婚約破棄された地味令嬢ですが、実は最後のユニコーンに選ばれました〜今さら戻ってきても遅いです〜
「君のような地味で取り柄のない女を娶るつもりはない。婚約は破棄だ」
——ああ、やっと言ってくれた。
煌びやかなシャンデリアの下、王太子エドワード殿下の冷酷な宣言が舞踏会場に響き渡る。
周囲の貴族たちが息を呑む気配。囁き合う扇の音。憐れむような、あるいは嘲笑うような視線が私——リリアーヌ・フォン・クレセンティアに突き刺さる。
殿下の腕には、蜂蜜色の巻き毛を揺らす可憐な令嬢。セレスティーヌ・バロン・メルヴィーユ嬢が、勝ち誇った微笑みを浮かべながら殿下に寄り添っている。
「まあ、殿下。そのような女に五年もお時間を費やされたなんて……お可哀想に」
(この方、ご自分の器の小ささを宣伝して楽しいのかしら。ええ、存分に楽しんでくださいませ)
私は静かに目を伏せた。五年間。十五歳で婚約してから、ずっとこの方に尽くしてきた。好みのお茶を研究し、政務の補佐を学び、いつか良き妻となれるようにと。
そのすべてが、今、無意味だったと告げられている。
「何か言いたいことはないのか、リリアーヌ。……いや、伯爵令嬢」
殿下が顎をしゃくって私を見下ろす。その目には侮蔑と、そして——期待があった。
泣いて縋る私を見たいのだろう。「どうかお考え直しください」と惨めに懇願する姿を、この舞踏会場の全員に見せつけたいのだ。
(五年も婚約していたのに、まだ私のことを何もわかっていらっしゃらないのね)
「殿下」
「……なんだ。まさか泣いて縋るつもりか? みっともない真似はよせ」
エドワード殿下が露骨に顔をしかめる。その隣でセレスティーヌ嬢がくすくすと笑った。
(泣く? 私が? この五年間、貴方に泣かされたことは数えきれないほどありましたけれど)
「いいえ」
私は顔を上げ、真っ直ぐに殿下を見つめた。
「——承知いたしました」
「……は?」
殿下の顔が間抜けに固まる。
「婚約破棄のお申し出、謹んでお受けいたします。長らくお世話になりました」
深く、優雅に一礼する。
五年間で完璧に身につけた淑女の所作。最後くらいは美しく決めてみせましょう。
「ちょ……あなた、何を平然と——!」
セレスティーヌ嬢が甲高い声を上げる。勝ち誇った笑みが凍りついていた。
(あら。もしかして、泣いて縋ってくると思っていらしたの? それとも怒り狂って醜態を晒すとでも?)
残念ながら、私は——安堵していた。
五年間。冷たい視線に耐え、嫌味に微笑みを返し、愛されていないと知りながら尽くし続けた日々。それが、たった今、終わったのだ。
「お幸せに、殿下。セレスティーヌ嬢」
「待て、リリアーヌ! 私はまだ話を——」
(こちらも清々しております。ええ、本当に。五年間、貴方のために注いだ時間も、眠れなかった夜も、飲み込んだ涙も——全部、今日で終わりですもの)
くるりと背を向けた瞬間、会場の隅で深紅の瞳と目が合った。
——漆黒の髪に、彫刻のような美貌。感情を感じさせない冷徹な眼差し。
隣国の皇帝アレクシス陛下。『氷帝』の異名を持つ、大陸最強の支配者。
一瞬、その深紅の瞳が微かに見開かれたように見えた。
(——あの方は、確か隣国の皇帝陛下。なぜ、あのような目で私を見ていらっしゃるのかしら)
傍らに控えていた銀髪の女騎士が、皇帝に囁きかける。
「陛下。あの令嬢を、ご存知で?」
「いや。——今、知った」
「は?」
「あの目だ」
皇帝の低い声が、喧騒の中でなぜか私の耳に届いた。
「嵐の後の海のように凪いでいる。——あれほど美しい瞳を、私は見たことがない」
私は視線を逸らし、静かに舞踏会場を後にした。
背後で「なんだ、あの女」「意外と図太いのね」と囁く声が聞こえる。
(ええ、そうよ。私は地味で取り柄がなくて、そして——図太いの。五年間、冷遇に耐え続けた女を甘く見ないでいただきたいわ)
◇
屋敷に戻ったのは、月が中天に差し掛かった頃だった。
「お嬢様……!」
玄関で待っていた侍女が、私の顔を見て泣き崩れる。噂はもう届いているらしい。
「大丈夫よ。少し庭で風に当たってくるわ」
「で、ですが……!」
「一人にして」
静かに、けれど有無を言わせない声で告げると、侍女は涙を拭いながら下がっていった。
中庭に出ると、月明かりが白薔薇の花壇を青白く照らしていた。
母が愛した庭。母が亡くなってからも、私が大切に手入れを続けてきた場所。
「……っ」
膝から力が抜けた。
冷たい石畳の上にへたり込む。舞踏会場では平気だったのに、一人になった途端、全身が震え始めた。
(平気なふりをするのも、限界があるのね)
五年間。
私は、愛されていないと知りながら尽くし続けた。
没落寸前の実家を守るため。病弱な父と、家を支える兄のため。王太子妃の座を得ることが、クレセンティア家を救う唯一の道だと信じて。
(馬鹿みたい)
涙は出なかった。
泣くほどの感情すら、もう残っていない。あるのは虚しさと、そして——
「……自由になれた、のね」
呟いた瞬間、風が変わった。
月光が一点に集まるように輝き、白薔薇の香りが強くなる。
そして——
「——待っていた」
声が、響いた。
「……っ、誰!?」
顔を上げた私の目に映ったのは、この世のものとは思えない光景だった。
