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えいぎゃかん…①

 結局訂正することは叶わず、突然の叫びを父さんに理不尽に咎められ、その理由を香苗にからかわれ、騒ぎを聞きつけた母さんがタウンページを頭上に掲げて現れたところで二人ともそ知らぬ顔で去って行き……耳が痛くなるほどの沈黙が降りた玄関前。気づけば十時二十分だった。

 一宮さんたちを引き止めて、訂正がてらベッドの移動を手伝ってもらえばよかったことに気づき頭を抱える俺の耳に、微かな足音が届いた。

 ぱたぱたと近づいてくるその音の主は、おそらく楓だろうか。父さんは書斎に逃走したし、母さんはそれを追って行ったし、香苗も洗濯物を抱えて、おそらく庭の物干し竿に干しに行ったのだろう。つまり、楓じゃなければ不法侵入者か足のある化け物か。真面目に考えれば楓以外ありえないわけだ。迷っていると困るので、抱えていた頭を元の位置に戻して、足音のする方へと角を曲がった。

 そこにいた人物を見て、俺は呆然と立ち尽くした。

 不法侵入者だった……とかではなく。準備を終えたのだろう、少し外向きの格好をした楓が、申し訳なさそうに立っていただけだ。ただ、それだけ。

 それでも、昨日今日で見た楓とは違う。外出用の格好なのだろう、制服や部屋着、パジャマなどとはまったく異なる雰囲気を纏っていた。

「……あ、いちゃ、いた。もう十時半になるきゃら、から、行くんでしょ?」

「……ッ!あ、ああ。そうだな。行くか」

今しがた曲がった角を逆に曲がり、玄関を出る。誰にも言ってないけど、香苗と父さんは知ってるし、大丈夫だろ。

 

 「……えいぎゃかん……ううう……」

家を出た後、映画館への道筋を辿り始めて数分。勢いよく喋り始めた最初の単語で盛大に噛み、楓は顔を真っ赤にして俯いてしまった。俺は不覚にも笑いかけ、何とか堪えながらフォローする。

「……映画館が、どうかしたか?」

「……帰る。一人で行って来ちぇ、きて」

「え!?あ、おい!」

踵を返した楓が、数百メートル先の家へと戻って行く。とはいえ何か用事を思い出したわけではなく、ただ単に今しがたの失敗が恥ずかしいのだろう。単語を噛むなんて、楓が来てから一日半で、もはや数え切れないくらいある。今更だろうに。

「ちょっと、待てって。行くんじゃないのか?」

「……行く、けど帰りゅ、帰る」

「どっちだよ……」

「……行く……かも」

「とりあえず、行くんだな?」

どっちなのか分からない意味不明な言葉を軽く受けながし、意思を確認する。まあ楓も本気で帰る気だったわけではなさそうだったから、おそらく照れ隠しなのだろう。そういえば、昨日も名前呼びのときによく分からないことを言ってたな。どうやら、よく分からない理不尽な文句は楓なりの照れ隠しらしい。なんとまあ面倒なことだ。

 微弱に頷いた楓を引っ張って、今度こそバスに乗った。


 「で?何を見る?」

人混みというにはあまりに閑散としたそこに慣れていないわけでもないだろうに、妙におどおどする楓を引っ張って、大型スーパーの最上階へと上がる。白とピンクを基調とした階下とは違い、濃紺の四方と絞られた照明によって薄暗くなったそこは、平日だからだろう、俺たち以外の客は見受けられなかった。チケット売り場のカウンターで、暇そうに突っ立っていた店員が俺たちに目を留め、目を輝かせながらも訝しげに細めるという芸当をやってのけた。暇すぎて目の周辺が突然変異したのだろうか。まあ、夏休み初日の午前中から映画館にいるような奴は少ないだろうな。クラスの奴らも大体昼まで寝てるらしいし。

「……あっと、これ、使えますよね?」

あくまで愛想よく笑いながら、営業スマイルで疑いの目を隠した店員に父さんのチケットを差し出す。一応楓を誘う前に確認したけど、見落としがあるかもしれない。緊張の一瞬、とまでは行かないが背筋が伸びる。

