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第一話 すべては優しい絶望に始まる

第一部・第二部同様、残酷な描写や性的な描写に関しては、あんまり激しいものはありません。ただ、全くないわけでもありませんので、R-15とさせていただきます。ご了承ください。第三部の分量は、文庫本換算で326ページ、全八話の構成となっています。


※第三部第一話、途中でR-15要素が一時濃厚となります。苦手な方は回避してください。第二話からお読みいただいても、話の展開は何とか追えると思います。

 朝から、厳しい残暑の日だった。都内でも奇跡的に緑の多く残る相馬邸の周辺でも、午前のうちにあっさりと三〇度を超え、真夏の暑さとなっていた。だがそれも、あと数週もすれば、終わる。実際、ここ数日はじっとりとした蒸し暑さではなく、乾いた暑さが続いていた。

 相馬の屋敷の北棟二階の、自らの執務室で、この館の一人娘、相馬ひなは机に向かっていた。その傍らでは、メイドが一人、艶消しの黒い布地に、光沢のある黒い糸で刺繍を施している。夏の終わりには似つかわしい、静かな昼下がりであった。

 相馬ひなが、椅子の上で伸びをした。

「宿題、終わりましたか?」

「ええ。やっとね。この夏は、いろいろあったから、気がついたらだいぶ溜まってた。」

「そうですね、ほんとに、いろいろありました。お仕事の方で、復活もされましたし、このお屋敷が戦場になったりも。」

「そうね。しまいには、お友達に刺されたり、ね……。」

 八月一三日、相馬ひなは、同じ高校に通う「友達」に、新宿のデパート内で刺された。傷はもう、ほぼ癒えたが、そのことは、今はこうして明るく振る舞っているひなの心に、重大な亀裂を与えてもいた。ひなが小学生の頃から仕えているメイド、青木はるみに対しても、妙に高圧的になったかと思うと、声をかけても大丈夫と言うばかりで、何も相談してくれなくなったりもした。

 そんな数日が過ぎ、またそんな数日の中でも、ひなは、依頼された仕事だけは遂行した。その間、ずっと傍らで見守りつづけていた青木は、一つのことに気がついていた。お嬢様は、無理矢理にでも独り立ちしようとなさっている、これまでずっと、お側に仕えていた自分さえ、遠ざけられようとしている……。ここ数日は、以前のように明るく振る舞われているけれど、それすらも、心配をかけまいとするお気持ちからのことで、実際には、痛みと焦りと孤独の中で、お嬢様は毎日を過ごされている……。

 であるならば、と青木は覚悟を決めた。いつ来るとも知れない巣立ちの日を予期しつつも、今まで通り、お側にいられる間は、お仕えしていこうと。何もお声をかけていただけなくなるまでは、なるべく、お側にいようと。

 幼くして母親を亡くした相馬ひなにとって、青木はるみは、もうずっと、母親代わりであった。相馬の家に雇われた一メイドに過ぎない自分が望もうと望むまいと、ひなお嬢様は、自分のことを肉親のように思ってくださる。もちろん母と娘という関係とは違うが、もうここ何年も、互いに側にいることが自然な関係ではあった。ならば、その関係を愛おしみ、当たり前の、今まで通りの二人の時間を大切にしようと、青木は思っていた。

「お嬢様、トレーニングの件でございますが。」

「お父様は、なんて?」

「当然認めるわけにはいかない、と言いたいところだが、と。それきり、何もおっしゃいませんでした。」

「そう……。紗幸さんの扱いでは、あたし、わがまま通させてもらってるからね。その上、トレーニング、でしょう。お父様には、心配かけてばかりね。」

「はい。」

「でもそれじゃ、トレーニングはゴーサイン、までは行かないけど、黙認、というくらいにはなったのね?」

「そうお考えになってよろしいかと。」

「そっか。それじゃあたし、宿題も終わったし、この後紗幸さんに伝えてくるわね。紗幸さんに、自分の部屋にいるように伝えてくれる?」

「お嬢様が、紗幸さんのお部屋に?」

「ええ。」

「かまいませんが、一応屋敷内では主従でございますので。」

「分かってるって。でも、お部屋に入っちゃえばオトモダチ、でもいいんでしょ?」

 相馬ひながにっこりと笑っている。以前なら、このセリフはもっと、にやにやした、からかいの感情の入った笑みとともに口にしたはずだ。館の主、つまりひなの父親である相馬嶺一郎のお手つきとなり、嶺一郎の部屋に恋人として忍ぶようになった自分をからかうためのセリフのはずだから。それが、だが何か上手な、優しい笑顔になってしまっている。

 やっぱり、と青木は心の中でため息をつきつつ、表向きは明るく応じた。

「……お嬢様、紗幸さんとそういうご関係になりたいと、そうおっしゃっているのですか?」

「えええ?違うわよ、あたしはただオトモダチって言っただけよ。」

 そう言って笑う、その笑顔が整いすぎている。

「承知いたしました。……まあ、十分、お気をつけて。」

 青木が、「十分」のところにわざとらしいアクセントを置く。

「はいはい。なんだか返って緊張してきちゃったじゃないの。」

「ふふふ、作戦通りですわ~」

 適当に会話を続けながら、青木はるみは、刺繍道具一式を手早くまとめ、自室へ下がった。ひなの執務室の隣は寝室、お嬢様付きメイドである青木の部屋はその寝室と間続きになっている。だが、今はめったに直接の行き来はせず、廊下に一度出てから自室に戻る。

(お嬢様、はるみにはただ、お側にいることしかできません。お嬢様の痛みを癒して差し上げることはできません。自分が不甲斐なく、申し訳なく存じます。)

 お嬢様のお召し物を飾るためのレース、刺繍糸、そうしたものに囲まれた自室に立ち尽くし、青木はるみはそう、心の中で詫びていた。



 吉田紗幸は、すでに北棟一階の一部屋を与えられていた。ここ数日は、メイド長である暮坂直々の指導の下、メイド見習いとしての修行の日々であった。明日からは、相馬ひなとともにこの屋敷から桜ヶ丘女子高等学校に通いつつ、邸内ではメイドとして働くことになっていた。

「あたしよ。お邪魔するわね。」

 ノックとともに、ドア越しに声をかける。間を置かず、ドアが開く。

「どうぞ、お入りください。」

 吉田紗幸は笑顔を浮かべ、簡素な机の前の、この部屋に一つしかない椅子を進める。メイドである自分は立って話を聞く、ということのようだ。

「……それで、お嬢様、ご用というのは?」

 ひなが腰掛けるのを待って、紗幸は尋ねた。

「ええ。一つ、事務連絡があるのよ。でも、実は紗幸さんにではなくて、スノーさんの方にね。」

 一瞬で、二人の間の空気が変わる。相馬ひなは、ふてぶてしさと高慢さを備えた笑みを浮かべ、対するメイド見習いの吉田紗幸も、苦々しく思っている人物を見下すような、そんな表情に変わっている。

「……何?」

 ひなは薄く笑い、首を左右に振る。左肘を机の上に載せ、紗幸を斜めに見上げる。

「ふふ。そう身構えなくてもいいわ。ねえスノー、あなた、ナイフ以外は?」

「そうね、拳銃やサブマシンガンは使ってきたけど、長距離狙撃系はトレーニング含め未経験。そっちは、義父が受けてたから。」

「格闘技は?」

「ナイフ持ちの場合の組み立てだけ、義父から。流派的にはオリジナルか折衷らしい。」

「了解。……明日から学校だけど、帰宅したら一時間はトレーニングだから。」

「トレーニング?」

「ええ。あなたに何をしてもらうかはまだ決めてないけど、うちで働く以上は、あなたもあたしの戦力としてカウントさせてもらう……。だから、あたしと一緒に練習してもらうことにしたわ。毎日メイド修行だけじゃ退屈でしょう?」

「そんなことは。これでもけっこう忙しいしね。……でも、ひなお嬢様のご命令とあらば。」

「よろしい。」

 満足そうに、相馬ひなは頷いた。対する吉田紗幸は、特段の表情らしいものは浮かべていない。

「……にしても、よかったわね。」

「ええ。旦那様のお力添えのおかげで、ようやく桜ヶ丘もこちらからの通学を認めてくれたし。」

「そっちじゃないわ。顔の痣よ。すっかり消えたわね。手足の方も。……これならちゃんと、家族が未解決の事件に巻き込まれ亡くなったものの、けなげに通学を続けるうぶで可憐な女子校生に見えるわ。」