純白の毛並み。銀色に輝く螺旋の角。月光そのものを纏ったような、神秘的な獣。
「——ユニコーン」
伝説では、百年前に絶滅したはずの聖獣。
清らかな乙女にしか姿を見せないという、御伽噺の中の存在。
「真に清らかな魂を持つ契約者を。百年。我は待ち続けた」
深い青の瞳が、私の瞳を覗き込む。まるで魂の奥底まで見透かすように。
「ユニコーン……? そんな、御伽噺の——」
「御伽噺ではない。我は確かにここにいる。——そなたを迎えに来た」
「私を……? なぜ、私なのですか」
ユニコーンが、ゆっくりと首を垂れた。
「清らかな魂とは、純潔のことではない。——自分に正直であること。それが、真の清らかさだ」
「自分に、正直……」
「あの舞踏会場で、そなたは嘘をつかなかった。泣いて縋ることも、怒り狂うこともせず、ただ静かに——本心のままに」
(本心のまま……そう、あれは演技ではなかった。私は本当に、安堵していたのだわ)
「そなたの名は」
「リリアーヌ。リリアーヌ・フォン・クレセンティアです」
「リリアーヌ。——良い名だ。契約を結ぼう」
ユニコーンの角の先端が、私の胸元に触れる。
「これより、そなたは聖獣の巫女となる。——覚悟はよいな?」
「覚悟も何も、私にはもう失うものなどありませんもの。——ええ、喜んで」
「ふ……気に入った。そなたのその強さ、百年待った甲斐があった」
——瞬間、世界が光に包まれた。
◇
目を開けると、世界が変わっていた。
——いや、変わったのは私の方だ。
「これ、は……」
自分の手を見下ろす。月光を映したような淡い輝きが、肌の上を流れている。髪の先端からは銀の光が零れ、いつも伏せがちだった瞳には——見えないけれど、きっと銀色の光が宿っているのだろう。
「契約は成った」
ユニコーンが満足げに頷く。その威厳ある声は、頭の中に直接響くようだった。
「我が名はルミエール。そなたの主となろう」
「ルミエール……」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が温かくなる。
この聖獣は、私の名を呼んでくれた。地味だとか、取り柄がないとか、そんな言葉を添えずに。
「良い名だ。花の名か」
「ええ。母がつけてくれました」
ルミエールの青い瞳が、一瞬揺らいだように見えた。
「……フローレンス」
「え?」
「いや。——そなたの母の名だ。知っている」
心臓が跳ねた。
「母を、ご存知なのですか」
「後で話そう。今は——」
ルミエールが、ふいに耳を立てた。
「来るぞ。騒がしい者どもが」
直後、屋敷の方から複数の足音が聞こえてきた。
「リリアーヌ!」
兄の声だ。
庭に飛び込んできたギルバート兄様は、私の傍らに佇む巨大な白い獣を見て——凍りついた。
「なっ……」
「兄様、落ち着いて」
「落ち着けるか!! リリアーヌ、そこから離れろ!」
「大丈夫です。この方は私を傷つけません」
「この方!?」
兄様が素っ頓狂な声を上げる。
ルミエールが小さく鼻を鳴らした。
「ほう。そなたの兄か。——顔は似ておらぬな」
「は? いや待て、今この獣は喋った……?」
「聖獣ルミエールです」
「せい……っ、聖獣!?」
兄様が後ずさる。その目が信じられないものを見るように見開かれた。
「嘘だろう。ユニコーンは百年前に絶滅したはず……」
「絶滅などしておらぬ。契約者がいなかっただけだ」
ルミエールが威厳たっぷりに告げる。
「そして今宵、我はリリアーヌを主と認めた。——彼女は聖獣の巫女となった」
沈黙が落ちた。
兄様が、ゆっくりと私を見る。
「リリアーヌ」
「はい」
「……聖獣の、巫女?」
「そのようです」
「国の守護者となる、最高位の存在?」
「そう、らしいです」
兄様が額を押さえた。
「……今夜、婚約破棄されたんだよな?」
「ええ」
「その数刻後に、伝説の聖獣と契約した」
「ええ」
「——何その怒涛の展開」
(私も聞きたいです、兄様)
***
翌朝。
私の人生は、文字通りひっくり返った。
「聖獣ルミエールが契約者を選んだ——!?」
王城に激震が走ったらしい。
伝説の聖獣。国の守護者。その契約者が現れたとなれば、当然の反応だろう。
問題は、その契約者が——
「昨夜婚約破棄された令嬢だと!?」
——昨夜、王太子に公衆の面前で捨てられた女だということだった。
(……最高のタイミングですわね)
朝食の席で、私は紅茶を啜りながら内心でため息をついた。
「リリアーヌ」
兄様が深刻な顔で切り出す。
「状況を整理しよう。聖獣の巫女は、王家より上位の存在だ」
「ええ」
「つまりお前は今、この国で最も高い身分を持つ人間になった」
「……ええ」
「昨夜、お前を『地味で取り柄がない』と公言して捨てた王太子殿下より」
「…………ええ」
テーブルの下で、ルミエールが身体を縮めて子鹿サイズになり、私の足元に寝そべっている。契約者以外には姿が見えないらしい。便利な聖獣である。
「主よ」
ルミエールが念話で囁いてきた。
「あの王太子という男の顔が見たいものだな」
(見たくないです)
「なぜだ。愉快であろうに」
(愉快かもしれませんが、面倒です)
「ふむ。——ところで、我の角が輝いておるぞ」
「え?」
思わず自分の額に手を当てる。角なんてない。