「……ええ、大丈夫ですよ。現在上映中の映画であれば、当日券と引き換えることができます。……何になさいますか?」

そう聞かれて、ようやく俺は調べてくるべきだったと自分の浅はかさに呆れた。ここで長く悩むのも馬鹿らしいからして、一人で悩むことは最大の失策だろう。

 と、いうわけで。

「……なかが……楓、何がいい?」

素直に楓へ質問する。興味深そうに周囲を見回していた楓は、俺の言葉に飛び上がらんばかりに驚いた。いや、比喩じゃなくて、本当に肩が飛び跳ねていた。

「ふぇ!?……あ、えっと……上から三つ目のやちゅ、やつがいい」

その映画を確認するため、店員の頭上、三つ設置されたモニターへと視線を移す。そのうち中央に位置するモニターに、上映スケジュールが表示されていた。

「真ん中のモニターの奴か?」

「……うん」

白い線で区切られた、上から三つ目。そこに書いてあったのは、絶賛宣伝中の映画だった。

 確か、内容はオーソドックスなラブストーリーだったはずだ。原作が有名な少女マンガか何からしくて、かなり話題になっていた。

 「……じゃあ、それにするか」

別に、他に見たいものがあるわけでもない。何の考えもなくそれを選ぶと、横で聞いていた店員が、さっさと話を進めてきた。

「お席の方は、ご希望がありますでしょうか?現在、他にお客様はいらっしゃらないので、どこでも空席となっておりますが……」

「あー、じゃあ、真ん中の……H‐9、10で」

まあ、人それぞれ持論はあるだろうが、映画館においてもっとも見やすい席は中心の少し前だろう。とりあえず俺はそう信じている。

「はい、それでは上映時間をお確かめの上、お楽しみください」

引き換えた当日券を受け取り、軽く会釈してその場を離れる。言われた通り時刻を確認すると、まだ三十分ほどの猶予があった。

 「どうする?十分前にここに戻ってくるとしても、後二十分あるけど」

とりあえず、ここでのんびりしてるなんて提案は却下な方向で。混んでいるわけではないどころか閑古鳥が鳴いている状況で、三十分も前から準備するなんて愚の骨頂だ。ポップコーンや飲み物を全部揃えても、五分もかからない。残りの二十五分、漫然と座っているだけになってしまう。

「……一階下の、本屋とか見てみちゃい、みたい」

「……ああ、そういえば大きめのがあったな。んじゃ、行ってみるか」


 薄暗い空間からエスカレーターで脱出し、白とピンクに彩られた階下へと戻る。ただし、残念なことに目指す本屋は反対側だった。何気にテンション下がるんだよな、これ。

 「……あれだな。どうする楓、二十分後にエスカレーター前集合で大丈夫か?」

別にカップルとかそういうわけではないから、常に二人で行動する必要もないだろう。それぞれが見たいものを見て、二十分後に映画館へ戻る。これが理想的じゃないか?

「……やだ」

「え?なんで?」

理想的かと思われた提案は、楓の一言によって反論の余地もなく却下された。いや、なんで?別にカップルとかそういうわけ以下略。どこにも不都合はないと思うんだが。何か俺が見落としていたか?

「……こんな人混みに一人はやだ」

人混みといったって目に入る他の客は一人か二人だぞ。ワンフロアの四分の一を占める本屋の中で、これはもうほかの客との遭遇率はゼロに等しいと思うのだが。楓にとっては切実な問題なのだろう。なんたって噛むことを忘れるくらいに真剣に訴えてきている。某ポケットに入る怪物並みの劇的な進化だ。

 とまあそれは置いておいて。

 映画館でチケットを引き換える際も楓は俺の後ろに隠れるようにして立っていた。現在はそれが更に加速して、俺の肩甲骨辺りの服を掴んでいる。予想はしていたがこれほどまでとは。面倒なことだ。

「……分かった分かった。んじゃ、二人で回るか」

そんな様子の楓を突き放してまで自分の意見を押し通す気などさらさらない。渋々といった風を装って、申し出を承諾する。

「……よかった」

思わず、なんて表現が当てはまるような様子で零れた呟き。それは、ぞくりとする背筋とは裏腹に、俺の心へと人肌の雫を一滴落とした。それはじんわりと広がり、全体を温めていく。なんだかよく分からないが、誇らしげな気持ちになれた。