「……。」

 いったん柔和なものに戻りかけた紗幸の表情が、刺々しい敵意を持ったものに変わる。それを、ひなは横目で見ている。

「あなた、別にあたしを恨んでもいいのよ。あなたはあたしを刺したし、あたしは、教誨師は、あなたのお義父さんを始末した。その事実はもう一生、変わらないわ。」

 何故かふてくされたように、ひなは横を向いたまま、そう言った。紗幸の拳が強く握られる。

「……そのわたしに、トレーニングですって?わたしが武器を手にすることを認めてるってことでしょう?その自信が正直、鼻につくわ。」

 再び二人は、正面から視線を交わす。

「何とでも言いなさい。でもスノー、教誨師は教誨師、相馬ひなは相馬ひなよ。相馬ひなと吉田紗幸は主人の娘と家のメイドという関係だけれど、教誨師とスノーとには、別に主従の関係はない。持てる力の上での上下関係はあってもね……。だから、二人の間に何かあっても、それはやられた方が弱かった、マヌケなヤツだった、ってことでいいわ。」

 首をすくめ、話にならないというポーズを、紗幸はとった。顔には冷笑が浮かんでいる。

「ふん、……わたしがあなたに銃を向けられないとでも?」

「いいえ。そうされる可能性も含めて、あたしはあなたをこの屋敷に置くことにしたの。あたしの人を見る目は、別に完全なものじゃない。そこに期待も自負もない。けれど、あなた一人の造反に対処できなくて、何が教誨師よ、とは思ってる。」

 教誨師と自ら名乗ったこの館の娘は、椅子に座ったまま、真正面からスノー、吉田紗幸の顔を見ていた。睨み据えるでも、高圧的に見るでもなく、ただ見ていた。

「……好きになさい。まあ当分、このスノーはあなたに刃向かうことはないわ。」

 呆れたような、諦めたような口調で、紗幸が答える。

「そのセリフ、鵜呑みにして寝首を掻かれるのも一興、かしらね。……話というのは以上よ。明日からよろしく。」

「こちらこそ。」

 そう答えながら、ひなが全く立ち上がる気配がないことに、紗幸は気がついた。まだ、何かあるというのか。警戒を解かずに待つと、少しして、ひなが、口を開いた。

「……ところでスノー、ついでと言っては何だけど。ひとつ聞きたいことがあるの。……いえ、そうね、吉田紗幸の方に聞いた方がいいことなんだろうけど。」

 歯切れの悪い、躊躇いがちとも受け取れる口調に疑念を抱きつつも、紗幸は応えた。

「何かしら、いえ、何でございましょうか?お嬢様。」

「ううん、相馬家の見習いメイドの紗幸さんでもなくてさ。桜ヶ丘の三年生の、吉田紗幸ちゃんに聞いてみたいことがあるんだよ。同じ桜ヶ丘三年の相馬ひなとして、ね。」

「……何、かな?」

「あなたがあたしに近づいたのは、二年生の秋ぐらいからだと思うけど。それは純粋に、仕事上の理由だけで近づいたの?それとも……」

 何が同じ桜ヶ丘だ、結局仕事絡みじゃないか、そう思った紗幸は、声低くつぶやくように言った。

「――今さらそれを聞いてどうするのよ教誨師。」

「違っ!教誨師は関係な……。」

 何故かひなは、過敏な反応を示した。

「ふふふ、何をむきになってるの。……言葉遊びはもう止めましょう?教誨師も、相馬ひなお嬢様も、ひなちゃんも、全部あなたでしょ?認めなさいよ。言い換えても、そこは何一つ変わらないわ。わたしが吉田紗幸であり、スノーでもあるように、ね。」

「……そうね。」

 当然の、だが触れたくない事実を突きつけられて、ひなはしゅんとした様子になった。やや強い調子で話す紗幸と比べると、明らかに弱々しい。この部屋に入ってきたときのような、お嬢様然としたオーラのようなものが失せた。

「――ねえ、あの日あなたは、わたしのことを変態女って言ってくれたのよ。わたしは、そう、確かに変態なのかもしれない。蔑まれて当然の、壊れた女なのかもしれない。だから、それで満足もしたし、諦めもしたわ。あなたには、ケイさんだっているんだし。」

「……。」

 見ようによっては泣き出しそうにも見える表情で、ひなは紗幸を見つめている。その真意を計りかねて、紗幸は言葉を選び直す。

「……違うわね。分かったわ、あなたが聞きたいのは、こういう気遣いのあるせりふじゃないのね。もっと別のこと。たとえば、そうね、わたしがあなたのこと、今でも好きです、わたしをどうにもならない現実から救い出してくれて、感謝しています、とでも言えば、あなたの罪悪感や喪失感が解消されるのかしら?自分の正義感を委ねていた世界が自分を裏切った、そのことが帳消しになって、元の甘ったるい世界が戻ってきてくれるとでも言うのかしら?……でもね。世界は別にあなたを裏切ってなんかいない。あなたが最初から、勝手に勘違いしてただけ。……あなた、そういうせりふが、聞きたかったんじゃないの?」

「……。」

 ついに、ひなは視線を落とした。うつむき、吉田紗幸の部屋の、床の上を見ている。

「――無様ね、教誨師。これじゃどっちが敗者か、分からないじゃない。」

 紗幸は、そう言って、ただ次のひなの言葉を待った。

「……。あたしが負けたというのなら、それでもいいわ。でも、教誨師は、教誨師として機能している。スノーに、負けてはいないと思ってる。ただね、ただ、相馬ひなは、あれからずっと、八月一三日からずっと、眠ったままなのよ。」

 言葉の最後の方は、消え入りそうな声だった。椅子の上に、小さく、肩を落として座っているひなに対して、紗幸は、腰に手を当て、むしろ自分が主であるかのように、堂々とひなを見下ろしている。

「それをあたしのせいだとでも?いい気味だわ相馬ひな。あなた、幼すぎるのよ。あなたは……。あなたは、向いてない。殺し屋なんかに相応しいのは、壊れてるわたしの方。」

 ひなは、力ない視線をようやく紗幸の顔に戻した。

「悪いけど、相手に届いたナイフをこじりもしないなんて間抜けなことは、教誨師なら絶対しない。――あなたは、そういう意味じゃ、まだ壊れてないのよ。」

 何とか言い返した。だが、まだ紗幸の優位は変わらない。

「そう言うあなただって、なぜわたしを始末しないの?あなたがその気になれば、わたしは明日の朝日を見ることなく、それこそもう二度と、桜ヶ丘の正門をくぐることもなく、きれいさっぱり終わりになるって言うのに。仮初めの高校時代の、空っぽで上っ面だけの美しい思い出を、わたしの亡骸のイメージでぶち壊したくないだけじゃないの?偽善者が、墓場に持って行くための美化された思い出を守りたいだけ……」

 「偽善者」、おそらくその言葉が痛く響いたのだろう。それまで感情はおろか生気まで失せたようだったひなの顔に、一瞬で怒りの表情が浮かんだ。

「もう一度、聞くわ。無様でも、何でもいい。もちろん、今がどうこう言ってるわけじゃない。今はもうあたしたち、敵どうしみたいなものでしょ?あたしはあたしと家の力であなたを当面の間、拘束した。それで十分。それ以上は何も期待しない。……でも、吉田紗幸の、あの頃の吉田紗幸の気持ちを、あたしはちゃんと知りたいの。それがたとえ、あたしの甘さを上書きするだけの、みっともない行いであったとしてもね。」

 腕組みをして、紗幸はひなの言葉を聞いた。そして、やがてこう、問い返した。

「――知って、どうするっていうのよ?」

 ひなは、一瞬の躊躇いの後、何かを覚悟したように、告げた。縋るような眼差しと、それには不似合いな、自分を押し殺したようなトーンの声。

「もし、もしあたしの期待してる答えだったら、それを抱いて生きていくわ。でも、期待してない答えであったとしても、あたしはそれを抱いて生きる。ただ、それだけよ。あたしは、あたしに向けられていたそれが何なのか、知りたいだけ。無様でも、何でもいい、知って、納得して、もしかしたら、泣いて。それだけよ。」

