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樽で買うから持って来い

 夜、史奈フミナさんは十九時過ぎに帰宅。


 今日はやたらヘルプが忙しく、残業になったとのことだ。疲れ切っているのに作り笑いをさせてしまうのが心苦しい。


 あの延々と並ぶジジイどもに片っ端から宣告して追い払うことは可能だと思うが、売り上げへの影響を考えると悩ましい。営業人にとって売り上げは正義。正義に抗うための大義は必要だ。


 もし史奈さんがフロア勤務を命じられたなら、その時に然るべき判断をしよう。


「風呂に入ってさっぱりしてきなよ。俺は先に済ませたからさ」


 もう帰った瞬間に風呂入ったよ。汗だくなんてもんじゃなかった。


「でも、お腹すいたでしょう?」

「大丈夫。途中まで仕込んだから俺が作っちゃうよ」


 本当は史奈さんのカレーを味わいたかったが、今はまた今度と言える幸せを味わうことにする。


 半ば無理矢理になってしまったが、史奈さんを風呂場へ送り込んだ。


 叶うならお背中を流して差し上げたい。


「お? 頭痛しねえな」


 てことは、ココも反応しないわけか。寂寞感せきばくかん


 いかんいかん。今は晩飯の支度に集中だ。

 牛すじカレーに負けるわけにはいかないからな。


 カレー自体は市販のルウに頼る。スパイスから作るなんて俺のキャラじゃない。

 ただし、今日仲良くなったお母さんから教えてもらったルウの組み合わせを試すことにする。なんでもお母さんの実家から受け継いだ秘伝の組み合わせだとか。照れ笑いしていたが、楽しみだ。


 ジャガイモ、人参、玉ねぎの切り方は適当。このあたりは雑な一人暮らしがわかってしまうな。史奈さんの口に合うよう大き過ぎない程度にするまでで勘弁だ。


 つけ合わせは、豆腐サラダにしてみる。

 冷蔵庫にあった梅干しを一個ほぐし、少しの味噌、はちみつを混ぜてから、青じそ風味のドレッシングと合わせて馴染ませる。梅の香りとコクが深まる俺のお気に入り。

 レタスを敷いた器へ賽の目に切った豆腐を乗せ、白胡麻を振る。そして、くし形切りしたミニトマトを周囲に添えて飾ってみた。食べる直前に作ったドレッシングをかけていただく。

