大冒険
勇者には冒険がつきものだ。
今まさに、その大いなる冒険へ旅立とうとしている一人の勇者がいる。彼の使命、それは魔王の城に囚われたお姫様を救い出し、陽の光の下へと連れだすこと。
まずは装備を整えばならない。聖なる力によって清められた魔法の鎧―――そう、勇者の憧れ、伝説の英雄が刻み込まれた、とっておきのもの―――を忙しなく装備する。
もちろん、胴体だけではなく、下半身を守ることも重要だ。彼は、冒険の途中にお腹が空かないよう、アイテムをたくさん持ち歩ける不思議なズボンを選んだ。王様とその妃(勇者にとっては特に妃のほうが恐ろしい。魔王よりも危険だ)に黙って拝借した甘いお菓子を詰め込み、準備万端。……おっと、真っ白な靴下も忘れてはいけない。
伝説の剣は冒険の途中で見つけ出そう。勇者は固く決意し、扉をそっと開く。これは危険な旅なのだ。王様に謁見している時間はないし、心配性の妃様に見つかったら、きっとペンと紙を握らされるに違いないのである。残念なことに、勇者は「たいりょく」と「すばやさ」があふれるかわりに、「かしこさ」が低かったのだ。
抜き足差し足、勇者は慎重に城の門へと向かっていく。そしてようやくそこへと辿り着いて、どこまでも移動できるようになるブーツ(しかも夜道では光り輝く!)を履き、いざ出発の段となったその時! 怖い怖い妃様が気付いてしまったのだ!
「こらっ、遊びに行くなら宿題やってからでしょ!」
その声で勇者は確信した。あれは妃様ではない、悪い魔物が化けた偽者なのだと。おたまを片手に、怪物みたいにぷんぷん怒り顔の妃様に捕まらないうち、勇者は駆け出す。
勇者は王子である。それゆえ、本当はいっぱい勉強をして、立派な王様にならなければならない。
だが今はそれよりもっと大事な冒険があるのだ! たしかに妃様の言うとおり、強力なモンスターである「サクブン」と「サンスウドリル」はまだやっつけられていない。というか、倒すつもりもない。そんなものより、お姫様なのだ。なぜなら勇者は、わんぱくな城の王子様は、今日こそ君を迎えに行くとあの時約束したのだから。
城の門を開け放ち、ニセモノ妃(そう、ニセモノだ。ニセモノに違いあるまい。ニセモノだから、無視していいのだ)の長い呪文を左から右に聞き流し、危険なフィールドへと飛び出していく。門を守る兵士のジョンは、今日も元気に尻尾を振っている。勇者が頭を撫でてやると、「行ってらっしゃいませ、勇者様!」と強く送り出してくれた。もっとも、ジョンは犬なので、「ワン!」という鳴き声をそう理解できたのは、多分勇者だけなのだが。
ともあれ、勇者は旅立った! 姫が囚われている魔王の城への道はわかっている。城を出てまず右に、まっすぐ進んで、いつも寝ている老賢者の暮らすアイテム屋を見つけたら、その通りを左に曲がるのだ。そうそう、この前はここで転んで、ヒットポイントが0になってしまった。足元に気をつけつつも、両手を振って走る、走る、とにかく急ぐ!
