08皮剥と女心
「隣、良いかい?」
その男は、大勢で賑わっていた輪から抜け、カウンターで煙草を吹かすケイネに話しかけてきた。
綺麗な金髪に、健康的な白い肌。顔にはいくつかの傷跡がああるが、刺青は無い。むき出しの腕にも模様も文様も無く、その変わり、ケイネの太股ほどの筋肉が、彼の腕には備わっていた。
まるで巨人と小人である。懇意にしていたマスターは吹き出し、言外にケイネを揶揄った。懇意にはしていたが、彼はケイネがウェラートであることを知らない。ケイネは最近瞳の下に刺青を入れ、近寄ってくる人間総てを精査していることにしていたのだが、マスターの男は何分口が軽く、付き合いやすいが秘密の共有は出来ないタイプだったのだ。
「別に良いが、俺の隣に居ても、女は寄ってこないぞ」
目深に被ったフード。男にしては高くも無いが低くも無い身長。ただ見える四肢は細く、襤褸いローブに隠れた腰も心許無い。少年と言う体で女性を釣ることは可能だが、ケイネはそれほど女体と言う物にも興味が無かった。
と言うか、師匠と言う名の反面教師が女好きで何人も囲っていたため、ケイネにとっての女性とは、一種のトラウマなのである。興味の問題で無く、恐怖。きっと自身は一生女性関係を持てないのだろうな。だがそれも構わないと思うほどの思考に、ケイネは自身の男としての性を危惧していた。
男は豪快にがははと大口を開いて笑い、その顔に、人懐っこい笑顔を浮かべて、ケイネの背をバシバシと二回叩く。
「いたっいっっった!!!」
「女が欲しいなら、歓楽街に行くわ!こう見えても、オレ様は結構モテるからなぁ!」
「そ、そうかい……次俺を叩いたら、煙草の火押し付けるから覚悟しとけ……」
若干席を離して、店員に酒を頼む。その日入った、一番いい物を一杯だけ飲むのが、公の場に現れる事の許されない、その頃のケイネの数少ない楽しみであった。
数ヶ月前、奇妙で残虐な死体が街の路地から発見された。
発見を遅らせるような細工は無く、金品の盗難も無い、ただ、右腕の肩から肘にかけてが削ぎ落され、それだけが、どこからも発見されないという、前代未聞の事件だった。
「…………」
犯人は不明。手口は兎に角残忍。
鋸で肉を削いだ痕跡のある者や、薄手のナイフで皮だけを剥がれた者、剣や刀のように肉をスパンと綺麗な断面で削いがれた者、被害者にも様々だが、幸い、死者は最初の一人に留まっていた。
否、幸いなどでは、無いだろう。
最初の男は先ず仕留められ、その後肉を削がれたらしい。その場合、肉を削ぐ痛みは、彼には無かったということだ。だが、他の人々は、肉を、皮を切りつけられる痛みに耐え、そして苦痛と恐怖の中、必死に生還した者たちだ。
ウェラートが、刺青を彫ったばかりに起こった、悲劇である。
彼らは何故か、ウェラートの刺青だけを持ち帰っているらしい。他の《刺青師》が入れた刺青には目もくれず、それだけを剥いで持ち帰る。
最初は、彼の才能を妬む同業者の説が提唱されていた。
そういった人間は意外に多かった。自身を高める努力を忘れ、他を蹴落として自身の位が高まったという誤った妄想に耽る莫迦共が。
だが、生存者はいくらでもいる。彼らは犯人の顔こそ見無かったが、必ず狂った笑い声を聞いたらしい。
『ウェラート・エングストランド様の作品は、私だけの物――!!』
(……熱烈ラブコール……変質者め……)
熱狂的と言うか、最早狂暴としか例えようの無い存在は、ウェラートの崇拝者だと言う。ケイネにとっては酷い風評被害だが、一番の被害者は、ウェラートの刺青を入れ、尚且つ肉や皮を剥がれた者たちに他ならない。
小さく溜息を吐きつつ、ケイネはちびちびと、強い酒を舐める様に味わった。
「あんたはこの辺の人じゃなさそうだ」
隣の男は、見るからに怪しいケイネに、屈託なく話しかける。
「あんたこそ、この辺にいて良い人じゃなさそうだ」
ケイネもそれに応じ、フードの奥から怪しく光る赤紫の瞳を彼へと向ける。
暫しの間見つめ合い、やがて男が拳をケイネの顔の辺りで掲げるので、ケイネはその拳に、己の拳を軽く寄せた。
「オレはアレクシス。お前さんは?」
極太の右腕を差し出され、ケイネは握手を求められる。
だが、ケイネはその手を取らない。
「俺はケイネ。悪いが握手は遠慮させてもらう。商売道具を潰されたらたまんないからな」
「そんなことしねーよ!加減くらいできらぁ!」
「いった!!schmerzhaft!!Hör auf――止めろ!!縮む縮む止めろやめろばかこの怪力筋肉馬鹿!!」
酒場で出会って意気投合。
それが、ウェラート・ケイネ・エングストランドと、アレクシス・スペンサー・ジェフ・プロウライトとの、出会いであった――
□■□
