今日は学校休みます
聞きなれないアラーム音で目を覚ました楓は、それが自分の目覚まし時計であることを理解するのに数十秒を要した。何せいつもは五分早く設定されている響の目覚ましで起きているのだ。それが何故か今日に限って、響のを通り越して楓のが鳴っているのだろうか。楓がそれに気づかないことはあっても、響が気づかない事は無いのだが。
しかし、その仮説を裏切るように、響のベッドはいまだに人一人分盛り上がっている。つまり、響はまだ眠っているのだ。それがもし枕を詰めたフェイクで無ければ。
「……響?」
いつもとは、完全に立場が逆だ。いつも起こされるのは楓の方で、響はどちらかと言うと朝には強い方だと思っていたのだが。
「……?」
耳を澄ますと、荒い呼吸が聞こえてくる。深くゆっくりな寝息ではなく、走った後のような、少し気にかかる呼吸だ。
「……響?大丈夫?」
このまま放っておくわけにも行かない。寝起きでぼんやりとする頭を叩き起こして、響へと近寄った。そして、掛け布団を恐る恐る捲る。
そこにいたのは、ずいぶんと顔の赤い響だった。そのくせ汗はかいておらず、吐息は熱っぽい。つまり。
「……風邪?」
可能性は無くは無い。というか、心当たりはありすぎるのだ。何故なら、昨日は流星群を見に出かけ、途中で響は利香にパーカーを貸した。そしてそのまま帰ってきて、雨に打たれたのだ。よほど体が丈夫でなければ、風邪を引いて当然ともいえる。
試しに額に手を置くと、熱が掌に絡み付いてくる。疑問を挿む余地も無く風邪だ。
「……どうしよう」
とりあえず、このまま立ち尽くしていてもどうにもならない。楓は踵を返して部屋を飛び出した。
「……香苗、さん」
「……あら、どうしたんですか?着替えもしないで」
居間に着くと、予想通り香苗がそこにいた。広大な敷地を探し回らなくて良いことに安堵しながら、用件だけを口にする。意味を正しく理解できるかなんて、考えていなかった。
「響が、風邪引いたみたい。来て」
きょとんとする香苗の腕を掴んで、寝室へと引っ張って行く。すぐに、手ごたえがなくなった。
「……まったく。自分の体調管理くらいしっかりしたらどうなんですかね?相変わらず優しすぎる人です。自分が風邪を引いたら誰がどう思うかぐらい把握できるようにして欲しいですよもう」
その言葉は、言い得て妙だ。現に楓は響を先に風呂に入れなかったからだと責任を感じているし、心配だ。利香だって同じ様に思うだろう。もしかしたら原本もかもしれない。他人の事ばかり考えて、自分のことは二どころか四の次にでもしてしまう。それが、響の長所であり欠点だ。その結果がこの有様では、素直に感謝できないではないか。
少々愚痴っぽくなる思考を、頭を振って追い払う。今は響の容態の方が大事だ。
寝室に入ると、丁度響が起きて、部屋を出て行こうとしているところだった。
「……あ、れ?……なんだ、二人ともどうかしたのか……?」
定まらない足元、真っ赤な頬。そのくせ目はうつろで、なんだか寒そうだ。
「……あ、時間か?なら大丈夫だ。起きたからな。心配しなくて良い……」
「そうじゃありません」
淡々と答えた香苗の声は、いつものおどけた様子ではなく、真剣そのものだった。
「……じゃあなんだ……あ、空調壊れたのか……?」
「……え?」
つい、声を出してしまう。この家は全室に冷暖房が完備されている。今の寝室もタイマーによって丁度いい温度に保たれている。壊れたと感じる要素はどこにもないはずだ。
「……やっぱりか。ちょっと寒いと思ってたんだ……」
そこまで、うわごとのように響が呟いたところで、香苗が動き出した。何の気なさそうな動作ですたすたと響に歩み寄ると、その脳天に手刀を叩き込む。振り上げから振り下ろしまで、まったく躊躇を感じさせない、容赦の無い攻撃だ。
「……いって……なにすんだよ」
「自分が何をしようとしているか分かっていない愚か者にはこれくらいじゃ足りないくらいですよ。今すぐにベッドに戻ってください。朝ご飯は後で運びますので。あ、後学校への連絡もしておくのでその点はご安心を。それでは、おやすみなさい」
