第八話 帰還
教誨師シリーズ第三部の最終話、そしてこれが現状でのシリーズ最終話です。よろしくお願いします。
相馬みさをが、数年振りに都内を訪れていた。
麻布第一病院の個室、相馬ひなが眠るベッドの横に、みさをはただ、付き添っていた。
あのとき、命に替えても護ると誓ったいとしい娘は、覚醒の衝撃にみさをを跳ね飛ばし、山野へと駆け込んでしまった。森田ケイに助け起こされて後、みさをはしばらく気を失っていたが、やがて目覚めると、そのまま地面に座り込み、相馬の古き巫女としての、最後の務めに入った。
相馬ひなを、死なせてはならない――。
全力で、その祈りを、駆け回るひなに届けようとした。
しかし、相馬ひなの苦悩と絶望は、深かった。
みさをは、泣いた。そして祈った。鬼斬りに訴えた。涼子の霊に訴えた。
そうしてようやく、ひなを正気に戻すことに成功した。
しかしそれは、果たして自らの力であったのだろうか。
今となっては、それが、みさをの祈りの力によるものだったのか、ひな自身の力によるものだったのか、あるいは、それ以外の何者かが手を貸してくれた結果なのか、確かめる術はない。ただ、事実として相馬ひなの魂は、狂乱の時を乗り越えてこの世に踏みとどまり、鬼を斬り、そして、今ここで、一時の眠りについているのだ。
そうしたことを何度も思い返しつつ、みさをはただ、ひなのベッドのそばに座っていた。
相馬ひなは、夢の島での激戦の後、意識を失い、この病院に搬送された。傷つき疲労し尽くしていたはずの九条由佳と水原環が、自分らの回復も先送りにして、相馬ひなを霊的に防護してくれたという。
式神たちのうち四名も、鬼斬りの太刀小太刀二刀を携え、銃を運ぶなどして、相馬ひなの隠密裏の搬送を手助けしてくれたという。
九条家、水原家。そうそうたる家柄の乙女たちが、なぜかひなに眼をかけてくれている。そして、賀茂秋善と藤原るつ子。そうした強き星とも、相馬ひなの生き方は交差しているらしい。式神たちにさえ、懐かれている。
(ほんとうに、不思議な娘ね。――わたくしも、後一〇年は生きてみたくなったわ。)
ただひたすら眠る教誨師の前髪辺りを、そっと撫でる。
ドアの開く音がして、病室に、相馬嶺一郎が入ってきた。
「叔母上、ずっと付き添っていただいては、お体に障りませんか?」
「いいのですよ。わたくしの役目は、ここでひなが戻るのを待つことだけになりました。後はもう、ほんとうに引退させていただきますから。」
嶺一郎は、姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「こらこら、相馬の当主がそんなふうにするものではありませんよ。」
「いえ、人目もありませんし、叔母上はいつまでもわたしの叔母上でいらっしゃいますから。」
ほほえみを、互いに浮かべて、甥と叔母は語り合っていた。
「ひなはね。戦いが終わったら、あなたとゆっくり話がしたいと言っていたのよ。」
「そうですか……。ひなは、わたしを許してくれるでしょうか。」
「それは、ひなさんに訊くしかありませんよ。でもその咎は、相馬の大人たち全員の咎です。あなた一人で背負いきれるものでもありません。」
嶺一郎は、叔母の言葉に応える代わりに、ただ沈黙した。
相馬ひなの病室であれば、本来は青木はるみの姿がなくてはならない。また、吉田紗幸の姿があっても不思議はない。しかしその二人は、先の戦いで負傷し、今は同じ病院の、別の病室にいる。二人とも脚部の負傷があり、まだ自由に出歩くことはできない。
眠り続ける主人、相馬ひなの様子を、どちらも日に二度ずつは見に来るが、それも、相馬の別のメイドに車いすを押させての来訪だ。江東区の倉庫での戦いから五日、夢の島での「熱帯植物館爆破テロ事件」からは四日が経っていたが、チーム・チャプレンは完全に機能を停止していた。わずか一週前のことに過ぎない都知事暗殺未遂事件での活躍ぶりなど、もはや遠い昔のことのようだ。
事件後、嶺一郎が一番頭を悩ませているのは、桜ヶ丘への事情説明、そしてその次が、マスコミ対策であった。マスコミ対策の方は、病院関係者の協力を仰ぎつつ、ただひたすら時が過ぎるのを待つしかなかった。もし、あの事件のタイミングで負傷した者が入院している、といったことが外部に知れれば、しつこい取材がなされ、最悪、教誨師が事件の当事者として特定されてしまうかもしれない。だから、そうならないよう、静かに、ただひたすら時が過ぎるのを待った。
一方、桜ヶ丘、つまり相馬ひなと吉田紗幸の通う高等学校に対しては、そうした消極的な対応では切り抜けられないのは明らかだった。意識を取り戻した吉田紗幸には、青木の同席の元で(というよりも、月曜から二人は同室となっていた)、相談していた。負傷の原因をそのまま報告すれば、高校を去ることになるかもしれない。かといって、負傷の具合と時期からして、何か都合のよい、つまりは事件に関係ない、虚偽の言い訳を考えることも難しい。
二人には、高校卒業を諦めてもらわねばならないかもしれない、嶺一郎は、現状をそう認識していた。相馬の当主として、何より二人の保護者として、敗北を認めるにも似た苦渋の決断を迫られることも、覚悟はしていた。だが、結局そうなるにしても、二人の本心は確認しておきたかった。
