人数の増えたいつもの日常
「お風呂、沸きましたよ」
居間で思い思いにくつろいでいた俺達は、香苗の一言で動き出した。まず、父さんが風呂場へ。次に、母さんが自分達の寝室へ。最後に、俺が自分の寝室へと。
それぞれ、風呂に入るための準備だ。俺の家では風呂に入る順番は固定されている。父さん、母さん、俺、香苗の順だ。理由は父さんの意地。で、自分と父さんの着替えを取りに母さんが寝室へと向かい、同じ理由で俺も寝室へと向かうわけだ。
こんなに早く風呂が沸くなら、別に着替える必要なかったかもな。愚痴っぽい考えを抱きながら廊下を歩くと、ふと俺の後ろから足音がついて来ているのに気づいた。ためしに止まってみれば、足音も止まる。足を速めれば、足音も速くなる。どうやら、この家は取り憑かれていたらしい。そういえば昔破産した会社の社長が首を……
なんて話は全く無く、この家に幽霊の類はいない。よって、この足音はおそらく楓だ。
絶対の自信はありながらも、一応声をかける前に振り返る。
「ああ、なかが……楓、どうかしたのか?」
「……えっと、私の部屋、どこか、わかんなきゅ、わかんなくて」
えーと、これはどう言えば良いだろうか。隠せるようなことでもないし、正直に言う方がいいんだろうな。ものすごく気は引けるけど。
「あーっと、ものすごく許容しがたい感じになってるけど大丈夫か?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた楓に、ついて来るよう言って、歩き出す。戸惑ったような足音が後ろに続いた。
「ここだな。見分け辛かったらプレートでもかけるといいだろ。で、部屋の中なんだけど……て、あ、おい!」
重要な説明をする前に、楓は部屋の扉を開け放ってしまう。もしかしたら俺の思い違いかな、なんて希望的観測をぶち壊すように鎮座する二つのベッド。
「……うんと、何で、ベッドが、二つ、ありゅ、あるの?」
「たぶん父さんたちの仕業だと思う。明日になったら誰かに手伝ってもらって俺のを別の部屋に移すから、今日はとりあえず見なかったことにしてくれ。俺はソファででも寝るからさ」
着替えを取る為に部屋に入って、手早く出る。入り口で固まったままの楓は、ようやく俺の言っていることを理解したらしい。お辞儀のような勢いで俯いて、赤くなった頬を両手で包んでいる。
それを横目に見ながら、俺は部屋を出た。
俺が居間に戻ると、母さんと香苗がテレビを見ていた。もっとも、香苗は夕飯の片づけをしながらだが。
特に目新しくも無い話題を面白可笑しく話す芸人を見ながら、時はゆっくりと過ぎていく。いつの間にか戻ってきていた楓が、一人分の間を空けて隣に座った。まあ、妥当な距離だろうな。
「おやおや、たった一日で随分と仲良くなったんですねぇ。さすが婚約者と言ったところでしょうか?」
「いつも思うんだけどさ、香苗って俺に恨みでもあるのか?」
「とんでもない。好きな子ほどいじめたくなる、なーんて幼稚な衝動の発露ですよ」
「何だそれ……もう少しおとなしくできないのかよ」
「大人しくなって面白いのなら、喜んで大人しくなりますよ?」
「面白くは無いがモテるようにはなるんじゃないか?」
「いーんですよ、私は一生響さんに仕えるんですから。大きなお世話です!」
「父さんと母さんに仕えるの間違いだろ」
「いずれは継ぐのでしょう?だったら間違ってませんよ」
「そうしようとは思わないけど、そうなるんだろうな」
「そんな消極的で大丈夫なんですか?今時草食系は損するだけですよ。がっつかないと」
「俺は別に消極的なわけじゃないし、草食系でもないだろ」
「そうでした、響さんはただ単にめんどくさがりで何に対しても無気力なだけでしたね。消極的でも意欲のある草食系の方がまだマシでした。失礼しました」
「おい、もっと悪くなってるだろ」
「そうですか?妥当なところだと思いますけどね」
「お前の中で俺の扱いはどうなってんだよ……」
香苗の猛攻に耐えかねて会話を切り上げる。どうもこの人の言葉には節々に棘を感じるな。理由を聞いたら消えない傷を負わされそうだから聞かないけど。
ふと横を見れば、俺によく解らない視線を向けている楓がいた。
「……仲が、いい、にぇ、いいね」
「これのどこを見て仲がいいと思ったんだよ……」
「……二人とも、活き活きと話しちぇ、話してる」
「……そうか?」
香苗のセリフが長いのは元からだが、俺も何か素振りがあるのだろうか。特に気にしているわけではないし、思い当たる節も無いのだが。
「おーい、摩耶、風呂良いぞー」
