えいぎゃかん・・・②
「……なあ、なかが……楓は映画のときって何か食べる派?食べない派?」
「……食べない人がいりゅ、いるの?」
「ああ、時々いるんだよ。……まあそれは置いといて、買いに行くか」
相変わらずな楓をくっつけて、相変わらずなフロアを横切る。目指すのは売店。一階下の自動販売機の方が安いが、それは野暮だろう。
「……いらっしゃいませー」
「……あーっと、じゃあ、ゆずレモンソーダと、ポップコーンのMで」
「……そちらのお客様は?」
話の矛先と視線が向かったのは、俺の後ろから身体を半分だけ出した楓。店員のにこやかな営業スマイルに対して楓の反応は、小刻みに震えることだった。
「……あ、う、あ、ううう……」
「っと、すいません。極度の人見知りで……」
高校生に怯えられてしまった女性店員に謝罪とフォローをして、俯いた楓を振り返る。案の定、瞳が潤んでいた。まったく、子供か。面倒なことだ。
「まったく、ほら、落ち着けって。ゆっくり息吸って」
別にそこまでする必要も無いだろうが、ここで対処を誤れば泣き出す可能性もある。それは何としてでも避けたい。
何とか指示通りに深呼吸しだしたことを確かめてから、ゆっくりと聞く。
「……で、何飲む?ポップコーンは大きめの頼んだから分ければ良いだろ」
「……分きゃ、分かった。……ラズベリーソーダがいい」
「分かった。大丈夫か?」
「……もう、大丈びゅ、大丈夫」
なんとも大丈夫じゃなさそうな返答を受けて、店員に向き直った。苦笑いの店員に、再度謝罪を交えて注文を伝え、ほっと胸を撫で下ろす。そして、肩に乗った二つの掌の理由を問うべく、再び背後を振り返った――――――
――――至近距離で、目があった。
「……へ?……」
人間の脳は、突然の出来事があったとき、処理速度を上げるどころか停止するらしい。鼻が触れ合いそうというか現に俺の鼻の右側に触れているのはきっと楓の鼻だから、エスキモーの挨拶と化したこの状況でどう動くべきかまったく分からない。右側を睨みつけるような目のままで楓と視線を絡め続けること約三十秒、俺と楓がとっさに飛びのいた。
「……おうわぁ!?わ、悪い!」
「……ご、ごみぇ、ごめん!……うううううう……」
「お待たせしましたー」
何と言う奇跡的なタイミング、感謝感激雨霰。とりあえず俺の分の飲み物と、共用にしたポップコーンを受け取り、楓を促す。顔を上げずに飲み物を抱え込む、という器用な真似をやってのけた楓が、ここ数十分で定位置と化してしまった俺の斜め後ろに戻るのを目の端で捕らえた跡、色々と戸惑わせてしまったであろう店員に会釈して入場口へと歩を進めた。おそらく来るであろう楓の文句に対する返事を考えながら。
「……うううう……にゃ、何するのさ、変態」
「……返す言葉もございません」
「……何でいきにゃ、いきなり振り向いたの?」
「ああ、何で肩に手が乗ってるのかと思ってさ。まさかあんな近くに楓がいるとは思わなかった。悪かった。……で、なんであんな近くにいたんだ?」
「……ごまきゃ、ごまかしてもだめ」
「どっちかといえばごまかしてんのは楓じゃないか?」
「……言いわきぇ、言い訳は聞かない」
「どこをどう取ったら言い訳になるんだよ……で、なんでだ?」
「……話を逸らしゃ、逸らさない」
「……はいはい、しょうがないからこれ以上の追求はしないよ」
「……えらいえりゃ、えらい」
飲み物を零さないにしながら、少し背伸びした楓が俺の頭を撫でてくる。これ、男がやられてもちょっと悔しいだけだな。
「一旦劇場の外に出る場合は、半券をお持ちであれば再入場が可能です。無くされると入れませんので、お気をつけください」
お決まりの注意を聞き流しつつ、半券に書かれた劇場へと進む。開始時間までまだ五分以上あるが、斜め後ろから急かすようなオーラが突き刺さっている。それを無視していたら、ついに楓が俺より前を歩いた。
「……響、はやきゅ、早く」
今にもスキップしだしそうな様子の楓に、初めて子供が立ったときの親みたいな感慨を抱きながら、これまた親のように注意する。
