気づき
突然の提案は、楓のしおらしい様子と、横になりながらの上目遣い、この空間の雰囲気など諸々を引き連れて、俺の脳と心臓を取り壊しに取り掛かった。
解体業者によって半分以上分解された脳みそをフル活用して、何とか日本語での返答を試みるも、脳みそが砂と入れ替わったかのように働かない。これならコンピュータの方がよっぽどいい働きをするのではないだろうか。
「……や、やっぴゃ、やっぱりいい。ごめん、変なこと言って」
俺の絶句を否定と取ったのか、楓がますます泣きそうになりながら自身の提案を取り消そうとする。いや、取り消した。けれど、さすがにそんな状態の楓を知らん振りして眠りこけるほど、俺の心臓は頑丈じゃない。
「……良いぞ」
気づけば、俺の口は勝手に声を発していた。けどまあ、俺に止める気は無いが。
「……怖いんだろ?俺も昔はそうやって香苗の布団とかに潜り込んでたから、気持ちは分かるしな。それで怖さが紛れるんだったら俺は別に構わない」
俺の声帯は独立しているらしく、マジックのように次から次へと言葉が飛び出していく。ただ、自分の意思とは反していないだけマシだろうか。気味が悪いことに変わりは無いが。
「……で、でも迷惑じゃ……」
「自分から言い出して何を今更。このベッドは元々一人で寝るには広いし、スペースには困らないからな。それに、怖いのは我慢できるようなものじゃないだろ」
その言葉に、ようやく楓は覚悟を決めたのか、上半身を起こした。布団を除けて床に降り立つと、俺と視線を合わせる。その目には、逡巡と安心の二つが混在していた。遠慮がちな足取りで俺のベッドまでたどり着くと、もう一度、確認なのか目を合わせる。
「……?」
「……」
ただただ無言で、自分の考えは行動で、相手の考えは行動と表情から読み取る。口を開けば、「やっぱりダメ」や「ちょっと待って」など、この状況を否定する言葉が出てしまいそうだから。それだけはダメだと、なんとなく理解していた。
だから、俺は口を閉ざしたまま掛け布団を捲り、楓が入り込む分のスペースを空けるべく移動する。もぞもぞと、寝返りと匍匐前進の混血みたいな動きでベッドの端まで移動した俺の背中に、ほんのりと温かい、弾力性を秘めた布が押し当たった。
声にならない悲鳴を上げる俺を他所に、それはもぞもぞと居心地のいい場所を探すと、恐ろしいことに寝返りをうった。さっきまで背中に当たっていた感覚はおそらく背中、つまり今楓は俺の方を向いているのだろう。が、確かめる勇気はない。
「……あったかい……」
「……そりゃ、人間だからな。体温はあるんだ」
下手な返しをしながら、楓にもう少し離れた方がいいと伝えるために俺も寝返りをうつ。何故そんなことをしたのかなんて説明できないが、一つだけ言える。さっきから俺の脳は正常に作動していない。
寝返りをうった先の風景は、楓の顔だった。
一ヶ月ほど前にも、同じようなことはあった。確かあれは初めて楓と出かけた日。映画館でだ。あの時も、鼻と鼻が触れ合いそうな、というか触れ合っていた距離だった。
それと比べるなら、目の焦点が合う距離である分緊張は少ないと思われる。ただ単純に、距離だけを比べるなら。
そう、この家の誰もが寝静まった夜中、このベッドの周囲百メートルには俺と楓の二人。そして、二人で同じ布団の中、虹彩のグラデーションまでもが識別できる距離。もう一つ付け加えるなら、あの時とは違い、真正面だ。
これらの理由から、俺の心臓が部屋中に響くのではないかと思うほど踊り狂っているのも頷けるといえるだろう。
現実逃避終了。
視界いっぱいに広がる楓の顔は、俺を見てふわりと綻ぶと、心なしか朱に染まった。その唇が、かすかに音を紡ぐ。
「……ありがとう。……それとね、頭、撫でて?」
いつもよりも少しだけ、甘えたような声音は、初めて聞くものだった。踊り狂う心臓によって押し出された血液が、頬を、頭を熱くしていく。それに誘われたのか、熱に浮かされたのか、俺はゆっくりと楓の頭を撫でていた。
思えば、これまで一ヶ月。例えば手や肩を掴んだりしたことはあっても、それ以上の接触は無かった気がする。もちろん、それくらいの関わりがある時点で特殊なのだろうが。
「……ずっとにぇ、ね、怖いときはお父さんとかお母さんがこうやってくれたんだ。怖くないよって言いながら。……代わりをさせちゃってごめんね」
なんとなく、気づいていなかったある側面を垣間見た気がした。ここは、俺の家。だから俺はさも当然のように過ごしていた。けど楓にとって、ここは婚約者、きっと楓の感覚ではある程度仲のいい友達の家でしかない。親のいないこの家で、知り合いのいないこの地域で、楓は一人で一ヶ月、暮らしてきた。もちろん、俺も、母さんも、ああ見えて父さんや香苗だって、気を使ったし、不自由が無いように行動してきたつもりだ。けれど、どれだけ関わりがあったとしても、他人の家は気まずいものだ。きっと。
「……なあ、楓」
気がつけば、全自動お喋り声帯はまたも勝手に喋りだしていた。
「……お前さ、遠慮しなくて良いからな。甘えて、頼って、良いんだからな」
どうしてこんな言葉が出るのか。分からない。けれど、それだけは知って欲しかった。それは、「気を使う友人」の言動でしかないのかもしれないけれど。
「……?分かってる。響は、優しい」
何が分かったのか分からない返事と共に、楓の目は次第にふやけるようにして閉じられた。怖がったまま寝なくて良かった。心の底から思う。
ただ、楓が来た初日にも思ったが……
……これ、寝られるわけ無いよな。
何せあのときよりも倍以上近い距離、目と鼻の先で楓が寝息を立てている。その顔は安らかで役に立てたのなら良かったが……ってそういうことじゃない。
寝返りをうつべきだ。例え振り返ったらゴキブリを見てしまおうと、お化けが浮いていようと、反対方向を向くべきだ。
が。そう決意した俺の手は、いつの間にか楓が掴んでいた。
「……んぅ……ひびきぃ……」
いやあの、その手を離してくれませんかね!?
そんな俺の心の叫びは完全回避され、それどころかその手を辿って、徐々に楓が近づいてきている気がする。きっとそうだ。
パニックに陥り、本当に叫び声を上げかけた俺は、自制心を予備兵力まで動員してそれをこらえる。きっと物話なんかでは、唇を噛み締めすぎて血が出るほどだろう。
眼前に広がる楓の寝顔を瞼でシャットアウトして、柵を飛び越える羊を待った。