイネも一つ頷き、人差し指と中指を天空に反らせ、『二』を示す。
「次に、刺青のデザインは、俺に一任する。――いいか?」
「…………へ?あ、えっと……はい。申し訳ございません。最初から、そのつもり……でした」
意外そうにオリヴィエは頷き、この話は終わるかと思われた――が、それだけならば、態々条件に加えてやる必要も無い。
加える必要があるのだから、勿論、それだけでは無いのだ。
「そりゃ良かった。でも、俺は紙に『こんなん描きますよ』って見せてやるような優しい奴じゃないが、それでも異論は無いか?」
経験に基づく規約である。過去、『二の腕に入れた刺青が良く見えない』等と言って何癖をつけられた事が、ケイネにはあった。家に帰って鏡にでも映せば一発なのに、左目の刺青を入れていなかった頃のケイネには、人を見る目と言う物が、底辺にこびりつく黴レベルで存在しなかったから大変だ。
その後その客とは盛大な喧嘩になり――ケイネも引いてやるような出来た人間では無かった――ケイネはお代を取らない変わりに記憶を改竄し、ウェラートとの接触、刺青を入れた事実そのものを隠蔽した。それでもケイネの心は晴れなかったため、刺青に込めた筈の魔法力も回収。ただの装飾と成り果てた何の力も無い模様だけを、限りある皮膚に穿たれたその人物の末路を、ケイネは知らないし、思い出したくも無い過去だ。
だが、過去の過ちは等しく未来への備えとなる。
顧客に意匠の許可を得ることは無いが、それについて文句を言わせない規約だけは、ケイネはしっかり作らせてもらったのだ。
時折「こんな感じで入れてくれ」と意匠を提示されることもあったが、ケイネはそういうのも断っていた。ふんわりとしたものなら良いが、素人に緻密に計算されている魔法式を解する者は少ない。ただの装飾ならば兎も角、《刺青師》の彫るそれは、どこまでも『魔法』を継承するための術なのだ。巷には色々な趣向があるとしても、その基盤にはしっかりとした魔法式が組まれている。既定のデザインに組み込むことが出来ないとは言わないが、ケイネはやりたく無い。面倒だし、自分が描いていて楽しい物を描きたいのだ。
我儘は百も承知だが、それによって絞まるのはケイネの首である。自身の首を絞めるのが自分なら、心も通じ合っていない他人に、文句を言われる筋合いは無い。それに、それでもケイネは充分やっていけたので、首を絞めてすらいなかったのだから、どこにも問題はないのだ。あるとすれば、客の逆恨みだが、その辺は記憶を消去させてもらえばそれで良し、である。
ケイネ自身が、一番最初に、自らの左手の甲に入れたのがその紋である。まだ神と呼ばれることも無く、秘められた才能と当時の才能を駆使しての最高傑作。荒削りながらも酷く便利なそれは、拙い意匠を意識しても余りある使い勝手に満ちていた。ケイネが自身に入れた刺青の中で、二番目に気に入っているものである。
ちなみに一番は、目の下の刺青だ。それが無くては、ケイネは客をとることもままならないだろう。
オリヴィエは暫し茶を見つめて時を止めると、不意にケイネと視線を合わせた。
「後で、刺青を確認することは可能ですか?」
「合わせ鏡にでもすれば、自分の目でも確かめられるさ」
何処までも他人事、である。
ケイネは自身の拵えた意匠について説明をするのが、どうにも苦手だった。魔法式を解いて説明しても一般客には通じないし、だからと言って見たまま伝えるのも言葉が曖昧すぎて伝わらない。流石に、意匠を聞かれて「なんか線がうにょうにょしてます」なんて答えても、客がどんな顔をするかは押して知るべし。語彙に対するセンスは、ケイネには全く存在しないのである。
紙に下書きをするような生真面目さも持ち合わせていないので、客の不安は募るばかり。だが、そこはもう、ケイネの美的センスを信じてもらう他ないだろう。
幸運な事に、オリヴィエは自称ウェラートのファン、である。
ならば、ケイネがどんな意匠を施そうとも、無碍にすることは無い、とケイネはたかを括っているのだが。
だが、オリヴィエは『ウェラートのファン』である。
ファンが彼の意匠に対し、文句を言う事はそうそう無い。だが、ファンが『ウェラートの作品』を一目見たいと思うのもまた、当然の心境であった。
「……背では無く、腹に彫ってもらう事は可能でしょうか……」
おずおずと、歴代の慣習を打ち破り、刺青の位置を変えようと申し出る。施術中の恥は捨て、後の確認を優先させるという横暴な理由からだが、それでも、オリヴィエにとっては重要事項だ。
腹ならば、合わせ鏡をするまでも無い。
裸で鏡の前に立つのは覚悟が要るが、そんなもの、ウェラート・エングストランドの作品を見るためならばどこからでも沸いて来る事だろう。その自信が、オリヴィエにはあった。