 これは日本酒と合うんだ。


 カレーの方も出来た。

 ちなみに俺は、できたてのアツアツなカレーがあまり好きじゃない。特にジャガイモが舌をやけどしそうなほど熱かったりするとイラッとしてしまう。

 なので、さっさと火を止めてゆっくり冷ますことにする。


 そしてこのカレーには肉が入っていない。


 次に取り出すのは皮つき鶏もも肉。

 本当はビールに合うつまみ料理なのだが、今回はトッピングとして用いるのだ。ハーブソルトを軽く振ってしばらく経過させた後、キッチンペーパーで水分をとる。

 そして、筋を切り、余分な皮と脂肪を取り除く。時間の許す限り念入りにだ。

 下処理が終わったら、カレーのルウを削った粉末に黒胡椒とガーリックパウダーを少し加えたものを、鶏皮の方へ満遍なく擦り付けて仕込み完了。


 奥で聞こえていたドライヤーの音が終わった。


 そろそろ頃合いか。

 仕込んだ肉をフライパンに乗せ、皮がパリパリ、身はジューシーに仕上がるようじっくり焼く。


「ごめんねー。何か手伝う?」


「もう出来上がるから大丈夫。急がせちゃったね」


「ううん。さっぱりしたー。ありがとう」


 湯上がりのほてった頬、鼻の頭が艶っとして、きれいとカワイイが同居状態。


 素でこれほどだからな、ジジイじゃなくても行列になるわな。


 フライパンの蓋を開ける。

 油の弾く音とカレーのこんがり焼けた香ばしい匂いが溢れ出した。


「うわー、いい匂い。カレー風味のチキンソテー?」


 史奈さんがすっと隣について、肩が触れる。キラキラ期待した顔も近い。


「か、カレーライスだよ。ほら、風呂上がりなのに油がついちゃうよ」


 どっきどきだなおい。

 こんなん毎日やられたら心臓もたんぞ。


 焼き上がった肉をサクッ、サクッと短冊状に切り分け、よそったカレーライスに乗せて。

 無事、完成。


 どうだ、家庭のカレーライス感を損なわず、それでいてカレーの風味を増強した焼きたてのチキンソテーが特別感を演出する。牛すじカレーでは得られないビジュアルと香りだ。

 意外なことに、豆腐サラダにまで史奈さんは感動してくれている。


「なんか、食べるのもったいないね」

「食べてよ」


 いただきます。

 と、忘れてた。


「はい、母さん。これも」

「はっ? い、いいってば!」


 風呂上がりと言えばビール。

 今朝冷蔵庫の中をざっと見渡して、缶ビールの並びを発見。

 史奈さんはいけるクチなのだ。


 そして、台所の隅に置かれた空き缶を入れた袋にストロング系もあって、申し訳ない気分になった。酒は程よく気分よく飲んでこそだ。


「いいから」

 プシュッと開けてグラスに注ぐ。いいなあ、この泡。

 あと何年我慢しなきゃなんだよ。


「な、慣れてるのね」

「見様見真似」

 俺は氷水で乾杯。グラスを差し出す。

「はい、お疲れ様」

「お、お疲れ様でした」


 冷たい泡と炭酸の刺激が史奈さんの喉を通る。


 ひとくち、ふたくち、といったところでグラスから唇を離すと、はあっと軽い息を吐く。


 こんなビールのCM見せられたらケース買いだケース買い!


 見惚れていた俺に気づいて慌てる。

「あっ、普段からこんなんじゃないのよ? 本当だから!」

「わかってるよ。ほどほどにね」

「信じてくれないのー?」

 飲み過ぎないためには、これくらいの感じがいい。


 カレーの合わせルウは抜群の味だった。今度会えたら礼を言おう。鶏肉とサラダはまずまずの出来。史奈さんは頬を押さえて喜んでくれた。

 いい人だ。


 そんな平穏な団欒に満足して、少し心配事を確かめてみた。


 今日の行列について。「みんな何故か端っこのレジが好きなのよね。でもいいお客さんばかりよ?」と、拍子抜けする答えだった。まあ、それならそれで、もう少し様子を見ようと安堵したところで、


「今日、ユキトくん、赤ちゃん連れたお母さんと仲良く買い物してたね」


 斜め下へ視線を落とされる。いきなりの剣呑な雰囲気。なんだこれ。


「あ、ああ。ベビーカーで大変そうだったから、ちょっと手伝ったんだ」


「そうなんだ。そうね、片手で持てる程度の荷物で大変そうだったものね」


 駐車場までお見送りして、手を振ってたものね。大変だったのよ、大変だった……。


 全部見られてたのかよお。

 おいおいおい! もしかして俺、責められてるぞ。

 なんだ、何が気に障った?


 まだ缶ビール一本だぞ。ストロングいけちゃう人だぞ。まさか酔ってはないだろ?

「ど、どうしたのかな、母さん?」


「ユキトくんとっても楽しそうだった」


「いや、それほどでもないよ、社交辞令的な?」


 確かに営業本能丸出しで夢中になってたけどさ。別に疾しい気持ちはなかったよ。本当に。


 乾いて咳き込みそうな喉へ氷水を流す。


「やっぱり赤ちゃん産まないとダメなのかな」


 思いっきり気管に入った。

 苦しくて泣いた。


「だ、大丈夫? ユキトくん!」

「ダメじゃないから。ゲホッ、産まなくていいから!」


 何がダメか知らんが、ほんとダメだから。

 誰の子産む気ですか。息子は許さないんだからっ。


「だって私、母親のオーラがぜんぜん無いし」

「オーラ? なんで?」


「今日、青木さんにユキトくんのこと『しっかりした弟さんね』って言われたの」


 青木さん。弟。ああ、行列の原因教えてくれた店員さんか。失敗した。ちゃんと誤解を解いておくべきだったか。


「へ、へえ。そうなんだ。ケホッ」


「そんな姉弟みたいに見られたら、ユキトくんも恥ずかしくて一緒に買い物したくないものね」


 そこに回帰するのか!


 最初の対応から俺が間違っていたのか。

 状況に焦り相手の気持ちを考えなかったとは、営業マンにあるまじき失態。どんなに条件が悪くとも、あの場では史奈さんとの買い物を望む俺を知ってもらうべきだったんだ。

 緊急フォローだ。


「恥ずかしいなんてあるわけないさ。寧ろ、」


 思春期少年には絶対に言えないだろうが。

 恥の多い人生を送ったおっさんは、苦もなく思いを声に出せてしまう。 


「その、姉弟に見られるくらい若くて綺麗な母さんを、自慢したいっていうか……」


 だが嘘だ。

 本当は恋人同士の二人に見られたいんだよお!


「ばっ、ばかなこと、もうユキトくんてば揶揄わないで!」


 グラスを両手で握り上げて、ぐい、ぐいっと一気に飲み干してしまう。


 俯いて、ふうっと息を吐いてから潤ませた眼差しを向けてくる。


「ほんとに、自慢してくれる?」


 するに決まってんだろおおお!

 なんだこのビールのCM、俺を悶絶死させる気だな。死んでんだよ。

 最っ高じゃねえか。樽で買うから持って来い!


 よしっ。氷水で酔った勢いでデートに誘うぞ!


「今度の休み、一緒に買い物しよう」


 満面の笑みをゲット。

 そうだ。これでいい。

 これがいい。


次から舞台は学校へ移ります。

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