辛くて、痛くて、苦しくて
土曜日。といっても十六日ではない。二十三日、告白から一週間がたった土曜日だ。そして、俺が自ら設定した返事の期限前日。明日には、返事をしなければならない。それが、約束なのだから。
だというのに、いまだ俺の心は決まっていない。
三桁は行ったであろう寝返りを途中でやめて、俺は睡眠を諦めた。
起き上がり、寝室を出る。重い体を引き摺って居間へ向かうと、微かな光が漏れていた。咄嗟に泥棒の二文字が頭を掠めるが、どうもそうではなさそうだ。
「……あら、まだ起きていたんですか」
そこにいたのは、香苗だった。
「その言葉、そっくり返すぞ」
「それもそうですねー」
何がおかしいのか笑い出す。どうもテンションがおかしいと思っていたら、食卓には缶ビールが置いてあった。どうやら出来上がっているらしい。
「……飲んでるのか」
「土曜日の夜くらい、飲ませてくださいよ。今日はそんな気分なんです。いえ、ここのところと言うべきでしょうか」
大人には色々気苦労があるのだろう。その辺を突っ込んでいたら愚痴に巻き込まれそうなので、流しておく事にした。
「珍しいですね、響さんがこんな時間に起きてくるなんて。夜遊びですか?」
「するか!香苗の目には俺がどういう風に映ってるんだよ」
「悩んで眠れない高校生、とでも言えばいいですか?」
図星を指され、息が詰まる。いくつか用意していた返答は、どれも泡のように弾けて消えた。そんなに、分かりやすかったのだろうか。
そんな俺の視線を感じ取ったのだろう、香苗はビールの缶を軽く振りながら、続けた。
「ここのところの響さんと楓さん、どうもぎこちなかったですからね。それに、毎日夜中まで悩んでるようでしたし。おかしくなったのは西里さんに呼び出された時からなので、告白でもされましたか?」
中身が入っていなかったのか、二本目を開けている。そんな何気ない動作に挿まれた何気ない言葉は的確に俺の急所を貫いていく。そんな俺の様子に、香苗は笑みを零した。
「そうですね、響さん、三択でしょう?楓さんと付き合うか、西里さんと付き合うか、どちらも振るか。響さんの場合は二択ですか?」
喉に息が詰まった俺に出来るのは、ただ首を振って肯定を表すだけだ。それでも、香苗には伝わったらしい。手振りで俺に向かい側の椅子を勧め、向かい合う。
「……簡単な選択でしょう。違いますか?どちらかの想いを、気のせいにしてしまえば良いんです。どちらかに決めて、もう片方への想いを一時の気の迷いで片付けてしまえば、二律背反な感情を抱えて壊れるより、ずっと簡単で、ずっと楽に答えを出せますよ」
軽い調子で紡がれていく言葉が俺の耳に届いたとき、何を言っているのか分からなかった。そして、それを理解したとき、俺の脳内で何かが小さく弾け、気がつけば、身を乗り出して叫んでいた。
「ンなことできるわけないだろ!この想いは、昨日今日のものじゃないんだぞ!あいつらと、数ヶ月以上関わりあって少しずつ積み重ねてきたものだ!気のせいで、片付けられるわけないだろ!」
「……ええ、それが正論です。世の中、それが正しい事になってます。けど、大半の人間にはできないんですよ」
激昂する俺に反して、香苗はどこまでも冷静だった。酔っ払いとは思えないほど的確に、俺の胸を抉っていく。それが、俺の怒りを急速に冷ましていた。
「だから、さもそれが当たり前のような顔をして、積み重ねた想いを崩し、思い出を黒く塗り潰すんです。それが一番楽で、傷つかなくて済むから。当たり前ですよ、人は、自分が傷つく事には敏感なんです。だから、西里さんに告白しなかったのでしょう?」
「……だからって、気のせいなわけないだろ。言えなかった分のツケが、ここで回ってきてるんだ。ちゃんと考えろって、言われたんだ」
香苗の正論を前に、叱られた子供のようにただ同じことを繰り返すしかない。相手の意見を否定するばかりで、明確な根拠も提示しない。もう、これ以上惨めな姿を晒さない方法は、唇を噛んで黙る以外思いつかなかった。そんなこと、できもしないのに。
「……ちゃんと考えたんでしょう?安易な方法を取らず、真正面から向き合っているから、こんな夜中まで起きてるんでしょう?だったら、とことん考えるしかないじゃないですか」
「……考えたんだ。でも、答えは出ない」
恋人になって、何をするのか。二人とも、それぞれ幸せな事があって、もちろん嫌な事もあって。考えて、泥沼に嵌って、抱えた感情に発狂しそうなほど頭を抱えて。でも、矛盾は膨れ上がるばかりだった。
「それぞれ、楽しい事があって。嫌な事があって、それも含めて幸せそうで。どっちを見ても、避けられない破綻は無さそうなんだ。何で、あの二人なんだろうな。どうして、片方が知らない人だったりしないんだろうな。……どうして、どっちも好きなんだろうな」
おかしいだろ、そんなの。不貞も良いところだ。
俺の自己嫌悪を、香苗はばっさりと切り捨てた。