「比喩だ。我の角は主の本心を映す。そなたが本音を言えば輝き、隠せば曇る」
「……それは」
「今、そなたは『王太子の顔なんか見たくない』と本音を言った。だから輝いた」
心臓が跳ねた。
「つまり私は——」
「嘘がつけなくなったわけではない。ただ、嘘をつけば我が曇る。正直でいれば我が輝く。——どちらを選ぶかは、そなた次第だ」
ルミエールの青い瞳が、私を見上げていた。
試されている、と思った。
この聖獣は、私に『自分に正直に生きること』を求めている。
五年間、本音を押し殺して生きてきた私に。
「——難しい、ですね」
「ああ。だが、そなたにはできる」
「なぜ、そう思われるのですか」
「昨夜」
ルミエールが目を細めた。
「あの舞踏会場で、そなたは嘘をつかなかった。泣いて縋ることも、怒り狂うこともせず、ただ静かに事実を受け入れた」
「……あれは」
「本心だったのだろう。『やっと解放される』と」
息を呑んだ。
「そなたは、自分でも気づかぬうちに本音で生きていたのだ。——だから我は、そなたを選んだ」
涙が、ぽたりと落ちた。
「主よ」
「……すみません。少し、嬉しくて」
誰かに選ばれること。
私の本当の姿を見て、それでも選んでくれること。
五年間、どれほどそれを望んでいただろう。
「リリアーヌ?」
兄様が心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫です、兄様。少し——嬉しかっただけです」
(ルミエール)
「なんだ」
(ありがとうございます。私を選んでくれて)
「……礼を言うのはこちらの方だ。百年も待たせおって」
ルミエールが照れたように鼻を鳴らした。
その時——
「お嬢様! 大変です!」
侍女が血相を変えて飛び込んできた。
「王城から使者が! それだけでなく、帝国からも——皇帝陛下ご自身がお越しになられて——!」
「……は?」
「リリアーヌ様に面会を求めておられます!!」
足元で、ルミエールが楽しそうに尻尾を振った。
「ほう。——面白くなってきたな」
(どこがですか)
私の穏やかな日常は、どうやら二度と戻ってこないらしい。
◇
応接室に通されたのは、二組の来訪者だった。
一方は王城からの使者。見覚えのある文官が、額に汗を浮かべて立っている。
そしてもう一方は——
「初めまして、ではないな。リリアーヌ嬢」
漆黒の髪に、深紅の瞳。感情を感じさせない冷徹な美貌。
帝国皇帝アレクシス・ヴァン・ツェルニード陛下が、私の目の前に立っていた。
「昨夜の舞踏会で見た。——見事な退場だった」
「恐れ入ります」
平静を装いながら、内心は嵐だった。
(なぜ皇帝陛下が直接いらしているの!? 外交儀礼は!? 事前通告は!?)
「陛下、これは非礼にございます!」
王城の使者が抗議の声を上げる。
「聖獣の巫女への謁見は、まず我が国の王家を通すべき——」
「黙れ」
一言。
たった一言で、使者は凍りついた。
アレクシス陛下の深紅の瞳が、温度のない光を放っている。
「聖獣の巫女は王家より上位の存在だと、お前たちの国の法が定めているはずだ。ならば王家を通す必要などない」
「し、しかし……!」
「それとも」
陛下が一歩、使者に近づいた。
「昨夜、その巫女を『地味で取り柄がない』と罵って捨てた王太子殿下の許可が必要だと?」
使者の顔が蒼白になる。
「……私からも一つ、よろしいでしょうか」
私は静かに口を開いた。
陛下と使者の視線が、同時に私に向けられる。
「王城からの使者様。殿下は何の御用でしょうか」
「そ、それは……聖獣の巫女となられたリリアーヌ様に、王家として祝意を——」
「祝意」
私は微笑んだ。
「昨夜、私を公衆の面前で辱めた方からの祝意を、ありがたく頂戴しろと」
使者が言葉に詰まる。
「お伝えください。——結構です、と」
「リリアーヌ様……!」
「私は確かに『地味で取り柄のない女』でございました。そのような者からの言葉など、殿下には不要でしょう」
足元で、ルミエールの角が眩いほどに輝いた。
(ああ、気持ちいい)
本音を言うのが、こんなにも気持ちいいなんて知らなかった。
「——素晴らしい」
アレクシス陛下が、低く呟いた。
見れば、その深紅の瞳が微かに——本当に微かに、和らいでいる。
「リリアーヌ嬢。改めて名乗ろう」
陛下が片膝をついた。
帝国皇帝が、私の前に跪いている。
「アレクシス・ヴァン・ツェルニード。帝国皇帝にして、大陸最大の版図を持つ国の主だ」
「存じております」
「ならば話は早い」
深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「——我が皇妃となれ」
時が、止まった。
「……は?」
「聞こえなかったか? 皇妃となれと言った」
「いえ、聞こえましたが」
「ならば返答を」
「お待ちください」
私は片手を上げた。
「昨夜お会いしたばかりですよね」
「ああ」
「なぜ求婚を?」
「聖獣の巫女を迎えれば、帝国の守護が盤石になる。——政治的には、それで十分な理由だろう」
「政治的には」
「ああ」
陛下が立ち上がった。長身の体躯が、影のように私を見下ろす。
「だが、それだけではない」
「と、言いますと」
「昨夜」
