名前を呼んで
まだ仕事が残っているとかで、「娘をよろしく」とか言い残して中川の父親が帰り、父さんも書斎へと消えた。母さんは香苗を連れて台所で夕飯の支度。よってこの部屋には俺と中川の二人きりだ。あの話の後すぐにこれは、勘弁して欲しい。
「なあ、中川さんはさ、これで良かったのか?俺なんかと、その、婚約とかさせられて」
「……さっきも、言った、みたいにゃ、みたいに。ちょっと怖いけど、五十嵐君は、優しいから、大丈びゅ、大丈夫」
「そうか。ま、とりあえずは友達ってことで、少しずつやってこうぜ」
「……そう、だね。分かった。五十嵐君は、良かったの?」
「んー?俺は、まあ中川さんはかわいいし、お互いダメならそう言えばいい話だしな。気楽に行こうぜ。俺の親相手に真面目に対応してたら、体がいくつあっても足りないぞ」
今まで十五年、一緒に生活してきて刻み込まれた教えだ。一応この家で生活するなら弁えておかないとマズい。特に人と接することを苦手分野に分類してしまうような人にとっては、彼らは天災と同義になってしまうのだから。
「か!?かわ、かわ、かわ、いい?」
「ん?ああ!悪い、忘れてくれ!」
変な事を口走った。心の中で思っていたことが出ただけだから……ってそれはそれでマズい!この状況を収める方法は俺には無いのか?言い訳、はダメだろうし、開き直る、は俺の精神が持たない。どうするのが一番いいんだ?
「はい、お茶が入りましたよ。響さん、楓さん」
ナイスタイミング!狙ったように沈黙を吹き飛ばした香苗が、ティーカップが載った
お盆を机に置く。
「ありがとう。今日の夕飯は?」
「それなら、奥様がピーマンの肉詰めだと言ってましたよ。それでは、ごゆっくり」
何がゆっくりなのか分からないが、空のお盆を脇に挟んだ香苗が扉の向こうに消える。香苗の来襲がこの程度で済んだのは僥倖だな。珍しくて、明日はきっと雪が降るだろう。
いつもなら「それでは、婚約者同士、ごゆるりとイチャついてください。夕飯の時間になりましたら、一声おかけしますので。若いうちは栄養を取ることも大切ですからね。もっともお二人ならお互いを栄養として生きていけるとは思いますが」なんて言うのに。
「これ、飲んでいいにゃ!飲んでいいの?」
「そのために香苗が持ってきたんだ。どちらでも好きな方を取って構わない」
近い方のティーカップを両手で包んで、一口、口に含む。緩慢な動作でそれを飲み込んだ中川は、目を輝かせた。
「……おいしい……!」
「ま、香苗が入れたんだ、そんじょそこらの奴よりは桁違いに上手いだろうな」
彼女は、なんと言うか器用貧乏なんだよな。何でも平均以上にできて、でも一番と胸を張るには弱い。そんな能力ばかりだ。そんな話をしたら、「何かに秀で、他ができないよりはいいじゃないですか」などと言っていたから、本人は不満が無いらしいが。
「……あの人は、使用人、だよね。名前呼び、なにゃ!……なの?」
「うーん、使用人とは言え、母さんの同級生だからな。元々面識はあったし、苗字とかで呼ぶのは気が引けるんだよ」
つい一ヶ月くらい前まで母さんの友人として、親戚のおばさんみたいな位置づけだった人が、ある日突然使用人として俺より目下の人間として振舞う。あの混乱や驚きと言ったらなかった。
「だから、呼び捨ちぇ!呼び捨て?」
「あーうん。妥協に妥協を重ねた結果だな」
苗字で呼べという香苗と、今まで通りさん付けで名前を呼ぼうとする俺と、かなりの口論があった。見かねた母さんが仲裁に入り、間を取って現在の呼び名で手を打ったわけだが。
「じゃあ、私も楓でいに、いいよ。皆、名前で呼ぶきゃ、から」
「いいのかよ。まだ会ってから一日経ってないんだぞ?」
一応礼儀と言うかまあ一般常識的に疑問を呈すると、自分の提案に恥ずかしさを覚えたのか真っ赤になって俯いてしまう。まあ、そうだよな。特異な出会い方はしたけれど、よくよく考えれば俺達は出会って数時間だ。そこまで話を進めるには早すぎる気がする。良くあるドラマなんかでは最後まで苗字呼びもあるのに。
「……から」
「ん?」
俯いたままで何かを呟いたが、俺の耳には届かなかった。聞き返せば、もう少し大きな声で返答がある。
「……一応、婚約者だかりゃ、だから」
そう告げられて、俺は遅ればせながら中川の赤面の理由を悟った。まあ、そんなことを言おうものなら誰だって赤面する。現に俺も赤面してるしな。なにせ、そこに至る過程はすべてどこかへ持ち去られてしまっているのだから。
「……そ、そうか。そう、だな。なら、俺も響でいい」
ここは、中川が歩み寄ってきた以上俺もそうするべきだろう。半ば無理矢理のような形でさせられた婚約だが、俺も了承したわけだし。
俺も名前でいい旨を告げると、中川、いや楓はふんわりと笑みを零した。
「うん。響、響。じゃあ、これきゃ、これからはそう呼ぶから、私のこともちゃんと名前で呼んでにゅ、呼んでね」
ここまで怯えられるようなことはなくなっても、噛み癖は直らないらしい。まあ、単に滑舌が悪いだけかもしれないが。それに、極度の人見知りが出会って数時間の人間に心を開ききれる事の方が難しいだろうしな。
「分かったよ、楓」
……うわ、これ滅茶苦茶恥ずかしい。響、と楓に呼ばれたときも胸が高鳴ったが、自分で呼ぶと別の恥ずかしさがあるな。呼ばれた当人も林檎のようになって俯いているし。これは、ダメだ。日常的にやられたらマズい。心臓の鼓動数は一生で決められているなんて言うが、俺の寿命はここ一時間ほどでかなり縮んでいるはずだ。
「……やっぱり、呼び捨ては、だみぇ、ダメ。恥ずかしい」
「うーん、じゃあ、楓さん?」
「それは宗一さん見たいでいひゃ!……嫌」
「じゃあどうする?」
「……どうもしない」
「いや、しろよ!」
なんと呼べというんだ。名前呼ばせないとかは無しな方向だよな?
「……やっぱり、楓でいき!……いい」
結局振り出しに戻ってるじゃないか。まあ、いいけどさ。たぶん、突っ込んだら負けだ。
「んじゃ、それで決定にしよう。いいか?なかが……楓」
「……やっぱりゅ、やっぱりダメ」
「何だそれ……」




