新たなる始まりとそのための終わり
体がゆさゆさと揺れる。どうも俺を起こしにかかっているらしいが、睡眠欲の感じからしてまだ起床時間より三十分以上早い気がする。こんな時間に起こしてどうするんだ。
渋々目を開けた俺の視界は、楓の顔だった。
別に比喩でも誇大表現でもない。本当に楓の顔が九割を占めている。その瞳に映る俺の寝ぼけ眼がはっきり分かるほどだ。
「……おはよう」
「おはよう。楓、起きるからどいてくれ」
そこでようやく、楓は自分の状況を把握したらしい。目で捉えきれないほどの速度で跳び退り、紅い顔を隠すように俯いた。
「……朝ごはん、出来てるって」
ドタバタガチャン、ダダダダダ、なんて擬音語が似合いすぎる動作で、楓が廊下の向こうへといなくなる。精一杯余裕な振りをしていた顔に、遅ればせながら血液が集中しているのが分かる。居間に着くまでに収まることを願って、寝室を出た。途中、目に入った時計は、七時十五分を指していた。
「……やば」
バス停前に滑り込んできたバスに乗り込み、後方の二人掛けに座る。もはや定位置になりかけている、右後方の一番前だ。楓が窓際に、俺が通路側にそれぞれ鞄を抱えて腰を下ろすと、肩の荷が一気に下りた気がした。
「……今日は重いな」
「だね。教科書とか重い教科が目白押しだから」
「月曜からそれか。面倒だな」
「……そうだね」
小刻みな振動と快適よりも高めの温度。睡眠不足な俺には、眠るなと言う方が無理な気がするのだが。ただ、ここで寝ると寝過ごす可能性が大きい上、週の初めから二人揃って遅刻はいただけない。よって、ここは我慢すべきだ。
「……ねぇ、まだ、隠すの?」
「……ああ。まあばれたらばれたで仕方ないけど、わざわざ話す必要も無いしな」
何の話かは明言していないが、『まだ』というからには婚約の方だろう。今はもう夏休み明けの、何が何でも隠し通さなければいけないという危機感は無いが、それでも積極的に広めようという気にはならない。自ら好奇心の的に成り下がるほど俺は物好きじゃないのだ。
無言のままに十五分は過ぎ去り、アナウンスに従って降りる。同じ制服を着た同年代が多く見受けられる通りを抜け、校門を潜れば、前庭に点在する銀杏はすでに色づき、落葉を始めていた。まあ、十一月も終わりに近づいてきたのだから、それもそうか。なんとなく、見慣れた風景一つ一つが鮮やかに見えるのは、俺の心理的なものか。そうならば、楓も同じ様に世界が見えていると良いのだが。
「……で!?話す気になった?」
教室に入った俺たちを出迎えたのは、何故か一人だけ諦めない本郷だ。他の奴らはもうとっくにこの話題に飽き、他の話題へと移行しているのだが。そんなに熱心に調べて面白いものでもないだろう。
「……だから、特に何も無いものを話せと言われてもな」
「そんな訳ないでしょ?私の勘にはびんびん来てるんだけど?」
なおも詰め寄る本郷を前に本能的に一歩引いた俺は、その後ろに立っている人間の存在を失念していた。それはもう綺麗さっぱりと。
右の肩甲骨辺りに何かがぶつかり、軽い呻き声が生まれる。その発生源は、言うまでも無く楓だ。本郷の勢いを前にさっさと俺の後ろに隠れていたそいつへ俺が一歩下がり、ぶつかったのだ。
「……痛い。何するのさ響」
「……あ」
「……あ、ごめん」
「……へぇー!そういうこと!」
妙に得心の言った顔で頷く本郷を前に、俺も楓も凍りつく。最早、止まらないだろう。
「なるほどねー、二人は付き合ってたんだ!だから隠してた!ファイナルアンサー?」
