答えの覚悟
ここ数日の睡眠不足を取り返す勢いで眠った俺が目を覚ましたのは、目覚まし時計がそろそろ天辺を指そうかという頃だった。
「……うおぁ!?やば!」
睡眠の余韻もへったくれもなく飛び起きた俺に、体が倦怠感と言う不平を突きつけるが、そんな事はどうだっていい。今日返事をすると決めて、そしてそのために悩んできたのだ。香苗まで巻き込んだのだから、揺らぐ事は許されない。
着替えもせず、利香と楓にメールを送ると、その準備のために寝室を飛び出した。
午後一時、起床から一時間と少し。俺は、利香に告白されたその場所に来ていた。小さな、路地同士の交差点。大多数の人にとってはただの交差点で、俺と利香にとっては様々な理由から思い出深い場所だ。そこを選んだのは、俺の覚悟にうってつけだったから。
俺がそこについたとき、利香はもう、そこで待っていた。期待と不安の混在する横顔を見て、胸の奥に走る疼きを抑え込む。震えそうな声を何とか立て直して、気づいていなさそうな利香に俺の存在を告げる。
「利香」
刹那、太陽に負けず劣らず輝いた表情が、すぐに涙で潤み――――俺の表情を見て、分厚い雲に隠れた。その表情に怯む心を焚きつけて、一歩、踏み出す。
「……利香、俺は、今からお前を傷つける。そのために、お前をここに呼んで、俺もここに来たから。自己満足だけど、まずは俺の話を聞いて欲しい」
そう、俺は、利香に拒絶を突きつけるためにここに来た。昨日、香苗と話して、そうしようと決めた。利香は本気なのだから、俺も本気で応えるべきなのだ。機械越しじゃなく、直接、俺の言葉で。それがどれだけ残酷で自分勝手かは、予想がつくけれど。
「俺は、楓が好きだ。だから、利香の想いには応えられない。ごめん」
言ってしまった。もう、後戻りは出来ない。震えそうになる足に鞭打って、緩みかけた涙腺を無理やり閉じる。今、辛いのは俺じゃなくて利香なのだ。俺が、悲しんで良いはずがない。あくまで、毅然としていなければならない。利香が、率直な思いを、罵倒も、文句も、すべて遠慮なく俺にぶつけられるように。
「……そっか。うん、分かった」
言いたいことは色々あった。利香に告白されて嬉しかった事、昔は俺も好きだった事、恋人になる未来を色々想像した事、それが幸せだった事、全部伝えたかった。けど、言ってはいけない。それは、俺の自己満足でしかないから。今それを伝えたところで、利香を苦しめ、更に傷つけるだけだから。
けれど、これだけは。どうしても。
「……利香、ありがとう」
「うん、こちらこそ。……また、ね」
上擦った声を最後に、利香が俯く。アスファルトに落ちる水滴を見ない振りして、俺は駆け出した。文句も、罵倒も、聞いていないけれど。これ以上ここにいたら、利香を慰めてしまいそうだから。いつものように、「大丈夫か」なんて。
唇を噛み締め、掌に爪を食い込ませ、ただ走る。これでもまだ、ケリをつけるべき物事の半分が終わっただけだ。まだ、後半分残っている。
残っている一つは、本当なら心躍るものであるはずなのに、俺の心は重い。きっとそれは、大事な友人との関係を一つ、潰して得たものだからかもしれない。人一人との思い出に背を向けて、昔の自分の想いを封じこんで、その上で成り立つものだから。
そんなネガティブな想いを抱えたまま向かい合っても、楓に気を使わせてしまうだけだ。最後に見た利香の顔も、この胸を締め付ける痛みも、すべてがんじがらめに鍵をかけて、ついさっき下った坂を上る。息が切れて、心臓が痛くて、足が重くて、それでも、前に進む。それ以外、方法はないから。楓と二人で幸せな思い出を作ること以外、この痛みを、利香への気持ちを、今の苦しさを、『思い出』として懐かしむようになれる方法はないから。このことを吹っ切って、利香とまた新しい関係を築くためにも。今、どれだけ辛くても振り返る事は許されない。それが、覚悟。利香と楓の覚悟に対する、俺の。二人の全力に、俺が報いるための。
楓に指定した公園に着いた時、俺はもう、ぼろぼろだった。倦怠感が纏わりつき、上げる事すら困難になった足を動かして、敷地内に踏み入る。
乱れた息を整える間もなく、ブランコに座っていた楓に声を掛けた。
「楓」
「……響、大丈夫?」
心配そうな楓に片方の掌を突き出して、少々の休憩を要求する。膝に手をついて、大きく浅く呼吸を繰り返す。
少し落ち着いてから、改めて楓と視線を絡める。ブランコに腰掛けた楓はいつの間にか立ち上がっていて、俺より少し小さいその体が、微弱に震えているのが分かる。
暴れだす心臓を宥めて、賺して、つばを呑み込む。大きく息を吸って。
「俺は、お前が、好きだ」
一音一音はっきりと、大きく発音する。楓に、その心に、響き渡るように。俺のこの想いを、限界まで乗せて。澄んだ秋の空気を伝って、楓の鼓膜へ。
不安に揺らいでいた楓の目が、幾度か瞬き、そして、潤んだ。
止め処なく溢れる涙を拭おうともせず、楓が笑う。初めて目にした泣き笑いは、感情のごった煮だった。星の数ほどの感情が、瞬いては消えていく。
限界まで想いを乗せたはずなのに、それでもまだ足りない。俺の心に渦巻く感情は、ぜんぜん伝わっていない。言葉だけでは伝わらないことがもどかしくて、楓に向かって一歩、踏み出した。
たった一メートル程の距離は、大股の一歩ですぐに縮まった。目と鼻の先で俺を見上げる瞳を直視できるほどの度胸は無くて、目を逸らす。それでも、俺の中心で叫ぶ想いに突き動かされるようにして、楓を抱き締めた。
力の入っていなかった足はすぐにバランスを崩し、体ごと俺にもたれかかってくる。力を込めれば折れてしまいそうに細くて、特有の丸みとしなやかさを持つ身体。全身から伝わる体温が、心に圧し掛かるおもりを溶かしていくようだった。
「……私も、響が好き。大好き」
楓のくぐもった声が体に染み透り、指の先までじんわりと温めていく。さっきあれだけ強く閉じた涙腺が、徐々に緩んでいく。
それを堪えるように、楓の首筋に顔を埋めた。柔らかな香りが脳を満たし、心の水面を水平へと戻す。
「……響、ありがとう」
限界だった。抱えていた矛盾が、痛みが、苦しみが、目尻に溢れてくる。不思議と温かいそれの前に、俺の些細な意地など意味を成さなかった。
声を殺して咽び泣く俺をあやすように、背中に回された楓の手が動く。際限なく零れていく涙を止める術など無く、俺は泣き続けた。




