本当にあった恐ろしい話
香苗の口撃に耐えながら夕飯を食べ、父さんが風呂に消える。ここ三日間、過ごして来た通りの日常。ただ、今日は少し違った。
「あら、今日って、本当にあった恐ろしい話なのね」
母さんが、何気なく呟いた一言。それが空間に溶け込み、耳朶を打つに伴って、俺と楓の動きが止まった。
「……あら、そうなんですか?」
「嘘を吐く必要も無いでしょう?ほら、香苗も見てみなさいよ」
「へぇー、もう夏も終わりなのにやるんですねぇ」
再開した動きがもう一度止まる。俺も、楓も。これ見よがしに会話する母さんと香苗の声は、いくら居間が広いとは言えここまで届く。そして、俺は、おそらく楓も、怖い話は苦手なのだ。
観たくないのなら観なければ良い。別の番組を観るとか、テレビの電源を入れないとか、方法はいくらでもあるし、実行するのだって難しくは無い。が。俺の家族は皆、ホラー系が大好物なのだ。今年は父さんたちが忙しかったため、ホラー系の番組を観ることは無かったが、今日はそうも行かないだろう。そして、その場合俺は強制参加となる。父さんと香苗が巻き起こす災害の前に、ただの人間である俺の力は到底及ばないのだ。
そして、また、惨劇は起こる。
「おーい、摩耶、良いぞー!」
風呂場へと消えた母さんと入れ違いに父さんが出てきて、香苗からホラー番組があることを知らされている。爛々と輝きだした目は、すぐに俺と楓の方へ向けられた。
「久しぶりに全員で見るか!よし!そうと決まれば酒とつまみを買ってこなきゃならんな!私と摩耶と風宮さんと響と楓の五人だから、一ダースもあれば十分だな!」
「ちょっと待て!俺と楓を勘定に入れるな!未成年だ!」
「何を細かいこと言ってるんですか。私が響さんくらいのときにはもう飲んだことがありましたよ?」
「今、そんなカミングアウトいらないから!というか、あんたらは保険の教科書に出てくる親戚か!?」
「そんな微妙な例え方をしなくても、私の気持ちは変わりませんよ?酔った響さんが見たいだけなんですから」
「それがダメだって言ってんだろ!お願いだから話を聞け!」
俺の悲痛な叫びも、香苗と父さんには届かない。それどころか、隣に座っている楓にまでも、その牙を伸ばし始めた。
「楓さんもそう思いますよねぇ?知ってますか?前に響さんが間違えてお酒を口にしたとき、顔を真っ赤にしながらフラフラと歩き回って、誰から構わず抱きついたりしてたんですよー?」
「それ小五の時だろ!懐かしすぎる黒歴史を持ち出してくるなよ……」
「……ちょっと、見たいかも」
「楓!?お前までそっちに行くなよ!せめてお前だけはこっち側でいてくれ……」
「大丈夫」
「ホントか?」
勢いよく振り返った俺に、やけに自信満々な楓の顔が目に入った。ただ、顔はほんのりと赤くなっている。その唇が、音を紡ぐ。
「わ、私は、抱きつかれても平気だきゃ、だから」
「いや、そんな心配はしてないから!もっと根本的な部分で止まってくれ!」
場が混沌を極め、楽しんでいる香苗と半ば本気の父さん、どちらか区別のつかない楓。三人が三人とも自分の主張――香苗は煽り専門だが――を続け、最早俺一人ではどうしようも無くなったとき、
「……まったく、うるさいわね。もう夜なんだから静かにしたらどうなの?」
母さんが風呂場から出てきた。
凍らされたかのように固まる俺たち。次いで油の切れたロボットのような動作で振り向いた父さんも、母さんの射抜くような眼光に肩を震わせ、停止した。
「まったく、未成年の飲酒は法律で禁止されてるでしょう。私とあなたと香苗の三人なら、六本もあれば十分ね。香苗、響と楓ちゃん連れてお酒とおつまみ買ってきてくれない?」
「「「はい!」」」
全速力で支度を整え、家を飛び出すまでの所要時間約二分。居間から玄関まで、全速力で駆け抜けても四十五秒はかかることを考えれば、驚異的な速度だ。とはいえ、俺の支度なんて、もしものための財布と携帯を部屋から持ってくるくらいだが。
まあ、結論としては母さんの統率力は半端なものじゃないということだ。
「……響さんと楓さんはまだしも、なんで私まで動員されたんでしょうね?」
「酒類は二十歳以上じゃないと買えないからだろ。俺たちはまだ高一だから、誤魔化すにも無理があるしな」
「……じゃあ、私は?」
「さあ。何かに必要だと思ったのかもしれないし、俺と香苗だけで行かせることに不安を感じたのかも知れないし、ただ単に楓と父さんを一緒にしておくのが嫌だったのかもしれない。使われる側の人間には、使う側の意図なんて分からないな」