ケイネは眉間に亀裂を入れ、難しい顔をする。思い出したように冷えたお茶を喉に通し、胃へと流し込んだ。
冷えていても感じる香りは奥深く、身体の奥底から潤いと、森林の奥深くのような清らかな空気を纏った気がした。ここは実際に森林の奥深くであるのだが、現実的で現状的な話では無く、自然と一体になったような錯覚が、お茶という存在には隠れている。
オリヴィエもそれに倣い、温く苦い緑の液体に口を着けた。飲んでみると案外嫌いな味では無かったらしく、彼女は可愛らしい笑顔を浮かべ、無邪気に二口目を啜った。
「お前はリヴィエル、そんでもってシルヴィアの娘だ。体が弱いってことは無さそうだが……腹に必要以上の手を加えるのは、俺は反対だな。入れちゃだめって事も無いんだろうが――と言うか、あんたは小さいから元々腹にも入れる予定だったんだが――なんて言うか、メインを腹に移すのは、推奨しかねる」
煮え切らない言葉で、やんわりと拒否を示す。
無理、ということは無いのだろう。祖母や母の肉体が弱くとも、オリヴィエにまでその兆候は表れていない。だが、何を火種に体を壊すかは、神よりも気まぐれに意図せず襲いかかり、その者の人生を狂わせ、掻っ攫って行くものである。
病床に臥す、現王しかり。
「アレクシス――祖父の無駄に元気な肉体を持ってしても、生まれたシルヴィア姫はあんなだった。結界魔法の刺青を入れるには、最低でも三日もかかるし、身体に不可もかける。単なる装飾なら兎も角、《刺青師》が彫る刺青ってのは、魔法っていうある種の装置、異物を肉体に埋め込む作業なんだ。勿論、危険の無いように発明されたプロセスではあるだが、どんなリスクを伴うかは未知数。あんまり冒険すんのも、考えモンだと思うけどね、俺は」
危険は、無いだろう。だが、心配が増すのは道理。腹と言う場所のすぐ下には、生命維持に不可欠な内臓が詰まっている。手元が狂って傷付けるような事があれば、それこそ大惨事だ。
決して背中側が楽ということは無いのだが、ケイネの独特な彫り方ならば腹だろうが背中だろうが顔だろうが、全体問題は無いのだろうが、それでも、やはり。
(……女性の腹全体に結界魔法を入れるのは……やっぱ、ナシだな)
ワンポイント、と言うならば兎も角、肉体全体を必要とする刺青の中心を、腹に据えるのはよろしくない。オリヴィエがどうしてもと言うのなら、ケイネも考えないではないが、その理由が巫山戯たものであれば、依頼そのものを断る事も視野に入れるべき事実であることには変わりないだろう。
理由は簡単。ケイネ自身が、やりたくないから、である。
オリヴィエは、姫という名をかなぐり捨てたような間抜けた顔で――それでも素材が良いので、大変可愛らしいのだが、些か幼く見えるのが難点――しばし視線を外した。何を考えているかなど、ケイネに総て理解しきることは出来ない。ましてや、唐突に頬を染め、「ふふふ」と幸せ全開と言わんばかりの嬉しそうな声音で微笑むような考え事を、ケイネに思い至れと言う方が無理難題と言えよう。
「解りました。ケイネさ――ん、に、総て、お任せします。刺青の確認は、後日姿見を駆使して行わせていただきますね」
「……gutes Kind. 任されたからには、全力を尽くす」
「はい!」
「じゃ、次の条件だが――」
あからさまに、オリヴィエは肩を落とした。
「……まだ、あるのですか……」
震えた息を吐きながら、オリヴィエは胸を押さえて体を前傾にした。当然ながら、彼女はケイネの言葉に一喜一憂しているのだ。条件を飲めなければ、オリヴィエはその時点で、先程得た筈の至上の幸福をかなぐり捨てなくてはならないのだから。
その辺、ケイネはオリヴィエの心持を理解してはいないし、理解する気も無い。
彼は我儘を通しているだけで、しかも、
「その代わり、条件を総て呑むなら、報酬は無料でも構わないさ」
幾許か方向性のずれた、代償を支払う余裕もある。
オリヴィエの心配はそこでは無い。
「安心しろよ。多分これが最後の条件だから」
オリヴィエの瞳が、光を浴びた宝石のように煌めいた。
「本当ですか!?」
「多分つったろ……」
目に見えるオリヴィエの変化をケイネが呆れたように諌めるが、それでもオリヴィエの緩んだ頬は締まらない。
ケイネはしっかりと溜息を吐いて、一気に背筋の伸びた彼女の額を、態々身を乗り出して、中指で打ちつけた。加減はしたので、それほどの威力は無い筈である。
「ひやう!!」
加減はしたので、それほどの威力は無い筈である。
「最後だったとしても、それがあんたにとって鬼門の可能性もあるだろ。そのルンルンハッピーオーラやめろ。馬鹿っぽいぞ」
「ば、馬鹿って言った方が馬鹿なんですよ!?」
加減されたデコピンを受けた額を片手で押さえつつ、逆の手を机の上で拳にし、吊られた眉でキリリとオリヴィエは言い返す。