陛下が、一歩近づいた。
「婚約破棄を告げられたお前は、泣きも喚きもしなかった」
「……ええ」
「その目が気に入った」
「目、ですか」
「凪いでいた。嵐の後の海のように。——美しかった」
息を呑んだ。
この人は今、何を言っているのだろう。
「リリアーヌ嬢」
陛下の声が、わずかに柔らかくなった。
「私は嘘が嫌いだ。政治の場では仕方なく使うが、私生活では——極力、真実だけを口にする」
「……」
「だから聞く。お前は、私に興味があるか」
直球だった。
あまりに直球すぎて、思わず笑いそうになる。
足元で、ルミエールが囁いた。
「主よ。この男、悪くないぞ」
(いきなり求婚してくる人のどこが『悪くない』んですか)
「真っ直ぐだ。そなたに相応しい」
(相応しいって何ですか)
ルミエールの角が、きらきらと輝いている。——私が困惑しているのが、そんなに面白いのか。
「陛下」
私は深呼吸した。
「正直に申し上げます」
「ああ」
「昨夜お会いしたばかりの方に嫁ぐつもりはございません。——今は」
「今は」
「ええ。今は」
陛下の目が、微かに細められた。
「——面白い答えだ」
「お気に召しませんでしたか」
「いや。気に入った」
陛下が、ふいに笑った。
——笑った。
氷帝と呼ばれる、感情を見せないはずの皇帝が。
「よかろう。時間をやる」
「……は?」
「私を知る時間だ。その間、私はこの国に滞在する」
「えっ」
「何か問題が?」
「い、いえ……」
「では決まりだ」
陛下がマントを翻す。
「リリアーヌ嬢。——私は諦めが悪い男だ。覚えておけ」
深紅の瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
そして——嵐のように去っていった。
残されたのは、呆然とする私と、蒼白な王城の使者と、そして——
「ふふ」
「ルミエール。笑わないでください」
「いや、すまぬ。あまりに愉快で」
聖獣が子鹿サイズで床を転げ回っている。威厳のかけらもない。
「主よ、あの皇帝——本気だぞ」
「……わかっています」
「そなた、選ばれたのだ。——あの男は、嘘をつかぬ」
心臓が、どくりと跳ねた。
選ばれた。
あの『氷帝』と呼ばれる男に。
「——複雑な気持ちです」
「であろうな」
ルミエールが起き上がり、私の足元に寄り添った。
「だが主よ。これだけは言える」
「何ですか」
「あの王太子より、百倍はましだ」
「……それは確かに」
思わず笑ってしまった。
その時——
「お嬢様! 大変です!」
再び侍女が飛び込んできた。
「今度は何ですか」
「王太子殿下が——エドワード殿下ご自身がお越しに——!!」
足元で、ルミエールの角が曇った。
——私の気分が沈んだのが、筒抜けらしい。
「……お通しして」
「よろしいのですか」
「ええ。——ちゃんと、終わらせなければなりませんから」
五年間の決着を。
私は、深く息を吸った。
***
エドワード殿下は、昨夜とは打って変わって狼狽えていた。
「リリアーヌ!」
応接室に入るなり、殿下は私に駆け寄ろうとした。
——が。
「殿下」
兄様が、その前に立ちはだかった。
「クレセンティア伯爵家当主として申し上げます。——妹に触れることは許可しておりません」
「ギルバート! お前は黙っていろ!」
「黙りません。昨夜、公衆の面前で妹を辱めた方に、この家の敷居を跨がせただけでも感謝していただきたい」
兄様の声は穏やかだが、目が笑っていない。
普段は温厚な兄が、あの目をする時は——本気で怒っている時だ。
「これは誤解なんだ!」
殿下が声を荒げる。
「私は——私は一時の気の迷いで——」
「一時の気の迷いで、五年の婚約を破棄なさったと?」
「違う! あれはセレスティーヌに唆されて——」
「なるほど。つまり殿下は、取り巻きの讒言に簡単に乗せられるお方だと」
「——っ」
殿下が言葉に詰まる。
私は静かに立ち上がった。
「兄様、ありがとうございます。——ここからは私が」
「リリアーヌ」
「大丈夫です」
兄様が心配そうな目で見つめてくる。私は小さく頷いて、殿下に向き直った。
「殿下。どのようなご用件でしょうか」
「リリアーヌ」
殿下が一歩、近づいた。
「昨夜のことは謝る。あれは間違いだった。——だから、婚約を元に戻そう」
「……は」
「聖獣の巫女になったお前を、私は正式に妃として迎え入れる。王家として、それが最善の——」
「お断りいたします」
殿下の言葉を遮った。
「——何?」
「婚約を元に戻す気はございません」
「なぜだ!」
殿下が声を荒げる。その顔が、信じられないという色に染まっていく。
「私が直々に来てやっているんだぞ! 謝罪までした! これ以上、何を——」
「殿下」
私は静かに、けれどはっきりと告げた。
「昨夜、貴方は私を『地味で取り柄のない女』と仰いました」
「あれは——」
「そして今日、私が聖獣の巫女となった途端に『婚約を元に戻そう』と」
殿下の顔が強張る。
「つまり殿下が見ているのは、『私』ではなく『聖獣の巫女という地位』なのです」
「違う! 私は昔から——」
「五年間」
私は殿下の言葉を遮った。
「五年間、私は殿下に尽くしてまいりました。好みのお茶を覚え、政務の補佐を学び、いつかお役に立てる妻になろうと」