吉田紗幸の答えは、果たして嶺一郎の予想通りのものであった。もちろん卒業したいが、こうなってしまった以上、卒業断念もやむを得ないとは思う、ただできれば、お嬢様がお目覚めになってからもう一度相談したいと、吉田紗幸は答えた。嶺一郎も最初からそのつもりであったため、その日の相談はそれで終わった。
相馬ひなはもう、そうして四日も眠っていた。
周りの人間の当惑も心配もまるで他人事のように、ひたすら眠っていた。
精神系のトラブルにはみさをも、九条や水原も対応できるとは言え、夢の島での戦いと、それに備えるための覚醒とが、相馬ひなの精神と肉体とを、極度に疲弊させていた。それは間違いのないことだ。何かのトラブルが検知されない限り、このまま休ませてやりたい、それが嶺一郎とみさをの考えであった。
点滴のみを受けつつ、ひなは眠り続けた。
九条由佳と時田治樹は、水原環とともに事件後も奔走し続けていた。
公安が行う報道管制にも限界がある。特に今回は、多くの目撃者が発生してしまっていた。現場を霊的に回復させ、邪神の残滓を浄めた後、九条たちはすぐさま、想定される報道内容に相応しいように現場を「加工」し、式神たちとともに姿を隠した。
そして、日曜を一日挟んだ月曜日。水原は何事もなかったような顔で神社本庁に出仕し、シベリアでの調査報告を行った。報告の内容は、水原が調べてきたことそのままを伝えただけであったが、その反応をトレースすることで、水原をこの時期、日本国外に出張させようとした動きの正体を確かめようという狙いもあった。
いくつかの事情から、式神たちは電脳戦に長けたインディゴ、バイオレット、ベージュ、グレーの四名のみが作戦に参加していた。神社本庁の全回線を掌握し、水原の報告後の外部との通信を監視する。
携帯回線を使われれば、直接の確認は困難だ。しかし本庁内には、水原が九条の協力の下、霊力の監視網を構築していた。本庁トップの許諾は強引にだが得た上で、聞こうと思えばすべての会話を聞き取れるだけの霊力ネットを張り巡らせた。もちろんそれは、同レベル以上の術を行使できる者には察知されるはずであるが、それすら、対象を特定するための圧力として利用した。
(一二人全員でやれば、無線だってたぶん視えるんだけどね。)
(四人じゃ限界あるけど、まあ、携帯メールは後で携帯そのものをスキャンしてまわれば……あ、)
(くふふ。甘いなー。慌ててメールしたよこいつ。宛先は、……)
(ドメイン名からすると通称、紅竜会。馬鹿丸出しだよ民間プロバイダにしとけっての。)
(それだって多少特定が遅くなるだけじゃん。)
(ま、そうなんだけど。んー、華僑ネットワークを背景に持つ結社、宗教色濃いめのアジアンマフィア、てとこかな。ていうか、神社本庁さんでも、だいぶ上の方の人だよねこいつ。なんて言うんだっけこういうの、)
(えーと、しししんちゅうの、うし?)
(むしだろ!検索しろバカ!)
(あははははは!)
意外と生真面目なバイオレットが、インディゴとグレーの会話にやはり生真面目に突っ込んで、何故か二人から笑われる。
(……ったく。たまき、九条、出たよ。加藤津根彌、五七歳。能登のケチな神社の宮司上がり。)
会話の成り行きに苦笑しつつ、ベージュが代表して水原と九条に伝える。当然ながら本庁のデータベースやネットも検索済みだ。
(いいえ、ケチじゃありませんよ。加藤出身の社なら、渡来系出雲系どちらの系から見ても要注意の物件です。了解しました。)
(なんだか分かりやすい答えでつまらないわね。)
九条がそう言うと、男性の声の念話がそれに応えた。
(でも、そいつはこの時期に「新しい指導者」てのがこの国で生まれることを確実に予期し、外部の組織にツナギをとってたんだろ?その上で、本庁内の意志決定作業も操作し、この時期日本にいるべきだった水原さんを国外追放した。つまり、どこがどうつながってるのかはさっぱりだけど、劉黄綺の動きを知り、水原さんのこのイベントへの関わり方も読んでいた、という可能性があるわけだよね。だから、「新しい指導者」の誕生に立ち会わせないように、水原さんをシベリアへ送った。)
(あれ、ときた、念話できたっけ?)
(九条につないでもらってるんだよ。けっこう虐待されてる気分でね。)
(あー、増幅してるんだね。がんばって。)
(ありがと式神ちゃんたち。まあ、水原さんは公安につながってるから、という理由だけかもしれないし、宗教がらみの大きな動きは常に紅竜会に流す契約かもしれないし。あるいは、水原さん自身を新しい指導者になる人材と思っていたのかもしれないし。そこはぜーんぜん分からないけどね。)
(いずれにしても、あまり気持ちのいい展開じゃないわね。)
(でも、十分です。ありがとう。そこは、私のやり方で、加藤に訊いてみます。)
(うわ、きっと想像を絶するような拷問が待ってるんだね?)
きゃーと言って盛り上がる式神たちに、水原はふっと笑い、答えた。
(いえいえ、そんなことはありませんよ。想像の範囲内でちょっと可哀想、ってくらいです。)
そう言われるとリアルに恐ろしいよな、と式神たちは黙り込んだ。水原が話を続けた。
(それで、いろいろご協力いただいて申し訳ないのですけれど、)
(後は本庁の仕事、って言うんでしょ?)