「そんなに焦ったって映画が始まるのは五分後だし、ゆっくりでも大丈夫だろ」
ただし、楓はそこまで聞き分けが良くないらしい。いかにも見たくてしょうがありません、という雰囲気を醸し出しながら、俺の二歩前を突き進んでいく。まあ、ギリギリに滑り込むよりはマシだろうか。
楓の先導で入り込んだ映画館は、俺たちよりも前からいるのであろう、同じく高校生くらいの女子数人しかいなかった。まあ、もう少しいてもおかしくないのだろうが、この映画館の経営事情に興味は無い。
「……席はこきょ、ここ」
楓が指し示した椅子は確かに俺たちの半券に記された番号。椅子のホルダーにプラスチックコップをはめ込み、ポップコーンを抱えて座った。
「……いよいよ、だにぇ、だね」
「そんなに楽しみだったのか?」
「……漫画がしゅ、好きだから。キャストはまあまあだけど」
キャストにまでこだわるとは、思い入れがあるんだな。だからあんなに急かしたり楽しそうだったりしたわけか。
宣伝を流していたスクリーンが一度消え、明るかった照明がぎりぎりまで絞られる。現れたビデオカメラ頭の不審者とパトランプ頭の警察とのコントで大音響に耳を鳴らしながら、俺は椅子の背もたれに深く体を預けた。
すっと伸びてきた柔らかい掌が、俺の腕を握った。
余命一ヶ月を宣告された少女が、同じく入院中の少年と出会う……なんてありきたりな導入部に不覚にも釘付けになっていた俺は、それにびくりと体を震わせてしまった。慌てて飛びのいた掌は、もう一度、今度はそろそろと探るように伸びてくる。
しばらくそれを観察していた俺は、ようやくそれがポップコーンを求めての行動だと気づいた。ふらふらと頼りなく蠢くその手首を軽く掴んで、ポップコーンの入れ物まで誘導する。驚いたように少し震えた手も、ポップコーンを五つほど取って引っ込んだ。
まあ、言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず一つ。そこまで集中するのか。
五分に一度ほど、ポップコーンを求めた腕が伸びてくるのを除けば、特に何が起こるわけでもなく映画は進んだ。少女と少年が出会い、仲を深めていき、そして少年の方が告白する。その台詞は思い返すと悪い意味でゾクゾクするから忘却の彼方へ。かっこよかったかと聞かれればイエスかもしれないけども。
閑話休題。告白に対して自分の境遇と余命という違う意味の告白で返した少女が駆け去ったところで場面は変わり、少女の病室へ。
画面から目を離さずにプラスチックコップのストローを吸ったところで、中身が空になっていたことに気づいた。ただ、ポップコーンのせいか無性に喉が渇く。一度出て、飲み物を買ってくるべきか?けれど、時間からして後三十分も無い。一番小さいサイズだとしても、もったいないだろう。
ふと横の楓に目をやると、飲み物はまだ半分以上残っている。俺以上に見入っているせいだろうか。これくらいなら、少し貰っても大丈夫だろうな。
「楓、飲み物少しくれ」
申し訳なさに心の中で頭を下げながら、楓の肩をつつく。俺と同じように集中していたのだろう、大げさなほど跳ねた肩の少し上で、楓が不満そうにこっちを見ていた。
現在スクリーンでは少女がどんどん衰弱しており、クライマックスに向けて加速し始めている。確かに、ここで中断されるのはいい気分ではないだろう。
が、俺とて切羽詰っているのだ。もう声をかけてしまった以上、すぐにでも用件を伝えて解決するのが上策だろう。
「悪い、飲み物少しくれ」
楓とてさっさと済ませたいのだろう、反対側のホルダーに入れていたプラスチックコップを猛然と押し付けると、首がおかしくなるんじゃないかと危惧するほどの速さでスクリーンへと視線を戻した。迷惑にならない程度の量をいただき、手元のホルダーに戻そうとしたところで、楓と目が合った。
熟れたトマトを超越するのではないかと思うほど真っ赤な顔をした楓が、俺の顔から手元のコップへと視線を移したかと思いきやひったくっていった。なんだ、そんなに喉が渇いたのか。
と思ったものの、当の本人に飲む意思は無いらしく、握り潰さんばかりに保持したストローの先端を凝視……いや、スクリーンと交互に見ている。何かあっただろうか。