「ああ、知っている」
「その私を、殿下は一度でも褒めてくださいましたか」
「——」
「一度でも、私の話を聞いてくださいましたか」
「……」
「一度でも、私を——名前で呼んでくださいましたか」
沈黙が落ちた。
殿下の顔から、血の気が引いていく。
「私、ずっと『伯爵令嬢』か『君』でしたわ。五年間、一度も名前を呼ばれたことがない」
「それは……」
「帝国皇帝陛下は」
私は微笑んだ。
「昨夜初めてお会いしたにも関わらず、今朝、私の名を呼んでくださいました。『リリアーヌ嬢』と」
殿下の顔が、苦渋に歪む。
「あの男と比べるな……!」
「比べてなどおりません。——ただ、事実を申し上げただけです」
足元で、ルミエールの角が眩く輝いている。
本音を言うと、本当に気持ちがいい。
「殿下」
私は深く息を吸った。
五年間、ずっと言いたかった言葉。
「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ女ではありません」
「リリアーヌ……」
「昨夜、殿下が私を捨ててくださったおかげで——私は自由になれました」
殿下の目が見開かれる。
「お礼を申し上げます、殿下。婚約を破棄してくださって、ありがとうございました」
深く、優雅に一礼する。
五年間で身につけた、完璧な淑女の所作で。
「——どうか、お幸せに」
顔を上げると、殿下は打ちのめされた顔で立ち尽くしていた。
「リリアーヌ様」
背後から、聞き慣れない女性の声がした。
振り返ると、銀髪を短く刈り上げた騎士服の女性が立っている。——帝国の紋章入りの軍服だ。
「帝国皇帝陛下の側近、オリヴィア・マルグリット・ヴァルトシュタインと申します」
「あ、はい」
「素晴らしい啖呵でした。陛下もお喜びになるでしょう」
「え……あの、今のを聞いて……?」
「扉の外で。——陛下のご命令で、護衛に参りました」
護衛。
私は思わず眉を寄せた。
「まだお返事もしていないのに?」
「ええ。陛下は仰っていました。『返事はどうあれ、あの女は守る価値がある』と」
オリヴィアが、にやりと笑った。
「失礼ですが——陛下がここまで執着する女性は初めてです。一体、何をなさったのですか」
「……何も」
「では、これから何かなさるのですね」
「いえ、そういうわけでは——」
「楽しみにしております」
オリヴィアが、意味深な笑みを浮かべた。
何だか、とんでもないことに巻き込まれている気がする。
「リリアーヌ……!」
殿下が、掠れた声で呼んだ。
「お前がいなくなったら——王国は聖獣の加護を失う。それでもいいのか」
「殿下」
私は振り返らずに答えた。
「それは殿下が考えることです。——私はもう、王国の道具ではありませんので」
背後で、殿下が崩れ落ちる気配がした。
◇
その夜、私は庭で月を見上げていた。
「主よ」
ルミエールが傍らに寄り添う。契約者以外には見えないので、傍目には私が一人で庭にいるように見えるだろう。
「今日は、よくやった」
「……疲れました」
「であろうな。だが——輝いていたぞ」
「輝いて?」
「ああ。我の角が、ずっと輝き続けていた」
ルミエールが、銀色の角を月光に晒す。
確かに、美しく輝いている。
「そなたが本音で語る時、我は嬉しい」
「……ルミエール」
「百年」
聖獣が、静かに目を閉じた。
「百年、我は待ち続けた。嘘をつかない、誠実な魂を」
「誠実……」
「清らかな魂とは、純潔のことではない。——自分に正直であること。それが、真の清らかさだ」
風が吹いた。
白薔薇の香りが、母の記憶を呼び起こす。
「ルミエール」
「なんだ」
「母は——フローレンスは、貴方とどんな契約者だったのですか」
ルミエールが目を開けた。その青い瞳に、古い哀しみが宿っている。
「フローレンスは——」
聖獣が言葉を切った。
月が雲に隠れる。
「——後で話そう。今は、まだ」
「ルミエール?」
「そなたには、知る権利がある。だが——順序がある」
聖獣が、私の足元に身を丸めた。
「今は眠れ、主よ。明日からは、もっと忙しくなる」
「もっと?」
「ああ」
ルミエールが、意味深に目を細めた。
「聖獣の巫女に、世界中から求婚が届く。——覚悟しておけ」
「……冗談ですよね?」
「冗談に見えるか?」
「…………」
ルミエールの角が、きらりと輝いた。
——私の絶望が、本心だと証明するように。
「ルミエール」
「なんだ」
「……もう少し、穏やかな日々は来ないのでしょうか」
「さあ。——だが」
聖獣が、小さく笑った。
「退屈よりは、ましであろう?」
私は空を仰いだ。
月が再び顔を出し、銀色の光が庭を照らす。
昨日までの私は、『地味で取り柄のない女』だった。
今日の私は、聖獣の巫女で、皇帝に求婚されて、元婚約者を振った女。
(……人生って、わからないものですね)
明日からの嵐を思って、私は静かにため息をついた。
——けれど、不思議と心は軽かった。
自分に正直に生きること。
それが、こんなにも心地よいとは知らなかった。
「ルミエール」
「なんだ」
「……ありがとう」
「礼など——」
「私を選んでくれて。——私に、本当の私を思い出させてくれて」
聖獣が、ふいに顔を背けた。
「……角が、眩しい」
「え?」