 その思いに、その孤独に寄り添いたい、そう、紗幸は思った。だが、それは、できなかった。なぜなら二人はもう、友達ではなかったから――。

 紗幸は、分かりやすい冷笑をもう一度浮かべた。

「ふん……。一つ、聞かせて。あなた、品川の事件で負傷したわよね。さすがに詳しくは知らないけど、あのとき、何があったの?」

「あたしの質問には?」

「わたしの質問に答えてくれたら、考える。」

 椅子に座ったまま、ひなは軽く身を捩るようにして、紗幸から顔を背けた。

「分かったわ。――だいぶ端折るけど、あのとき、敵は正面突破してくる部隊の他に、側面支援のスナイパーを置いていたの。倉田っていう名前の、元組織の人間よ。」

「ふーん。倉田、か。会ったことはないけど、父がときどき電話で話していた相手の中に、そんな名前の人間がいたわ。」

「そう……。で、そいつがこちらのメンバーをスナイプしようとしたから、……あたしが、ノクトビジョンつけてたあたしが間に割り込んで、MP5で応射したの。結局相打ちで、向こうはSIGシリーズだったから、アーマー抜けて肩胛骨に当たって、……。ま、そういうことよ。」

 相変わらず、ひなは顔を背けたままだったが、紗幸は両手の甲を腰に当て、その小さな背中に微笑みかけた。

「誰をかばったか、言う気はない?」

「どうせ分かってるでしょ?」

「そうね……。事件後、この屋敷からいなくなった人物、で正解ね。」

「ええ。」

「……その傷、消えた?」

「もう、だいぶね。外科的にも多少はいじったけど。沖縄でも、いちおう焼かないように気はつけてたし。」

「そっか。――だいたいは、わたしの想像してた通りだったな。あなたが撃たれるなんて、相馬家はどんなヘマをしたのかと、最初は思ったりしたけどね。だから初めてお見舞いに行った日、付き人のはずの森田さんを、思いっきり睨んじゃった。あんた、付き人のくせに何やってたのって……。しばらくして、森田さんが付き人を辞めたって聞いたから、やっぱりそういうことだったのかなって。……ふふ、でも、うらやましいな、あなたが。」

 ひなは、素直に驚いた表情を浮かべて振り向いた。

「え、あたし?森田でなくて?何で?あの件であたし、同業者にどれだけ馬鹿にされてるか分からないのに。」

「でもさ、女子としては、ちょっと誇らしかったんじゃない?傷ができて、そして、それを直視できたとき。」

 言われて、あ、と何かに気づいた表情になる。

「……うん。」

「……わたし、あなたを刺した後、義父に報告したわ。失敗したって。たぶん、殺せなかったって。教誨師の始末は結局、義父にとっては、キリークに差し出す手土産のようなものだったのよ。義父は、当然成功するものと思って、後のプラン、キリーク本隊合流後の計画まで立ててたから、怒り狂って、わたしを痛めつけた。俺に恥をかかす気か、って絶叫してたわね。……だけどそれは、こんなわたしでも、覚悟の上だった。もちろん、友達だと思ってくれてるコを刺して、酷い言葉を投げかけて。でも、その罪悪感があるから、父に殴られても蹴られても、我慢できたの。いつもより酷いやられ方だったのに、いつもより、平気だった。――つまりわたしは、わたしなりのやり方で、あなたを守ったと思いたかったし、事実そう思っていた。……あなたに、そんなこと、どうでもいいと言われるまではね。」

「……。」

 すとん、とまた、ひなは弱々しい表情に戻ってしまう。

「怪我から回復したあなたは、もう二度とわたしに隙は見せないでしょうし、相馬の家だって、わたしの背景くらい洗うでしょう?だから、一度失敗すれば、わたしたち親子にあなたがやられることはない、そう思っていたのよね。」

「……。」

「だから、義父に折檻されながら、わたしは自分を誉めていたわ。よくやったって。わたしはこれで終わり、たとえ相馬家に報復されなくても、義父に殺されるか、警察に捕まるかのどちらか……。そうも思ったけれどね。」

「で、それと、あたしの品川の一件と、どう?」

 無理にでも、虚勢を張ってでも、何か言わなければ。そんな言葉のようだった。

「ええ。きっと、同じではないわ。同じではないけれど、わたしはあなたを、相馬ひなを守りたかった、その気持ちは、あなたにも通じると、そう、思いたかったんだ……。」

 不思議なことに、このとき、椅子の上のひなも、立ったままの紗幸も、表情としてはほとんど同じだった。弱々しく、痛々しい、報われない想いに囚われた少女の顔――。

「……ケイくんがね。」

「え?」

「ケイくんが、言ってたの。やっぱり、オレが撃たれてればよかったって。」

「……。」

「あたしは、あなたっていう大事な友達に刺されて、あなたは顔の形が変わりそうなほどの暴力をお義父さんから受けたわ。うちの人間が救出しなければ、そのまま、放置されたまま、ほんとに死んでたかもしれないって聞いてるよ。……これじゃ、あたしたち、報われないじゃない?どっちも。だから、守ってもらえてうれしいか、と訊かれても、素直にうれしいとは言えない。あたしを弾除けにしたことになったケイくんだって、きっと、やっぱりうれしくなかったんだと思う。あたしの傷が残っているうちは、ケイくんはきっと、自分を責め続けるんだと思う。でも、というか、だからあたしは――」

「だから?」

「うん。だから、それとたぶん、同じ話で。あなたの怪我がきれいに治って、あたし、よかったなって。あたしの絡む事件で受けたあなたの傷が癒えることは、身勝手だけど、あたしには救いなの。たとえそれが、外見の傷が癒えただけでもね、それこそ、罪悪感が勝手に軽くなるような。

 もう、面倒だから。はっきり言うね。

 もしあなたが、あたしのこと教誨師だって知らずに近づいて、その、少なくともあたしには、単なる友達っていう範囲を超えてるようにはっきり感じられるような、そんな好意を持ってくれて。なのにあたしが実は教誨師という名のフリーのエージェントで、そのせいであなたが、苦しんで、殴られて、……。あなたとの、この一年が、結局そんなことだったのだとしたら、もう二度と、八月一三日までの相馬ひなは、目覚めなくていい。教誨師のまま、生きていく。誰かに好かれるような余地は残さない。

 ――だから、ねえ紗幸ちゃん。これだけは教えて。あなた、あたしの正体を知ってから、あたしに近づいたの?それとも……。」

 必死に、それだけのことを、ひなは語った。紗幸の顔を見、視線を落とし、それでもまた紗幸の顔を見ながら、語った。紗幸は、初めてひなに背を向けた。拒絶のためというよりは、複雑な感情に揺れる顔を、見せたくなかったのだ。

「あなたには、辛い答え、だと思う。」

「でも、あなたも、辛かったんでしょ?――教えてよ、分けてよ、それ。じゃないと、相馬ひなは、あなたを友達と思えない。」

「それでいいじゃない!もう、メイドとお嬢様なんだし、教誨師とスノーなんだし!友達のままじゃ、ダメ、でしょ?」

 背を向けたままの紗幸の耳に、ひなが椅子を蹴るように立ち上がった音が伝わる。

「ダメじゃないよ――」

「え?」

 紗幸は振り返った。立ち上がったひなと、ほんの一メートルくらいの距離を挟んで向かい合う。

「あたしが一番信頼しているメイドは、教誨師の後見人でもある。はるみさんのことよ?でもね、ある日気が付いたら、ふふ、あたしの父親の女になってたわ。酷いでしょ?――だけどね。裏切られた、って思ったことはないの。ただの一度もね。」

「どうして?」

 ひなは、この問いに直接には答えなかった。

「教誨師とスノー、お嬢様とメイド、別にそれはそれでいいじゃない。でも、相馬ひなと吉田紗幸は、現状、公的には桜ヶ丘のお友達だし、さらに去年はクラスメイトでもあった。そういうの、今さら打ち消そうと思っても、無理でしょう?仕事も立場も、思いに直結した基本的な関係までは打ち消せないよ。」

 正論、かもしれないと、紗幸は思った。だが、ひなのセリフの背後にほの見える微量の毒のようなものを、感じ取ってもいた。一歩、笑顔を浮かべたひなが紗幸に向かって足を踏み出す。自然と、紗幸の体が強ばる。

