本当に大切なものは、失ったときにその価値を知るから
徐々に遠くなっていく足音を聞きながら、利香は黙って、零れ落ちる涙が作る染みを見ていた。響が出した答えは、残念ながら利香の願い焦がれたものではなかったけれど、不思議と伝えた事に対する後悔だけは無い。ただ、もうこれまでのように響と接する事が出来ないことを考えると、胸の奥が疼いた。
けれど、響とてギリギリまで悩んでいたのだろう。目の下の隈は濃く、睡眠不足を物語っていて、拒絶を告げるその表情は辛さを我慢するように歪んでいた。別れ際に告げられたお礼は、今もまだ利香の耳の奥に残っている。それほどまでに、様々な感情のこもったものだったのだ。
九割方黒く染まった視界のアスファルトから顔を上げ、少しでも涙を止めようと空を見上げる。澄み渡る秋の空は、利香の心とは裏腹に快晴だ。
思い出の詰まりすぎた交差点にこれ以上立ち尽くすのは耐えられなくて、利香は震える足で帰路に着いた。
何かを告げる家族の声を無視して、自室に飛び込む。部屋を横切り、ベッドに転がった。
――――クリームも上手そうだな、一口くれないか?
――――今日、誕生日だろ。これやるよ
――――高校、一緒なんだろ?これからもよろしくな
――――あー、天文部かな。母さんと香苗に言われたんだよ。お前も入らないか?
目を閉じれば、浮かんでくる記憶。何をするにも頭をよぎるそれらが、幸せだったときの気持ちを伝えてきて、利香の胸を締め付ける。アルバムに収めた写真のように、もうそれを忘れられないとしても、せめてしばらくの間は胸の奥底で、眠っていて欲しいのに。
止め処なく溢れ出す思い出たちが、収まったはずの涙を連れてくる。あの時嬉しかったはずの優しさに、胸が痛んだ。何が、変わってしまったのだろうか。
顔を上げれば、宮棚に飾られた写真立てが目に入る。心の底から笑い合えた、意図せずして幸せだった頃を切り取った、今の利香には目もくらむような眩しさを持つ写真。見ていられなくて、うつぶせに倒す。その向こうの、砂時計が良く見えるようになった。
何か別のものを考えていないと、自分が壊れてしまいそうで。利香は目の前の砂時計をひっくり返した。まるで映像を逆再生しているかのように、カラフルな砂が上っていく。
――――――こんな風に時間が戻って、想いも記憶も消してしまえるなら
きっと利香はそれを選ぶだろう。それが、安易な結論に飛びつく事が、悩み苦しんで結論を出した響への侮辱だと分かっていても。
――――今は、今だけは、どん底まで沈ませて。明日になれば元通りだから
きっと、響や楓とこれまでみたいに付き合うことは二度と出来ない。この気持ちを整理するには年単位の時間が必要だから。けれど、もしそれが終わって、まだ二人とのつながりがあったなら。その時は、また新しい関係を。もっと深く、それでいて一線の定まった、『友人』としての関係を築きたい。また、三人で笑い合いたい。思い出話に花を咲かせて、「こんなこともあったね」と。きっと、二人も許してくれるだろう。
――――利香、ありがとう
「……こちらこそ」
――――響君、中川さん、ありがとう
こんな気持ちを教えてくれて、こんな経験を積ませてくれて。
そして――――――――――
――――さようなら