「……で、何を見る?」

「……あっち」

こんどはがちがちに緊張した声で、並んだ本棚の一つ、『少女マンガ』と掲げられたものを指差す。が、目的地は決まっても、この体勢のままでは移動しようもない。

「なあ、なかが……楓、非常に言いにくいんだが……離してくれないか?」

「……あ、ご、ごみぇん!……ううううう……」

慌てて飛び退った楓が大声で謝り、お約束通りに噛む。そして家を出てすぐのときと同じように、赤くなって俯いた。が、「う」の数がさっきより多い。まあ楓の中では『人混み』に分類される環境の中だ、恥ずかしさも上だろう。そしてこれが家を出たときと同じなら、賭けてもいい、次はきっと理不尽な文句が来る。

「……響のばきゃ、ばか」

「いや、俺のせいじゃなくね!?」

「……響はびゃ、ばか」

「なんで決め付けてんの!?」

「……響はばかだから許してあぎぇ、あげる」

「だからまず俺のせいじゃなくね?なんでちょっと俺が悪いっぽい感じで終わろうとしてんの!?」

ほらきた。予想通りすぎて怖いくらいだ。何と言うか、この辺は単調な行動をするんだな。

「……まあいい。んじゃ、あっちだよな?」

改めて会話を仕切りなおす。これ以上騒いでも悪目立ちするだけだし、照れ隠しにわざわざ正当性を求める必要もない。何より面倒だ。

「……うん。そっちで見せたいもにょ、ものがある」

そう宣言した割には一向に俺の前には出ようとしない。教育は現代日本で行われたはずだから、別に男尊女卑を叩き込まれているわけではないだろうに。

「……なかが……楓、別に本棚の間からお化けが出てきたりとかはしないはずだぞ」

「……そういうのじゃにゃ、ないけど、やっぱりちょっとやだ」

ああ、そうですか。アレだけ騒いでおいてやっぱり人は苦手らしい。大変だな。

 楓を庇うような格好のまま到着した本棚は、掲げてある名前通り少女マンガの棚だった。他の客が少ないとはいえ、淡い色合いの単行本がずらりと並ぶ本棚の中では、肩身が狭い。慣れ親しんだ隣の漫画とは纏う雰囲気が違うのだ。

「……で、見せたいものってなんだ?」

「……これ」

ようやく俺の後ろから離れた楓が両手で差し出してきたのは、ずらりと並んだ漫画の中の一冊。見れば、これから見る予定の映画と同じ題名だった。

「ああ、原作か」

「そう。……なきゃ、中見てみて」

大きな書店にしては珍しく、単行本にビニールはかかっていない。これ幸いと中を開いた。

 「……綺麗な絵だな」

ぱらぱらと数ページずつ目を通し、とりあえず最後まで行く。あらすじは理解できたが、細かいところを読むつもりは最初から無い。のだが。

「……おみょ、面白い?」

首をコテン、と右に傾けた楓に、苦笑いを返す。内容としては面白い方だとは思うが、いかんせん少女マンガ。歯の浮くような台詞で背筋が寒くなるな。

 「……なかが……楓はこういうのが好きなのか?」

「……うん。この漫画も持ってりゅ、る」

へぇ、楓はこういう、少女趣味的なものが好みなのか。だからなんだという話だが。

 とりあえず、楓には悪いがこの落ち着かない場所から抜け出させてもらおう。

「じゃあ、帰ったら改めて見せてくれ」

さっさと退散しようとした俺の服の裾を、楓の手がしっかりと握った。

「……待って。ひちょ、一人はやだ」

もう少し雰囲気がある状況で対人能力が常人並みな人が言えば、鼓動が早くなるような台詞なのだろうが、生憎とここは昼の本屋、しかも発言者は極度の人見知りだ。端的に言えばいつも通りでしかない。出会って一日半でいつも通りも何も無いだろうが。

「分かってるって。少し文庫が見たいんだけど、いいか?」

楓が頷いたのをしっかり確認してから、俺は服の裾が解放されないまま文庫が並ぶ本棚へと歩き出した。

 十八分後。

 目論見通り時間を潰すことに成功した俺たちは、予定より少し早く薄暗い空間へと戻ってきていた。

 相変わらず服の裾は楓に握り締められたままで、かなり行動の自由が利きにくくなっているが、これはこれでいいか、なんて思えてしまうのが不思議だ。

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