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003◇隣人◇痴漢道

☆☆☆


 道場から出た時には、既に陽は落ちている。夏に近付くに従い、遅くまで明るい時間が続くようになったが、それにも限度が有ると云うものだ。

 シャワーを浴びてさっぱりとした体に、生温い風が微妙に鬱陶しい。

 ジンワリと浮かぶ汗は僅か乍ら不快を伴い、私は多分顰めっ面をしたのだろう。

 微かな含み笑いに、ビクリと振り返る。咄嗟に構えを取ったのは、女子高生的にアウトかも知れない。


「先輩っ。もう!脅かさないで下さいよ!」


 気配が無いのも道理だった。この二人は道場主の縁者で、兄妹共に師範代並みの実力の持ち主だった。師範代「並み」……と云うのは、これまた二人揃って「面倒臭い」と昇段試験を受けないからだ。

 叩きのめすと正当防衛でもコチラが犯罪者になりそうだし……と、佐倉兄が呟いたのは、多分気の所為だったに違いない。と、私は思い出すだに祈っている。

 先輩と呼んだが、彼女も兄のほうも、とっくに成人した社会人だ。寧ろ指導してくれるから先生と呼んだ方がしっくり来るんだけど、先の事情から段位は私の方が上なので、微妙だがこの呼び方で落ち着いている。


「深雪ちゃんは確か歩きだったね。」

「はい。」


 因みに先輩と呼んだのは妹さんで、兄は知らん。佐倉兄は何か、ちょっと怖いんだよね。男の癖にキレイで色っぽくて、だけど何を考えてるか解らなくて、実は苦手。

 今も倦怠感と色気を振り撒き乍ら、つまらなそうにしてる。

 先輩は優しくて、いつも私が遅くに一人で帰るのを心配してくれる。同じ血を持つ兄妹とは思えないね。


「大丈夫ですって!あそこの地下道通ったら直ぐですから!」


 佐倉兄妹に比べたら弱いけど、私の強さも中々のモノだと自負が有る。痴漢も引ったくりも撃退出来る……とは云わないが、と云うか。前に云ったら怒られて、ナイフ等の刃物を持つかも知れないし、そうで無いとしても犯罪者の心理など判る筈も無いのだから逃げる事に専念しろと、こんこんとお説教された。

 因みにお説教したのはもちろん先輩で、佐倉兄は興味が無さそうだった。


「知らない人が居たら逃げるんだよ?知ってる人でも油断したらダメだよ?」


 先輩は小さな子供に云い聞かす口調だ。先輩の口調は聞いての通り、女性らしい丸みに欠ける。キレイな女性だけど、そして雰囲気も穏やかで優しいんだけど、何処か柔らかさに欠ける。何でだろう?だって私なんか真似出来ないくらいの、上品で優雅な物腰なんだよ?それは柔らかい動作と云える。でも、柔らかくない。自分でも何を云いたいのか、よく解らないけど。

 こう……無骨さとか粗野とか、そんなのは欠片もなくて、本当に品が良くてカッコいいんだけど。なんて云うか、女性らしく無いと云えば語弊が有るし。……女性の匂いがしない?と云う感じかな?女性らしいまろやかな感じが一切無いんだよね。うん。

 だからかなぁ?

 先輩と居ると、佐倉兄とは別の意味でドキドキするの。

 優しくてカッコいい男の人に心配されてる気分になるんだ。


「だから大丈夫ですってば。」


 でも、実際には私よりキレイなお姉さんな訳で。

 私の家は直ぐそこと呼べるくらい近所で。

 キレイなお姉さんに短い帰路を心配されるのは、何か…擽ったいけど、ちょっと複雑だったりもする。


「逃げられなかったら殺す気でイケ。」

「……………はい?」


 やっと口を開いたかと思えば、物騒極まりない言葉を聞いた気がする。気の所為かな。幻聴認定して良いかな。


「そうだな。殺す気……は大袈裟だが。捕まったら、女の子のチカラは結局男に敵わないからね。君が傷付いたら、沢山の人が悲しむんだからね?」

「………はい。」


 同じ言葉だけど、先輩の真摯な眼差しに、私も真面目に頷いた。

 本当に大袈裟だと思うけど、万が一そうなった時には、ちゃんと過信せずに殺す気構えで行こうと思った。同じ女性から云われた台詞だから、素直に納得出来たのかも知れない。

 確かに、技では無く単なる腕力勝負になると、私のチカラなんか大したモノでは無いのだ。

 私は心配してくれた事にお礼を告げて、先輩に挨拶して別れた。


 あ、一応兄のほうにも挨拶したよ?