と、そこで勇者の前に第一の試練が立ちはだかる。なんと、魔王の城へと続く川には、邪悪な魔法によってマグマが流れているのだ。けっしてその溶岩に触れないよう、慎重に飛び石を渡らなければならない。
しかも、この道には魔王の配下の番人がいて、赤い番人が顔を見せている間は絶対に踏み出してはいけない。一方、なぜかみんなは青と呼ぶ、緑色の番人がいるときは大丈夫。マグマを泳ぐ危険な魔物たちが来ないか、右、左、右と注意深く確認し、ひとつ頷いて歩き出した。
燃えたぎる溶岩も、この白い飛び石をひとつずつ渡っていけば心配ない。しかしもしも、一歩でも足を踏み外したら! 勇者は恐る恐る、けれどしっかりと足場を超えていく。あんまりのんびりしていると、また赤い番人が現れてしまう。なんとかかんとか勇者が渡り切ったと同時、背後を怖い魔物がびゅん、びゅんと通り過ぎていくではないか。
最初の難関を乗り越えた勇者は、一人心のなかで勝利を噛み締めて、お姫様のもとへと馳せるのだ。
そして次なる試練。人々の行き交う街道を大きくそれて、草花の生い茂る河原へとやってきた。理由は二つある。ここには様々な薬草が生えているし、お姫様に渡す綺麗な花も手に入ることだろう。冒険に役立つアイテム捜索というわけだ。
勇者があたりを探しまわると、ほどなくして武器を見つけた! この間妃様に捨てられてしまった伝説の剣の代わりになるかと拾いあげてみたが、どうやらこの剣はなまくららしい。ついでに言えば、折れ具合が勇者のお眼鏡に適わない。仕方なくその武器、いや、今となってはただの短い木の棒を投げ捨てて、もっと立派な武器を探す。この先で待つ魔物を倒すためには、たいそう強い剣が必要なのである。
あれでもない、これでもない。伝説の武器は、ただ長かったり太ければいいというわけではない。できるだけ真っ直ぐで、そこそこ長く、それでいてちょうどいい太さが必要なのだ。なにより、傷がついていないというのが重要だ。枝分かれしているものなど論外だ。こういうことは、きちんとこだわらなければ。
十本以上は伝説の剣候補を探して川に投げ込んだだろうか。いい加減諦めてしまおうか、勇者の心にそんな弱い気持ちが生まれて下を向いた時、目の前の草むらからはみ出る影。勇者は慌ててそれを引っ張り出す。素晴らしい! 片手で振り回せる程度の長さに、多少ねじれているがほとんどまっすぐな形。枝分かれせずにぴんと一本伸びていて、勇者の手にもしっくり来る、しかし折れにくい太さ。完璧だ、諦めない心が再び伝説の剣をその手に握らせたのだ! 色つやも、ナイスな仕上がりである。
しかし勇者の探し物はそれだけではない。今しがた手に入れた武器で草むらを勇敢に切り裂いて、もう一つの重要アイテムをくまなく探す。花々の中には、毒草もあるから気を付けなければ。注意深くいいものと悪いものを見極めて、特に綺麗な花を一本一本摘んでいく。両手が土だらけになって汚れ、雨露に濡れた草むらが足を湿らせる。ブーツはぐじょぐじょ、鎧もズボンも泥まみれだ。だが、勇者はけして諦めない。脳裏に描くお姫様の笑顔こそが、勇者の力なのだから。
やがて靴下まで汚すくらいに徹底的にアイテムを集めた勇者。ふと気づくと、すでにかなりの時間が経過していた。
お腹の空き具合でそれを察した勇者は、ごそごそとポケットをまさぐり、回復アイテムを取り出す。王様が秘密の部屋に隠していた甘いお菓子だ。本当はお姫様と分け合うつもりだったのだが、このままではヒットポイントが0になってしまう。勇者は断腸の思いで包装紙を剥がして、ふわふわしたドーナツを一口食べた。美味しい。ふた口食べる。とても美味しい! ……四口食べて、もうほとんど残っていない事に気づき、慌ててポケットにしまいなおす。まだまだ冒険は続くのだ。なにより、そう、この先にはあの恐ろしい魔物が待っている。片手に土まみれの花束、もう片手に伝説の剣を握り締め、勇者は急ぐ。
魔王の城に辿り着くには、あえて危険な道を進まねばならないこともある。河原を外れて階段を登り、石塀の上に足をかける。両手を横に広げてバランスを取り、おっかなびっくり先を急ぐ。このルートが一番の近道であり、そして因縁深いモンスターとの対決の場なのだ。
しばらくすると、勇者の行く手に大きな丸い影が立ちはだかる。最後の試練! それは丸々と太った、茶色い斑模様のモンスターであり、両手には鋭い爪が隠されている。今はすうすう我が物顔で眠っていれば、ひとたび口を開けば、「なーご」と恐ろしい唸り声をあげて牙を見せ、勇者を通すまいと威嚇してくるのだ。
あまりにも大きいため、またいで通ることはとても出来ない。"やつ"は不敵なことに敏感なので、ちょっとでも近づくとすぐ気づくのだ。いつ来ても間抜け面で寝ているくせに。勇者はこれまで、何度となくこの恐ろしい魔物と戦い、引っかかれたり、噛まれそうになったり、時には見ただけでべそをかきそうになって帰ってきた。
だが、今日こそは。いつも以上の決意と勇気を胸に秘め、勇者は一歩、また一歩と魔物に近づく。普段ならとっくに目を覚ましている距離まで近づいても、モンスターはさっぱり起きない。ならば、ともう一歩近づいた、その時! 魔物の目がぱちり、と見開かれ、そのでっぷりした体躯に似合わぬ俊敏な動作で身構える!
