開演十分前
十月最後の土曜日である今日、文化祭はその日程の半分を終えている。そして今、終幕への道のりを半分と少し行ったところだ。具体的に言えば午後二時三十分。付け加えれば、演劇の上映開始まで後三十分だ。
舞台上では、現在大道具係が急ピッチで作業を進めている。その甲斐あってか、開演三十分前にして、セットの設置は八割方の完成を見ている。美術に覚えのある奴らが苦心惨澹して作り上げたそれは、かなりの出来栄えだ。
その喧騒の中で、俺はと言えば、舞台裏と言うか横と言うか、ともかく角の方で邪魔にならないよう、セリフのおさらいをしていた。
「……ひび、五十嵐君」
出来うる限り気配を殺してぶつぶつと小声で呟くと言う、若干より少し大きいくらいに怪しい人と化していた俺に声を掛けたのは、小道具係として仕事をしていたはずの楓だった。
「おう、仕事はもう良いのか?」
「うん。後は私抜きで出来るから」
それはそれは。その手先の器用さを買われて小道具係に任命された楓は、その中でも中心人物としての地位を確立させていたはずだが。やはり噛み噛みの言葉を解読しているほど暇ではないと言うのか。それほど酷いわけではないが。
「……ひ、五十嵐君は、大丈夫?」
「おう、まあ練習はしてきたし、ここまできたらやるしかないしな。とはいえ、緊張はしてるよ。手汗が半端じゃないことになってる」
楓に見せた掌は、その言葉通り尋常じゃないほど湿っている。今なら上質なコピー用紙を一枚ずつ捲れる気がするほどだ。
「そっか。がんばって。香苗さんたちも皆で来るって言ってたから」
心温まる励ましの言葉だったはずが、心温まる脅迫の言葉と化してしまった。たとえ何のミスも無く――それが普通だが――やり遂げたとしても、今後事あるごとにからかわれると言うのに、ミスなどしようものならどうなることか。あの人たちの事だ、七十五日では済まされまい。
「……それなら、なおさら失敗は出来ないな」
「へぇ、中川さんって、響君の家族とも面識があるんだ」
どこかふて腐れたような口調を疑わしそうな顔で隠しながら、利香が現れた。楓とは別方向、フロアと繋がる扉から現れたと言う事は、おそらく今来たのだろう。
「……おう、利香」
残念ながら、俺の朗らかな挨拶でも利香の疑惑のこもった視線は緩和されなかった。それどころか、下手に話を逸らそうとしたせいでもっと鋭くなる始末だ。こういうのを、墓穴を掘ると言うのだろうか。
「……そ、それはそにょ、その、引越しの挨拶で……」
「ふーん、まあ、良いんだけど」
まったくもって良く無さそうな態度で話を切り上げた利香は、おもむろに舞台上へ目をやったかと思うと、感慨深そうに零した。
「……いよいよだね……」
「そうだな、ま、練習はとことんやってきたんだ、大丈夫だろ」
「……そうだね。いつも通りやれば大丈夫だよね」
自らに言い聞かせるように呟いた利香は、そのまま俺に向き直った。
「『本当に、大丈夫なのですか?』」
「『大丈夫だと言っているだろう』」
いきなりセリフをぶつけてきた利香に面食らいながらも、何とか返事に該当するセリフを引き出す。まあ、会話の流れ的にこれ以上は繋がらないから、ここでおふざけは終了だ。
「……五十嵐君!西里さん!ちょっと来てくれる?」
俺たちの名前を呼ぶ声に会話を切り上げれば、いつの間にか開演十五分前。そろそろ準備を始める頃合だ。
呼ばれた先にいたのは、小道具係と衣装係の数名。こちらを手招きし、早く早くと急かしている。
「……これ着て!」
押し付けられたのは簡素な衣服。いまどき部屋着でもこのシンプルさは無いだろうと言う半袖のシャツにズボン。これをみて思い出せるのは、中世ヨーロッパの農民だ。つまり、これは舞台で着る衣装なのだろう。服の採寸を取られたり、原型と思しき布を被せられたことはあったが、完成品を見るのはこれが初めてだ。
「分かった。注意する事は無いよな?」
「破かないようにだけ!」
打てば響くといえば聞こえは良いが、言ってしまえば俺の語尾に被さるようにして返事をした衣装係は、グイグイと俺を更衣室と殴り書きされたプレートの下がる幕の向こうへと押しやり、返事も聞かずに退路を断ってしまった。
聞こえないようにため息を吐きながら、緩慢な動作で制服に手を掛けた。
「……着たぞ」
着替えを終えて幕を開けたが、そこに衣装係の姿は無く、それどころか周辺に人はいない。誰もが忙しく駆け回っている中、不景気な顔をした主役なんてお呼びではないと言う事か。
「あ!じゃあこっち!」
ぼけらっと突っ立っていると、ようやく声がかかる。舞台の上で、役者たちが集められていた。とはいえ、セリフのある役は四人、しかもそのうち一人は登場が一分半もない。改めてみると、ずいぶんと閑散とした劇だな。まあ、それだってクラス全員誰か一人でも抜けると作業量が膨大に増える綱渡りのような役割分担だったのだから、本職は大変だ。
閑話休題。声のした方へと移動した俺は、そこで同じく衣装に身を包んだ利香を前に、立ち止まった。
「……お、似合ってるな」
「……ありがとう。響君も、なかなかだね」
「そりゃどうも」
利香を彩っているのも、俺と同じファンタジー風のワンピース。が、こちらは所々解れていたり破けていたりとぼろぼろだ。別に保存状態が悪かったわけではなく、仕様だが。
「それにしても……」
「……あんまり見ないでよ。どうかしたの?」
「……いや、懐かしいと思ってさ」
そう言った俺の目線で、利香も何のことか気がついたのだろう。気恥ずかしそうに顔を赤らめて、言葉の対照である、うなじの生え際で二つに分けられた髪の一房に触れた。
「……そうだね、中三のときにやめたんだった。けど、なんとなくこっちの髪型にしちゃって」
「いいんじゃないか?そっちも似合ってる」
はにかむように微笑んだ利香に、釣られて笑った。