二の句を継げない――と言うよりも、二の句を継ごうとしないケイネを見て、オリヴィエはケイネに対する初の勝利の顔を見た気がしたのだろう。徐々に瞳からは真剣やちょっとした恨み辛みといった物では無く、初めてケイネを黙らせることに成功した優越感と達成感が顔を覗かせ始める。
オリヴィエは底抜けに正直者だった。
それは彼女がケイネに心を開いているからなのか、それとも誰にでも心を開くのかはわからない。
だが一つ確実なのは、拗ねた子供のような言葉で負けるほど、ケイネは甘くない、という事だ。
「お前曰く『馬鹿』に依頼を頼むお前は、『それ以上の馬鹿』ということだろう」
「……えっ?……ぇえ?」
「そうだな……『俺は莫迦だからぁー、刺青なんて入れられませーん。依頼なんて受けられませーん』」
「へっ!?えっちょっウェラっケイネ様!?」
失言に顔を青くして身を乗り出すオリヴィエに、ケイネは冷たく「『さん』」と注意を入れる。
「ケイネしゃん!」
「舌足らず」
彼女の必死の呼びかけを撃ち落とすと、一秒程度の間を置いて、澄ましたような顔を貫いていたケイネが、ふっと小さく吹き出した。くつくつと笑い始めるケイネを見て、オリヴィエはやっと弄ばれた事を知る。怒りよりも安堵が浮かぶのは、彼女の人の良さか、それともケイネの性格を諦観しているのか。
「あはっ、あっははは!おかしい!あー、良いわ。俺結構あんたの事好きだよ、オリヴィア」
「それは――」
たっぷり五秒程、ケイネの愉しげな笑い声を聞きながら、オリヴィエは停止した。
次の瞬間、一気に頭部へと血液が逆流する。真っ赤に染まった顔を隠すことすら忘れ、彼女は潤んだ瞳と動転した感情でケイネに詰めよった。
「へっふえっ!?すすすすす、き、って!?えっ!?は!!??」
「動揺しすぎだろ。そのまんま。あんたは可愛いよ、オリヴィエ。――良い、王さまになる」
交渉や駆け引きを行える、彼女にのみ跪くような右腕がいれば、オリヴィエは、祖父にも負けない平安の象徴になる。
ただの、根拠の無いケイネの勘だった。
けれど、そう思わせるだけの何かが、オリヴィエの中に確かにあるのだ。名君になるかは解らない。世を巧く動かすことが出来るのか、他国に責められた時、見事な采配を見せるのか、そんなことは解らない。そろそろ老後と言えなくも無いケイネには興味の無いところだし、どうでもいい話である。
だが、彼女は恐らく、平和の象徴となるだろう。
彼女の人柄にはそれだけの魅力があり、祖母から受け継いだ美しい外見は、誰からも愛されるような引力に満ちている。
だからこそ、最後の条件――それを受け入れられないのであれば、ケイネが彼女の背を彫ることは、決して無い。
ケイネの笑いが収まり、瞳の色が変わったことを、オリヴィエは確りと察知する。微々たる浮かれは残っているものの、それでも彼女の表情は真剣だ。
視線が合うと頬に朱が差したが、彼女の意識は、確かにケイネの言葉に向けられていた。
三本の指を立てて、ケイネは自身の顔の前に掲げる。
「自分の身を護るって点では、何よりお前が一番気をつけなきゃならないことだ。俺は、お前の背に刺青を入れる。その代わり――
オリヴィエ、お前は絶対に、その刺青を他者に見られるような事があっては、ならない」
その刺青は、恐らく全身に及ぶ。
現王は即位時のセレモニーで、半裸になってその背の刺青を民に示すのが習わしであるが、オリヴィエは女性だ。いくら通例とはいえ、女性を脱がせるような愚物はいないだろう。
現王が死して、なお続く恩恵を知覚した時、民はオリヴィエの背に穿たれた傷痕に跪く。
「もし理由が必要なら、ダサいから見せたくないとだけ言っておけ。誰にも――あぁ、現王は良いか。昔俺が刺青入れたし。現王以外の誰にも、その背の刺青を見せてはならない。ウェラートが入れたと、気付かせてはならない。――理由はもう、言わなくても良いよな」
ウェラート・エングストランドの刺青は、羨望であり、自慢であり――兇悪で猛烈な毒となる。
好きだと言うものが、ただ好意だけで済むとは限らない。
想いの限界を超えた先は、皆同じ。理解されない暴挙であり、許され難い凶行だ。
「もしお前が最後の約束を破った時は――」
ウェラートの狂信者、『皮剥』に見つかった時は。
「――俺が、お前の刺青を剥ぐ」
一瞬の恐怖の色。
凪いだ瞳でオリヴィエと視線を交え、ケイネは淡々と、覚悟を伴った真剣な声音で彼女の覚悟を確かめた。
暗い光に揺蕩う瞳は、深い恐怖と悲嘆を織り交ぜ、けれどそれを包み込む、強い覚悟の下。
オリヴィエはその瞳を逸らさずに、確りとケイネの瞳を見返した。
「ケイネさんの、御心のままに」
ふ、と。
ケイネは息を吐き出し、
「俺はお前の神じゃねーよ」
明るい瞳を陽に煌めかせ、口の端を、意地悪そうに持ち上げた。