(ええ、その通りなのですが、ただ、相手が相手なので、まだご助力をお願いするかもしれません。)
九条は笑った。
(心配ご無用よ。むしろそういうことの方がこっちも安心。声をかけてくれればいつでも参戦するわ。急に全員は無理でも、今回みたいに分割配置もできるし。)
(ありがとうございます。それでは、ひとまず私は本庁トップのところへ乗り込んで状況説明してきます。)
(あはははは。やっぱりたまきが言うと怖い感じに聞こえる。)
(がんばってねたまき。)
(ほんと、いつでも呼んでくれていいんだからね。)
(ありがとう、式神さんたち。では、行って参ります。)
念話を終えて、ほっと息をつくようにしつつ、時田は頭部と手首に着装していた増幅器を外した。
「水原さんも、今回の件は自分一人では処理しきれないと踏んでるみたいだけど。九条の感想は?」
「そうね。一難去ってまた一難ってところかしら。」
「次も、今回みたいなレベル?」
「分からない。すぐに動きがあるのかも、じっくり互いにさぐり合い、になるのかも。いずれにしても、次は組織戦、そんな気がする。少なくとも、「次の霊的な指導者」の誕生を歓迎していない連中がいる、ていうのははっきりしてきたわけだし。」
「本庁に食い込む大陸のスパイ、なんてのを見せられちゃうとね。作戦の深度も深そうだし、確かに組織戦の気がするね。」
「ところで、センターにはいないのかしら?そういう人。」
「センターは儲けが出ないシステムだからねえ。ずっと潜っているのは自腹の額が大きくなって厳しいわけ。だから、情報泥棒の出没までは考えてるけれど、センター動かせるレベルのスパイはいないと思うよ。むしろ公安でしょ?危ないのは。人事がおかしければ上も気づくだろうけれど、お役所だから、採用自体までは完全にはコントロールできない。ま、その辺は本庁も似たり寄ったりかな。」
「そうね。でもそうすると、本庁に食い込むのはまさに正解、ってことだったわけね。」
「そうだね。敵さんの実力、侮れないかもね。」
「どうするの?」
「こっちはいつも通り、紅竜会の研究から始めるよ。そっちは?」
「え?分かってるでしょ?」
「あ、森田に預けてる乙女たちのお相手ね。」
「そう。それじゃね。お勉強がんばって。」
「そっちこそ。……そうそう、杉田課長には、カラーズのこと、どう報告するの?」
「それも含めて、すべては、これからよ。――さあ、あなたたち、国立へ戻るわよ。」
そう言うと、時田の目の前で九条は消えた。
月曜昼のニュースから、テレビには劉蓉の自宅の家宅捜索の模様、および押収された大量のコスプレ衣装の映像が流れた。すべて六着で一セット、しかも三月以来のカラーズ事件の目撃情報と一致するものが多く含まれていたことから、劉蓉という大使館員が、一連のカラーズ事件の首謀者として見なされるということが公式に発表された。さらに警視庁は、都知事暗殺未遂事件以後立て続けに起こった、江東区倉庫街テロ、および夢の島熱帯植物館爆破テロの二件についても、重要参考人として指名手配する、と発表した。
併せて、内閣官房長官から、文化大革命以降、中国本国を追われて国外で結社活動する宗教者、カルト指導者が一定数いること、および引き続き類似案件の発生に備え、日本の警察組織の総力を挙げて最大限の警戒を行うという談話が発表された。
劉蓉は逃亡中、これが公安警察と中国大使館との間で取り決められた、極秘にして最大のフィクションだった。大使館員が事件の最中に死亡となれば、その責任を日本の警察は負わねばならなくなるかもしれない。中国の愛国者たちを刺激する材料となるかもしれない。一方で、これだけのテロ事件を起こしたとなれば、中国側、大使館側の責任は明白だ。したがって、劉蓉の「微罪」の部分は公にし、彼女の非を認めたかたちにした上で、重大な事件の取り調べに関しては、本人逃亡中のため進展せず、という状況を組み立てたのだ。
公安課長の杉田律雄は、こうして事件がひとまずの終結を迎えた月曜午後、警備局長に辞表を提出し、即座に破り捨てられていた。
結果だけを見れば勝ち戦ではあったが、被害は甚大であり、熱帯植物館を中心とした夢の島の諸施設の再建には、莫大な税金が投入される必要があった。何より、一般の人間の目には触れさせたくない、治安維持上の事項のいくつもが、この度の戦役では露呈してしまっていた。
一般的な常識や、通常の物理法則を超えたなにがしかの存在と、それと交戦する者たちの姿。そして、カラーズとして知られていた少女らしき集団と戦う、別の白い少女たち。サブマシンガンと日本刀を手に現場に突入した、一人のゴスパンク少女。
どんなに警戒しても、夢の島周辺からの視線を完全にシャットアウトすることはできない。
夜間、警察の警戒ラインの外から撮影された、超望遠での映像ではあったが、揺らぐ炎の光の中で、それらの者たちの「シルエット」は、多くの人に目撃されていた。
当然それは、マスメディアにも流れた。
国家公安委員会や警察庁、警視庁の報道自粛要請がそれなりに機能していたためか、暗くて解像度の低い映像のみが報道されていた。しかし、爆発の瞬間など、一瞬明るくなる景色の中では、かなり具体的なところまでが見えていたはずだ。
金曜の江東区倉庫街での敗北、および状況がこうなった責任を負いたいと、杉田は局長に直截に伝え、局長はお前が辞めることで収まるような問題かと杉田を一喝した。警備局長はこう言った。
「杉田、お前の今の使命は、今代の鬼斬り殿をあらゆる問題から守護していくことだ。相馬様にお詫びし、鬼斬り殿にとってよき結果となるよう、よくお考えを伺え。後のことは、気にするな。本庁との連携は、こちらでもできる。」
杉田律雄は、その言葉に強く意気を感じ、考えを改めた。そして杉田らしく、すぐさま行動を開始した。S班の作戦室に戻り、吾妻と結城に指示を出す。
