ハイヒール
僕が彼女を目で追うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
彼女のことはずっと前から知っている。ずっと前だなんて言い方はしたけれど、僕はまだ十五歳で、十五年の人生にしてみれば、十年前はずっと前というよりは「最初から知っていた」と言いたいくらいの期間だ。
幼い頃から、僕は彼女を「近所のお姉ちゃん」として慕っていた。親同士も仲がよく、時々一緒に外食に行くこともあるし、七五三などの行事ごとも共同で行っていたこともある。自然と、彼女とその両親は僕にとって家族に近い存在になっていた。
僕は彼女との思い出を辿り始める。頭の中の、胸の中のきらきらと光る大小のかけらをひとつひとつ手に取り、眺めていく。
さあ、一番古い記憶はどれだろう。
僕が呼びかけると、いくつかの記憶がそれに応えて浮上してきた。どれが一番古いとは言い切れないが、おそらくほとんど同時期の記憶だろう。
それらの記憶は、僕が幼稚園に入る前だろうか、入った頃だろうか。ともかく、そのくらいの年頃の記憶だった。
最初に浮かんだ記憶は、鮮やかな夏の思い出だ。
僕と彼女、どちらの家の庭だったかは覚えていないけれど、空気で膨らむ小さなプールで彼女と遊んだ記憶がある。
記憶を覗き込むと、断片的なシーンだけが残っている。
プラスチックでできた、半透明の黄色い水鉄砲。本体を水の中に突っ込んで、小さな蓋を開けて指を使って空気を抜き、水を補充するタイプのものだ。大のお気に入りで、壊れるまで使ってた。
洋梨のような形に膨らんだ水風船が一面に転がり、庭はカラフルに彩られていた。
彼女は白いワンピースの水着で、僕はお母さんが選んだ星柄の青い水着だった。
彼女に声を掛けられた振り向きざま、ばしゃりと水をかけられた。驚いた拍子に鼻で水を吸ってしまい、僕は泣いてしまったんだっけ。思い出して、鼻の奥にツンとした感覚が蘇る。
最初は笑っていた彼女は、なかなか落ち着かない僕を見て心配そうな顔をしていたっけな。
お母さんに呼ばれて、二人して振り返った。みずみずしい真っ赤なスイカがお盆に乗っている。縁側に腰掛けてそれを頬張っている内に、泣いていたことなんかすっかり忘れていた。
ああ、そういえば青銅製の風鈴が鳴っていたな。風に揺れる涼やかな音色が耳に蘇る。
隣に座った彼女は両足をぱたぱたと振りながら、白い水着が汚れることも気にしないでスイカを頬張っていた。
次に思い出したのは、冬のスキー場の真っ白な思い出だった。
僕は彼女と二人、子ども用のスペースではしゃいでいた。お母さんたちは、どうだっただろう、きっと僕たちを見守れる距離にはいたのだろうけれど。
はじめはスキー場の受付で真っ赤なそりを借りて、彼女と二人で斜面を何度も登り、何度も滑った。
そりは、当時の僕一人には大きすぎて、体格が僕と変わらない彼女と二人で一台を借りた。二人がかりで運んで、二人で一緒に乗っていた。
レンタルしたショッキングピンクのウェアと、真っ白なニット帽を被った彼女は決して前の席を譲らなかった。僕はそりの手綱を握る彼女に自分の命運を任せて、彼女の腰にしがみつきながら風を感じていた。
僕の来ていたレンタルウェアは、男の子ということを配慮されたのか、濃い青色だった。色なんてなんでもよかったけれど、本当は彼女とお揃いがよかった。
僕たち二人の様子が微笑ましかったのか、僕と彼女が手を繋いでそりを曳きながら斜面を登る様子は両親が撮影した写真に収められていて、今も分厚いアルバムに挟まれていたはずだ。真っ赤なそりと、ショッキングピンクの彼女、そしてブルーの僕が真っ白な雪景色に映えて印象的な写真だったからよく覚えている。
「なぁなぁ、次は雪だるま作ろ?」
そり遊びに飽きた彼女は、僕を雪だるま作りに誘った。
自分でそりを運転してみたかった僕はしばらく渋った覚えがあるが、きっと僕のことだ。結局彼女に押し負けてそりを手放したのだろう。僕がそりを運転した記憶は、探すまでもなく、見当たらない。
三つ目に思い出した記憶は、咲き乱れる桜と芽吹いた緑に彩られた春の公園でのことだ。
当時の僕が好きだったキャラクターが大きく描かれたシートの上に皆で座り、彩り豊かな弁当箱を囲んでいた。僕の好きな唐揚げや、彼女の大好きな甘い卵焼きも入っていた。その時初めて食べた鱈子入りのおにぎりがとても塩っ辛くて、なんだか大人の味に感じたことも覚えている。
たしかあれは、花見を兼ねたピクニックだったように思う。
