昔話に背を押され
初めて一人で辿る帰り道は、見慣れた風景の色合いが少しだけ違って見える。そんなことに僅かな新鮮さを覚えながら、楓は一人、バスを降りた。隣、もしくは少し前にあるはずの人影が無いことに、一抹の不安を感じる。が、あんな奴は知らない、とすぐに頭を振って頭から締め出す。問題の少年は、いまだ地学準備室で、ヒロイン役の部長と二人、少女マンガ的なセリフの応酬を繰り返していることだろう。
何せ、文化祭で発表する演劇の、主役に選ばれてしまったのだから。それは大役だし、人一倍の練習が必要なのも分かっている。ジャンルがラブロマンスなのだから、ヒロインがいて、最後には結ばれることも分かる。出なければ面白くない。そして、それに至る過程には、二人が接近し、傍から見ればいちゃつきにしか見えないようなイベントがあり、そして告白があるのも分かる。
けれど、理屈では納得しても、本能的な部分で否定する自分がいるのだ。そして、それのせいで、楓は今理由も分からずイライラしている最中だった。
だからこそ、ありもしない用事を口実に部活を早退し、ここ最近常に一緒だった響を置いて帰ってきたのだ。
しかし、あの二人から離れても、一向に苛立ちは消えない。それどころか、今頃部室で繰り広げられているであろう練習を想像するたびに増していくばかりだ。これなら、横で見ていた方がマシだったかもしれない。それでは一人で帰宅した分損ではないか。
そんな思考をめぐらせながら玄関扉をくぐると、丁度、香苗が通り過ぎるところだった。
「……あら?今日は早いんですね。風邪でもひきましたか?」
考えてみれば、香苗と二人になるのは、これが初めてだ。それは、響の母親である摩耶や、父親である宗一ともそうだ。間に響を挟まなかったことなど一度も無い。響がいないと同居人とも満足にコミュニケーションが取れない自分に嫌気が差しながらも、楓は首を横に振った。
「……そうですか、まあ楓さんが風邪なら、響さんも一緒に帰ってくるでしょうしね。じゃあ、どうかしたんですか?」
優しげな口調で話しかける香苗は、いつも響をからかっている人と同一人物とは思えない。包容力のある、大人だと思える雰囲気だった。
だから、楓も本心を吐露したのかもしれない。
「……響が、劇の練習してるきゃ、から。私は暇にゃ、なの」
「へぇー、響さんが劇を。どんな役なんですか?」
「……ラブストーリーの、しゅじんきょ、主人公」
「ほうほう、それはまた、面白そうですね……とりあえず、立ち話もなんですから、鞄を置いて着替えてきたらどうですか?」
そう言われて、楓はまだ、自分が靴も脱いでいなかったことを思い出した。
着替えも終わり、ここでも響が出て行ったことを確認しかけて自己嫌悪に陥りながらも居間に入ると、香苗がソファで洗濯物を畳んでいた。
「あ、横に座りますか?」
色分けされた籠に手際よく畳んだ洗濯物を入れながら、香苗が笑う。その自然な声かけに、構えていなかった心が跳ね上がるのを感じながら、楓はその誘いに乗って、香苗の隣に腰掛けた。
「それで、帰ってきた理由は、暇だから、だけじゃないですよね」
心臓が口から飛び出す寸前で、楓は何とか表面を取り繕う。まさか一言目から内心を言い当ててくるとは思いもしなかった。
「……何で、わきゃ、分かったの?」
「……当たりなんですね」
「……いらいらしちゃ、イライラしたの。練習中の響を見てると、この辺がじゃ、ざわざわするって言うか……」
自分の心臓辺りに手を置いて、その手を凝視する。尻すぼみになってしまった話を、続けようとは思いもしなかった。ただ、訳の分からない感覚を口に出してみるだけで、楓の心は落ち着き始めているのだ。
だから、香苗がまったく別の話題を振ってきたときも、空気を読んで話を逸らしてくれたのだと信じて疑わなかった。
「……響さんの相手役って、どなたなんですか?」
「……てんみょ、天文部部長の、西里利香って人」
響とは中学から一緒らしいとはいえ、香苗が知っているとは考えなかった。響はあまり、そういうことを家族に言う人とは思えなかったからだ。
だが、香苗は少々考え込むと、すぐに理解したようだった。
「……ああ!確か、中学から仲が良いみたいですね。どこかに出かけるときは、大体『利香とどこどこに行って来る』って言ってましたし。確か、響さんの部屋に写真があったはずですよ」
そう言って立ち上がった香苗は、居間から出て行った。
数分後。
戻ってきた香苗は、響の机に飾ってあった写真立てを持っていた。
「……そりぇ、それ?けど、それってクラスの集合写真だけじゃ……?」