「……あなた、何を考えてるの?」

 読みきれない意図と行動を前に、スノーという名の暗殺者として生きてきた紗幸は、思わず後ずさる。だが、ひなは何か、明らかに奇妙な笑みを浮かべたまま、その場に立ち止まった。

「あなたにはきっと、屈辱的なことよ。」

「屈辱的って、……?」

「分からない?今日あたし、強引にでも、あなたに告ってもらおっかなって。」

「はあ?意味わかんない上に何を虫のいいことを。」

「だってぇ……。」

 すっと、ほんの一瞬のモーションで、間合いに入られた。というよりも、手のひらを重ねられ、指を絡められた。そのまま、ひなは紗幸の肩辺りに、自分の額を押しつけるような姿勢になった。

「って、え?どうしたの?なんでいきなり?」

 慌てる紗幸の耳元で、ひなが囁く。紗幸が一度も聞いたことのない、甘い声。

「いきなりじゃないよ?今だってこうやって、あなたの部屋に来てるじゃない。あたしの部屋じゃ監視がつくから、わざわざ来てあげてるのに。」

 かつての自分なら、あの頃の自分なら、幸せに気を失いそうな瞬間だったはず。それが分かっていてなお、紗幸の胸を警戒心が占める。

「……やめてよ、からかわないでよ。あなたが何を考えているかは分からないけど、哀れみとか、打算とかでそういうことされても、うれしくない。」

 そう言いつつも、紗幸は何か別の、さらに嫌な思いに行き当たったらしい。端正な顔を歪め、自らに寄り添うひなに向かって問い糾す。

「もしかして、あの頃のわたしの気持ちが知りたいなんて、それも、口から出任せだったの?ほんとはわたしを、馬鹿にして、からかいたい……だけ?」

 手は繋いだまま、ひなが一歩下がる。何か投げやりにも見える笑顔を浮かべている。あからさまに軽薄な口調で、嘲りの言葉を正面から叩きつける。

「そうねえ、そりゃ、あたしにとっては浮気になるわけだしね?彼氏がいるのに同級生の女のコも口説いてる、って状況でしょ?これ。ふふふ」

 さすがに紗幸が、両の手をふりほどき、背を向けた。痛みの伴う声で吐き捨てた。

「分かってるなら、もう出てって。一人にして。あたしの気持ち、これ以上壊さないで。」

 だが、ひなは意に介さない。紗幸の正面に回り込み、自らワンピースの裾をたくしあげる。ショーツはおろか、臍辺りまでが露わになる。

「ねえ?……見てよこれ。あなたがやったのよ?うれしいでしょう?このあたしに、突っ込めたんだもの。一生の傷、残したんだもの。」

 だが、白い腿辺りまでが見えたときには、紗幸はさらに背を向けていた。予期していたことではあったが、それでも少し不満そうな様子で、ひなは裾から手を離す。

「やめてよもう。そんなに酷い言い方しなくていいじゃない……。わたしのこと、そんなに虐めたければいくらでも虐めてればいいんだわ。わたしはここを放り出されても、行く宛なんかない……。今は、相馬のお嬢様の、ほんの気まぐれかもしれないようなご厚情に縋って、ここに置いてもらうしかないのよ……。でも、でも……。わたしが好きになった相馬ひなが、こんなヤツだったなんてね。ずっと悩んでたわたしがかわいそう。」

 紗幸の肩は、震えているように見えた。その背中に向かって放たれたのは、再び、嘲りの言葉。

「あらぁ、悩んでたのぉ?」

 紗幸は振り返り、ひなを睨みつけた。怒りに彩られたその両眼から、涙が流れ落ちていた。

「ええ、そうよ。そうだよ。悩んでたよ……。いいよ、もう全部、言ってあげる。わたしは、あなたを好きになった。クラスが一緒になってすぐ、四月の終わりにはもう、その気持ち、はっきり気づいてた。そして、やっと話ができるようになって、しばらくして、義父の情報から、あなたが同業者、つまり、噂にだけは聞いていた教誨師という殺し屋なのだと知った。わたし、それを聞いて、どうしたと思う?――もっと好きになったんだよ?あなたのことが。わたしの、このどうしようもない現実を共有できる、唯一の人だと思った。――なのにあなたは、ひなちゃんは……。」

 気がつくと、涙の向こうの相馬ひなは、すっかりうなだれていた。紗幸の前に呆然とした様子で立ち、すっかり、俯いていた。その表情は、流れ落ちる髪に隠されて、見えない。

「ごめんなさい……、もう、いい。紗幸ちゃん、ごめん……。

 あたしもう、あなたを罵ったあのときから、あなたに許してもらおうとは思ってない。お義父さんのことも、自由を奪い、メイドとして拘束してることも、もう、償っても償えるものじゃないから。酷い女だって思ってくれてていい。あたしなんかを好きになったこと、後悔してくれてかまわない。恨んでくれてかまわない。我慢ができなければ、いつ銃口を向けてくれたって……。でも、これだけは、信じて。あたしは、あなたがあたしに近づいたのが、仕事上の理由だけだったら、どんなにか幸せなのに、そう思い、実際、そうであるように、今の今まで願っていたわ。」

「違うよ……。」

「ええ。そう、違ったわ。二つある選択肢のうちの、期待してない方の答え。ごめんなさい。酷いこと言って。でも、そうでも言わないと、あなたがちゃんと、答えてくれそうになかったから。」

「……。」

 ひなは、顔を上げた。無理矢理泣くのを堪えたような、酷い表情だ。

「あたし、もう、相馬ひなを辞める。教誨師としてだけ生きる。」

「……それは、意味ない。」

「なぜ?」

「わたしが守りたかったのは、相馬ひなだから。やり方は、まずかったかもしれないけれどね。」

「でも、相馬ひなは吉田紗幸を傷つけた。紗幸ちゃんを苦しめた。――だからもう、起きてこなくていいんだよ!」

「……まだ分かってないのね。」

 紗幸がまた、大人びた口調に戻る。

「何が?」

「教誨師も、ひなお嬢様も、桜ヶ丘に通うひなちゃんも、あなたでしょう?そして、わたしは、あなたが教誨師だと知って、なおさら好きになったの。もう、明確に欲情を覚えるくらいに。」

「……!」

「意外かもしれないけれど、わたし、教誨師のことも、好きなのよ。ようやく、先日、会えたでしょ?ここの地下室で。……うれしかった。罵られたの、当然分かってるし、傷つきもしたけれど、あなたの言うとおり、わたしは変態女だから。壊れてるから。教誨師ってね、サディスティックで、傲慢で、でもなぜか一生懸命で。見え見えなのに、無理して大人ぶって……。そういうコなんだって分かって、なんだか、うれしかったの。このコになら、命を奪われてもいいやって。自然とそう思えた。

 だって、ねえ、それって、教誨師のそういうとこって、結局は相馬ひな、つまり、あなたそのものでしょう?……だからね。この変態女さんから逃れるには、相馬ひなを辞めたくらいじゃ、無理なのよ。たとえ教誨師を辞めたって、ダメ。――ふふ、ほらお嬢様、お逃げにならないと、大変なことに。」

 紗幸がひなの左手を捻り上げ、背後から羽交い締めにした。そのまま、ひなの胸元をまさぐり始める。

「ちょ、え、ま、待って!体は、体は触っちゃダメ!」

「体は?って、おかしなことを言うのね。じゃあどこならいいって言うのよ!?」

「……唇。」

「――!?」

 紗幸は腕をほどき、また俯いてしまったひなと向き合う。だが、ひなの表情は、さっきまでとは違っていた。羞恥と昂揚で真っ赤になっている。

「……本気?」

 少し呆れたような口調で問いただす。

「……うん。紗幸ちゃんになら、あたし、キスしてほしいし、あたし自身も、キス、したいし。」

 ひなの赤面が、自分にも伝染したのがはっきりと分かる。鼓動が跳ね上がる。

「い、いいの?」

 相馬ひなは、顔を上げた。何かを吹っ切ったような笑顔を浮かべている。目は潤み、赤面もしているが、内面の情動としっかり対応した、自然な笑顔だった。

「うん。あたしなんだか、いろんなコにしょっちゅうキスされてるし。そう言うと、安い感じになっちゃって申し訳ないけど……。あ、でも、紗幸ちゃんが嫌なら、別に、いいです……。」