「あら、たぶんなんとなくだと思いますよ?私と響さんの名前を言ったら、いつもの感じで楓さんも呼んでしまった。訂正するのも面倒だから良いかな、とかそんな感じで。奥様は昔からそうでしたから」
何か、もう少し頭の切れる人かと思っていたらが。まあ、よく考えれば父さんのノリについて行ける人なんだから、常人であるはずが無いのか。というか、学校だけでなく家族にも、俺と楓は一セットで扱われているのか。
ちなみに、学校では、『付き合っている説』も根強く残っているものの、ほとんどの奴らが『世話焼き説』を信じている。まあ、簡単に言えば俺が世話を焼いていて、楓がそれを享受しているという説。まあ、その認識が広まることにデメリットは無い。
そうこうしている間に、通りの向こうに控えめなネオンをつけたスーパーが目に入る。家がいつも利用するスーパーだ。
手早く目的の物を買い込み、帰路につく。香苗が少し焦っているのは、きっとそろそろ九時になるからだろう。観たい番組のために焦るなんて、子供か。
グダグダとどうでも良い会話を続けながら帰路を辿り、玄関扉を開ける。居間に入れば、丁度番組の冒頭が始まったところだった。
「あら、始まっちゃってましたか?遅くなりました」
「いいのよ、まだ始まって十秒も経ってないわ。買ってきたお酒は飲む分だけ出して、後は冷蔵庫に入れておいてちょうだい」
早くも画面から視線を離そうとしない両親にばれないよう、居間を出ようとした時。
「あら、二人ともどこへ行くんですか?二人用のジュースも買ってきたんですから、一緒に観るのでしょう?」
タイミング悪く、香苗が声を上げた。
「ほら、早く座らないと始まるぞ!こういうのは目を放した隙にどんどん話が進んで行くからな!」
香苗の言葉にノッて来た父さんが騒ぎ、母さんに睨まれて黙る。どうやら、俺が観る方向で脳内決定がなされているらしい。いつものことだ。
ただ、大人しくそれに従うわけには行かない。たとえ負けると分かっていても。
「……いや、俺たちは別に観たくないから、部屋にいるから」
「あんなことやそんなことをするんですか?」
「何!それはまだ早い!許さんぞ!」
「しないわ!何を言い出すんだあんたらは!」
またも母さんの一睨み。どうも機嫌の悪い母さんの視線には、バジリスク的な力があるらしい。人を超えた変態を黙らせるほどの。
「……まあそれは置いておきましょう。でもなんで観ないんですか?」
「……知ってるだろ。苦手なんだよ。俺は映像になるとダメなんだ」
「……根性が無いんですねぇ」
「なっ!何でそうなるんだ!」
「ダメだぞ響!男たるもの化け物なんぞ、平気で追い払うくらいで無いと!」
「男であることのハードルを跳ね上げるんじゃないわ!」
ただでさえ高いというのに。こういうものが苦手な男だって、別に悪いことではないと思うのだが。そうではないらしい。この人たちは変なところで古風だ。
「……楓さんもですか?」
「……わ、私はべちゅ、べ、別に、だだだ、大丈夫」
「信憑性の欠片も無いだろ!無理すんなよ」
青ざめ、冷や汗を流しながらの返答も、香苗と父さんに火を注ぐだけ。嘘だと分かっていても、利用できるものは何でも使う。悪魔のような輩だ。
「ほーら、楓さんだってそう言ってるんですよぉ?良いところを見せなきゃならないですねぇ?」
語尾に母音の小文字がつきそうな、うざったらしい口調。変態二人に毒されて平常のテンションではいられなくなっていた俺は、香苗の思惑通り、大声で宣言していた。
「分かった、分かったよ!観れば良いんだろ観れば!」
……しまった。
後悔先に立たず。言ってしまった言葉は取り消せない。現に、我が意を得たりと勝ち誇る香苗の横で、父さんは騒ぎ出している。
「言ったな!観るって言ったからな!男に二言は無いな!?」
「あーもう、観れば良いんだろ観れば」
「……いい加減に黙りなさい」
「「「「はい」」」」
一つ目の怖い話を始めた画面に視線を固定したまま、母さんが凄む。その身体から発せられる凍てつくような、禍々しいオーラは俺たちを黙らせるには十分だった。
やはり、目には目を、父さんには母さんを。それを今日、俺は身を持って学んだ。
おどろおどろしい音楽と共にタイトルが流れ、平凡な日常を過ごす男女が……
〈キャァァー!〉
画面の女性が絹を裂くような悲鳴を上げ、俺の手が握られる。
……俺の手が、握られる?
