デート……?
太陽の光が俺の目を射抜く。カーテンの隙間から差し込んだそれは、正確に俺の頭だけを温めていた。睡眠時間が僅かしかない俺にとっては、拷問に等しい。
結局、寝返りを打っては隣のベッドの人影を見ないようにと背を向ける作業を延々と続けること数時間、眠りに落ちたのは日付が変わった後。東の空が明るんできた頃だった。瞬きの間に吹っ飛んだ数時間。さぞかし泥のように眠ったことだろう。
まだまだ眠いとはいえ、日が昇りきった今では二度寝もおぼつかない。観念した俺は、楓を起こさないようにそっとベッドから降りた。とりあえず着替えを出すために箪笥を開く。必要なものを引っ張り出して、いつもの癖で引き出しを押した。
俺の箪笥は引き出しの滑りが良すぎて、軽く押しただけで閉まる。だから、いつも軽く押すのだが、一つ難点がある。クッションが無いのだ。つまり、押された引き出しは自慢の滑りやすさを遺憾なく発揮しながら奥へと引っ込み、最奥部と入り口付近のストッパーに減速せずにぶつかることとなる。すると、木材同士がぶつかり合う硬質な音が生まれる。それもかなりの音量で。
「ふむぁ?うー、朝?」
どうやら起こしてしまったらしかった。わざわざ音を立てないようにと細心の注意を払ったの苦労が水の泡だな。
「おはよう」
「……あ、お、おひゃ、おはよう」
俺の方へと首を回した楓は、動揺したように瞳を揺らしながら返答する。俺の存在は、そんなに珍しいか?
「俺は隣の部屋にいるから、何かあれば呼んでくれ」
まだ焦点の定まらない瞳を擦る楓を置いて、隣の部屋へと移る。机等が置かれたその部屋は、勉強部屋として使用している部屋だ。カーテンの閉められていない窓から遠慮容赦なく差し込む陽光に目を細め、俺は大きく伸びをした。
「朝ごはんはできてますんでご自由にどうぞ。本日、旦那様は山へ芝刈りに、奥様は川へ洗濯に行きましたよ」
寝ぼけた頭を無理矢理動かして、俺が居間へ入ったのは午前八時少し前だった。当然、父さんたちは今日も平常営業なため、さっさと朝食を取ってどこかへと行ったらしい。
「どこだよ。端の方とは言え首都圏だぞ、山も川もこの辺に無いだろ」
「言い直しますとね、旦那様は書斎、奥様は同僚の方と何かあるそうで、少し前にお出かけなさいましたよ。いいですねー、学生と言うのは。お気楽な身分で」
「当事者にしてみればそんな訳無いと言いたいが、大人と比べれば確かに気楽だろうな」
「ま、後七年もすれば『あの頃は気楽で良かった』なんて思いますよ。さて、朝食を摂っちゃってください。早めに洗って、次の仕事に移りたいので」
「りょーかい」
欠伸をしながら食卓に座る。箸を手に取ったとき、食卓の入り口が開いた。
「……おはよう、ごじゃいましゅ。……ございます」
丁寧にお辞儀した楓は、まだ完全に覚醒していなさそうな目を擦りながら、頭を上げた。綺麗に伸びた背筋は、その下の衣服をしっかりと見せ付けることとなる。寝相が悪かったのか、少し着崩れたパジャマを。
具体的には、右肩がすべて露になるレベルで崩れている。なんというか、目のやり場に困る格好だった。
「……あらあら、これはまた、扇情的な格好ですねぇ。いえ、挑発的と言うべきでしょうか?どちらにせよ誘っているようなので、響さんは押し倒してあげちゃってください」
香苗がそこまで良く回る舌を回したところで、俺は我に返った。
「ちょっと待て!その格好で出てくる楓も楓だけど、香苗は邪推しすぎだろ!」
ここはただ単に寝ぼけてただけってことで、楓にはすぐに自室へと引っ込むことをおすすめする。じゃなきゃ俺が消える。
「ふわ!え、えっと、これは、しょの、き、きぎゃえるみゃえに顔を洗おうと思って……」
「だったらすぐに洗面所に行ってくれ!」
半ば叫ぶようにして俺が懇願すると、楓は弾かれたように洗面所へと続く廊下へ消えた。まったく、朝からコレでは今日一日の先が思いやられるな。心臓が持たない。
とりあえず、今のは忘却の彼方へと押しやって、朝食に専念することにした。ただ、トマトが一向に掴めない。いつもは上手くいくんだが、今日のはどうもダメらしい。滑りやすいのか。まさか、手が震えているなんてことはあるまい。