「……感情のコントロールなんてできはしないんです。そして、過去も変わらない。そんな事をくよくよするくらいなら、もっとしっかり考えたらどうなんですか。二人とも好きなのは、それだけ二人とも魅力的だったってことでしょう?」
「けど、それぞれ長い間関わってきて、幸せな記憶があるんだ。それを捨てられない」
もうずっと昔の、利香との出会いだって、まだ鮮明に思い出せる。所々抜け落ちていても、肝心なところはセピアになんか染まらず、まだ色彩を保っている。それに、背を向けるなんてできない。
同じ様に、楓との記憶だって、綺麗に、鮮明に、利香ほどの年季は無いけれど、残っている。同じ頃の記憶は、もうとっくにアルバムの隅で色褪せているのに。
「……ねぇ、響さん」
突然閃いたものを、そのまま言葉にしているような口ぶりだった。またも螺旋階段を下りていく思考を引き上げ、目の前の香苗を見やる。
「響さんって、正義の味方になろうとしてないですか?」
「……は?」
思わず間抜けな声が零れる。何を言い出すかと思えば、俺のことを幼稚園児か何かと勘違いしているのだろうか。話は的確でも、酔っ払いは酔っ払いと言うわけか。
「……自分の気持ちよりも先に、相手がどう思うか、傷つかないか、不快に思わないか、辛くないか、迷惑じゃないか、そんなことを考えていないですか?」
俺自身ですら気がついていなかった、心の奥底。利香への想いを獄死させた地下牢よりも更に奥、無意識の範疇にあったもの。それを、引きずり出された。例えるなら、食べたものを無理やり吐かされた気分だ。
俺の正直な反応に、香苗は満足したように薄く笑ってビールを一口飲んだ。
「……やっぱりですか。決められないのは、自分の気持ちをはっきり伝える前に、もう一人への義理を果たそうとしたからじゃないんですか?そしてどつぼに嵌ったんじゃないんですか?思い出に背を向けられないのは、そうしたときその人が悲しむんじゃないかとか考えてしまったからじゃないんですか?」
矢継ぎ早な質問。それらはすべて正鵠を射ていて、引きずり出された本心は戸惑うばかりだ。それなのに、どうするべきかは理解してしまっている。それに従うように、俺は小さく頷いた。
「……そんな人は、豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえば良いんです」
「……どういうことだよ」
人の気持ちを考える事を悪い事だとでも言うのか。少なくとも、考えないよりは良いと思うのだが。そうではなかったりするのか。
「二人が、どれだけの勇気を振り絞って告白したと思ってるんですか。一度その思いを経験した響さんなら分かるでしょう?告白したってことは、振られる覚悟も決まってるんですよ。それだけの覚悟を持って伝えた相手に気を使われて、何を思うか分かりますか?」
香苗の声が、どんどん熱を帯びていく。その瞳には、一般論を述べているとは思えない光が宿っている。それが何なのか、俺には分からないが。
「……やられた方は、惨めですよ。それはもう、どん底に落ちても足りないほどに。だって、そうでしょう?自分の覚悟が、相手に伝わっていなかったのですから。自分が本気で放った言葉に、相手が本気で答えてくれない事は、何よりも辛いんですよ」
その気持ちは、残念ながら俺には理解できない。頭では出来ても、それを想像する事はできない。けれど、それはもしかしたら、演劇の練習中、必死に練習しているときに目に入った、ふざけているクラスメイトに対して芽生えた感情と似ているのかもしれない。自分の努力を侮辱されたかのような苛立ち、認められていないような寂しさ、思いが伝わっていない悔しさ、虚しさ。そんなものが幾重にも絡み合った無力感を、きっと香苗は『惨め』と表現したのだろう。
「……ごめん。俺はもしかしたら、すごく失礼だったのかもしれない」
口をついて出てきた言葉は、それだけだった。
「……それを告げるべきなのは私ではなく、あの二人でしょう?」
「……そうだな。ありがとう、香苗。俺、決めた」
今までずっと怖がって、避けてきたはずの言葉は、いとも簡単に口から飛び立って行った。
「俺、――――が好きだ」
名前の部分は、囁き声だったことに加え、香苗がちょうどビールの缶を置いたことで掻き消された。けれど、口の動きで伝わったのだろう。
「……そんな事を面と向かって宣言されるこっちの身にもなってください」
拗ねたような何かを含んだ香苗の声。それに対する謝罪を入れようとして、遮られた。
「まったく、それは行き遅れな私へのあてつけですか?いーんですよ、私は一生響さんに仕えるんですから。大きなお世話です。ホント、失礼な人ですね」
「悪かったな。無粋で無礼な奴で」
「でも、正義の味方じゃない分マシです」
酔っているのか、普段とは違い弛緩した頬でにへらっと笑顔を作った香苗は、あっちへ行けとばかりに手を振った。
「せっかく成就する保証のある恋愛なんですから、大事にした方が良いですよ」
「……分かってる。ありがとな、香苗」
鉛のようだった体は、いつの間にか軽くなっていた。