「そなたの本心が——眩しすぎる」
月光の下、純白の聖獣が照れている。
私は思わず笑ってしまった。
これからどうなるかはわからない。
けれど——一人ではないと、そう思えた。
***
翌朝、予言通り、各国からの求婚状が山のように届いた。
「主よ」
「……何ですか」
「あの皇帝の手紙が、一番上に載せられているぞ」
「見えています」
黒い封蝋に押された帝国の紋章。
封を切ると、たった一行の文字が記されていた。
『昨夜の月は美しかった。——君のように』
「……」
「主よ。顔が赤いぞ」
「黙ってください」
「角が輝いておる。動揺しておるな?」
「黙ってください!!」
聖獣の角は、今日も主の本心を映して輝いていた。
◇
——そして、数日後。
事態は、さらに大きく動くことになる。
「災厄の予言、ですか」
アレクシス陛下との二度目の面会。
場所は、なぜか私の家の庭だった。皇帝が他国の伯爵家を訪れること自体が前代未聞だが、この方にはそんな常識は通用しないらしい。
「ああ。帝国皇家に伝わる予言だ」
陛下が、月光を浴びながら静かに語る。
「『百年の眠りから覚めし聖獣が、契約者を選びし時——大陸に災厄が訪れる。されど、聖獣の巫女がその心を偽らぬ限り、災厄は退けられるだろう』」
「……」
「リリアーヌ嬢。私がお前を求める理由が、これでわかったか」
「政治的な理由だけではなかった、と」
「ああ。——お前が必要なのだ。帝国のためだけでなく、大陸全土のために」
重い言葉だった。
けれど——
「陛下」
「なんだ」
「それでも、私の答えは変わりません」
陛下の深紅の瞳が、わずかに見開かれる。
「——『今は』嫁ぐつもりはない、と」
「ええ」
「理由を聞いても?」
「私はまだ、自分の本心がわからないのです」
足元で、ルミエールが顔を上げた。
「五年間、私は本音を押し殺して生きてきました。殿下に——いえ、エドワードに尽くすことが正しいと信じて」
「……」
「でも今、ルミエールと契約して——本音で生きることを知りました」
私は陛下の目を、真っ直ぐに見つめた。
「だから、もう少しだけ時間をください。——私が本当に望むものが何なのか、見極めるまで」
沈黙が落ちた。
陛下の表情が読めない。
怒らせただろうか。皇帝の求婚を二度も保留にするなど、普通なら不敬罪だ。
「——ふ」
陛下が、小さく笑った。
「本当に、面白い女だ」
「は?」
「普通、こんなことを言われたら『喜んでお受けします』と言うものだろう。世界を救う使命だぞ?」
「……すみません」
「謝るな。——気に入った」
陛下が、私の手を取った。
温かい。
『氷帝』と呼ばれる人の手が、こんなにも温かいとは思わなかった。
「待とう。お前が答えを出すまで、いくらでも」
「陛下——」
「ただし」
深紅の瞳が、揺らめいた。
「私も、待つだけのつもりはない。——お前の心を、勝ち取りに行く」
心臓が、大きく跳ねた。
「勝ち取る、とは」
「言葉通りの意味だ。お前に選ばれるまで、私は諦めない」
陛下が、私の手の甲に唇を落とした。
「——待っていろ、リリアーヌ」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
この人は、最初から私の名前を呼んでくれた。
地味だとか、取り柄がないとか、そんな言葉を添えずに。
「……っ」
「ほう」
陛下が、ふいに視線を落とした。
「その足元の獣——光っているな」
「え!?」
見れば、ルミエールの角が眩いほどに輝いていた。
「見えるのですか!?」
「いや、見えない。だが——光だけは感じる」
陛下が、不敵に笑った。
「聖獣が認めたか。——悪い気分ではないな」
「ち、違います! これは——」
「本心を映す角だと聞いている。——つまり、お前は今」
陛下が、私の耳元に顔を寄せた。
「——私に、少しは心を動かされている」
顔が、熱い。
「陛下——っ」
「アレクシスと呼べ」
「は!?」
「二人の時は。——いずれ、お前の夫になる男だ」
「まだそうと決まったわけでは——」
「決まる。必ず」
陛下——アレクシスが、私の髪に指を滑らせた。
「お前を手に入れるためなら、私は何でもする」
「な、何でも……」
「ああ。——この大陸を統一しても、お前を口説き落とす方が難しそうだ」
「……それは褒めているのですか」
「最大級の賛辞だ」
アレクシスが、穏やかに微笑んだ。
その笑顔は、『氷帝』の異名とは程遠い、温かなものだった。
「また来る。——待っていろ、リリアーヌ」
「……勝手にしてください」
「ああ、勝手にする」
マントを翻し、アレクシスは去っていった。
残されたのは、茹で上がった私と——
「主よ」
「……何ですか」
「角が、もう少しで砕けるところだった」
「……え」
「輝きすぎて、な。——あの男、侮れぬぞ」
ルミエールが、呆れたように尻尾を振った。
「そなたの心の扉、もうほとんど開いておるではないか」
「……黙ってください」
「角は嘘をつかぬぞ」
「——黙ってください!!」
月光の下、聖獣は楽しそうに笑っていた。
◇
そして——数週間後。
予言は、現実のものとなった。
「空が、割れた……!?」
王都の上空に、禍々しい亀裂が走る。
黒い靄のようなものが溢れ出し、大地が震える。
