言いたかった事と、言った事
首筋を吐息が撫で、水滴が伝う。そのくすぐったさすら愛おしくて、楓は自身の心理に苦笑した。どうやら、自覚以上に響のことが好きらしい。泣きじゃくる響の背を撫でる手に、そんな想いと共に力を込めた。
少しずつ、しゃくりあげる回数と楓の肩を伝う水滴が減り、体に回された腕から力が抜けていく。響が口を開いたのは、そんな時だった。
「……ごめん、情けないとこ見せたな。もう大丈夫だ」
その言葉とは裏腹に、湿度の高い声は上擦り、掠れている。あくまで楓に心配を掛けまいとするその態度に、少々の苛立ちを感じた。
「……私は、響の婚約者なんだから、ちゃんと頼って。話して。もっと、響のことを知りたいの」
泣き喚く子供を宥めるような、ありきたりの言葉だけれど、嘘偽り無く楓の本心だった。もっと、響のことを知りたい。この一週間何を考え、どう悩んだのか。今、どんな感情から泣いているのか。話して欲しいし、辛いなら頼って欲しい。何でもかんでも抱え込んで、自分を後回しにする姿を、楓はいつも見てきたから。今まで言えずにしまいこんだ分も、今ここで。これまでで一番辛そうな、今だからこそ。
「……利香との思い出も、想いも、全部に背を向けたんだ。俺は、楓を選んだから。三年半以上も積み重ねてきた想いを崩して、思い出を塗り潰して。ごめん、俺は、今素直に想いの成就を喜べない。この想いは、楓との新しい関係は、利香との想いと記憶を生け贄にして手に入れたものだと知ってるから……」
その言葉を否定しようとして、それは違うと思い直す。楓自身が利香と関わった時間は、夏休みが開けた後からの二ヶ月半ほどだ。対して、響が利香と過ごした時間は三年半。楓とは比べ物にならないほど、響は利香と過ごしてきた。思い出の数だって、膨大な量になるのだろう。そのすべてに背を向けることがどれだけ辛いのか、楓には理解する事は出来ない。
慰めすら口に出せない楓に、響が笑う気配がした。自嘲的に、鼻を鳴らすように。
「……ダメだな、俺。前を向くって決めたのに。振り返らないはずだったのに。まだ、覚悟が定まってなかったんだ。どうしても、捨てられないんだ」
楓の胸を、小さな棘が刺す。この一週間、ずっと抱え続けてきた痛みだ。
昔から少女マンガが好きで、こうやって恋をする想像をしたこともある。けれど、そこに、こんな痛みは無かった。もっと綺麗で、もっと楽しいものだと思っていた。なのに、実際にしてみたら、胸は苦しいし、痛いし、頭は正常に働かないし、たくさんの問題が山積みだしで、とても綺麗なものではなかった。
「……捨てなくて良いよ」
響が、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした目は真っ赤で、隈と相まって痛々しい。その目と正面から視線を合わせて、楓はゆっくりと呟いた。
「捨てなくて、良いよ。全部抱えて、少しずつ整理すれば。響は優しいから、西里さんとの思い出を、全部捨てて私の元に来るなんてできないでしょ?そんな事が出来る人ならこんなに悩まないし、私も好きにならなかったよ」
本当なら、全部吹っ切って欲しい。利香への想いも思い出も捨てて。そうでなければ、楓の胸の奥に深く刺さった棘が、いつまでたっても抜けないから。けれど、高望みはしない。今、すぐ傍に響がいて、楓を想ってくれている。それだけで、十分だから。
澄み渡る秋の空は、気持ちのいい快晴だ。