一つ白状するなら、ウェラートの作品を持つ者は、決して現王ただ一人では無い。生存者二十二名の内にも未だに黒一色の刺青を持つ者はいるし、何より、ウェラート――ケイネは基本、大衆的な物では無く、個人定期な依頼を受ける事の方が多かった。『ただ刺青を入れたい客』では無く、師匠の許へ訪れた客や、ケイネの人柄を見込んでの商売。そこには客からの信頼があり、ケイネからも客を信頼することができた。
彼らはケイネの刺青を自慢の種にすることは無く、必要だから腕の良いケイネに頼む。解り易い基準と、そしてケイネに対する信頼からくる依頼。駆けだし《刺青師》であったケイネにとっては、それが至高の宝であり、今でも彼らとの交流は欠かしていない。
『皮剥ぎ』出現以降、元々刺青を自慢の種にするような人間では無かったケイネの客たちには、より一層用心するように言い含めていた。
愚かしい狂信者が現れようとも、誰にも刺青の存在を知られなければ、それがウェラートのものであると発覚することは無い。例え刺青を入れていることが悟られたとしても、ウェラートの物であるという発想はそうそう起こらない。
世の中に自身の刺青を隠す者は、意外に多いのだ。意匠が気に食わないとか、服で隠れるから態々見せる物でも無いとか、旦那以外に見せる気は無いとか。一風変わった人間は意外に多く、それは最早、一風変わったと言うより、ある種の常識として世間に浸透していた。
態々隠す者の刺青を見ようとする方が不躾で、マナー違反。故に、この地上には、案外誰にも知られていないウェラートの作品が、数多く現存する。だが、それを態々この少女に伝える必要もまた、無い。彼らはひっそりと自身と作品を守り続けているというのに、作品の親であるケイネが、それをバラすなど言語道断であり、彼らに対する裏切りなのだから。
「一応聞いておくが、現王の病が、人為的な物だって可能性はあるのか?」
ケイネの問いに、オリヴィエは即答で首を振った。
「あり得ません。お爺様は花粉症からのぎっくり腰、そこに風邪を拾ってしまったが故の呼吸困難ではありますが、どれもありふれたものになりますから」
「……滑稽だな」
「王と言えど、人ですから」
「…………」
オリヴィエの言う事は最もである。が、ケイネにはどうしても、花粉症とぎっくり腰は兎も角、アレクセス王が風邪を引くような人間とは思えなかった。
人は年を取る。ケイネは時間を止められた人間だが、アレクシスは元々刺青と言う物を好いてはいなかった男だ。彼にあるのは、この国を護るための、結界魔法のみ。いくら鍛えぬいた肉体を持っていたとしても、ケイネが最後に立ち寄った城下の祭で拝見して以来、軽く十年は越えている。彼が老いるのは仕方の無いことだと言えたし、当然だと言える。
だが、彼が風邪を引いて呼吸困難など――花粉症に因るところが大きいのだろうが――ケイネにはどうにも信じられなかった。
(無病息災、健康第一、体力馬鹿の筋肉馬鹿。……『頭は悪いが、そのおかげで風邪を引いたことは一度も無い』なんて豪語する人間が、老い程度で風邪なんか疲労もんかね……)
ある種の買い被りとも言えるであろう信頼が、ケイネの感じる違和感の大部分を占める。
人は、いずれ必ず死ぬし。
だからケイネは、彼が死んだと言われても驚かないが、風邪と言われては、まさかと思わざるを得ない。
「……」
しかし、孫娘であり、恐らく彼の一番近くに居るであろうオリヴィエの証言に、偽りがあるとも思えない。と言うより、ケイネの左目が偽証を感知しない。それはつまり、オリヴィエが今回の出来事を、正しくそう解しているから、なのだろう。
ならば、ケイネが変に荒立てるのは得策とは言い難い。
臥せっているとはいえ、王は王。彼の周りには当然屈強な守護が敷かれている筈である。現時点で唯一なる強固な結界を破られる訳にも、王を失う訳にもいかないからだ。
「……じゃあ、アレクシス――王のことは良い。次だ。これからあんたに、俺はいくつかの注文をつける。できないことに頷くな。頷いたからには確実にこなせ。それが、俺がオリヴィエに刺青を入れる条件であり、お前の身を護る事に繋がるから――」
それが、満たさなくてはならない一定の基準。
王として民を護るために。そして、人間として、自身を護るために。
「心して覚悟を決めてくれ――って、おい、なんだその顔」
ケイネが真剣にオリヴィエに向き合っていると――対するオリヴィエの反応は、酷く辛い物だった。
ケイネは特に、自身と同じ態度を強要する人間では無い。ケイネ自身の態度が悪いということもあるが、重要度と言うものは、人それぞれの価値基準の中に在る。自身と同じ物差しで測れと言われて、その物差しを瞬間的に用意出来る人間の方が少ないからだ。
態度が悪いのは、良い。
だが、容赦の無いオリヴィエの『驚愕』の視線は、流石に温和なケイネも、眉を顰めざるを得ないものである。