一瞬でもお化けかもしれないと思ってしまった自分が馬鹿らしい。言い訳をすれば、丁度今女性が肩を掴まれるシーンをやっていたから、そんな気がしてしまっただけだ。
閑話休題。俺の手を掴んだ楓は、画面と俺へ交互に視線を向けて、怖さを我慢しているのかしていないのか分からない態度でテレビを見ている。俺は俺で誰かの温もりがすく傍にあるというのは安心するため、怖さを紛らわせるためにも、この状況は歓迎すべきだ。
怖いもの観たさなのだろうか、俺も楓も結局最後まで席を立つこと無く、番組は終わった。しかし、怖い話が終わった後、ナレーションやコマーシャルを挿んでもなお背筋の冷たさは消えない。
「……着替えるか」
自らを奮い立たせるようにそう呟いて、着替えを取りに立ち上がる。が、右手は依然として解放されていないため、これでは、寝室に行くどころか椅子から立つことさえままならない。仕方が無く、うつむいたままの楓に、出来るだけ優しく声を掛けた。
「……楓、大丈夫か?」
「大丈夫じゃにゃ、ない」
「とりあえず、お前も着替えがいるだろ。ほら、行こうぜ」
いまだぼーっと椅子に腰掛けている酔っ払い三人に背を向け、廊下の電気を点けた。
居間から廊下を通り、部屋で着替え、再び居間に戻ってくるまで、俺たちの周囲は一度たりとも電気が途絶えることは無かった。当然といえば当然だ。怖いのだから。まあ、そんな理由だから、楓が一度も窓の外や鏡を見ず、俺の右手にしがみついたままだったことも頷ける。俺としては色々と気まずかったけど。そして、俺はあまりそういうのを引き摺るタイプではないため、体を動かしてある程度たった今、さっきほど怖いとは思わない。というか、平気になりつつもある。と思う。が、楓はそうでは無いようで、
「……ひ、響、ちょっと来て」
どこへでも俺を連れて歩いている。寝室でも、俺が着替えようと隣の部屋へ向かっただけで半泣きになってしがみつき、結局部屋の対角線上で、背中合わせに着替えることと相成った。あの時は、脳みそが沸騰するかと思った。そんな思いは、初めて同じ部屋で寝たとき以来だ。いや、あれよりも酷いかもしれない。
そして、現在も楓は歯を磨くのに俺を傍に置いている。さっきも、後ろに立つ俺を鏡越しに見て、危うく悲鳴を上げそうになっていた。というか、空気を飲み込むような短い悲鳴を上げていた。何なんだろう、この理不尽さは。
「……こんなことになるなら、観なきゃ良かっただろ」
「……だって、皆大丈夫みたいにゃ、なのに私だけって嫌だったんだもん」
……さいですか。何だその、子供のような意地は。小学生か。まあ、気持ちは分からなくもないが。俺だって、香苗と父さんの口車に乗せられて、まんまと観させられたわけだしな。けど、楓があそこで素直に「嫌だ」と言っていれば、こんな面倒なことにはなっていなかったのかもしれない。まあ、そこは引き分けってことで。今更言っても詮無いことだ。
歯を磨き、香苗の片づけを手伝い、父さんと母さんが平気そうな顔で寝室へと消えた後。 俺たちも、自分の寝室に設置されたベッドへと潜り込んでいた。
「……楓、電気消すぞ」
「……うん」
蚊の泣くような声での返答。さすがに気の毒になって、俺は楓の方へと寝返りをうった。
「大丈夫……じゃ無さそうだな」
「……ねぇ、響。――――そっちに行っても良い?」
「……は?」