「いやー、しかし改めて見ると、楓さんはかわいいですねー」
「……無視ですか?まあいいですけど。……あの長い髪も綺麗ですけど、顔とのバランスがいいんでしょうね。あれだけ長くても、もっさりした感じはありませんし。そして何よりあのプロポーションで……」
「あーもういい!分かったからその舌の回転を止めろ」
さすがに耐え切れなくなって遮ると、いたずらっ子のような笑みを投げかけられてしまう。俺の背筋を嫌な予感が駆け抜けた。
「やっぱり気になりますか?そうですよねぇ、仮にも婚約者ですから、気にならないわけないんですよ。それで、響さんの目から見た楓さんはどうですか?やっぱりかわいいと思いますよね?それで、どの辺が好みなんですか?やっぱり……」
機関銃のように喋り出した香苗を、俺は呆然と見ていた。言い返すどころか突っ込む気力も湧かない。確かに、昔からこういう類の話が好きだとは思っていたが、ここまでだったのか。まだ俺は何も言ってないのだが、香苗の舌は止まらない。このまま言いたい放題言わせておくのも悪くない考えだが、俺は別の選択肢を選んだ。
「香苗、そこまでだ。俺はその舌の回転を止めろと言ったんだけど」
「あら、それは失礼しました。この手の話は昔から大好きなんですよ」
そんなこと、言われなくても薄々分かるほど、態度は目以上に雄弁だった。マシンガントークなる言葉の意味を、俺は今身を持って体感したのだ。そして、もう二度とごめんだ。
「別に人の好き好きだけどさ、さすがにもう少し自制した方がいいと思うぞ」
「そうですね、さすがにやりすぎました」
そう言うと、香苗は少しテンションを落として片付けに戻っていった。その方がありがたいのは事実だが、これはこれで珍しいな。いつもならもう一言くらい言い返してきそうなものだけど。何か裏があるのかと思ってしまう。
「ああ、楓さんも、できれば早めに朝食を摂って頂けるとありがたいです」
「……ひゃ、はい!い、いみゃ、着替えたら、た、たびぇましゅ……食べます」
「分かりました。焦らなくても大丈夫なので、落ち着いてくださいね」
軽く頷いて食堂を出て行く楓と、それに話しかける香苗。こうやって落ち着いて仕事をしていれば、香苗が有能な使用人に見えてくるのは俺だけだろうか。
「……ごちそうさま」
まあ、そう見えるってことはいいことだ。何もなくなった皿を香苗の元へと下げながら、俺は香苗が常にそうであってくれたら、と叶うはずもなさそうな願いを願った。
インターホンが鳴った。
それは唐突に、食堂へと鳴り響いた。丁度沈黙が降りたタイミングのそれはいつもより大きく感じて、俺は飛び上がらんばかりに肩を跳ねさせた。
「おや、どなたでしょうか。訪問の予定は無かったはずですが……」
アポ無しで来ているということは、十中八九両親の知り合いだろう。腐っても名家などと呼ばれた家なのだ。
「俺が見てくる」
まあ、両親の知り合いと言うことは、ほとんど俺の知り合いと言うことでもあるため、香苗が出るよりも話がしやすいだろう。あいつは変なところで頭が固かったりするからな。それに、まだ片付けも途中、これ以上仕事を増やせばさすがにキツいだろうし。
「はいはい、今出ますよっと」
急かすようにもう一度鳴り出したインターホンに、聞こえないと分かっていても返事をしてしまう。一体、誰だろうか。
「はい、どちらさま……」
辿り着いた玄関で、古めかしい扉を押し開ける。お化け屋敷かと錯覚するほど軋んだ音を立てて開いた先には、いかつい男が二人、立っていた。どう考えても真っ当に生きている人間では無さそうな雰囲気を醸し出す二人には、見覚えがある。
「……一宮さんと山名さん?」
「久し振りですなぁ、響の坊ちゃん。今日はお頭が親仁さんに用があるとかで、取り次いでもらえるかね?」
「分かりました。応接間で待っててもらえますか?」
「了解でさ。急に押しかけて悪いですなぁ」
その謝罪に笑顔で会釈しながら、俺は父さんの書斎へと踵を返して歩き出した。
「父さん、一宮さんと山名さんが来てるけど」
「ん?一宮さんというと……おお、菱島さんのところのか。しかし、今日はそんな連絡を受けていないと思ったが……」