「さすがにそれは知ってましたか。けど、これって後ろ側にも入るようになってるんですよね。これは、巧妙に隠されてますけど……」
写真立ての後ろをいくつか弄くった香苗は、満足したように笑って、心なしか形が変わったように見える写真立てを差し出してきた。
そこにあったのは、今よりも幾らか幼い響と二つ結びの少女が、食べかけの鯛焼きを交換している写真だった。
二人ともお互いと鯛焼きに視線を向けていて、カメラなど気づいてもいないのだろう。おそらく、一緒にいた撮影者が不意打ちで取ったものに違いない。
「……中二の頃の、響さんと西里さんですよ」
つまり、この二つ結びの少女は利香だということだ。楓に見せる、教師然とした、良くも悪くも大人そっくりの微笑ではなく、年相応の満面の笑み。響もそうだ。
「響さんの部屋を掃除していたときに、偶然見つけたんですよね。何でも、四人で出かけたときに、お友達に撮られた物らしいですよ。当事者だから、と言われて西里さん共々押し付けられたと、満更でも無さそうに言ってました」
幸せそうだ。苛立ちも忘れて、ただ純粋にそう思った。楓が入り込む余地などどこにも無い、そんな気にさせられる写真だった。
「……それを見て、何を思いましたか?」
「……」
返す言葉など無い。整理のついていない心をどう説明しろと言うのだろうか。
「……聞き方を変えましょうか。今、どんな気持ちを感じていますか?」
それならばと、自分の胸中を探る。絡み合った感情の糸を軽く解して、微妙に色の違うそれぞれの名前を、探し出す。
それは、苛立ち。不満、不安、嫌悪、幸福、欲求、諦念、願望、悲哀。まだまだ名前の付けられないざわつきはあるが、楓が見つけられたのはそこまでだった。
楓の微妙な表情を、香苗は鋭く読み取ったのだろう。何もかも見通すような視線で、楓を深く貫いた。
「……それで良いんですよ。……そうだ、少し昔話をしましょうか」
香苗は先ほどまでいた場所に腰を深く埋め、ここではないどこかを見つめながら、緩慢な動作で口を開いた。
「昔々、あるところに一人の女性がいました。高校時代から変わらない容姿で、数多の男性に言い寄られていたその女性は、誰と付き合うことも無く仕事に打ち込んでいました。
そんなある日、女性は同級生だった同僚に、一日、子守を頼まれました。九歳になる男の子の。言われた通り一日面倒を見て、それ以降関わることも無く、終わったはずでした。
しかし、その日以来、女性はその男の子のことが頭から離れなくなったのです。来る日も来る日も。その女性は、何かにかこつけて何度も同僚の家を訪れました。
そんな中、退職する同僚から、誘いの言葉がかかりました。家で、使用人をやらないか、と。雇用条件の良さと、何より男の子の近くにいられることがあって、女性はその家の使用人になったのです。
けれど、男の子はその頃まだ高学年になったばかり。すでに三十路を超えていた女性が、想っていい相手ではなかったのでした。
そうして、叶ってはいけない想いを胸に秘め、おどけたように振舞うことで自分を守りながら、女性は使用人としての生活を続けていくのでした」
これまでと比べて格段に長い話を終え、口を閉じた香苗は、いまだどこか遠くを見ながらただ座っていた。誰もいない家の中に、沈黙だけが降りる。
「……楓さん、あなたは、自分のその気持ちがなんだか分かりますか?」
首を縦に振り、肯定する。きっと、さっき名前を見つけた感情はすべて、嫉妬から派生したもの。そして、響が傍にいると嬉しいのに息苦しいのはきっと……
「……恋」
してしまっているのだ。響に。
「……叶う可能性があるのなら、諦めてはダメですよ」
やはり、香苗には見抜かれていた。写真を見たとき、心の奥底に生まれた一つを。二人の間に、自分の入る隙間なんて無いのではないかと言う微かな諦めを。
「……伝えないで後悔するよりは、きっと伝えた方が吹っ切れますよ。色々とね。……勇気さえあれば伝えられる、叶うかもしれないと言うのは、幸せなことなんですから」
寂しさの中に羨望を隠した笑みで、香苗が話の終わりを伝える。
「さて、楓さん、気は紛れましたか?」
「……ありがとう」
「それは良かったです」
さっきまでのシリアスな雰囲気を吹き飛ばすような、いつも通りの朗らかな笑顔で、洗濯物が入った籠を引き摺りながら、香苗は居間を出て行った。
一人残された楓は、今しがた自覚したばかりの感情を、ぽつりと呟いた。
「……私は、響が、好き」
途端に熱くなる頬を両手で包みこんで、楓はソファに沈み込んだ。
そんなことをしていたから、香苗が居間の戸口で呟いた言葉を、楓が認識することは無かった。
――――――響君が、後二十年早く生まれてくれればよかったのにね