オリヴィエはケイネの指摘に「すみません生まれつきです」と返す。そう言う意味では無いと返す前に彼女は自身の頬を叩き、それが思いの外強烈だったらしく、眦に涙を浮かべながら、「はい!」と眉を上げて真剣な表情を作った。声は若干、震えている。
「申し訳ありません!まさかケイネ様に――ウェラート様に、わたくしの命に対して慮っていただけるとは思わず、幸福と驚愕の夢現を揺蕩ってしまいました!」
そこまで言い切ると、オリヴィエは徐々に表情をふやかせ、最終的に顔を覆って「ウェラート様が……」と真っ赤になって泣きだしてしまう始末である。手の甲まで真っ赤になっているのは相当だ。
ケイネは難しい顔で押し黙り、皺を解すように自身の眉間を揉む。『皮剥』や別件からウェラート・エングストランドのファンという生き物に耐性を持ったつもりではいたが、ケイネにはどうにもついていけない領域である。
彼には何かを狂信するような強い思いは無いし、そんな経験も、若さも元気も、元より持ち合わせてなどいないのだ。
一度大きく息を吐き出し、湯呑に淹れた、冷め始めた緑茶を飲んだ。
「話を進める前に、一個」
恐らく周囲の確認など出来ないであろうオリヴィエに、ケイネは人差し指を立てて示す。視覚情報を処理する余裕はないが、声はなんとか聞こえているらしい。オリヴィエはそのままの状態でこくんと小さく頷き、何も言わずにケイネの言葉を待った。
「……今後、一切、俺のことを絶対に、ウェラートと呼ぶな。様もだめ。『ケイネさん』で統一しろ」
「…………がんばりまふ……」
ぐずぐずとした返事で、それでもオリヴィエは決意を示す。だが、その言葉をケイネはばっさりと切り捨てた。
「nutzlos『ハイ』『Yes』『Ja』以外の肯定は却下だ。俺が何でこんなとこに身を隠してると思う?ケイネじゃなくて、『ウェラート・エングストランド』の名で五十年前活動してたと思う?俺とウェラートの関係性を一切隠す為だ」
と言っても、殆どが本名なのだが、ケイネはそこはを意図的に避けて会話を進める。
「こっからが一つ目の条件だ。『オリヴィエはウェラートを見つけられなかった。探しに行った山の中で出会った《刺青師》の腕を見込んで、そいつに刺青を依頼した』――経緯はこうだ。いいな?」
「え……?」
オリヴィエがきょとんと呆けた。顔を覆っていた手が取り払われ、潤んだ瞳はぽかんと疑問に彩られている。
彼女の準備が整うのを待たず言葉を発したのはケイネである。その意識は在ったので、捲し立てるようだった言葉を一度押しこみ、咳払いをして、一つ一つ彼女に納得させるように、説明を加えていった。
「ウェラートに生きていられると、俺が困る。だからお前は、『ウェラートを見つけていない』これは大前提。これを了承できないのであれば――って、俺が出す条件は全部受け入れて貰わないと困るんだが――兎に角、お前は『ウェラートを見つけられなかった』し、『ウェラートになんて会っていない』。そういうことだ」
ウェラート・エングストランドが生きている。生きていて、この辺鄙な山奥に住んでいる。
その噂は、毒にしかならない。例えケイネが場所を移そうとも、噂が広まる限り、信憑性に関わらず少なくない人が訪れるのは明白。麓は兎も角、中腹の村では、再度ウェラートを求める者に非道を行われるかもしれない危険もある。それだけは、絶対に避けなければならないのだ。
彼らは何も悪くない。
彼らは、ケイネにとっての家族なのだから。
「はい」
居住まいを正し、オリヴィエは真剣な表情で頷いた。
「承りました」
刺青を入れるためではない。ケイネの言葉を理解し、己が良いと判断した故の了承だった。
暫しの間、視線を合わせて意識を共有する。
金と赤紫が宙で融け、透明な空気を灼くかのよう。
熱にならない冷静な視線が心地良く、ケイネは淡々とその瞳を見詰めた。だが、次第に融点の高い金の瞳は泳ぎ、最終的に融解した。何度目かの真っ赤な顔だ。最早それが彼女の基本色であると言われても、ケイネは何ら疑いはしないだろう。
瞳を覆う瞼、そして瞼を覆う掌は、当然のように本人の、オリヴィエのものである。
「な、なな、なんで見つめ返すんですかぁ!」
「……あんた、王になるんだぞ?この程度で照れてたら、パレードとかどーすんだよ……」
「ウェラ……ケイネさ、んだからですう!!」
「俺のせいかぁ?」
冤罪である。ケイネは発音で非難するが、オリヴィエは貴族らしからぬはしゃぎっぷりで「お話の続きを!」と促した。
彼女の言葉が正しい。
罪の所在よりも、今はそちらが先決である。
話の切れ方が中途半端で申し訳ないです。
現王さんはアレクシスという名で豪快で無駄に元気な花粉症男です。ケイネさんは村と山以外では襤褸いローブ装備です。フードも被ります。不審者です。