「吾妻は、今回の戦役について、ネットでの画像流出情報を端からこちらに上げろ。ウェブには報道協定が及ばないとは言え、ある程度のコントロールはさせてもらう。」
「正規ルートからの圧力行使ですか?」
「いや、お前たちのスキルを使う。あの場にいたのは皆、我々の主要なカードだ。こんなことで活動不能にするわけにはいかない。対応速度最優先で潰していくぞ。」
「承知しました。」
「結城は、センター、神社本庁、そして我々に関する情報漏れを警戒し、やはり情報をこちらに上げてくれ。」
「「我々」の範囲は?」
「むろん公安警察すべてだ。」
「承知しました。」
「吾妻も結城も、組織的な動きや意図が見える場合には、最優先で連絡するように。携帯電話でかまわん。」
「了解です。それで、課長はこれから、外出されるのですか?」
「ああ。相馬様のところへ今後の相談に伺う。」
「麻布の病院ですか?」
「そうだ。後は頼んだぞ。」
「はい。行ってらっしゃいませ。」
その後ろ姿を、吾妻も結城も、何かほっとしたような面もちで見送った。
「お辞めになる気はなくなった、ってことでいいんですよねえ?」
「でしょうね。ていうか、辞めさせてもらえなかったのかもしれないけれど。」
課長と吾妻、結城の三人は、いつも共に仕事をする人間どうしだ。言葉にはせずとも、互いの考えていることはそれなりに伝わるらしい。S班も長くなったな、と吾妻は思い、またそのことを少し好ましく感じた。
「ふふふ。公安課長は、やっぱり課長でないとね。」
「そうですよね。課長が辞めるなら、あたし、S班から外してもらおうかと思ってました。」
「あー、あたしなんか、もうこの仕事辞めようかと思ってた。」
「そんな、あたしに黙って酷いですよ。警察庁を辞めるってことですか?」
「うん。副業の方で何とか暮らせないかなーとかね、夕べとか、一応考えてはみたんだ。」
「えっと、機械翻訳でしたっけ?ルカさんの副業って。」
「うん。……でも、まあ自分は、何とかお願いして、サイバーフォースに戻してもらうくらいが関の山かなって。そうも思った。」
「何でですか?関の山って、何か転職できない理由でも?」
「何でって、ええと、……」
「機械翻訳じゃ食べていけないんですか?ってすいません、なんかあたし問いつめ口調ですね。まあ、課長辞めないみたいだから、全部仮定の話でいいんすけど。」
「うん、いや、それはね、本気でやるならドクターコース入ってとか、確かに面倒は面倒だけど。その分の貯金は貯めてあったりはするんだよ。だから、食える食えないは一応関係ない。」
「じゃなんで?ルカさんみたいな人がここに拘るんですか?あ、分かった。ここ辞めると里香子さんと会えなくなるから?」
「ばか、違うよ。あ、あたしが辞めないのは」
「ああっと、神社本庁で新しいスレ立ってましたよ。これ、内部ですねえ。……なんだ、うーむ要度全然低そうだからひとまずのんびり観察しますね。あれ、ルカさん、何かむくれてます?」
「悪かったねむくれてて。そうそう、里香子には新しい彼女ができたみたいだよ。」
「えー、いいんですか?ルカさん。寂しいときに遊んでくれる人いなくなっちゃって。って心配してあげてんのにさらにむくれないでくださいよ。」
「うるさい。仕事に集中しろばか。」
そう言って分かりやすく拗ねたままモニターに向かう吾妻ルカを、結城舞は愛おしく思った。
(あと三年くらいじらそうかと思ってたんだけどな。……この件が、片づいたら、ね。)
一人、吾妻には見られないようにふっといたずらな笑みを浮かべると、結城舞はネット世界の探索に再度没入していった。
「九条か。」
背後に現れた気配に森田が声をかける。もちろん誰かは分かっている。会話のきっかけのようなものだ。
「ええ。どう?様子は。」
森田の視線の先には、合計で一四柱の人ならざる少女たちがじっと、二つの円を描いて座り込んでいる。フローリングの上に直接陣を書き込み、その陣の上に、内側に六人、外側に八人が座っていた。内側の六人はあちこちの傷んだ、中学か高校の制服姿、外側の八人は琉球の神女のような白装束だ。
九条とともにやってきた、やはり白装束の四人の少女が陣の外周に新たに加わり、少女たちは合計で一八人になった。
「式神たちの監視もあって、何事も起こっていない。ただ、何事も起こらなすぎるのが、気にはなる。まるで六人全員、腑抜け同然だ。」
「そう……。まあ、混種だっていうのを頼りに、無理矢理この世につなぎ止めてるわけだし。術主も実の父も母も、彼女たちは一度に失ってしまったのだから。」
カラーズは、邪神死滅後、式神たち八名の監視下に置かれ、そのまま九条由佳のセーフハウスの一つ、この国立の一軒の民家に構築された結界内に監禁されていた。物理的な拘束はないが、ソックスを脱がされたカラーズ一人一人の左足首には九条の手により禁足の呪言が記され、霊的に結界に封じられた状態にある。
本来、術主たる劉黄綺の死により活動停止、あるいは存在ごと消滅しても仕方のない存在、それが鬼神であり式神であった。しかし、カラーズは混種であった。式神の理とも違う、混種としての理を生きている。
夢の島の事件の際、劉黄綺の死、父たる鬼神坤の死、そして母であった邪神の死を迎えてなお、カラーズたちは生きていた。霊力の補給を断たれ、徐々に力を失い始めてはいたが、劉黄綺の死とともに崩れ去った坤とは対照的に、生きてはいた。九条としては、そこにかけようと思っていた。
九条が、鬼神を封じた結界の中に入る。南の方位から語りかける。
「劉黄綺の娘たちよ。私があなた方に問うことはたった一つ。」
うつろな目を、六柱の鬼神が向ける。
「我が配下の者となるか、ここで結び目を解かれるか、どちらを選ぶ。」
つまりそれは、生と死の選択であった。
