〈 9 〉
その翌日の閉店後、小澄孝之はD研修室へやってきた。夕方の5時から研修室は開放されている。各研修室は特別な場合を除き、施錠することにはなっていない。夕方からのD研修室の開放については、孝之は夏実の指示通り、万場部長に依頼して各部門に通達メールを流しておいた。
研修室には明かりが灯っていない。2個所ある扉にすりガラスがはまっているため、通路の光が入ってきているが、部屋の中は薄暗い。かろうじて人の姿かわかるくらいだ。
「小澄さん、こっちよ。」
夏実の声が部屋の隅から聞こえた。研修室の隅、パーテーションで仕切られた狭いスペースから夏実の手が伸びて、孝之を引っ張り込む。
「電気もつけずにどうしたんだい。」
「しっ、大きな声を出さないで。」
夏実は人差し指を唇にあてた。
「あっ、魚田さんも。」
夏実の後に魚田紗季がパイプ椅子に身をすくめて座っている。夏実は積み上げられたパイプ椅子を2つ降ろして、かろうじて座るスペースを作った。孝之も夏実の隣に腰を下ろす。夏実はパーテーションの位置を調整して、入口から自分たちの姿が見えないようにした。
「小澄さんの指示どおり、スタークラブのメンバーには、開放されたこの研修室で、明日もう一度事件についての検討会を開きたいってメールしたわよ。全員から了解の返信があった。」
紗季が言う。少し表情が固い。孝之が訝しげに夏実に聞く。
「いったい何をするつもりだい。」
夏実はささやくように、
「罠を張ったのよ。」
「罠?」
「そう、あの事件の犯人を罠にかけようと思うの。魚田さんは薄々感づいていたようだから、作戦に加わってもらったの。」
「どうやって犯人を罠にかけようっていうんだい。」
「モルフォ蝶よ。」
「南米まで行ってモルフォ蝶を取ってきたの?」
「まさか。モルフォ蝶のフィギュアを探したら、家具屋さんに3Dウォールステッカーとして売ってたの。事件の後、この部屋で見つけたのとソックリよ。ほら、あの時と同じ場所に貼り付けてある。」
パーテーションの隙間から夏実が指を指す。天井にぼんやり蝶の形の影が見える。
「あの時と同じように見えるでしょ。暗いから、細かい違いはわからないはず。」
「これがどんな罠になるというんだい。」
「あの蝶は、ある目的のために犯人が仕掛けたものだと思う。夢の中では蝶が舞って、星たちが死の世界から蘇っていたけど、犯人にとってもあの蝶は、計画に成功をもたらすための重要なものだったに違いない。」
夏実はいつになく饒舌だ。孝之は黙って耳を傾ける。
「それだけに、犯人にとっては危険なものでもあった。事件の後、犯人は蝶を回収したかったけど、研修室が閉鎖されたから、その機会を失くした。犯人はずっと蝶のことが気に掛かっていたはずよ。」
「犯人があの蝶を回収しにくるというのかい。」
「そうよ。魚田さんも同じことを考えているんだと思う。そしておそらく魚田さんは、犯人が誰かも見当がついてるんじゃないかしら。」
孝之は驚いて紗季を見る。紗季は無表情で黙っている。マーキュリーの彫像のように。夏実は続ける。
「研修室の前は従業員の退出通路になっている。閉店後しばらくして、人通りが少なくなる頃が犯人にとってはチャンスだと思う。」
「よくわからないな。」
孝之は首をかしげる。
「あんな蝶を天井に貼り付けた理由もわからないけど、なぜ犯人にとってそんなに回収が必要なことなのかな。」
「それについては今説明してる暇はない。わたしが思ってるのは、犯人はある誤解に基づいて、必要以上にあの蝶を回収したがっているんじゃないかということ。」
紗季は夏実の横顔を凝視する。
「稲森さんはそこまで分かってるのね。でもその誤解は救いでもあるかもしれない。」
孝之はますますわけが分からなくなる。夏実たちの考えについて行けない。
「本当に犯人はやって来るのかな。」
「しっ、静かに。」
夏実が指を立てた。扉のすりガラスの向こうに人影が見えた。
扉のレバーハンドルが下げられ、ゆっくりと扉が開く。黒いシルエットの人影が入ってくる。後ろ手に扉を閉め、足音を忍ばせて部屋を横切った。蝶の貼り付いた天井の真下から目を凝らしている。
用心深く椅子を引き、その上に乗った。手にした棒のようなもので突っつくと、蝶はハラリと床に落ちた。黒い人影は椅子から降りて蝶を拾い上げ、顔を近づけている。
「違う、これじゃない。」
人影はうめくように低い声を発した。
その時、パーテーションの陰から飛び出した夏実が、滑るように扉の方向へ走った。人影が驚いたように振り返る。夏実は壁のスイッチを押した。部屋の中がぱっと明るくなる。人影は眩しそうに片手をかざした。
パーテーションから出た紗季がその人物に一歩近づいて言った。
「やっぱり、あなただったのね。」
それはネプチューン一布施友光だった。