勇者は驚いて塀から落ちそうになりつつもなんとか踏みとどまり、姫に渡す花束を守るようにして剣を突き出した。デブネコ、もとい魔物は毛を逆立たせ、きっと触れば気持ちいいだろう肉球から爪を突き出し、「フー!」と恐ろしい咆哮を口から漏らす。足がすくみ、振り返りたくなるのをこらえ、勇者はじりじり間合いを詰める。飛びかかってきたら、この剣で頭を叩くのだ。そうすれば、奴も、きっと倒せるに違いない。
じりじり。こういうのを、「イッソクイットー」と言うのだ。勇者は以前、王様の書庫にあった難しい本でそれを見た。いよいよ両者の距離が縮まり、あとはどちらが踏み込むか、緊張感があたりに立ち込めた、その時!
……いつもなら飛びかかるなり、尻尾を立てて威嚇してくる魔物が、急に大人しくなり、勇者へと近づいてきたのだ。一瞬、伝説の剣を振り上げそうになった勇者だが、様子がおかしいことに気付いて静かに下ろした。魔物、もといデブネコは、ふんふんと勇者の匂いを嗅ぐと、泥で汚れたズボンの、ポケットのあたりに鼻をこすりつける。
なるほど、そういうことか。勇者はポケットから、食べかけのドーナツを取り出した。デブネコはじぃ、とそれを見る。しばらく考えこんだあと、勇者はそれをデブネコにくれてやった。案の定、デブネコは、はぐはぐそれを美味しそうに食べだす。今までの熾烈な闘いは、なんとまあ単純なことに、ただ相手が空腹で気が立っていたせいだったのだ。そのがっつきぶりに勇者はあきれ果てたものの、こうして見ると可愛い気がして、デブネコの頭を撫でてやる。
食事を邪魔されたデブネコは、スパッと勇者の手を切り裂くと、ドーナツを銜えて去っていってしまったのだが。
回復のためにしばらくおとなしくしていた勇者は(そう、けして泣いていたわけではない)、ごしごしと赤くなった目をこすりつつ、それでも魔王の城を目指す。
勇者はなぜ勇者なのか? それは、勇気があるからだ。だから、勇者はこんなことで諦めてはいけないのだ。お姫様に涙を見せるわけにもいかない。いや、そもそも、泣いてなどいないが。シャツの端で目元を拭い、それでも花束はしっかり握って、最後の角を曲がる。
そして、ついに、やってきた。魔王の城は巨大だ。お姫様は、この大きな建物の五階に囚われているのだ。お父さんとお母さんは、「トモバタラキ」とかいう呪文によっていないらしい。家に帰ればいつでも妃様がいて、休みの日には朝から王様もいる勇者にはそれがよくわからないが、その話を聞いた時、お姫様の浮かべた表情を見て、彼女が寂しがっていることだけは理解できた。
それで、思わず、今度の休みに遊びに行くと宣言してしまったのだ。今まで何度も向かおうとして、お母さんに捕まって宿題をやらされたり、転んでべそをかいたり、道に迷ったり、デブネコとの喧嘩で負けたりして、諦めてきたけれど。
今日こそはついにたどり着いた。マンションの階段を駆け上がり、あっという間に5階までやってきて、教えてもらった番号の部屋の前へと。
深呼吸してインターホンを鳴らす。すると、五秒もしないうちにドアが開いた。
うれしそうな表情のお姫様が顔を覗かせ、きょとんとする。目の前にいるのが、泥だらけで、片手に引っかき傷があって、木の棒を握り、おまけにこの快晴の日に全身ずぶ濡れのクラスメイトだったから。
大冒険を終えた男の子は、一人寂しく留守番していた女の子に花束を差し出して。
「お迎えにあがりました、お姫様」
ちっちゃな勇者として、高らかにそう言った。