「災厄だ! 災厄が来た!」
民衆の悲鳴が響く中、私は庭に立っていた。
「ルミエール」
「ああ。——来たな、主よ」
聖獣が、その身を本来の大きさに戻す。
純白の巨体。銀色に輝く螺旋の角。月光を纏った、神秘の獣。
「我の力を使え。——そなたの心が真実である限り、この災厄は退けられる」
「私の心が、真実である限り……」
「そうだ。嘘をつくな。本音で——真実で、立ち向かえ」
私は深く息を吸った。
五年間、本音を押し殺して生きてきた。
でも——今は違う。
「——わかりました」
ルミエールの背に跨る。
視界が開けた。王都全体が見渡せる。
空の亀裂から溢れる闇が、街を呑み込もうとしている。
「行くぞ、主よ」
「ええ」
ルミエールが駆ける。
銀色の軌跡を残しながら、夜空を翔ける。
「リリアーヌ!」
背後から声が聞こえた。
振り返れば、アレクシスが馬で追いかけてきている。
「何をするつもりだ!」
「災厄を——止めます!」
「待て! 危険だ!」
「待てません!」
私は叫んだ。
「これが——私の使命ですから!」
アレクシスの顔が、苦渋に歪む。
けれど——彼は、追いかけるのを止めなかった。
「——ならば、傍にいる!」
「え?」
「お前を守る! 何があっても!」
心臓が、大きく跳ねた。
この人は——本当に。
「……ルミエール」
「わかっておる。——あの男、本気だな」
「ええ」
「そなたも、な」
「——黙ってください」
「角が輝いておるぞ」
「黙ってくださいと言っています!!」
ルミエールが笑った。
そして——私たちは、災厄の中心へと突入した。
◇
空の亀裂。
その前に立つと、禍々しい力が肌を刺す。
「ルミエール」
「わかっておる。——そなたの力を、我が角に」
私は目を閉じた。
本音。
真実。
自分に正直であること。
五年間、私は嘘をついて生きてきた。
『大丈夫です』と笑いながら、心は泣いていた。
『幸せです』と言いながら、本当は苦しかった。
でも——今は違う。
今の私は——
「——怖い」
呟いた。
「怖いです。この災厄を前にして、私は震えている」
「主よ」
「でも——逃げたくない」
私は目を開けた。
「私を選んでくれた人がいる。私を信じてくれた人がいる」
「ああ」
「だから——私は、ここに立つ」
ルミエールの角が、眩いほどに輝いた。
銀色の光が溢れ出す。
「——よくぞ言った、主よ」
「え?」
「それこそが、真実だ」
光が、空の亀裂に向かって放たれる。
「恐怖を認めながら、それでも立ち向かう。——それこそが、真の勇気」
聖獣の光が、闇を切り裂いていく。
「本心を隠さず、弱さを認めながら、それでも前に進む。——それこそが、我が求めた『清らかな魂』だ」
亀裂が、縮んでいく。
闇が、払われていく。
「リリアーヌ!」
アレクシスの声が聞こえた。
見れば、彼は剣を抜き、闇の残滓と戦っていた。
一人で。
皇帝の身でありながら、最前線で。
「あの馬鹿——!」
「主よ」
「ルミエール! 力を——!」
「承知した」
光が、さらに強くなる。
私の全身から、銀色の輝きが溢れ出す。
「——消えろ!」
渾身の一撃。
光の柱が、空に向かって放たれた。
◇
——静寂が訪れた。
空の亀裂は消え、夜空には満月が輝いている。
「……終わった、のか」
「ああ。——終わった」
ルミエールが、疲れたように目を閉じる。
「よくやった、主よ」
「ルミエール……」
「少し、眠る。——呼べば、すぐに来る」
聖獣の姿が、淡く光りながら消えていく。
角の輝きだけが、私の胸元に宿った。
「リリアーヌ!」
振り返ると、アレクシスが駆け寄ってきた。
その顔は、いつもの冷徹さを失い——焦燥に歪んでいた。
「無事か!? 怪我は!?」
「大丈夫です。私は——」
言葉が、途切れた。
アレクシスに、抱きしめられたから。
「……っ」
「馬鹿者が」
アレクシスの声が、震えていた。
「死んだらどうするつもりだった」
「し、死んでません——」
「死にかけただろう。——俺の目の前で」
腕の力が、強くなる。
「二度と、あんな無茶をするな」
「……でも、私には——」
「使命があるのはわかっている」
アレクシスが、私の顔を両手で挟んだ。
深紅の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「だから——俺が傍にいる」
「え」
「お前が戦う時は、俺も戦う。お前が傷つく時は、俺が盾になる」
「それは——」
「求婚の答えを聞きに来たわけじゃない」
アレクシスが、私の額に唇を落とした。
「ただ——傍にいさせてくれ」
心臓が、痛いほど鳴っている。
この人は、本当に——
「……ルミエール」
『なんだ、主よ。眠いのだが』
「今、私の本心は——」
『……聞くまでもなかろう。角がこれ以上ないほど輝いておるわ』
胸元の光が、眩いほどに輝く。
アレクシスの目が、わずかに見開かれた。
「この光は——」
「私の、本心です」
私は、彼の胸に額を預けた。
「怖かった。死ぬかと思った」
「ああ」
「でも——あなたが傍にいてくれて、嬉しかった」
「……」
「だから——」
私は顔を上げた。
「傍に、いてください。——これからも」
アレクシスの表情が、ゆっくりと緩んだ。