「いや、だからそれを確認するのはこっちだろ」
「細かい事はどうでもいいの!それより、そうなの?」
この突っ込み殺しめ。聞こえない振りで誤魔化そうとした俺の意図をたやすくぶち壊してくれるのは、やっぱり俺の斜め後ろに陣取る楓で。
「……そう。響は、私の彼氏」
「いや、お前な!」
「ばれたらばれたで仕方ないんでしょ?」
「……それはそう言ったけどな……」
どうも、残り二年と少しの学校生活は、平穏無事とはいか無さそうだ。そして、無味乾燥とも程遠いものとなるのだろう。
水を得た魚のように盛り上がる本郷その他を前に、悟った。
その後、クラスメイトや原本からの追及を受けつつたどり着いた放課後。利香がどう出るのか予想できなかったため、部室に向かうかどうかは少し迷ったが、やはり、向かうことにした。何故なら特別連絡が無い限り毎日部活は行われる上、理由があって休むときは他の部員に一言連絡する事が、我が部が始まって以来のルールだからだ。もし部室に利香がいたら、早めに切り上げて帰る事にするが。別に利香への心情を優先してルールを破る事を嫌がったわけではなく、利香はその辺を気にするだろうと思ったからだ。
「……行くか、楓」
「……うん」
体が重いのは鞄と言う物理的な理由に加え、振った相手と翌日顔を合わせるかもしれない気まずさからだろう。そして、今日一日の疲労も。
結局あの後は時間ギリギリまで根掘り葉掘り追及を受け、休み時間毎に入れ替わり立ち代わり現れる質問者との終わりの見えない問答を強いられる事となった。その結果、学校でも名前呼びになったのは嬉しい方の誤算だが。
クラスの教室から一階上、地学準備室に向かう。鍵を借りに行かなかったのは面倒だったのと、予感があったからだ。
利香は、必ず部室にいる。
もちろん、外れた場合は移動距離に階段一階分と廊下が増えるわけだが。まあ、これは賭けだ。分は悪くないだろう。
幸か不幸か、鍵は開いていた。ただ、室内の電気はついていないようで、それが微かな違和感となって俺の頭上に疑問符を浮かべる。日照時間は日に日に短くなっていて、もうそろそろ電気をつけないと弊害が無視できなくなってくる時間なのだが。
「……利香、いるのか?」
心の準備をするための時間として声を掛けるが、返事は返ってこない。それどころか、扉を開いた先に人がいた気配すらも無かった。
「……いないね」
「……だな。どっか行ったのか?」
その推論への反証として、机の上には「響君、中川さんへ」と利香の字で書かれた置手紙と、この教室の鍵が置かれていた。つまり、利香は一度ここに来て、帰ったのか。これまで一度も置手紙なんて見たこと無いのだが、どういう心境の変化だろうか。
「……手紙、開くよ?」
「ああ」
利香が愛用しているメモ帳から破り取られたと思われる、半分に折られた紙。几帳面に角が揃えられたその内側は、同じように几帳面な字が連なっていた。
――――響君、中川さん。本当なら直接話した方がいいんだろうけど、まだそんな勇気は無いから手紙にするね。失礼かも。気を悪くしたならごめん。けど、どうしても伝えておきたいことがあったの。
私、部活やめるんだ。さすがに、しばらくは二人と一緒にいられないと思うから。自分勝手かもしれないけど、天文部をよろしくお願い。部長は、響君にお願いしていいかな?引継ぎすることもないから、そのまま任せて大丈夫だよね。
最後に一つだけ、これは個人的なお願いなんだけど、私や響君たちの気持ちを、整理をし終えて、まだ繋がりが残ってたら。そのときは、また友達になってくれないかな?