もう少し観察して答えを見つけたかったが、映画も佳境に差し掛かり、あまり視線を逸らし続けるわけにも行かない。湧き上がった疑問は一旦脳の片隅へと押しやり、ついには人工呼吸器をつけられてしまった少女へと視線を戻した。
少女が瀕死になってようやく、少年は少女の病室を訪れる。真夜中、自身の病室を抜け出して少女に会いに来た少年の目の前で――――――
不意に、肘掛に置いた手が柔らかい掌に握られた。先程とは違い、俺の掌の上から包み込むような握り方。どう考えても意図的だ。そして軽く力を込めてきた。まあ確かに、あまりハッピーとは言いがたいシーンだ。とっさに誰かの手を握りたくなるかどうかはさておき。それを振り払う気も必要も無いので握られるがままにして、せめてもの抵抗にエピローグへと突入したスクリーンへ向かって盛大にため息をついた。
スクリーンがブラックアウトし、照明が明るさを取り戻す。だというのに、俺の右手はいまだ解放されないままだ。改めて状況を確認しても、顔に熱が上るばかりで有効な打開策は提示されない。このままだと茹で上がることも視野に入れるべきではないだろうか。
そこまで悶々としたとき、ようやく楓がこちらを向いた。少し潤んだ瞳で俺の顔を凝視し、次いで握り締められた手に目を向ける。そして、ぼっと音がしそうなほどの勢いで赤くなった。
「……な、あ、う、や、ふゅ、う、うううう……」
「……とりあえず、離してくれないか?」
俺には理解不能な言語を話す楓にやんわりと要求を告げれば、飛び退るように体ごと飛び退く。そんなに驚くなんて、無自覚だったのか?だとしても映画が終わった時点で気がつきそうなものだが。そうでもないのか。
「……ううう、ご、ごみぇ、ごみぇ……ごめん」
よほどパニックに陥っているのだろう、いつにも増して噛んでいる。まあとりあえず手は離してくれたから、フォローもかねて帰るか。
「……いや、別に良いよ。それより、帰れるか?」
もうすでに同年代の女子もいなくなり、劇場には俺と楓の二人だけだ。まとめるような荷物は持ってきてはいないから、空になったプラスチックコップとポップコーンの容器を抱えて劇場を出た。
「ありがとうございましたー」
入り口付近で待機していたらしい係員にごみを渡し、階下へと降りる。ここまで無言。ただこのままの空気で家に戻れば香苗にからかわれるだろう。意を決して口を開いた。
「……ねぇ」
「……なあ」
まったくの同時。重なり合って響いたお互いの声にますますの気まずさを覚えつつ、止まることなく言葉を繋ぐ。
「……そっちきゃ、からでいいよ」
「……そっちからどうぞ」
今度も同時。いや、楓の方が長い分目立ったか。そんなものは些細なことでしかないが。
とりあえずベタな展開はここまでにして、一息つく。今度こそ重なることが無いように楓の様子を窺って、口を開く様子が無いことを確認してから話を切り出した。
「……面白かったな」
「……うん。でも漫画とちょっとちぎゃ、違った」
「そうなのか?」
「……そう。話のつにゃ、つながり方とか。ところどころ削られてた」
「まあ、それは二時間に収めるためにはしょうがないんじゃないか?」
「……それもしょ、そうかもしれないね」
会話が無事つながったことに、そっと胸を撫で下ろす。これが三度目の正直という奴か。それにしては少し小さなできごとか。まあそういうことにしておこう。
螺旋状にエスカレーターを下って、一階を目指す。時刻は一時を回った辺り。
「……なあ楓、どっかで昼飯食って帰るか?」
おそらく、帰っても昼飯はあるまい。香苗が昼飯を作り始めるのはいつも決まって十二時半頃。その時刻までに家に帰るか、昼飯を家で食べると連絡しなければ香苗は昼飯を作らない。家族の誰もが家にいる時間が不規則なため、香苗の負担を少しでも減らすべく考え出されたルールだ。
「……響がしょ、それでいいなら」
「んじゃ、一階に何かあったはずだから、そこでいいか?」
「……文句はにゃ、無いよ」
そんなこんなで、夏休みは飛ぶように去って行く。