☆☆☆


 その地下道は痴漢道と呼ばれるくらい痴漢が多い。先日もブラウスの前を破られて、泣きながら逃げる姿を保護された中学生の女の子がいて、ご近所に戦慄が駆け巡った。痴漢道での犯行がまた一件、人の記憶に追記された。ご近所限定だけど………。

 ご近所では有名な痴漢道だが、その戦慄も脅威も何処かしらショボい。

 いや。女の子には重大だけどね。でも皆通るけどね。

 因みに私は十七年間、一度も痴漢道で痴漢を見た事が無い。

 先輩は心配してくれるが、世の中ってそんなモノだよ………。

 だが。

 痴漢との邂逅が無いことを喜ばしく、しかし切なく考えている最中に。

 それは、起きた。

 気配は無かった。

 なのに………。


 不意に、背中に弾む手が触れた。


「わっ♪」


 背に触れたそれが手の平だと気付く前に、私は左肘を引き、右手の鞄を後ろに引き遠心力で左回りに体を回転していた。

 同時に右脚を上げ、どうやら肘が鳩尾に入った様子の前屈みの男に蹴りと勢いのついた鞄を凶器にしてぶつけ……ようとしたのだが。


「わ?」


 わっ!とか云ったよね?

 勢い余って鞄はぶつけてしまったが、何とか蹴りは止める事が出来た。

 ポンッ!と背中を叩いた手の平は、強い力を持たなかった。同時に発せられた声は、明らかに友好的だった。


「ええと。」


 一応、二歩三歩と下がり、少しだけ距離を取り、私は男を見定めるように眺めた。

 前屈みだった男は、鞄の直撃で向こうを向いて呻いている。

 そして。


「酷いよ……深雪ちゃん。お茶目な冗談だったのに……。」


 漸く上げた顔は、隣人のものだった。


「………ご……ごめんなさいっ!!」


 お隣さんだったよ!

 私は周章てて頭を下げた。良かった!蹴らなくて!

 でも肘鉄と鞄はぶつけた後だ。

 私は何度も頭を下げた。

 ペコペコ謝ると、隣家のお兄ちゃんは苦笑して許してくれた。


「こんなとこで驚かせた僕も悪かったし。」


 寛大なご処分、有難うございます。

 うう、頭をグリグリしないで下さい。許してくれたんじゃ無かったんですか!?

 解ります。秘かに怒ってますね?

 そういやお兄ちゃんは昔から仕返しを忘れない人だったよ。


「しかし強くなったもんだね。道場の帰り?」

「うん。お兄ちゃんはお仕事?残業ってこんなに遅くまでするの?」


 拳でグリグリされた頭をさすりつつ、私はお兄ちゃんを見上げた。

 お兄ちゃんは。


「うちは特殊だからねぇ。拘束時間は少ないけど、シフトはバラバラなんだよ。」

「え?そうなの?」


 それは知らなかった。お兄ちゃんが凄いエリートだって話は、ご近所の噂話をする母親から仕入れているが、勤務時間の話などは聞いてない。

 シフト制って事だよね?だったら土日に出勤したり、平日の昼間に家に居たりって場合も有るのかな。

 質問してみたら頷かれた。


「何?まだ高校生なのに色んな勤務体系のリサーチ?」

「んん。まあ、そんなとこです。」


 嘘。お兄ちゃんだから気になるだけ。って云うか、この人鈍すぎる………。

 何となく落ち込んで俯いたら、頭を撫でられた。


「濡れてる。」

「ん。道場でついでに髪も洗うから。」


 臭くなるから我慢出来ないんだよね。長い髪を洗うのは、最初は何だか気が引けたけど、先輩がシャンプーとトリートメントを毎回持参してるから真似する事にした。やはり汗を流すだけでは落ち着かないんだもん。