 自らのいろいろな感情を押さえつけて、紗幸は答えた。腰に両手の甲を当て、さも呆れたという様子で、紗幸は答えた。

「……そうね。キスは嫌。」

 目の前で、ひなががっかりした表情になる。――ああ、相馬ひなが、ひなちゃんが帰ってきたんだな、と紗幸は思った。あなたは、それでいい。くるくると表情を変え、酷いぬかるみの上も、軽やかに渡ってゆく。わたしは、一生ついて行くことはできないかも知れないけれど、でも――

 わたしは、わたしが殺しかけた相馬ひなを、連れ戻すことができた。

 ほほえみが浮かぶ。自然と、次のセリフが口をつく。

「でもね、唇以外なら、どこに何してもいいよ。」

「……本気?ていうか、どうして?」

「だって、わたしは浮気相手、なんでしょ?だったら、キスは、嫌なの。」

「そっか……、分かったよ。分かったわ。――くっくっく。あなた、お嬢様の命令よ。今すぐ、全部脱ぎなさい!あなたの唇以外、今から全部、キスしてあげるから。」

「こんなときに、急にお嬢様に戻らないでよ。」

「あっらぁ、お嬢様も教誨師も、結局あたしって言ってくださったのはどこのどなたかしらぁ?」

「……!」

「もたもたしてると、あたしが脱がすし。」

「えっと、あの、全部って、下着も全部?」

「当たり前でしょう?」

「準備とか、そういうの、なしなの?」

「いいから早くなさい。」

「……。」

 下唇を少しだけ、きゅっと噛んだ。少し震える手で、紗幸は数日前に支給されたばかりのメイドの衣装一式を脱ぎ始めた。エプロンを外した。ヘッドドレスを外した。メイド服を脱いだ……。そのたびに、ひなの方を見るが、お嬢様は許してはくださらない。

「あの……、」

「何?早くなさい。」

 仕方なく、靴を脱ぎ、ストッキングも脱ぎ、スリップも脱いだ。支給されたメイドの装束はこれで全部だ。その間もずっと、ひなに見つめられていることで、ひなに見つめられていると意識してしまうことで、全身が、眩暈にも似た、陶然とした感覚に襲われる。立っているのもやっと、という状態だ。だが、まだお嬢様のお許しはない。

 諦めて、ブラジャーも外した。紗幸の白い胸が露わになったとき、ひなが息を飲んだのが、紗幸にも分かった。目が合うと、二人とも、さらに赤くなった。

「もう、これでお許しく……。」

「ダメ。絶対ダメ。自分で脱がないなら、」

 ひなが近寄り手を伸ばす。慌てて後ずさり、仕方なく、自分でショーツに指をかけ、下ろし始める。だが、すぐにその手が止まる。

 溢れていた。

 恥ずかしさに、涙目になる。気づかれないように身を捩り、そそくさと脱ぎ終えようとした。だがそれを、ひなが見逃すはずもなかった。ショーツが膝ぐらいまで下がったとき、紗幸は片手を掴まれた。

「……え、ちょっと何それ、どうしてもうそんな……?」

「やだ、だめ、これは見ちゃだめだよぅ、」

「……貸しなさい。」

 ひなの眼が、欲情にとろんとしていた。なぜか、手に拳銃を握っている。

「いきなりまたFive-seveN!?反則過ぎるし、どこから出したかわからないし!」

「ふん、そんなこと、いつか教えてあげるわよ。細かいことはいいから、ほら、渡しなさいってば……」

 銃口を、中腰のまま、必死にショーツを押さえて固まっている紗幸の額に押しつける。

「酷いよ……。」

 ひなの眼に十分すぎるほどの本気の色を認めて、抵抗を諦めた紗幸は、背を向けてショーツを脱ぎ、小さくくしゅっと丸めてから、やはり背を向けたまま、手だけでひなの方に差し出した。自分は、空いている方の手で顔を覆っている。

「おいしそう……。」

 その声に振り返ると、ひなは手渡された小さな布切れを、自分の口元に近づけていた。

「や、やめて……」

 紗幸が慌てて制止しようとするが、間に合わない。

「いい匂い。」

 思い切り、嗅がれてしまった。

「へ、変態なのはどっちだよお……」

 そう涙目で抗議する紗幸にひなは足払いをかけつつとんと肩を押す。なすすべなく、ベッドの上に倒される。――それだけでなく、両脚を持ち上げられ、恥ずかしい格好で押さえつけられてしまった。腰の下には、ひなの両膝が入っている。

「痛、え、ちょっと、何するの、え、あ、ああっばか、いきなりそんなとこ、広げちゃ」

 舌先が届くか届かないかのところで一度、ひなが紗幸の顔を見た。

「だってやっぱり、直接、舐めたいじゃん。」

 そう言って、舌先を伸ばした。

「ひゃ、あ、あ、ん、」

「んふふ。かわいい……」

 紗幸がぴくんと身を捩るのを楽しむように、ひなは間隔を置きつつ舌先で触れ、唇で啄んでいく。その舌先がやがて紗幸の入り口を探り始めると、堪えきれずに紗幸が言った。

「もう、わたし、あ、あなたと、違って、全然経験、ないんだから、ね?」

「そっか……。そうなんだ……。」

 ひなの動きが止まる。そして、見たこともないほど優しく潤んだ表情で、紗幸の顔を見る。紗幸は、愛しい少女のそんな表情を見せられて、ぽーっとした、陶酔感のようなものに包まれた。だが――

「紗幸ちゃん、ごめんっ」

 次の瞬間、ひなの体重を全身で感じたかと思うと、紗幸はひなに、口づけされていた。ひなの唾液と、自分のそれで濡れた唇を、自らの唇に重ねられていた。思わず強ばる唇を、ごめん、とでも言うように、ひなの舌先がぺろり、と舐めた。

「……酷いよ、……。わたしちゃんとダメって言ったよ?」

「がまん、できなかったの。紗幸ちゃん、かわいすぎ。」

 少しだけ体を起こして、そう、ひなは答えた。紗幸は、ひなが一瞬、苦しげな表情になったのを、見逃さなかった。

(ひなちゃん、きっと、葛藤があるのね。今の、この場限りの欲情と、自分の立場と。ケイさんと、わたしと。それは自惚れ過ぎかな……。ごめん、紗幸は、あなたを苦しめる。あなたがその線を、本気で踏み越えるなら、それに相応しい痛みをあげる。だから、決めなさい。戻るか、堕ちるか。――)

「……ねえ、お願いがあるの。」

 紗幸の耳元で、ひなが囁く。

「何?」

 紗幸は、ひなの選択を待つ。

「あたしを、あたしも、見てほしいの……。」

「……いいの?」

「……ん。恥ずかしいし、後先考えると、さすがに怖いけど、でも。やっぱり、見てほしいんだ。」

「うん。」

(堕ちちゃうよ?ひなちゃん?)

「脱がしてくれる?」

「うん……。」

(ほんとにいいの?)

 ひなは、ベッドの上にぺたんと座った。紗幸が、背中を開き、ワンピースの裾を持ち上げていくと、ひなは何の抵抗もなく、両手を上げた。

「ほら、これ、特注のホルスター。ちょっとウェスト太く見えちゃうけど、たいてい気づかれないよ?慣れないうちは、長時間つけてると、おなか痛くなるけどね。」

「うん……。」

(そんなこと、今はいいんだよ。)

 ホルスターを外したひなは、両脚を差し出した。紗幸がするすると、膝上まであるソックスを脱がしていく。ブラジャーも、紗幸のなすがままだった。

「ひなちゃんて、やっぱりきれい。……わたしも、我慢できないかも。」

(堕としても、いいのね?)

