白桃
この小説は完全なフィクションです
「こんな晩 やったなぁ」
五歳の誕生日を迎えた息子の豊は、関節の皺さえよっていない可愛らしい指を目一杯不気味に開き、両方の掌を下に向けて上下させながら、妻、夕子のお腹に向かって同じセリフを繰り返していた。春とともに生まれる妹か弟に向かって話しかけているのだ。妻の手元とボートの中ほどに置いたランプ型の照明が、オレンジ色の暖かい光で恨みを表現したがっている息子の影を小刻みに揺らしながら交差させていた。
「豊は本当にその話が好きだな」俺はモーターを止めて笑った。
「おばあちゃんの言い方が面白いんだよ」豊は目いっぱい瞼を開いていった。
妻の母、豊の祖母は一代で会社を大きくした社長夫人であり、夫亡き後、二代目女社長の肩書き通り豪快で痛快な人だった。中途採用の新人研修で夕子に見染められ付き合うようになり、すぐに妊娠した夕子を伴い挨拶に行った時も、怒鳴りつけられるかと思いきや、
「跡取りをありがとう」と笑い、快諾とは裏腹に、
「婿殿に相応しく精進してください」と穏やかながら有無を言わさぬ口調で付け加えた。相応しくない行いをしようものなら、経営者として、母として、そして何よりも女性として、決して許すことはないという脅迫にも似た芯の強さが、眉間に笑っても消えない皺としてあらわれていた。射るような鋭い眼差しを放つ瞳の黒さは、男の俺には底のない沼ほどに感じられた。
それに対して夕子はいかにもお嬢様らしくおっとりとしていた。ふさふさの睫毛の奥は黒目がちで、ともすれば愚鈍ささえ感じるほどだったから、見染められてからのデートの展開の速さ――ようするに体の関係になるまでのスピーディーさには驚かされた。妊娠もどちらかといえば夕子の願いだったようにも思う。俺のように一介のサラリーマン家庭に育った身分違いを家に入れるためには、できちゃった婚でなければいけないという夕子の計算もあったのならこの母親にしてこの娘、というところなのだろうか。
とにかく、俺は目の前にあった逆玉に飛び乗り、義母にいわれた通り、大なり小なり無理もしながらいい夫、いい婿になろうと精進してきた。湖面から自家用のモーターボートで月食を観察するなど、就職活動に失敗し、ギリギリのところで中途採用となった俺には夕子がいなければ、そして豊が授からなければ一生経験することなどなかったのだ。今うけている恩恵、そして未来へ続く裕福な暮らしを考えれば、俺のしてきたことなど大したことではない。
「それにしてもお母さんったら、本を読んでくれるのはいいけれど、何もそんな話をしなくてもね」夕子は、手元のバスケットをのぞきながらそういった。息子の大のお気に入りは、近畿の郷土に伝わる民話集の中にある怖い話だった。
「まあ、いいじゃないか」
「だって……なつかない子供を殺しちゃった父親にまた子供が出来て、殺しちゃった子供がのりうつって呪い殺されるっていう、幼児虐待の話なのよ?」胃の辺りをぐっと掴まれたような重苦しさを感じた。
「どちらかといえば、因果応報の話だろ? 豊はどっちでもいいみたいだけど」
豊は内容などそっちのけで、祖母のいう、「こんな晩やったなぁ」という部分だけを真似て、恨みたっぷりに、しかしどこかおどけて呪文のように繰り返した。
「それだけじゃないよ」豊は祖母への批判を払拭するべく抗議した。
「昨日は図鑑も見たよ、鳥の図鑑」
俺は、へえと感心しながら辺りを見渡した。モーターを止めた湖畔の上は、雲の切れ間から時折見える星の瞬きさえうるさく感じるほど静まり返っていて、雲の奥にある月の引力が起こす静かな波が湖底から闇の音を小さく引き上げてきていた。これでは、
「それではあの鳥はなんだ?」と気のきいた一言もいってやれないな、と思った時、カッコウの鳴き声が聞こえた。まるで俺の願いを見透かした神様が何年も前から引き寄せたようにとても小さな声だったが、俺たちは聞き逃さなかった。
「カッコウも見たよ」豊は瞳を輝かせたが、すぐに眉根を寄せて見せた。
「カッコウは悪い奴なんだ。他の鳥の巣に卵を産んじゃうんだよ。それで一番最初に卵から孵って他の卵を捨てちゃうんだ」いかにも悪い奴、というようにいってから突然無表情になり、