楓がこの家で暮らし始めてから三ヶ月と少し。これまで香苗との接点は数多くあった。もちろん、まともに会話が出来るようになるまで一ヶ月程かかったが。閑話休題。その中で、香苗の声は毎日聞いていたし、様々な感情のこもった声を知っている。しかし、楓は今、耳に届いた声が香苗の物だと認識するまでに数秒かかった。
その声は、今まで聞いたどんな声よりもドスの利いた、怒気が限界まで篭った声だった。
「……何でだよ。俺は大丈夫だって」
「何故なのかも分からないほど判断力も思考力も鈍った酔っ払いみたいな人を大丈夫とは言いませんよ」
香苗の声はもう、普通に戻っていて、揶揄するような口調も復活している。今の声が厳格だったのかと疑いそうになるほど、見事な変わり身だった。
「……ダメだって。今日行かないと……俺が倒れたら自分を責める奴らがいるだろ……」
ズキン、と心臓の裏側で痛みが走る。痛いのに、何故か甘い。響が自分のことを解ってくれていたことに対するものだ。だが、それを味わっているほどの余裕は、無い。
「……響が、勝手にやったこと。勝手にやって勝手に倒りぇ、れてたら、世話ないね」
なけなしの演技力を注ぎ込んで、響の発言を否定する。普段の響ならすぐに見破る程度、現に香苗は楓に笑みを向けている。が、熱に浮かされた響にはわからなかったようだ。楓にとっては好都合だが。
「……それも、そうだな。わかった。香苗、連絡頼む」
切れ切れにそれだけ言うと、のそのそとベッドにもぐりこんで行く。完全にベッドに体が収納されたのを見届けてから、香苗が目に見えてため息をついた。
「……それでは楓さん、着替えたらとりあえず居間に来てください」
踵を返して廊下を駆けて行く。他にも様々な仕事があるだろうに、大変な事だ。
だからこそ、楓は今日一日、響の看病をしようと決めていた。香苗に丸投げするのも大変だし、心苦しい。その点、楓は一日くらい学校を休んだって平気だし、自慢じゃないが手先は器用だ。おかゆくらいなら作れる。看病だってできない事は無いだろう。何より、想い人の看病をする、それの事実だけで楓の胸は風船並みに膨らんでいるのだ。
出来るだけ早く着替えを終えて、居間に出向く。そんな楓の姿を目に止めた香苗は、少しばかり驚いたようだった。
「……あら、楓さん、制服じゃないんですか?」
「……今日は、やしゅ、休む。響の看病するの。香苗さんにまきゃ、任せたら大変でしょ?」
その返答に、香苗は頤に手を当てて考え込む様子を見せながらも、口角はにんまりと言う表現が似合いすぎるほどに綺麗な弧を描いていた。その真意がどこにあるのか、楓にはわからないが。
「……そうですねー、それでは、響さんの看病は任せますよ?必要な事があれば言ってください」
動機が微妙に不純ながらも、役目を果たす決意を固めて頷く。そんな楓に最初に下された指令は、早速遂行しがたいものだった。
「……それでは、まず最初に学校への連絡をお願いして大丈夫ですか?」
その時、楓は悟った。何故、香苗がこうもすんなり楓のわがままを聞き入れたのか。何故、考えながら笑っていたのかを。
* * *
どこか陰鬱な雰囲気が立ち込める、月曜日の朝。いつも通り登校した利香は、そこだけはいつもと違う右手にもった紙袋、その中に収められたパーカーに視線を落とした。利香の性格を現したのか几帳面に畳まれたそれは、昨日響から借りたものだ。本当ならば洗って返すのが筋なのだろうが、洗濯しているからと返却を遅らせるのも違う気がして、結局軽く消臭スプレーを拭きかけるだけに止めた。利香としては割り切れないものを感じてはいるが。