「……ん。」

「……これが、三月の傷、なのね。」

 ひなの左肩には、品川事件で受けた銃創がまだ、残っている。

「そこだけは、触らないで。」

「分かってるよ。」

「ごめんね。」

「……謝らないで。わたし、今、すごくうれしいんだから。」

「ばか。……でも、あたしも、ん、」

 ベッドの上に座っていたひなを、紗幸がそっと押し倒す。仰向けになったひなの白い体の上を、紗幸の長い髪先が撫で回す。

「紗幸ちゃん、髪の毛くすぐったいよぅ」

「……ここが、八月の傷。わたしの傷。」

 左脇腹には、ナイフ傷。

「んあ、そこ、まだ、強くしちゃ、ちょっと、怖、あん、それじゃ、くすぐったいよう、紗幸ちゃ……」

 傷を愛おしむように、紗幸は繰り返し、優しく優しく舐め上げた。涙が、止まらなくなった。

「紗幸ちゃん、泣いてるの?」

 自らの肌の上に、はたはたと落ちるものを感じて、ひなが問う。

「うん。なんか、止まらなくなっちゃった。」

「あたしも。――」

 紗幸がひなの顔を見ると、ほんとうにひなも泣いていた。

 逃れようのない、どうしようもない現実は、二人を出会わせ、深く結びつけた現実でもあった。この現実から二人で逃げ出す先は、結局は、今囚われているこの現実に過ぎないのだとしても、一人で歩くより、二人で傷ついた方が、ずっと……。

 紗幸は、黙ってひなのショーツに手をかけた。ひなが少しだけ腰を浮かし、その行為を受け入れる。紗幸が両手を、そっとひなの膝に置く。ひながそれに合わせるように、そっと、膝を開いていく。

「……ほんとに、いい、のね?」

「うん。」

「――うれしいよう。ひなちゃんも、もう、ちゃんと……」

 泣きながら、紗幸はひなの脚の間に顔を埋めた。嗅覚も味覚も触覚も、すべてがひなを知りたがっていた。こぼれだしていたものを、そっと舐めとる。自分と似ているけれど少し違う、匂いと味と、感触。夢見るだけで諦めていた少女の、女の部分。

「これが、ひなちゃんの……」

「あん、ん、そうよ、それが、あ、たしの……。んあっ、ん、上手……」

「気持ち、いい?」

「なんで、上手なの?」

「女、だからかな。」

「あ、あん、気持ちいいよう……。」

「ひなちゃんがわたしで感じてくれたら、って。」

「う、うん、」

「思ったことも、」

「うん、あっ」

「ある、けど、」

「だめぇ、舐めながら喋っちゃ、」

 紗幸は一度、半身を起こし、ひなの顔を見た。紗幸自身は気づいてなかったが、ひなが堪えきれずに紗幸にキスをしたときと全く同じ、優しく潤んだ表情で、紗幸はひなを見ていた。そんな表情を初めて見たひなは、恍惚として満たされた気持ちになった。

「こうすることが、こんなにうれしいことだったなんて、わたし、思っても見なかった。」

「うん。……ねえ、あたしも、もっと、してあげていい?」

「――知らないよ?」

「うん。いい。なんか、いつかはこうなるって、何となく、分かってたし。」

 ずっと言わないでいたことを、告白した。

「うそ……。ほんとに?」

「うん。たぶん、あたしは紗幸ちゃんに負けちゃう、って。で、きっと、酷い目に遭うって。」

 そう告げながら、また新しい涙が溢れてくるのが分かった。その涙を紗幸の唇がそっと受け止める。

「ふふふ、バカね。まだ、止まれるかもしれないのに……。でも、うれしい。」

「うん。」

「好きだよ、ひなちゃん。」

「あたしも、す、んん、」

 ひなの唇を、紗幸の唇が覆った。

「あなたは、言っちゃだめ。わたしは、浮気相手なんでしょ?そういうことは、言わないのがマナー。」

「……分かった。でも、じゃ、こう言えばいい?――一緒に、気持ちよく、なってね、あたしの、大事な女のコ。」

「……ひなちゃん、ありがとう。」

「あたしこそ、ん――」



 青木はるみは、ひなが紗幸の部屋に向かってすぐ、メイド長の暮坂珠里に頼んで、吉田紗幸の部屋周辺にはしばらく誰も近づかないよう、取りはからってもらっていた。元々、北棟は女たちの領域であり、執事たちもそうそう足を踏み入れる場所ではない。メイドたちに、かいつまんで事情を伝えればよいだけであった。

「あなた、お嬢様を甘やかしすぎではないのかしら?」

 そう、暮坂には厳しい調子で言われた。

「わたくしは、お嬢様に、あと僅かの高校生活を、笑顔で送っていただきたいだけでございます。」

 青木はるみには、一つの賭であった。

 二人を二人きりにして、何が起こるかは、実際のところ予測はできない。

 お嬢様は、吉田紗幸とのやりとりによって、元の笑顔を取り戻すかもしれない。

 しかし、それと同時に、失うものもあるかもしれない。

 一対一の近接戦で、教誨師がスノーに後れを取ることは万に一つもないとしても、吉田紗幸が反乱を起こし、お嬢様が手ずから始末しなければならなくなる、というような事態くらいは、起こるかもしれない。

 そのときの、お嬢様のダメージは計り知れない。

 結果として、状況が悪化すれば、責められるのは自分だ。

 でも、それが、青木はるみの狙いでもあった。

 お嬢様が責められなければ、それでいいのです。

 わたくしは、お嬢様が、紗幸さんのおかげで元のお嬢様にお戻りになるかもしれない、その可能性にかけたいのです。

 後のことは、すべてわたくしが。

 そう、暮坂にだけは、有り体に話した。


 静かな、そして、事情を知る者にとっては胃の痛くなるような、祈るような数刻が過ぎた。気がつけば、夏の終わりの長い午後が、ようやく終わろうとしていた。


「お嬢様、お戻りですか?……お嬢様?」

 ノックをして、そう声をかける。

「……どうぞ。」

 扉を開くと、相馬ひなは、窓際に置いた自らの執務用のチェアの上で膝を抱え、落日間近の西日の中庭をぼんやりと見下ろしていた。そろり、というように脚を下ろし、くるりと執務室の入り口に立つ青木はるみの方に振り返る。

(やっぱり、しょげてらっしゃる……。ということは、二つに一つ、ですわね。きっと、お二人は……。)

 はるみさんは、腰に手を当て、入り口を塞ぐように立ち、ずけずけと尋ねた。

「お嬢様。敢えてお伺いいたします。――何かはるみにお話しになりたいことはございませんか?」

「……たくさんあるけれど、どれも話せない、かな。」

「かしこまりました。それでは、お説教を二つ。」

「え?」

「お説教です。はい、おててはお膝の上でございますよ!」

「……はい?」

 はるみさんはぱたんとドアを閉め、のしのしと、ひなの執務用の机の側までやってきた。

 記憶の限り、はるみさんにこうして、幼い子のように叱られた記憶はない。だが、ひとまず言われるままに、ひなは椅子の上でかしこまった。そもそもはるみさんが自分付きのメイドとして屋敷にやってきたのは、小学五年生の頃だった。ようやく打ち解け仲良くなったその頃、はるみさんをからかいすぎて一、二度叱られたことがあるくらいで、相馬ひなは家の者に手を焼かせるような子供ではなかった。だが、そうした頃の、僅か数年前の思い出も、今は何か、ひたすらに懐かしかった。

「一つ目。お嬢様のことを心配するのがわたくしどもの仕事です。お嬢様がわたくしや、家の者たちのことをお気遣いくださるのは、もちろんうれしゅうございますが、あべこべです。お辛い思いをされたばかりのお嬢様に、無理に微笑んでいただいて平気でいられるほど、わたくしどもは愚鈍ではありません。これが、一つ目です。」

「その話か……。そうね。あたし、演技下手だね。」

「あんまりお上手になられても困ります。」

「ふふふ。」

「お説教、でございますよ?」

「うん。……ごめんなさい。」

「よろしい。では、二つ目。」

「はい。」

 もう一度、姿勢を正す。だがここで何故か、青木はるみは優しい顔になった。

「嘘をつくのは決して誉められたことではありませんが、聞かれもしないことを話す必要はありません。特に、特別な男性に対しては。」

「やけに大人な感じのお説教じゃない?いきなりなんで?」

 そう答えたものの、はるみさんの言いたいことは、ひなにはよく分かっていた。はるみさんが何も答えないので、仕方なく、次のセリフを口にした。

「……もしかして、今日ずっと、監視してたとか。」

 少しだけふてくされたような響きのある声。

「いえ。でも、そんなことしなくても、分かります。今だって、森田の部屋だったあの部屋を眺めて、どうしようかとぼんやりしょんぼりなさっていたではありませんか。」

「そっか……。何でも、お見通しなのね。」

「いえ、かまをかけただけでございます。」

 えっへん、とばかりにはるみさんは、その立派な胸を反らせて得意げな様子になる。

「うげっ……やられたよまた。あたしちょろすぎだー」

「うふふ。まあ、紗幸さんとお嬢様がどういうことになったのか、厳密には存じません。どういうことにおなりになっても、この際、もうかまいません。屋敷内の、それも、奥のことでございます。生き死ににならなければ、外向きには如何ようにも。」