遊び道具はなにもなくても僕と彼女は広い公園を楽しげに駆け回っていた。今思えば、どうしてあんなに楽しかったのだろう。
そうだ、何か自分たちの中でルールを決めて、それに則した形ではしゃぎ回っていたのだ。ごっこ遊びの一種だったんじゃなかったかな。
今はもう気恥ずかしくてできないな、と少し寂しい気持ちになる。と同時に、なんだかくすぐったい。今思い出しても、なんだか照れてしまう。
走り回る僕たちをお父さんが呼んでいた。ちゃんと食べてから遊びに行け、みたいなことを言われたんだっけ。きっとそうだろう、お父さんのことだからそう言っていたに違いない。
彼女と顔を見合わせて、同じように唇を尖らせた。お互いの表情を見て、また同じように噴き出した。
そういえば、今はあんな風に全力で走りまわってないな。走るとしても体育の授業くらいで、あれはそんなに楽しいとは思わない。何が違うんだろう。
そういえば、秋の思い出はどうだっけ。僕の呼びかけに、僕の脳みそは古い記憶よりも先に、新しくて鮮明な記憶を差し出した。
これは、いつの記憶だっただろう。そんなに遠くはない日の出来事だったはずだ。
背も髪も伸びた彼女が、ハイヒールを履いて僕のうちの前に立っていた。
似合わん。そう思った。なんだか、不機嫌になりながら。
遠くに感じたのだ。ずっと僕の近くにいた彼女が、急に大人になってしまった気がして。
僕との違いを感じ取ってしまったのだ。ずっとずっと意識していなかった、彼女の女性としての部分を見せられた気がして。
―― なんだよ、お前、そういうのじゃなかったやん。
今思えば、そんなことを考えながら不機嫌になっていたのかもしれない。
「どう、似合うかな、こんなの初めて買ったんだけどさ」
そう言ってくるりと回った彼女に、僕はなんと言ったんだっけ。なんとなく訛りも抜けてきた彼女の口調は、言葉にできないしこりを僕の胸に残した。
僕の返事を聞いた彼女は、少し悲しそうに笑った気がする。たぶん、似合わんとか、まだ早いやろとか、そんなことを言ったんだろう。言ってしまったんだろう。
「今からお出かけなんだ」
彼女がそう言って、くすりと笑う。僕はますます不機嫌になった。ひゅう、と肌寒い風が吹いて、落ち葉が舞った。地面に落ちて、かさかさと音を立てた。
「どこでも行ったらいいやん。僕も、友達と約束あるから」
そう言って背を向けた。後ろで、彼女はどんな顔していたのだろう。
彼女は、あの時、誰とお出かけだったのだろう。
そうだ、思えばきっとあの時、僕は彼女を女の子として意識したのだ。
たぶん、どこかで、その前から気にはなっていたのかもしれない。でも、不機嫌になったのは違和感のせいだったのか、独占欲だったのか。わからないけれど、色んなものが混ざっていたのかもしれない。
僕がはっきりと彼女に異性としての好意を抱いたのは、あのハイヒールを履いた姿を見た時なのだろう。
自分自身で選んだのであろう、流行りを取り入れたどこか大人びた服装で、僕の前で少し照れくさそうにくるりと回った彼女に、僕は見惚れていたのだ。
そして、彼女と一緒にどこかへ行く誰かに、嫉妬していた。
初恋なんてもっと前に済んでいる。その時、想いを告げる前に恋に破れた僕をからかい半分に慰めたのは彼女だった。だから、僕自身彼女に恋心を抱くなんて、ましてや既に抱いていただなんて思わなかったし、彼女はきっと今だって僕のことを男として見てはいないのだろう。
彼女の家族以外の誰よりも、僕は彼女の近くにいるはずなのに。その立場が僕を苦しめる。
傍にいたい。でも、幼馴染としてじゃなく、男として、傍に置いて欲しい。
あの時、似合うよと言って笑えていたら、彼女も僕が大人になったと思ってくれただろうか。少なくとも、あんな風に悲しそうに笑わなかっただろう。
今からでも、間に合うかな。
似合うよって言ったら、喜んでくれるかな。
いつの間にか、この頃の彼女は化粧をするようになっていた。どんどん、女の子になっていく。置いていかれるようで、僕の心はそわそわと落ち着かない。
追い付きたい。彼女に認めて欲しい。
もしも、好きやで、って言ったらどうなるのだろう。
笑ってあしらわれるのが、目に浮かぶようだ。きっと本気にしてはくれないだろう。
春になったら、僕は高校生になる。
高校の制服を着て背も伸びた僕が、彼女に自分の気持ちを話したら。まっすぐに向き合ったら。彼女は 僕に大人を感じてくれるだろうか。
記憶に留めてくれるだろうか。
少しは見る目を変えてくれるきっかけになるだろうか。
僕にとっての、あのハイヒールみたいに。