 冬は乾かして帰るから、時間掛かるのが難だけどね。今の時期なら洗いっぱで、タオルで水気を拭ってるけど生乾きな感じかな。

 手のひらが、濡れた髪を確かめる様に後頭部に移動する。髪を鋤いて、うなじに手が掛かる。ドキドキして、息が苦しくなった。

 いつも、お兄ちゃんは当たり前のように私に触れる。

 頭を撫でて、髪を鋤いて、うなじを擽るように指が、手のひらが触れて。


 いつも。

 私は息が止まる。

 ドキドキして、息をするのを忘れて。

 手のひらが、少し力を込めて。

 私は促されるまま、お兄ちゃんを見上げる。


「また、暗示が解けてるのか。」


 お兄ちゃんの言葉に、私は首を傾げた。

 何も、考える事が出来ない。考える必要も無い。私は、ただ。お兄ちゃんに従うだけだ。

 この人の言葉に従う事が、私の一番大切な仕事なのだから。






 時間の経過が、いつも解らなくなるんだけど。

 ぼんやりと見上げると、お兄ちゃんがニッコリと笑う。

 キレイな顔。人間じゃないみたいな美貌が、こんな時は特に凄みを増す。

 どんな時か?

 よく解らないけど、何か……今みたいに頭を撫でられた時とか。触られてドキドキし過ぎて、私がお兄ちゃんを見る目が、特に過敏になるのかなって思う。

 お兄ちゃんの美貌は、佐倉兄にも勝てると思う。そして、満足そうに嗤うその笑みは、佐倉兄の色香に対抗出来る気もする。

 いや。対抗してどうする……とは思うけど。


「いくら暖かくなってきたからって、濡れたまんまじゃ風邪ひくぞ。早く帰ろう。」

「………うん。」


 ぼんやりと、私は頷く。

 手を曳かれて、何をされたんだっけ?と考える。

 そう。頭を撫でられたんだよね。

 濡れた髪を確かめるように、撫でられて、髪を手が…指が…鋤くようにして。うなじに触れた。

 そんなのは、いつもの事だ。

 なのに、意識するあまり、うなじに痛みすら感じる。いつも、お兄ちゃんが触れた箇所が熱くて冷たくて、鋭い痛みと鈍く続く痺れを感じる。


 意識し過ぎてるのは自覚している。

 お兄ちゃんにとっては、特別でも何でもない事だろう。

 小さい頃からお兄ちゃんは、人の髪に触れるのが好きだから。

 よく、髪を編んだり結ったりもしてくれて。

 ご近所の女の子は。女性は。多かれ少なかれ、お兄ちゃんに髪を弄られた事がある。

 大人になったら、美容師になると、みんな信じてたっけ。


 結局は、お兄ちゃんは頭が良いし。良い学校も出たし。髪を触るのは、趣味の範囲におさめて、エリートとかいう道を歩いてる訳だけど。

 趣味でもプロ裸足で、時々頼まれて着付けと髪のセットをしたりしてるのも知ってる。と云うか、何で着付けが出来るんだよと思いつつ、私もお年始にはいつも着せてもらうんだけど。


 そんな風に、お兄ちゃんにお願いしてる女の子や、女の人の………どれ程の人が、お兄ちゃん狙いかと思うと。

 ライバルの多さに途方に暮れる。希望の無さに、泣きたくなる。

 当たり前に、私の髪に触れる人。

 当たり前に、私の手を曳いて歩く人。


 お兄ちゃんにとっては、そんな風に接する相手は沢山いる。

 私は、その他大勢の一人でしかない。


 でも。

 私にとっては。


――お兄ちゃんだけなんだよ?


 声に出す事も出来ず、私はお兄ちゃんに問い掛けた。


――私にも、可能性くらい有るよね?


 お兄ちゃんが、私を振り返って見つめた。

 ドキッとした。

 聴こえたのかと思った。

 もちろん。そんな訳は無かったんだけど。


「じゃあね。ちゃんと髪を乾かすんだよ?」


 私は頷いて、家に入った。

 お兄ちゃんの冷たい手を思い出して、そっと握られていた左手に右手を添えて、抱きしめた。


☆☆☆




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