「そう……。」

 きっとそれは、ひなも紗幸も女の子だから、ということもあるのだろうと思った。片方が、特に使用人の方が男の子だったら、事はこう穏便には収まらないはずだ。でも、紗幸ちゃんは、本気で好きでいてくれるから、この扱いのことを知ったら、たぶんきっと、悲しがるだろうなと、そうも思った。

「一応お伝えしておきますが、お嬢様が紗幸さんのお部屋に行かれてから、すぐに、メイド長に、人払いを依頼しました。ですから、誰も、お部屋の中で何があったのか、知る者はおりません。もちろん、この、わたくしも……。」

 教誨師とスノー、屋敷の娘と、その娘が強引に抱えた同い年のメイド見習い。諍いや事件の火種は十分すぎるほどあった。それを、自分のことを思って、敢えてその役目を停止し、一切監視のない状態にしてくれた。その気持ちは、そして、ただ信じて待つ間の苦しさは、ひなにも切ないほどに伝わった。

 ひなは立ち上がり、深々と頭を下げた。

「はるみさん、ごめんなさい。心配かけて。」

「お嬢様、使用人ごときに、そんなに頭をお下げになっては。」

 はるみさんが手を差し伸べ、ひなの体を起こす。顔を上げたひなは微笑んでいた。

「とりあえず、あたしは今日も、Five-seveNの引き金を引かずに帰ってこられたわ。」

「ええ、そのようですわね。もし、そんなことになっていたら、……」

「はるみさん……。あたしあなたに、この屋敷を下がる覚悟、させちゃったんだね。」

「はい、お嬢様。」

 包み隠さず、はるみはそう認めた。

「ほんとごめんなさい。後先考えないで。でも、でもね、おかげで、たぶん。――仲直り、できたと思う。あたしたち。」

「そうでございますか!」

 はるみさんは、喜んでくれた。自分のことのように、喜んでくれた。それが、その表情が、頑なであろうとした相馬ひなの最後の防壁を、とん、と突いて壊した。

 もう、いいんだ、と思った。

 もう、苦しいときは苦しいと、うれしいときはうれしいと、口に出して言っていいんだ、そう思った。

「仲直り、しすぎちゃった、かも、だけど。」

 はるみさんは、人差し指を唇の前に立てた。そして、笑った。

「そういうことも、ありますわよ。」

「うん……。そういう風に、考えるようにする。」

「それでよいと存じます。……で、どうでした?」

 内緒話をするように、はるみさんが言った。

「え、それ聞いちゃうの?」

「ちょっと、悔しいので聞いてみました。お答えにならなくて結構です。」

「ふふふ。――うん。紗幸ちゃん、泣いてた。」

「……そうですか。」

「あたしも、泣いた。」

「そうですか……。やっぱり、悔しい……。」

「ひっ、だ、だめ、だよ?一日に、二人とか、あたしそんな、分別なしの発情猫じゃ、」

 壁際に向かって後ずさりながら狼狽えるひなに、両手を広げてじりじりとにじりよったはるみさんは、だが、ただ黙って、ハグしてくれた。と、思ったのだが――。

 青木はるみは、泣いていた。

「お嬢様……、やっと、お泣きになれたのですね?」

「うん。……そうか、そうだね、泣いてなかったねあたし。……あたし、紗幸ちゃんと、二人で、めちゃめちゃ泣いたよ?」

「……。よかっ、です……。お二人と、も、うぅ、よかった……。ひ、ひいーー……」

「うわわ、はるみさん、泣きすぎだよう。ごめんなさい。よしよし。もう、このうちは、泣き虫ばっかりね……。」

 もらい泣きのように自分も涙をこぼしながら、ひなは声を上げて泣くはるみの頭を撫でてやった。

 この人はどれだけ、自分を思ってくれるのだろう。

 自分はどれだけ、この人を心配させてきたのだろう。

「……ごめんね、はるみさん。もっとちゃんとしなきゃって、頑張ったんだけど……。よけい心配させちゃったんだね。」

「いいんです、いいんですよ、もっと、心配、させてくださいまし。もちろん、恋人や、お友達より、はるみを、なんて思いません。でもまだまだ、はるみも、お嬢様のお役に立たせてくださいませ。」

「もう少し、甘えさせてもらって、いいのね?」

「ええ、ええ。もちろんですとも。」

 相馬ひなは、自分の焦りがそのまま、周りの人たちを苦しめていたことを理解した。もちろんそれは、避けようのない、ひなの生き方には不可避の焦燥であったのだが、それでもそのことは、ひなの望まない状況を作り出してしまった。

 今日、自分は、抑えきれない身勝手な想いを、吉田紗幸に受け止めてもらった。

 そして、今はこうして青木はるみにも、まだ未熟な自分を大事に受け止めてもらっている。

 それだけでは、癒えないものもあるということは分かっている。だが、もう、いい。あたしは、何も変わらない。この家の娘として背負うべきものは背負い、また一人の少女として、望むものは望む。そのことにどんな矛盾が生じようと、知ったことではない。

 あたしは、何も、諦めない。そのことで、どんなに傷ついても。どんなに傷つけても。

 この先また、今日までのように頑なに、自ら諦め何かを捨て去ろうとする日が来るかもしれない。そのくらい辛いことが、あるかもしれない。でも、今よりはもっと強く、立ち向かえると、そう思った。

 これで、ケイくんにも会えるかな、そうも思った。八月一三日以降、連絡は取るものの、直接は会わないでいた愛しい人に、向き合うだけの気持ちの整理ができた、と思った。

 たかだか二〇日足らずではあったが、その孤独と焦燥は、ぬぐい去りがたい確かさで、自分の中に未だわだかまっている。

 それでいい、と思った。

 その全部が、あたしの想い。

「そうだ、紗幸ちゃんに、やんわり口止めしとかなきゃ。何も外では喋らないとは思うけど、……。でもあたし、けっこうすごいことしちゃったし……。」

 はるみさんが、にやけの入った笑顔で微笑む。

「それは大丈夫でございますよ。紗幸さんには、すでに、暮坂が話をしているはずです。」

 そう言うと、疑問顔のひなを前に、はるみさんは一度背筋を伸ばし、それから少し時代がかったような所作で頭を下げた。

「お二人がどんなお話をされたのか、お二人に何があったのか、それは問題ではありません。ですが、他のメイドの目、やっかみというものもあります。どんなことであれ、今日のことは内密に。もし、お嬢様にとってよろしくない噂がこのお部屋の外に漏れ出すようなことがあれば、そのときは、この暮坂が全力でお相手いたします。」

「うわ、暮坂さんそっくりっていうかあの暮坂さんが見習いメイドに頭を下げるって?」

「ええ、あの方ならきっと。わたくしだって同じ事をすると思いますし。それでお嬢様の平穏が護られるなら、わたくしどもはなんだっていたします。それに、……。紗幸さんは、これから、苦しいお気持ちになられることも。」

「……うん。」

「だったら、多少不躾かもしれませんが、お嬢様だけでなく紗幸さんのことも、わたくしたちが見守っていますよ、というサインを出しておきたい、と暮坂は申しておりました。」