「あなた方の母であり姉でもあった劉蓉は、劉黄綺の手によって邪神となり、私たちの仲間である教誨師によって斬られました。その劉黄綺、あなた方の術主も、そして父であった坤も、やはり教誨師が斬りました。それを恨みに思うなら、ここで自決するも良し、私に始末されるのも良し。好きになさい。」
カラーズは皆、ただじっと九条を見つめている。
「けれど、そうしたしがらみを捨て、世界をもう一度見て、世界にもう一度触れてみたいと思うのであれば、私はあなたたちを、相応に遇します。」
その言葉をいぶかしむカラーズたちに、九条はさらに告げる。
「私は、一二柱の式神の助力の元に行動しています。式神たちと私の間には契約があり、双方がそれに反しない限り、契約は保たれていきます。私は式神の親ではないけれど、契約により、今は式神を指揮することも可能です。……それと同様に、もちろん契約を以て、あなたたちを私の周りに置くことは可能です。」
カラーズたちに生きた反応が出始めた。互いに顔を見合わせ、九条の言葉を理解しようとしている。
「それを、契約を拒絶する場合には、ここで滅しなさい。」
カラーズの「黒」が尋ねた。
「契約を選んだとして、私たちは、何をすればいい?何をして、生きていけばいい?」
「それは、そうね、周りの式神たちにでも、聞いてみなさいな。私は、術を以てあなたたちと契約を交わします。それは、反逆行為を封じるためでもあるけれど、あなたたちに自覚を促すためでもあるの。あなたたちは一人一人、独立して私と契約する。その上でどうするかは、あなたたち自身で考えるのよ。」
「希望すれば、たとえば兵隊として、使ってくれるのか?」
「あなたたちが、戦力になると判断したらね。それに、そう、私と契約するのが嫌であれば、もう一人、私と共に戦っていた水原と契約したっていいと思うわ。まあ、それはもちろん、水原の考え方次第だけどね。」
「あ、それいいんじゃない?九条。」
深紫が、ごく軽い調子でそう言う。
「うん。あたしもそう思う。ま、別に、九条と契約してくれたっていいんだけどさ。」
バイオレットも同意する。
「でもたまき、忙しそうだからね。」
濃紺が言う。
「そうだねえ。まあ、いずれにしても契約するなら、しばらくは、九条の下でってことになると思うけど。水原さんはしばらくはとあるイベントに掛かり切りのはずだから。」
インディゴが、情報を補う。バイオレットとベージュ、グレーが頷く。濃紺がその情報の先を考える。
「でもそうしたら、あたしと深紫、薔薇、明灰がまずはトップバッターで、先生役として訓練とかするのかな。施設は、センター所有のものを使えるように、九条に申請してもらう?」
「えーめんどくさー。だってこいつらもう、十分撃てるし戦えるじゃん。」
「一緒に戦場に出ろって言われたら、いつでも出られるでしょ?」
「契約して、結び目に新しい名を縒り入れてもらえば、今まで通り活動できるんだし。」
深紫、薔薇、明灰に一斉に反論されて、濃紺が少ししょんぼりする。
「あたしらも、後ろから撃たれたって復活できるんだからさ。九条だけは絶対撃たないって約束できるなら、もういいんじゃない?」
バイオレットが、ちょっとだけ優しい感じのつもりで濃紺に言うが、濃紺はさらにしょげた。
「あんたたちに、行く宛があるなら、止めるつもりはないけどね。ただそれ、人間たちは許さないかな。」
グレーがそっと、付け加える。
そうなのだ。
カラーズにはもう、拘束された生か、強制された死しか残されていない。自由はもう、ないのだ。
そのカラーズに、最大限の選択肢を与えられる提案、それが、式神との合流だったのだ。
そして突然、深紫がつぶやく。
「あ、そうか。」
それに、ベージュが答える。
「そうだね。こんな気持ちだったんだね。」
「何が?」
青が訊くと、ほかの全員が意外そうな顔をした。
「え?何って、ひなが紗幸ってコを仲間にしようと思ったときの気持ちだよ。」
「ん、そっか。あの話聞いたときは、ひなって馬鹿なんじゃないかなって思ったけどさ。」
「あー、うん。こうしてみると、ちょっと分かるよね。」
「死なせない方法って、意外と難しいんだよね。」
黒が改めて、カラーズに尋ねた。
「どうする、カラーズ。我々と合流するか、親に殉じて死を選ぶか。普段は、我々と共に行動してよいし、訓練も希望があれば行う。契約によっては、水原の指示で出撃することもあり得る。最初は我々もついて行くが、やがては独立した戦力として動くこともあるかもしれない。」
六人で顔を見合わせ、考え込むカラーズに、ベージュが言う。
「悪い話じゃないんじゃない?」
「……どうして、あなたたちはそうやって、勝手に話を進めてしまうの?」
カラーズの「赤」が思わず尋ねる。
「嫌なのか?」
バイオレットが訊く。
「いいえ、そうじゃなくて、お前たちの親というか、主の意見は聞かなくていいの?」
カラーズの「緑」が訊く。
「だってさ九条。何か言ってやって。」
薔薇が呆れたような声で九条に言う。
「結局、生きたいの?死にたいの?」
「くくく。九条って何故かこういうときの語彙が足りないよね。」
ベージュが混ぜっ返す。
「そうそう。ひなのときなんかいきなりちゅーとかしてたもんね。」
暢気に深紫が言い放つ。森田の前でそれは、と九条は内心狼狽えたが、最小限でその動揺を押し隠した。
「う、うるさいわね。じゃあ、本心を言えと?」
「そう。」
式神全員が声を揃えた。特に問題なのは、式神のリーダー黒の眼が全然笑っていないことだ。その迫力にたじろいだ九条は、しぶしぶ言葉を返した。背後で森田が笑っている気もしたが、無視した。
「じゃ、本音一個手前の建前から。簡潔に言うわよ。私たちは戦力増強を望んでいる。次に本音。私たちは、無駄に命を散らしたくない。たとえそれが、鬼神であろうとも。これでどう?」
「もう一声!」
深紫とバイオレットが声を合わせて叫ぶ。茶化さないの、と言い返してから、ふう、と一つ息をついて、九条にしてはずいぶん優しい表情で、こう告げた。