辛くて、嫌いになりかけたこともあったけど、私は二人のことが好きなの。だから、お願い。
じゃあ、またね。ありがとう。
「……よろこんで」
手紙を閉じた後、楓が零した言葉は、俺が言おうとしたことそのままだった。わざわざ手紙まで用意したのは、持ち前の生真面目さなのか、それとも他の何かなのか。どちらにしても、俺の心境としては「こんなの用意しなくたって、いつかまた話しかけてくればいいだけだろ」というところだが。まあいい。
「……さて、いきなり任されたけど、今まで通りでいいよな」
「良いと思う。修正するべき部分は無いよ」
部長の引継ぎとかは、そのうち幽霊顧問たる教師が言ってくるだろう。あれ、名前なんだったかな。まあいいか。確か二年五組の担任だったはずだ。聞けば分かる。
一人が二度と訪れる事の無くなった部室は、なんだか妙に広く、寒々しかった。足から這い上がる寒さに一度身を震わせ、踵を返す。
「……今日はもう帰るか」
「……そうだね」
置いて帰るわけにも行かず、持ち上げた手紙の裏には、もう一文、記されていた。
――――追伸、戸締りと空調の停止、それから鍵はきちんと返して置いてください。
「……用意周到な」
鍵を部室に忘れた事にして帰ろうとしていた俺の企みを見透かしたような文章から顔を上げ、楓が俺を睨む。どうやら、楓にまで見透かされていたらしい。そんなに俺は顔に出ているだろうか。香苗にもよく読まれるし。
「……返しに行くよ」
西校舎の最上階である部室から、東校舎一階にある職員室までは遠い。そして、生徒玄関は西校舎だ。つまり、一度一階まで降りてから靴箱に背を向けて職員室まで行き、すぐに戻る必要があるのだ。職員室から玄関まで一分ほどとはいえ、面倒なものは面倒である。
「……はいはい」
現在の俺の心境は、諦念が一割、反骨精神が一割、面倒が八割。話し言葉で表現するなら、「やれやれめんどくせーなー」と言ったところだ。口が裂けても言えないが。
職員室に鍵を返却し、引き返して靴を履き替える。玄関を出る頃には、太陽は既に地平線の向こうへと消えかけていた。玄関は南向き、校門は東向きだが、夕日を移して紫色に染まる雲がよく見えた。
鞄を肩にかけっぱなしで色々動き回ったせいか、倦怠感共に少々の痛みが生じている。それは楓も同じ様でしきりに肩のあたりを気にしては、鞄を掛けなおしたり背負ってみたりしている。
「……持つぞ」
見かねて、申し出る。俺とて余裕があるわけではないが、楓よりかは力も持久力もあるつもりだ。
「……え?あ、いや、だ、大丈夫。そんなの悪いから」
「……いいから」
悪いと来たか。自分はあんな事を言っておいて。
その昔、といっても二ヶ月くらい前の話だが、怪談話のテレビを見た後、同衾したことがあった。思い返せば羞恥で死ねるほどの思い出だが、同時に様々な気づきをもたらしたものでもある。
あの時、俺は言った。「甘えて、頼っていい」と。あの時見せた楓の一面は、少々甘えたがりな気がしたから。けれどまだ、楓は俺を気遣っている。まあ、あんな無様な姿を見せた後で気を使うなと言うのも無理だろうが。
「……ほら、寄越せ」
まあ、言っても聞かないのは重々承知だ。力の抜けた腕から鞄を奪い、歩幅を大きくする。
すぐに、何か言いたげな足音が後ろから追いかけてきた。
「……あ、ありがと」
「お前も言ってたし、俺も前に言っただろ。婚約者なんだから、甘えても頼ってもお互い様なんだよ。それでも気になるなら、慰めてくれたお礼だと思ってくれ」
「……でも、返して」
分かってない。俺の言っている事の塵一つも分かっていないのではないか。まあ、古今東西、返せと言われて返す奴はいないだろう。それが気安い仲であるほどに。
「……断る」
「むー、返して。響が辛いでしょ」
「これでもお前よりは力も持久力もあるっての。いいから甘えとけ」
「……分かった。でも、辛くなったら言ってね」
「……了解」
自分から言い出して、無理やりに近い形で始めた事だ。後から「やっぱり辛いから返す」など言えるものか。まあ、そんな事を言えば話が終わらなくなるので、軽く流しておいた。
「……やっぱり返して」
「ダメだ。諦めろ」
少しずつ気温の下がっていく世界に、二人の足音だけが響いていた。