「何から何まで、ね。ほんとにあたしは迷惑かけてばかり。紗幸ちゃんのこと、ありがとう。」

「いえ、これも屋敷の奥を預かる女たちの役目ですわ。」

「すごいのね、みんな。」

「当然のことでございます。それに……」

「……?」

「今日のこと、紗幸さんとのことで、お嬢様もこれからきっと、苦しいお気持ちになられることが、あるかと存じます。」

「……うん。分かってる。」

「でも、それでも、そう、されたかったのでしょう?」

「……うん。」

「そのご覚悟なら、はるみは応援させていただきますよ。もちろん、大っぴらには無理ですが、苦しくても、辛くても、それがお嬢様のお選びになった道であれば、陰ながら。」

「ありがとう。……しばらくは、あたしもそうやって、自分を受け止めておくわ。ただ、……」

「?」

「いつかきっと、自分が許せなくなる日が、来るかもね。」

「はい。それもまた、」

「そんなこともありますわよ、って?」

「はい。」

「そうだね。」

「お嬢様は、紗幸さんに、恋をされたのですよ。だから、不安を感じてらっしゃるのです。」

「え、そ、そう、かな。」

「まあ、はるみのいつもの世迷い言ですけれどね。お二人は、境遇が似過ぎていらっしゃるのですよ。上辺だけでなく、人には言えないような部分まで口にできるようなお友達って、今までいらっしゃいました?」

「見損なわないで。そのくらい、いるわよ?――ちょっとだけ、お兄さんだったりお姉さんだったり、人間じゃなかったり、するけど。」

「それは、森田とわたくしと、後は九条さんや式神ちゃんたちのことを?」

「……うん。」

「ダメダメ、お嬢様、それはダメでございます。森田は元執事で現彼氏様、はるみは単なる後見人兼メイドです。九条さんも式神ちゃんたちも……」

「分かってるけどさあ。今まであたしは、こっそり勝手にそう思ってたんだよう。あたしの友達、何でも話せる人って、そういうメンバーしかいなかったんだから。」

「お気持ちはうれしゅうございますが。それではちょっとお寂しい状態では?」

「いいんだよ。あたし、それで不足を感じたことはなかったんだから。……でも、そう。そうだね、そこに、その世界に、何か急に、紗幸ちゃんが、入ってきたんだよ。何かそう思ったら、あたし、紗幸ちゃんに全部さらけ出したくなっちゃったんだ……。紗幸ちゃん裸にして、そしたら、あたしもって……。あーもう。明日からどんな顔で紗幸ちゃんと話せばいいのかな。」

「お嬢様。追加でお説教をもう一つ。」

 低く抑揚のない声。はるみさんの周りの空気が一変していた。

「は、はいっ」

 ひなの背筋がぴんと伸びる。

「……このはるみの前で、お嬢様ファンクラブ第一号の、この青木はるみの前で、堂々と他の女のことをのろけてんじゃないよ。」

 あまりに正直すぎる「お説教」だった。それを聞いたひなの表情が、不敵なものに変わる。

「あぁら、あなた、このあたしに向かって、そういう口を効くわけね。なら、言わせてもらうから。」

「はあ?」

「……娘の相手するのが仕事のくせに、その父親たらし込んでんじゃねえよ。」

「くっ、今更それを?」

「その上焼き餅焼いて、あたしにキスとかしてんじゃねえよ。」

「お嬢様からしてくださったことだって!」

「うるさい!おかげで沖縄じゃ、みんなにキスされちゃったじゃん!」

「……!」

 口調こそ鋭いが、表情はもう、二人とも、だいぶ崩れてきている。

「おかげであたし、はるみさん経由でキスだけならオヤジと兄弟……」

「なりませんお嬢様!それだけは、言っては……」

 二人は涙を流して笑い転げた。笑い転げて、腹筋が捩れて、涙がこぼれた。

「お嬢様、そんなにお笑いになって、おなかの傷はもう大丈夫なのでございますか?」

「え、まだちょっと痛いっていうかそう改めて言われると痛い気がする痛てててて。」

「もう、お大事になさってくださいまし。」

「あはははは。ふううう。もう、笑った笑った。これで元気に冬休みまで頑張れるわ。」

「はあ。冬休みですか。そうですね、それまでにはお嬢様のお誕生日も、ケイ様のお誕生日もございますわね。」

「うぐ……。」

「記念日に一人って、辛いですよ。」

「何を言いたいのよ。」

「スノーさんのお誕生日も、きちんとお祝いして差し上げてくださいね。」

「……はい。」

「プレゼントはあたしー、とかじゃダメですよ?」

「……え、ダメなの?」

「そのときは、ケイさんが不要品となってぽいされたときですよ。」

「あ、そうか。そうなっちゃうか。難しいなー、っていうかバカ!そ、そんなことしないってば!」

 真っ赤になるひなを横目に、はるみさんは冷静な大人の口調で告げた。

「責任はどうぞご自身で。体力は二倍、気力は四倍必要ですわよ?」

「それ、何かの格言?」

「今考えました。」

「うへ、てきとー。それじゃ、はるみさんの実体験なのね?」

「いえ、わたくし、男性は、旦那様しか知りませんので。」

「えっ」

「えっ、って、そんなに驚くようなことでしょうか?」

「だって、えー、その体で?そのおっぱいで?ずっと、その、守ってたの?」

「おっぱいは関係ないかと思いますが。」

「彼女も、いたことないの?」

「強いて言えば、お嬢様が。お嬢様が、わたくしのすべてでしたので。」

「はいそこ、なにげにいいセリフ吐かない。」

「でも、それが事実です。」

 やや赤面した様子のひなはぎこちなくも大げさに腕組みをし、少し早口で言った。

「ま、まったく、この屋敷の労働環境はどうなってるのかしらね。使用人は皆、恋愛もできないほど多忙なのかしら。森田だってあたししか知らないって言うし……あっ」

「お・じょ・う・さ・ま……」

「はるみさんごめんごめん、もうのろけないからだから勘弁!」

 ひなの執務室が突如、おいかけっこのフィールドになった。たまたまこのとき、夕食の支度が整ったことを告げにやって来たメイドの桜井は、異変を察して室内に踏み込んだ。一瞬で状況を正確に判断し、はるみさんとお嬢様の間に立ちふさがった。お嬢様が、はるみさんに襲われている――

「わたしも仲間に入れてください!」

「どうぞ!」

「ダメ!」

 はるみさんとひなが同時に応え、桜井は踵を返してひなを追い回し始める。鬼が二人に増えてしまっては、早々に捕まるしかない。

「桜井、ナイスアシストです!」

「いえ、アシストではございません!」

 そう応えるなり桜井は、お嬢様をがっちりハグし、お嬢様の耳元辺りの匂いを嗅ぎ始めた。

「ちょっと何このコ!助けて!はるみさん!」

「うふ、うふふふ、桜井、わたくしもお邪魔しますわよ。」

「ひゃああ、た、助けて誰かぁ!」

「お嬢様ぁ、今日はあの新入りちゃんと、どんな「お話」をされたのですかぁ?」

 お嬢様の耳元で、ことさら甘ったるい声で桜井が尋ねる。

「ノ、ノーコメント!」

「次はぜひ、「お話」のお相手には、この桜井をご指名くださいまし。」

「ご指名ってもう!いったい何なのよ!桜井、あなた、何か用事があったのではなくて!?」

「……そうでございました。ご夕食の準備が整いましてございますぅ。」

「はるみさん、ほら、夕ご飯だって!もうこらぁ、あんたたち好き放題やりたい放題揉んだり嗅いだりしやがって!二人とも放せえ!放しやがれぇ!」

 こんなところで、と思いつつ教誨師としてのスキルで二人を床に転がす。二人はきゃっきゃと笑いながら、すぐに起きあがってくる。

「全くもう!うちの屋敷はどうなってるの?」

「お嬢様のお望みとあらば。」

「百合咲き乱れる秘密の花園に。」

「ばかー、ふざけたこといってないで仕事に戻れー!」

 二学期の始業を前に、教誨師と呼ばれる暗殺を生業とした少女は、年齢相応か、むしろ幼いくらいの瑞々しい情動を取り戻していた。そのことが、仮により鮮烈な痛みをこの少女に与えることになったとしても、もうきっと、彼女は気にも留めないはずだ。

 歩くとそれだけ靴の底が減るように、生きるには酸素と水と幾ばくかの栄養素が必要であるように、彼女にとって生きることは痛むことであり、血を流すことであった。

 で、何か問題でも?

 どんなに酷い目に遭っても、死なない限りはきっと、彼女はそう言い返すだろう。

 それが彼女の世界、彼女の理由だった。

現時点で完成しているのは、この第三部の終わりまでです。よろしければまた、お付き合いください。第二話以降もなるべく早くアップしていきます。

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