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少しだけ、いつも通りに

 散々無様な姿を見せて、俺が泣き止んだのはそれからしばらくしてからだった。幻滅されたかと危惧したが、楓は濡れた襟首を少し弄っただけで特に何も言わなかった。ただ、おそらく赤く腫れているであろう俺の目を撫でただけだ。少しひんやりしたその指が、泣き腫らした目には心地いい。

「……帰るか。寒くなってきた」

「……そうだね」

どちらからとも無く横に並び、帰路に着く。まだまだ痛みも苦しみもあるけれど、それでも良いと思えるようになっていた。少しずつ整理して、この痛みすらも『思い出』に出来たなら、その時は、再び利香と関係を築こう。一ではないけれど今まで通りでもない、友人として。これまでの慕情を、友情に変えて。

 できるかどうかは分からないが、そうなれば良いと心の底から願った。

「……響」

「どうかしたか?」

「また、二人で映画に行こうね」

「……そうだな」

そうやって、新しい思い出を積み重ねて、辛い思い出を中和する。忘れる事はできないけれど、そうやって折り合いを付けていくんだと思う。楓も、それをわかっているのだろう。

「……色んなところに行こうな」

「うん」

半ば自分自身に言い聞かせるように、零す。道のりが果てしなく遠くても、解決策が見えたことは大きくて、少しずつ気分が浮上してきた。それに伴って、先程の行動に対する羞恥と、想いの成就による高揚感や達成感その他が湧き上がってくる。わけも無く叫びだしたい気分だった。実際やるわけにもいかないが。

 右手が、不意に包まれた。

 俺の手よりも一回りほど小さくしなやかな何かが右手を包み込み、確かな体温を伝えてくる。幾度か角度を変えたそれは、落ち着いた部分を見つけたのか沈黙した。

 局所的に温暖化が進んだその部分に視線を落とすと、俺の右手を包んでいたのは案の定、楓の左手だった。だらしなくさげられた手の、指の間に自身の指を差し込んで絡めた、俗に言う恋人繋ぎ。どこにそんな度胸があったのかと思えば、背けられた顔は耳まで真っ赤だった。そんな風になるならもう少し軽いやり方をすればよかったんじゃないかとは思うが、まあ楓なりの考えがあるのだろう。この場に不満があるわけでもない。喉まで出かけた文句は呑み込んで、楓の手を握り返した。

 途端にびくりと飛び跳ねる体に笑いを堪えながら、構わず握り続ける。そのうち、慣れたのか諦めたのか、楓の動きは止まった。眼球のみを動かして盗み見た顔は変わらず真っ赤だったから、きっと諦めたのだろう。じゃなければ気力が底を尽きたのか。まあ、この際どちらでも構わないだろう。

 手を繋いだまま帰った家では、丁度香苗が買い出しから帰ってきたところだった。つまり、門の前で鉢合わせた形だ。

 きょとんとした目を見開く香苗は、次いで何かを考えこむように少し視線を逸らすと、にまぁっと黒いものが垣間見える顔で笑った。

「……その様子ですと、成就したようですねー?良かったです。これでこのお屋敷もにぎやかになりますね。なんたって一人増えるんですから。さすがにこの広さに五人じゃ寂しいと思っていたところなんですよ」

それを聞いた楓の顔が沸騰し、俺の血圧が上がった。急激に増えた血液のせいか、頭が真っ白になり、目の前が点滅する。

「ちょっと待て!話が宇宙に飛び出してるだろ!」

「えー?そうですか?まあでも、深夜にゾンビのようにうろつかれる事がなくなるなら万々歳ですね。食い散らかした死体とか飛び散った血痕の処理って、案外大変なんですよ」

「そんなことしてないわ!いきなりグロテスクな話を始めるな!」

「あら、そうでしたか?昨日の夜眠れないって女々しく泣きついてきたのはどなたでしたっけ?」

「捏造するな!眠れなかったのはその通りだが、泣いてもいないし、先に絡んできたのはそっちだからな!」

「いーじゃないですか少しの違いくらい。私の方がキャリアは長いんですから、アドバンテージがあることくらい主張させてください」

「何のキャリアで、何のアドバンテージだよ……」

「……わ、私は手を繋いだ」

今まで黙っていた楓が、唐突に乱入してくる。おかげで、場は完全に混沌へと堕ちた。

「ホントに何の話だっ!」

「昨日私がいなければ、今頃刺されてても文句は言えないんですよ?」

「それはありがとうな。助かった」

「で、どこまで進んだんですか?キスくらいはしたんですよね?」

「誰が教えるか!素直に吐いたら余計酷くなるだろ?」

「いえ、同じ家の中で初々しい感じを出され続けたら気まずい事この上ないですからね。その辺は把握しておきたいんですよ」

「……それは、まだ」

「楓も素直に白状する必要ないからな!?」

「まあ、響さんが想像以上にへたれなのは昨日の時点で分かってましたし」

「……なんか、やっぱり香苗は俺のこと嫌いだろ」

「とんでもない。好きな子ほどいじめたくなる、なんて幼稚な衝動ですよ」

不意に耳を引っ張られ、刺すような痛みに襲われる。犯人は楓だ。振り向く必要も無い。

「いてっ!……何するんだよ、楓」

「……好きな子ほどいじめたくなる」

「わざわざ実践する必要ないだろ!」

言外に好きだといわれ、耳の痛みに反比例するように怒りは少ない。これが惚れた弱みか。

「むっ!私にもやらせてください」

「誰がやらせるか!」

二人に耳を引っ張られて耳無し法一なんて御免だ。それでは楓との意思疎通が面倒になるだろうが。分かりやすくむくれた香苗を視線で牽制して、半歩後ろに下がる。と思えば、後ろから伸びてきた腕に抱き締められた。

 張本人である楓は、俺に抱きついたまま顔だけを俺の体から出して、香苗を睨んでいる。

「……渡さないから」

「……誰にだよ。俺はお前から離れるつもりはないからな」

「あーもう見てられません!そろそろ気温も下がってきましたし、入りますよ。まあ、お二人の周囲だけは体感気温が高そうですが」

「変なこと言うな!」

 南から西へ動きつつある太陽が照らす空は、快晴だ。

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