それを今日、昼休みにでも返そうと思って学校に持ってきたのだ。早い方が良いかとも思ったが、響はあまり朝早く学校に来るような性格ではなく、むしろ早起きしても家でのんびりしてくるタイプだ。そんな時間的余裕は無いだろう。あるいは、そっけなく押し付けてさっさと戻ってくれば可能かもしれないが、利香としてはそんなことはしたくない。しっかりお礼を言いたいし、そこから会話が広がるなら十分に楽しみたい。というわけで、これは昼休みの始めに持っていくつもりだった。そこで、あわよくばお昼も一緒に――――――なんて思い描いて頬を緩めたりもしたのだ。
そうして、妄想に限りなく近い想像を繰り広げている間に午前中は過ぎ去り、迎えた昼休み。紙袋と、ついで――だと自分に言い聞かせている――に弁当を持って、利香は二つ隣、一年三組の教室へと顔を出した。
戸口から顔を覗かせ、響の姿を探す。が、隅々まで目を凝らしてもその姿を視界に捉えることはできなかった。
多少の落胆を感じながらも、利香は気を取り直し、戸口近くの椅子に座っていた原本に声を掛けた。
「……あ、ねぇ、原本君。響君知らない?」
「ん?ああ、五十嵐なら風邪で今日は休みだってよ」
風邪で休み。つまり、はなから学校には来ていなかったのだ。期待が大きかったのなら、落胆も大きくなる。理科でも証明されている事だ。物体の位置が高いほど、エネルギーも大きくなる。そして、地面に落とされたときの衝撃も。
「……あ、でさ。西里さんはまだ知らないよな?朝……」
「ありがと。じゃあね」
とりあえず、この場を離れたかった。勝手に期待して、勝手に落胆するなんて馬鹿らしいとは思うが、完璧に感情を制御するなんてまねが出来るほど利香は大人ではない。
原本の話なんてまったく耳に入らず、利香は踵を返してその場を去った。出来るだけ大股に、できるだけ早く。
だから、聞いていなかった。原本が最後に何を言っていたのか。
「朝先生が言ってたんだけどさ、五十嵐の休みの連絡、中川さんがしてきたんだってよ」
もっとも、今それを聞いていたら、利香はもう立ち直れなかったかも知れないが。
* * *
「……う、ん、楓?」
「……そう。お昼ごはん持ってきた」
額に冷却シートを貼られ、ベッドで布団に包まっている響の顔は、相変わらず赤かった。が、寒気は収まったようで、少しずつ食べ物を口にもしている。
「分かった。悪い」
「……こういうときは、お礼にょ、の方がいいの」
「……ありがとな」
緩慢な動きで響が体を起こす。膝の上にお盆を置いてやると、のろのろと食べ始めた。
「……美味いな」
「そう?……良かった」
「……そっか、楓が作ったのか?うまいな……学校、休んだか?……ダメだろ」
熱で思考が分散しているのか、話の繋がりがよく分からなくなっている。いっそ黙って食べた方が良いのかもしれないが、楓はただ合いの手を打つだけに止めた。
「一日ぎゅ、ぐらい大丈夫。響の体調の方が大事だから」
「……けどな、一緒に休んだら、また疑われる……」
「そんなの、どうにでもなる。病人は黙って治す」
「……はいはい……でも、利香とか、原本とか……」
「いいから、食べて、寝る」
響からの返事は無い。不言実行なのか、黙々とおかゆを減らして行くだけだ。それを、楓はベッド脇に膝をついて見ていた。
そうしていると、細かな違いが目に入るのだ。風邪を引いて気が弱くなっているのか、ちらちらと楓の方を確認してきていたり、まだ少し辛そうだったり、様々な事柄が入ってくる。容態の観察は看病を申し出た手前義務のように感じているが、いつもはしない仕草が見られただけでも報われている気がしてくる。それはきっと、楓が最早脱け出せないほどに嵌っているからだろう。何に、とは明言しないが。
「……ごちそうさま」
「お粗末さま。じゃあ、にゃ、何かあれば携帯で呼んで」
お盆を引き下げようとした腕を、不意に粘性の高い温かさを持つ何かが掴んだ。
その犯人である響は、自分の行動に気がつくと、恥ずかしそうに目を逸らした。
「……悪い……何か、楓がいなくなると思うと急に……」
風邪を引くと、誰でも不安になるものだ。それは、響だって同じ。いつもは頼り切りでも、今だけは。そんな意味を込めて、楓は安心させるように笑った。
「……大丈夫、お皿片付けたら戻ってくるから」