「——それは、求婚への返事か」
「どう取っていただいても構いません」
「では、『はい』と取る」
「……勝手にしてください」
「ああ、勝手にする」
アレクシスが、私の唇に自分の唇を重ねた。
月光の下、長い口づけ。
——胸元の光が、天高く輝いた。
◇
後日談。
「殿下! 大変です!」
王城で、エドワードは報告を受けていた。
「聖獣の巫女、リリアーヌ・フォン・クレセンティア様が——帝国皇帝アレクシス陛下と婚約なされたそうです!」
「——は」
エドワードの手から、ティーカップが滑り落ちた。
「さらに、災厄を退けた功績により、リリアーヌ様は『大陸の守護聖女』の称号を得られました。今や、どの国の王家よりも高い身分に——」
「嘘だ」
「いえ、事実でございます」
「嘘だと言っている!!」
エドワードが叫ぶ。
「あの地味で取り柄のない女が——あの俺が捨てた女が——」
「殿下」
報告者が、冷ややかな目で言った。
「リリアーヌ様からの伝言がございます」
「伝言……?」
「『婚約破棄してくださって、ありがとうございました。おかげさまで、最高の相手に巡り合えました』——だそうです」
エドワードの顔が、蒼白になる。
そして——崩れ落ちた。
「そんな……そんな馬鹿な……」
傍らで、セレスティーヌが震えていた。
「ど、殿下……私は……私はまだ殿下の味方——」
「黙れ」
エドワードの目が、怒りに燃えた。
「お前が——お前がリリアーヌを追い出せと言ったんだろうが!!」
「え、そ、それは——」
「お前のせいで俺は——聖獣の巫女を——!!」
セレスティーヌの顔が、恐怖に歪む。
「ま、待ってください殿下——!」
「出ていけ! 二度と俺の前に現れるな!!」
——かくして、悪役令嬢は退場した。
◇
そして——帝国にて。
「お幸せそうですね、陛下」
オリヴィアが、呆れたように言った。
「ああ」
アレクシスが、穏やかに微笑む。
その視線の先には、庭で聖獣と戯れるリリアーヌの姿があった。
「ルミエール! 走りすぎです!」
「我は聖獣だぞ。これくらいで音を上げてどうする」
「私は聖獣じゃありません!!」
銀色の獣が、楽しそうに駆け回る。
その背に乗るリリアーヌは、悲鳴を上げながらも——笑っていた。
「美しい」
「は?」
「あの笑顔が、好きだ」
オリヴィアが、大きくため息をついた。
「陛下。重症ですね」
「自覚はある」
「治す気は?」
「ない」
アレクシスが、立ち上がった。
「オリヴィア。今日の公務は」
「……まだ山積みですが」
「明日やる」
「陛下!!」
皇帝は、側近の制止を無視して庭に向かった。
「リリアーヌ」
「あ、アレクシス——」
「代わろう」
「え?」
「俺が乗る。お前は後ろに」
「えええ!?」
「ほう、良かろう。皇帝、そなたの腕前を見せてみよ」
「望むところだ」
アレクシスがルミエールの背に跨り、リリアーヌを後ろに乗せる。
「し、しっかり捕まっていろ」
「は、はい——って、速い!!」
「ははは! これでこそ聖獣の主だ!」
銀色の軌跡を残して、三人——いや、二人と一頭が空を駆ける。
庭に残されたオリヴィアは、深いため息をついた。
「……公務は、いつ片付くのでしょうね」
空には、月光と聖獣の輝き。
そして——幸せそうな二人の笑い声が響いていた。
***
エピローグ。
「主よ」
「何ですか、ルミエール」
「そなたの母——フローレンスのことを、話す時が来たようだ」
満月の夜。
帝国の庭で、私はルミエールと向き合っていた。
「母は——」
「我の、先代の契約者だった」
「やはり……」
「だが、彼女は力を隠して生きることを選んだ。——そなたの父を愛し、普通の女として生きることを」
「……」
「我は待った。フローレンスが戻ってくるのを。だが——」
「病で、亡くなりました」
「ああ」
ルミエールが、目を閉じた。
「彼女は、最期にこう言った。『娘を頼む』と」
涙が、頬を伝った。
「だから我は、そなたを待った。——百年ではない。十五年だ」
「お母様……」
「フローレンスは、そなたが契約者となることを予見していた。だから——」
ルミエールが、首飾りを咥えて差し出した。
「これを、そなたに」
受け取ると、銀色の輝きが手の中に宿った。
「母の……首飾り」
「そなたへの、最後の贈り物だ」
「……ありがとう、ございます」
「リリアーヌ」
背後から、アレクシスの声がした。
「泣いているのか」
「少しだけ」
「そうか」
アレクシスが、私の肩を抱いた。
「泣きたい時は、泣けばいい。——俺がいる」
「……ありがとう」
「礼はいらない。——俺の妻だろう」
「まだ婚約者です」
「すぐに妻になる」
「……勝手にしてください」
「ああ、勝手にする」
月光の下、私は泣いた。
悲しみの涙ではない。
母への感謝と、今の幸せへの涙だった。
「主よ」
「何ですか」
「角が、輝いておるぞ」
「……知っています」
「幸せか」
「——ええ」
私は微笑んだ。
「とても」
聖獣の角が、天高く輝いた。
——これは、『地味で取り柄のない女』が、自分の本心を取り戻すまでの物語。
そして——本当の愛を見つけるまでの物語。
婚約破棄してくれた王太子様、ありがとうございました。
おかげで——最高に幸せです。