「……そうね、その顔だけど、私たちとともに生きるなら、もう、無理に替えなくていいわ。みんな、大好きな劉蓉の顔で暮らしていい。まあ、劉黄綺の術が失われた今、自然とだんだん同じ顔に戻っていくのでしょうけれどね。」
「九条、よくできました。あれれ、カラーズ何人か泣いてるし。やだなあもう。うじうじめそめそは大嫌い。」
グレーがそう言うと、とたんに隣の明灰から突っ込みが入る。
「そう言うあんたもうるうるしてるじゃん。」
「うるさい。この手のキャラは教誨師一人で十分なのに。」
ああー、と皆が納得するような間ができて、深紫が言った。
「それにしても、あいつ、早く起きないかな。」
カラーズの「青」がそれに反応する。
「あの封神士、まだ目が覚めないの?」
「あんたらが気にすることじゃない。あんたらは、自分たちの戦いを戦い、自分たちの役目を果たした。教誨師だって同じ。」
バイオレットが、少し怒ったような顔で言った。ベージュがカラーズたちと内緒話をするように、「怒ってるわけじゃないよー」と小声で言って、当然バイオレットに睨まれる。
「ただ、そうだな。これは教えておいてやる。私たちの元々の親は、あの教誨師に二度、殺された。たまさかの奇跡があって、今は復活して命を長らえてるけれど。復活がなされる日までの間、教誨師はそれを気にしていた。我々よりも。」
珍しく少し饒舌に、黒はそう言った。式神たちは皆、頷いた。
「そうなんだよね。あのバカ、変に律儀っていうか、やってることの割に善人ていうかでね。そうそう、戦いが終わって意識を失う直前、あのコがなんて言ったか、覚えてない?」
ベージュが言うと、カラーズたちは顔を見合わせたが、答えは返らなかった。青が補った。
「カラーズのことも含め、後はお願いねって言ってから倒れたんだよね。」
「うん。ま、セリフとしちゃ、きっちり始末しておいて、って言われたと思ってもいいんだろうけれど。あの教誨師に限って、それはないよね。」
薔薇がそう言うと、また式神全員が頷いた。
「つまり、あたしたちは、教誨師にあなたたちを託された。恨むのも自由、死を選ぶのも自由。だけど、あのバカの気持ちも、少しは汲んでやってくれない?」
「あの教誨師は、血も涙もない鬼斬り、冷酷な封神士じゃないんだ。あのバカが目覚めて、カラーズは潔く自決しました、って、あたしは伝えたくないんだよね。あんたらがどんなに潔かったとしても、さ。」
「うん。それはやだな。」
「あんたらにしたら身勝手な理由だけどさ。あんたらに生きててほしいって思ってるバカがいるってことは知っておいて。」
「べっつにあたしはどっちでもいいけれどね。」
「昔風に言うとへそ曲がり今風に言うと」
「いやツンデレもそろそろ古くないか?」
「え、じゃなんて言えば?」
「うーむ、」
「あなたたち、悩むこと間違えてるわよ。」
脱線し始めた式神たちの会話を九条が止める。
「カラーズ、一つ提案するわ。あなたたち、決心がつかないのだったら、この九条由佳に命を預けなさい。つまり、結び目の契約をなさい。それで、あなたたちは、死んだことになる。潔く、敵に命を預け、今までのカラーズは、消滅したことになる。実際そうすれば、私はいつでもあなたたちを簡単に殺せる。」
「詭弁だ。」
カラーズの「黒」が言い返す。
「ええ。その通り、詭弁よ。でもね。その詭弁を、受け入れてほしいのよ。私たちの考えはもう、おしゃべりな式神たちが洗いざらい伝えました。劉黄綺や劉蓉に対する義理立ても思慕も、あって当然だと思うけれど、これから先をどう生きるか、考えてほしいのよ。」
「違う。詭弁だというのは、そのことじゃない。この陣、そして式神たちとお前の霊力を以てすれば、強制的に結び目の契約ができるはずだ。なぜ、そうしない?なぜ、選ばせようとする?」
ふう、と腰に手を当てて九条が一つ溜息をつく。攻撃的な表情を弛めないカラーズの「黒」。
「一つ聞く。最初に劉蓉を殺したオレが口を出すのもどうかと思ったが、言わせてもらう。……お前たち、自分の親以外に術を強要・強制されても、平気なのか?そんなことをしていい人間は、劉蓉と、その父親劉黄綺、たった二人のはずだ。違うか?」
ずっと黙っていた森田が、会話に加わった。それが意外だったのか、九条も式神たちもカラーズたちも、一斉に森田の方を向く。
「それは、……その通りだ。」
カラーズたちの中には、九条や教誨師よりも、森田ケイを恨む者があっても不思議はない。劉蓉は二度死ぬことになったが、一度目の死はこの森田によってもたらされた。カラーズの「黒」の眼がさらに敵意に光るのも、だから、仕方のないことだった。
「九条は、そこまで奪うつもりも、親代わりになるつもりもないらしい。それは、分かってやってもいいんじゃないか?」
それだけ言うと、森田はまた、口をつぐんだ。自分の立場は分かっている、言いたいことは言った、という顔だ。九条は、森田の言葉に特に反応を示さない。異存はないが、自らの配慮をあけすけに言われたせいで、どう反応すべきか決められなかったのかもしれない。代わりにまた式神たちが喋り始める。
「そうそう。別に、中身まで入れ替えろって言ってるんじゃないし。」
「私たちは、お前たちが生きていてくれたらうれしい。死んだら悲しい。それだけだ。」
カラーズの「桃」が、ついに口を開いた。
「もう、いいんじゃない?無理に今ここで死ぬ理由、ないんじゃない?」
「黄」も言う。
「わたし、もう少し、生きてみたいよ?」
「青」が言う。
「それで結局、みんなが死にたくなったら、九条さんにお願いすればいいんだ。」
「緑」も告白する。
「わたしは、式神さんたちみたいに、笑ってみたい。」
「赤」も、呟くように言う。
「劉蓉のこと、思ってていいんだったら、忘れなくていいんだったら、無理に死ななくてもいい気がする。」
だが、「黒」は一人、拒絶を口にする。