「その菱島さんが、何か用があるらしいよ」
「ふむ、まあ今日は何も無いし、いいだろう。応接間か?」
「ああ。たぶんそこで待ってるはずだよ」
書斎で何やら書類を弄っていた父さんは、二つ返事で椅子から腰を上げた。
と思ったらまた座り込んだ。
「おお、そうだ響。これ、映画か何かのチケットだ。楓さんと二人で行ってきなさい。いやー、すっかり忘れてた!」
忘れているのもそうだが、映画か何かって何だよ。もう少しはっきりするとかそういう以前に自分の持っているチケットの中身くらい把握してくれ。おかしいだろ。
「……なかが……楓に聞いてみる」
「おう!行って来い!」
人の話を聞いていないのか?俺は聞いてみるといったわけで行くといったわけではないんだけど……まあ、行くことにはなりそうだからいいか。
今度こそ部屋を出た父さんの後について、居間へ向かった。
予想通り、楓はまだ朝食を摂っていた。香苗は次の仕事に移ったのか、姿は見えない。
「……なかが……楓、ちょっといいか?」
脅かさないように声量を絞って声をかけつつ、楓の正面の椅子に腰掛ける。それだけなのに、楓はかなり驚いたようだった。慌てて喉に詰まらせたのだろう、唐突にむせ返り、咳き込み始める。
「おい!おい、落ち着け、な?大丈夫か?」
あまりの出来事に一瞬硬直してから、あわてて置いてあった水を手渡しながら、背を擦ってやる。こういうときの対処は香苗の方が百倍上手いだろうに。肝心なときにいないな。
楓がどうにか落ち着いたのは、数分後だった。
「……ごめんなしゃ、ごめんなさい。ちょっとびっくりしただけだかりゃ……だから」
「いや、驚かせて悪かったよ。大丈夫か?」
蹴倒した椅子を直して、腰掛ける。ほっと一息ついてから、俺は用件を切り出した。
「でさ、楓。映画にでも行かないか?」
「……映画?」
「そ、父さんからチケット貰ったんだよ。行って引き換えればいつでもいいみたいだし、暇なら行こうぜ」
何の気なしに声を掛けたはいいが、これってデートだよな。まあ、言わなければわからないか。そんなつもりも……無くはないか。言う気は無いが。
「……あらあら、デートなんて。会って一日で積極的なことですねぇ」
「いや、別にそんな下心は無いぞ!?ただ貰ったものは有効活用しようというわけで、端的に言えばもったいないからだし!」
「それはそれで女性としては複雑なことですよねぇ。それに……楓さんも満更ではなさそうですし?」
言葉につられて振り返れば、顔を赤くして目の前のチケットを見つめる楓がいた。どう考えても、照れているようにしか見えないのだが、そう受け取ってもいいのだろうか。
「……いや、えーっと、お前が嫌なら強制はしないぞ?あくまで暇なら出かけないか程度の誘いであって……」
「必死ですねぇ」
「やかましいわ!」
混乱によって脳が思考を停止する。懲りずに横槍を突っ込んできた香苗に叫んで、一旦息を整えた。大きく深呼吸して、心臓の鼓動を抑える。楓の前でこのテンションだと、さっきの二の舞になりかねない。
「……で、どうする?」
「……いきょ……行こう」
「よし、じゃあ、十時半くらいを目処に、準備してくれ」
俺自身も準備は必要だから、踵を返して居間を出る。背後で楓と香苗の会話が始まったのを聞いて、即座に振り返ろうとする体を何とかしながら廊下を大股に進む。
……あ、ベッドどうしようか。
答えが難しい問題を無理やり頭の隅に押しやって、今は眼前の外出についてだけに集中する。とはいえ、そこまでの準備があるわけでは無いため、楓が戻ってくる前に準備は完了してしまった。出発予定時刻まで後三十分。どうやって時間を潰そうか。
「おお、響の坊ちゃん。それではわしらはこれで失礼させていただきますわ。お祝いはまた後日改めてうかがいますからな」
当てもなくさまよっていたら、玄関で帰り際の一宮さんたちに遭遇した。古傷のついた顔をだらしなく弛緩しながら、軽い会釈をして、口上を述べる。何のことか分からず首を捻る俺に背を向け、玄関から出て行った。重々しく扉が閉まる直前、会話が届けられる。
「いやぁ、それにしてもあの響の坊ちゃんが結婚とはなぁ」
「ちょっと待てー!」