「でも気がつかない親鳥も馬鹿だよね」といやに冷静に言ってのける。最近の子供は、と心の中でため息をつきかけたが、はたして自分がこの年頃だったときに持っていた残酷はどの程度のものだったのか。現在の俺とは比べものにならないのは確かなことなのだが、豊の姿に重ねてみても、全く思い出せなかった。
「馬鹿なんていっちゃいやよ」妻の顔は見えなかったが、とても穏やかな声で息子をたしなめ、
「さあ、お月さまが見えるまで、マンゴーでも食べましょう」と密封容器を取り出した。豊は大好物につられて小躍りしかねない様子だった。無邪気さも十分残っているな、と安心しながら、俺も容器を覗き込んだ。ちょうどもうすぐ見えるはずの月と同じような膨らんだオレンジ色の果肉が重たく甘い匂いを放っていた。
俺が豊くらいの頃は、高級フルーツといえばメロンだった。網目のついたメロンは、果肉がグリーンでも橙色でもとても高いもので、健康だけがとりえで長期入院する大病もせず、例えそんな憂き目にあったとしても見舞いの品にはせいぜいリンゴとオレンジどまりであろう環境に育った俺がそれを初めて食べたのはだいぶ大人になってからだったと思う。
「メロンだよ」と親に騙されて食べていたものが、実はまくわ瓜だったということも、相当大きくなってから知ったのだ。
「高級フルーツも変ったね」そういうと夕子も同じことを考えていたのか、
「そうね」と頷いた。
「ちょっと前はメロン。その前は……パイナップルだったかしら」
「そうそう。親から聞いた話では、バナナなんかも高級だった」
「その昔はオウトウもでしょ」黄桃、と聞いて俺は口をつぐんだ。
「誰かの小説でもあったわよね。妻と子供を置いて飲み屋さんでオウトウを食べる――子よりも親が大事……だったかしら。とっても男性的な発想の小説。太宰治だったかしら?」夕子の声は半分聞こえていなかった。目の前には、あの日、冷蔵庫の上にのっかっていた缶詰が思い出されていた。緑色の下地に黄桃だか白桃だか、とにかくよく熟れた桃の絵が書いてあった。ずいぶん長い時間眺めていたはずなのに、どちらかは覚えていない。
「あら、ごめんなさい。嫌いだった?」夕子は、話に出すのもいけなかったのかと探るような、申し訳なさそうな目を向けた。
「いや、嫌いじゃないんだ。ただあの缶詰にどうにも嫌な思い出があってね」
「何があったの?」
「それが……思い出せないんだ」俺は目いっぱい不幸なことがあったかのようにため息をついて首を横に振った。これくらいの演技はお手のものだ。夕子は申し訳なさそうにそのまま口をつぐんだ。
思い出せないなんてことはない。はっきりと覚えている。あれは六年前、夕子の家に挨拶にいった何日かあとだった。別れを告げたはずの女の家に、荷物を取りに行った。確かに俺たちはもう別れていた。ドアに鍵がかかっていて、合鍵を使って入った。誰もいないはずの室内はやけにひんやりとしていた。六畳一間のアパート。都会の片隅らしく、半年出入りしていたが、気配はするものの住人の誰にも会ったことはない。就職に失敗し、自暴自棄だった俺たちの付き合いもそんなもので、誰かに祝福されていたわけでも、公に冷やかされていたわけでもないひっそりとしたものだった。
クローゼットから着替えに置いてあったTシャツを取り出し、忘れ物がないか見渡した。もともと夕子と出会ってからというもの、いつ別れようかと思っていたから、たいしたものは置いていなかった。冷蔵庫の前、あの桃の缶詰の前にきたときに風呂場のドアが少しだけ開いているのに気がついた。
ちょろちょろと水音がしていた。裸足の足が見えた。だがスカートをはいているようだった。この部屋の持ち主である、もとは彼女だった、俺に向かって、
「妊娠したかもしれない」と告げた女が好んで着ていた白いスカートだった。足首とスカートを黒っぽい血が汚していた。
俺はその場に立ち尽くし、ドアの向こうを想像した。横向きに切り裂いた手首を湯船につけ、顔色を白くしながら女は眠っている。もしかしたら泣いているかもしれない。女は左利きだったから、体は右を下にしているだろう。足の見え方からいってもまず間違いはない。