「親を三人も殺した敵の手に落ちるんだぞ。いいのか?」
「敵も味方も、一時のものだし。」
「赤」のその言葉に、「黒」は俯いた。俯いたまま、絞り出すように言った。
「……どんなに酷いことされても、わたしたちは、劉蓉が好きだった。劉蓉は、一度もわたしたちを娘だとは認めてくれなかったけれど、でも、妹だとは言ってくれた。だから、家族だとは認めてくれてたんだと思う……。」
カラーズたちは皆、頷いた。「黒」は、半ば叫んでいた。
「でも、その劉蓉が、母さんがいない世界で、どう生きていけばいいんだ……。」
カラーズたちの様子を、式神たちがじっと見つめている。敢えて何も言わず、カラーズたち自身の思いを乗せたことばを待っている。
「イン、それは、どう生きていけばいいかなんてことは、わたしも分からないよ。でも、わたしは、もしまだ生きていていいなら、やってみたいことがある。」
「イン、いつも長女の役やってもらって、ありがとう。でも、あなたも、何かやろうと思えば、まだできるんだよ。」
自らをインと呼ぶ仲間の言葉に、「黒」にはただ、戸惑いの色が浮かぶ。
「……済まない。少し、考えさせてほしい。」
九条がそっと微笑みを浮かべる。
「分かったわ。……さてと、式神の皆さん、お仕事お疲れさま。陣の守護はこれで終了よ。」
「何?陣を解くというのか?まだ我々は、契約を受け入れてはいない。」
呪言を封じたカラーズたちの左足首にそっと触れて周りながら、九条は「黒」に優しく尋ねる。
「ええ。でも、あなたは、新しい契約を望む仲間を置いて、どこへも行かないでしょう?」
「それはそう、だけど。」
「でしょ?それに、そろそろ夕ご飯なの。ここのところちゃんとしたご飯食べてないから、今日はこれから夕ご飯作ろうと思うのだけど。この人数じゃ準備が大変だから、式神たちにも手伝ってもらうのよ。」
「九条、今夜のメニューは何?」
「どうする?和食?」
「カラーズは、何が食べたい?」
賑やかに喋り始めた式神たちの向こうでまだ固まっているカラーズに、九条が尋ねる。
「え、あたしたちも、ご飯、一緒に?」
「分けたら面倒でしょ?」
そう言われても、カラーズは何も答えられない。雰囲気を察したのか、びし、と指をさしつつ深紫が尋ねた。
「それじゃ、カラーズの黒、じゃなくてインだっけ?何が食べたい?」
「え?」
「おなか、空いていないの?」
「食べたいもの、言ってみなよ。」
「九条は料理の腕、そこそこよ?」
「そこそこで悪かったわね。」
「あ、ごめん。」
式神たちが笑う。
「何ならオレも手伝うが。」
森田がそう言うと、式神のバイオレットが速攻で食いついた。
「な、何がお出来になられるのでございますか?」
急に妙な敬語になって尋ねる。
「よかったじゃんバイオレット。ケイさんの手料理食べれるかもよ!」
完全にテンションが舞い上がったバイオレットは、完全に瞳孔を開ききったまま、その朱い眼を潤ませてただこくこくと頷くだけだ。
「そう変わったものはできないが、炒飯とか肉じゃがとかのありきたりなものなら。」
一八柱の神々は、皆一瞬、顔を見合わせた。そして、次の瞬間、
「炒飯!」
カラーズたちが叫ぶ。
「肉じゃが!」
式神たちが叫ぶ。
「はいはーいそれじゃ、今夜のメニューは元相馬家執事、森田ケイ氏お手製の炒飯と肉じゃががメインということで決定しました!」
ベージュがそう宣言し、メニューとしてはやや奇妙な取り合わせながらも、森田ケイは相馬家執事の基本スキルとして仕込まれた料理の腕を振るうことになった。人類二名、式神鬼神計一八名の大所帯だ。まるでキャンプか炊き出しのようだと、苦笑しながら。
(あはは、みんな、楽しそうでよかった。なんか好き勝手言われてたような気もするけれど。)
相変わらず黒尽くめの森田ケイと、桜ヶ丘中学校の制服に着替えたバイオレットとが、式神全員に冷やかされながらインプレッサに乗り込み、スーパーに大量の食材を買い出しに行くところまでを、微笑みを浮かべつつ、そっと見ていた。
相馬ひなの魂は、世界を経巡っていた。
かつての自分の有り様を知り、今の世界の有り様を知った。
もちろん、巫女となったばかりのひなの魂が触知できる世界など、高が知れてはいたが、それは、今までの、肉の身体に囚われたひなの認識領域からすれば、あり得ない広がり、あり得ない高みであった。
近しい人のことを思うと、その人の様子が見えた。ただ見えるだけではあったが、それで十分だった。
眠り続ける自分の傍らに座る、みさをの姿を見た。
思案顔で、病院の中庭から空を見上げる父、嶺一郎の姿を見た。
その隣に立つ、杉田律雄の姿を見た。
横浜山下町の路地裏で、見知らぬ男と話している時田の姿を見た。
水原環が、上司らしき人物に談判しているのを見た。
吾妻ルカと結城舞が、自分たちを護るために戦ってくれているのを見た。
青木はるみが、目に涙をいっぱいに溜めて、眠る自分のことを見つめているのを見た。
吉田紗幸が、ただ黙って、自分の前髪を撫でてくれるのを見た。
森田ケイが、そっと足音を忍ばせ、夜の病室を訪れてくれるのを見た。
そろそろ帰ってあげなければ、と思った。
だが、まだ後一つだけ、やらなければならないことがあった。
お母様――
相馬ひなは、幼い頃の記憶を辿り、その人の姿を思い浮かべた。
母の命は、狂乱の果てに失われたという。
ならば、その魂はまだ、さまよっているのではないか。
報われず、救われず、まだ、相馬の屋敷をさまよっているのではないか。
会えるものなら、会いたかった。
お母様――
告げられるものなら、告げたいことがあった。
お母様――
お母様、
ひなは、もうすぐ、一八歳になるんです――
懐かしい、洋館を見下ろしていた。
ほんの数日、留守にしただけの、相馬の屋敷であるはずなのに、どうしようもなく、懐かしかった。
その、懐かしさの理由をしばらく考えたひなは、ふと、正解にたどり着いた。