最低限の衣服を身に着けて出てきた父さんが、母さんの名前を呼ぶ。声を掛けられた母さんは、面白く無さそうに目を向けていたテレビから顔を背け、返事もせずに風呂場へと消えた。そんなにお気に召さなかったのだろうか。どこにでもあるような普通のバラエティなんだけど。
「……ああそうだ、母さんの次はなかが……楓な。俺はその後でいいから」
「……それは、申し訳にゃ、申し訳ない。から、先に響が入って。私はしょ、その後」
「いや、ここはお前が先に入るべきだろ。一応客人みたいなものだし」
「……外じゃみゃ……外様だからこそ後でいい」
「普通は逆だ」
「あーもう、じれったいですね。いっそ二人で一緒に入ったらどうですか」
「全身全霊を持って却下だっ!」
「いいじゃないですか。二人は婚約者なんですし、距離を縮めていかないと」
「光を越える速度で縮めてどうする!てかそんなことしたら縮まるどころか逆に離れるわ。人間関係、しかも男女間なんだからもう少しゆっくりで良いだろ」
「そうですか?出会って初日で名前呼びもかなり早いと思いますけどねー」
思わぬところから反撃を食らった。正面にいたはずなのに、いつの間に背後に回ってたんだ?いやまあ、確かにそうなんだよな。小学生ならいざ知らず、俺達は高校生だ。名前で呼び合うなんて、カップルか、じゃなきゃ小、中学校からの知り合いくらいだよな。
「……いや、それはだな……」
「即答しないところを見ると、図星ですね?」
「……あ、あの、わ、私が、頼んだんでしゅ!その、えっと、一応こんにゃ、婚約者、だ、だかりゃ…」
「……あらあら、そうでしたか。随分積極的なことですね」
「香苗、さすがに楓にまでそのノリはやめた方がいい」
普段よりトーンの下げた声で忠告すれば、おどけたような表情で香苗が口を閉じる。本当にこの人は母さんと同い年なのだろうか。態度もそうだが、そんな表情が似合ってしまう外見もおかしい。もしや母さんは留年したのか?
「はいはい、次の人は誰?」
まあ、そんなことは無いだろう。仮にも元看護師だ。
「ほら、楓だろ」
そう言って背中を押せば、何だか恨めしそうな視線を向けられてしまう。何だ?俺は何もやって無いだろ。
「……そういえば、母さん、何で俺と楓の寝室が一緒にされてんだよ」
「んー?……だって、婚約者よ?同じでも不思議は無いんじゃない?」
確かに、結婚を約束した男女が同じ部屋に寝泊りすることは珍しくない。婚約して無くても珍しくないのだから。
ただ、この話には前提がある。それは――
「それはそれまでの過程があることが前提だろ。俺らには当てはまらない」
過程とは、仲良くなって、告白して、付き合って……ということである。まあ、わざわざ説明する必要も無いだろうから言わないが。
「過程がなかったの?」
「持ち去った奴の一人が何を言うか!」
「そういえばそうね、まだ抵抗があるかしら?」
「抵抗しかないわ!」
「まあ、明日になっても同じ考えだったら移動でも何でもしなさい」
……今すぐにして欲しい、とは言わなかった。言ったところで、自分でどうにかしなさい、とでも言われて終わりだ。結局は明日の朝まで待つほかない。
「名前呼びの次は同衾ですか。中々どうして仲の良いことですねー。光速とは行かなくても、音速くらいの速度で仲は縮まってるみたいで、香苗は嬉しいです」
「これは手違いと周囲の悪意によって仕方ないだけで、別に俺とか楓とかの意思じゃないから、そこは誤解しないように。それにな、明日になれば別にするって言ってるだろ。しかも同衾じゃなくて、ベッドが同じ部屋にあるだけだし」
またも横からからかってきた香苗に事実を告げ、訂正する。言われた張本人はといえば、心底面白がっているような笑みを崩さずに口を開く。
「まあ、そういうことにしておきましょう。でも、本当にそうですかね?」
「今のに本当も何も無いだろ。嘘を吐いたところでどうなるんだよ」
「それはほら、保護者の知らないところで、あんなことやそんな……」
「あー!もういい。それ以上言うな!」
「そうですか?全く、この程度で恥ずかしがるなんて、まだまだお子様ですねぇ」
「三十路過ぎたおばさんがその態度ってどうなんだよ」
「むー、この意地悪ぅー。何てこと言うんですか。香苗は傷つきました」
「だからその年でそんなことやっても気持ち悪いだけだぞ。特に一人称」
「やっぱり遠慮が無いですね」
「いつも無いのはそっちだろ」
「……やっぱりゅ、やっぱり、仲良ち。仲良し」
「ん?ああ、上がったのか、なかが……楓」
そんなこんなで楓が来て最初の夜は更けていく。