ざぷという音がして、俺は我に返った。湯船から流れたであろう水が、ほんのりと赤い色をしてスカートを濡らし始め、俺は自分の想像に間違いはないと確信した。
こうなることを俺は最初から予想していたのではないか。どこか陰湿な感じのする、気の弱さを持った女だった。一人では生きていけない。だから、就職に失敗したくらいでうじうじとしていた俺にでも、その身体を差し出したのだ。一人きりで子供を抱える勇気などないことを見越して、俺は女を捨てたのではないか。
ドアの隙間から見える足の指が何かを掴むように動いた。
俺は風呂場のドアを開けはしなかった。ただそのまま、傾いていた陽が沈み切り、夜がやってくるまで桃の缶詰を眺めていた。夕子の母がいった、精進しろという言葉を繰り返し、約束された未来への道に思いをはせながら、その安物の桃の缶詰をすべてを不意にするもの象徴として、嫌悪感で胸を悪くしながら眺めていたのだ。
ただひとつ思い出せないとしたら、帰り道、しみったれたアパートの鍵を投げ付けたはずの月がどんなだったか、それが全く思い出せなかった。
「こんな月だったよ」
豊はふっと立ちあがると、雲の切れ間からやっと顔を出した月を左手で指さしていった。
「豊、危ないから座って」夕子は息子に腕を伸ばしたが、顔を苦痛にゆがめたかと思うと下腹部を抑えて蹲った。そこには豊の足が、五歳児とは思えない重さで食い込んでいた。
「ちょうどこんな痛みだった」夕子を眺めると、
「手首を切ったのが先だった気もするけれど」と聞き覚えのある声はいった。
「妊娠したかもしれない」そういったのと同じ声だった。
「できれば結婚してほしい」ともいった。別れを決心していることを告げると、
「そんな」とだけ漏らした声と同じだった。最後に聞いたのはその言葉だったと思う。
下腹部を抑える夕子に近づこうとしたが、体がスローモーションのようにひどくゆっくりとしか動かない。
「俺は何もしていない」這いつくばって横を通って行く俺を見下ろす豊の顔は月明かりの影になって見えない。
「そうだね。あなたはなにもしなかった。妊娠の責任をとることも、自殺を図った私を助けることも。まだ生きていること、気が付いていたんでしょう?」夕子は蹲っていた。その足からはあのときと同じ、どす黒い血が流れていた。
「こんな夜だったね。お風呂場の窓から、真っ白でまん丸な月があんなふうに見えていた」
カーテンを開くように、際のところを少し明るくしながら、雲は下からゆっくりと左右に流れ溶けていく。
「赤ちゃん、ごめんねって。ママも一緒にいくからねって。そしてあなたの兄弟も、一人残らず連れてくるからねって。お腹の子供に約束したの。だから迎えにきた」
女の粘りを含んだ笑い声が響いた。雲がぱっくりとわれ、月のすべてがあらわになったとき、突然笑い声が消えた。同時に体が軽くなり、豊が倒れこんだ。
息子を抱きかかえる夕子の動きは早かった。まるで蹲っていたのが嘘のように素早かった。
「大丈夫か……」
体を起しながらきいた俺に向かって、夕子は、
「豊は平気よ」と冷たくいった。
「え?」中途半端な体勢のまま動けなくなった俺を見下ろし、まるで初めからそうすることが決まっていたかのごとく迷いの一つもないまま、血にまみれた足を振りかざした。
一瞬だけ、夕子の顔が見えた。おっとりとしたお嬢様然とした印象は全くなく、ただ一人の女として、母としての無表情が浮かんでいた。その瞳には底のない沼のような闇が光っていた。抱えられた豊は笑っているようにも眠っているようにも見えた。バランスを崩し、湖に投げ出された水音を聞く前にカッコウの鳴き声が聞こえた。俺の体は、湖底へと引きずられていった。体の端々を小さな錘の手につかまれて抵抗もできなかった。
湖の水を通してみる月は、はしっこが少し欠け始めていた。まるでシロップの中に浮かぶ桃のように見えた。
――子よりも親が大事――
あの日、冷蔵庫の上にあった缶詰は白桃だったと、ようやく気がついた。