もしかしたらこれは、母が存命だった頃の相馬の屋敷なのではないか、と。
北棟の裏手、夏に式神たちと追いかけっこをした辺りを、白いワンピースの幼い少女が、お揃いのデザインの、白いワンピースを着た女性に手を引かれて歩いている。
見間違えるはずもなかった。そのワンピースは、自分の記憶の中にもある。
お母様――
ひなにはだが、駆け寄ることも、声をかけることもできない。ただ、見るだけだ。聞くだけだ。
「ひな、よく聞きなさい。」
母は、幼い自分に語りかける。
「ママが、あなたを守ります。この母が、あなたの巫女になります。」
その言葉は相馬ひなを打ちのめした。何としても、その覚悟を翻してもらいたかった。でもいくら泣き叫んでも、母には何も聞こえない。
どれくらい、泣いていただろうか。
「ひな、あなたなのね。」
唐突に、背後から話しかけられた。
慌てて振り向くと、そこに、母、相馬涼子がいた。
「お、かあ、さま?」
慌ててもう一度前方を見ると、幼いひなの手を引く母親の姿はまだ、目の前に見えている。
「私、ずっと一人で、あなたと私の、あの懐かしい日々を、見ていたの。」
ここは、涼子の、死んだ母親の、無限に繰り返す夢の中なのか。
「心配しなくていいの。私はここで、あなたをずっと待ってた。」
涼子が、優しい笑みを浮かべる。
「お母様、あたし、みさをおばさまに伺いました。お母様は、あたしを守るために、巫女になろうとして、……」
「ええ。でも、ほんとうは少し、違うのよ。確かに私は、発狂した。でもそれは、覚醒の衝撃に耐えられなかったからではないの。私が発狂したのは、あなたが一七歳で邪神に殺されるという未来を、視てしまったからなの。」
「そんな……、あたし、ちゃんと生きて帰ってきました。」
涼子は優しい表情のまま、頷いた。
「ええ。そうです。そうでなければなりません。そのために、あなたを生きて返すために、私は、狂乱を乗り越え、考えて考えて、たった一つの望みを得たのです。そして、それを実行するために、現世の命を捨てたのですから。」
「どう、いうこと?ま、さか、」
尋ね返してはみたものの、相馬ひなには、その答えが分かっていた。
母は、相馬の女たちの願いをすべて、その身に引き受けてくれていたのだ。
あのとき、未熟な巫女に過ぎない自らを導き、邪神の主砲すら弾く防御を形成した二振りの刀。そこに溢れた確たる意志、相馬の女たちの想い。母は、そのために、この母は――
「そう。最期の瞬間、私は狂ってはいませんでした。」
一七歳のその日、相馬ひなを邪神から護る、ただそれだけのために、母は狂乱から立ち返り、この世に思いを留め、自らの命を捧げてくれたのだ。
相馬の家の護り姫、相馬の巫女として、これ以上の力を発揮した者が、かつていただろうか。これほど忠実に、相馬を継ぐ者の守護となった者がいただろうか――。
「これからも、母はあなたとともにあります。」
「……は、い。」
母の命と引き替えに、自分は生きながらえた。
そのことに、不思議と、悲しみはなかった。
感じていたのは、自分がこんなにも愛されているという、誇りだけだ。
母は狂乱の果てに死んだのではない。相馬の護り姫として、巫女として、死んだのだ。
「母の願いは、刀とともに。」
「……はい。」
歓びに、身体が震えた。
「ここから先の未来は、母も知りません。あなたが、あなたの愛する者たちと、拓いてゆくのです。」
「はい、お母様。あたし、」
「ええ。もう、お帰りなさい。あまり待たせては、皆が可哀想ですよ。」
「……お母様、」
「ほら、母のことはもう、大丈夫ですから。」
「でも、お母様、」
そう言って、ひなは首を横に振った。
視線を上げ、涙の中、笑顔になった。
「……ママ!」
相馬ひなの魂はこうして、時を超えてその母の胸に抱かれた。
「ママ、あたし、もう一八歳になるんだよ!」
そうして、相馬ひなは目覚めた。
すでに、夢の島熱帯植物館の事件からは、一週間近くが経っていた。
医師は、ひなが目覚めないことから、対症的な療法を提案してきたが、相馬の家の大人たちはそれを丁重に断った。一週間までは待ってくれ、静かに眠らせてやってくれと頼んだ。
そうして、六日目の朝、相馬ひなは目覚めた。
「おなか、空いた。」
覚醒して最初の言葉が、それであった。笑いかけたみさをに、笑顔で告げた。
「お母様と、会いました。」
みさをは、ただ、笑って頷いた。
「皆を、呼んできましょうね。」
そう言って、みさをは立ち上がり、やがて病室には、病院にいた相馬家の者全員が集った。
「みんな、ただいま。ごめんなさい、遅くなって。」
娘は、自分の父親が涙するのを、初めて見た。
相馬ひなの新しい日々は、こうして始まった。
『教誨師、泥炭の上。』第三部、完。
第三部は文庫本換算で326ページ、第一部や第二部よりは少し短めでした。かっちり終わらせようと思っていたわけではなかったのですが、自然とこういうかたちでまとまりました。
カラーズの新しい物語、覚醒した相馬ひなの新しい物語、そして(最初は回収するつもりだったけれど)結局意図的に放置することにした、ひなと紗幸のお弁当イベント。書きたいこと、(おばか丸出しだけど、登場人物たちのために)書いてあげたいこと、まだいろいろあります。もっと取材して勉強して、着せてあげたいもの、持たせてあげたい武器、いろいろあります。このあたりの感覚は、なんだかドールとか人形を大切にされている方の場合と、ちょっと似ているかもしれない、とも思います。
でも、これでしばらく、お休みです。本家(?)のブログの方も、更新が停まっています。こちらにアップできるまとまったものは今、ありません。
この「地味なファンタジー」にお付き合いくださったすべての方にお礼を申し上げます。ありがとうございました。
いつかまたこのシリーズの続きをお届けできたらと思っています。それでは。