人生は発見の連続
死にたくなるような醜態を晒し、後生でも黒歴史を作ってしまった俺。
二度目の死が訪れるまでこの羞恥を抱えて生きねばならない。
ただ、結論としては男もたまにはガキっぽく拗ねてみるもんだなと。
そう思えるくらいの女神サービスを今まさに享受している。
生徒会室へ戻り、スチールデスクを前に横並びとなった俺と彼女。
コーヒーの香りに包まれる中で少し落ち着きを取り戻す。
「はい」
彼女の掬い上げた一切れのタルトが目の前に来て口に収める。
今のところ二人でフォークを一本しか使っていない。
いやこれ介護じゃないからね。
十分にイチャついてる場面のはずだから。
正直まだダメージを引き摺っていて、しかも謎の激甘サービスに動揺して彼女とまともに目を合わせられない。気の利いた言葉も出てきやしない。
まるで不貞腐れた子供が母親に甘えているようだ。
「おいしいね、これ」
「よかったですね」
いつもと同じ調子で返事したつもりが、なんか今の嫌味な言い方だったかもと不安になってしまう重篤な思春期化症状。もはや修理に出して部品交換しないとやばいレベルの俺。
コーヒーを一口飲んだ彼女は、デザートを食している時とは思えないほど落ち着いた声音で語り出した。
「ユキトの言ってたとおり。結局、あの人の隣に居るのが安全でラクだった。嫌な事も多かったけど、もうこのままでいいかなって思ってた」
相槌を打つことなく澄ましていると、コツンとゲンコツが頭に落ちてきた。
「あの人に期待なんかしたことないんだからね」
そう言うならきっとそうなのだろう。
でも、このままでいいかと思わせていたのならアイツが手に入れてたも同然。
「安全でラクって立派な結婚の動機ですよ?」
だめだ。僻みが止まらん。
「そうか。そうかもね。ね、わたし、理想の結婚相手を逃したのかな。そう思う?」
「知りません」
余裕顔の彼女が最後の一片をフォークに乗せてもってくる。
さっきからこれ、なんなんですかね。
飼い主の調教にしては緩くて温くて甘い。
目の前に来たら食べちゃうけどさ。犬だし。
リンゴ、こんなに甘かったか。
席を立った彼女は、冷蔵庫から洋梨タルトをひとつ取り出して戻る。
「はい。今度はユキトの番」
フォークを渡される。
当番制だったのね。はいはい。
タルトを切り出すのを止めて、ちょっと焦らしてみたくなる。
「さっきは何故帰ろうとしたんです?」
ここでそれを聞くかなあと、あからさまに不満顔。
「いろいろだよ。全部聞きたい?」
「全部お願いします」
「じゃあ先にひとくち頂戴」
こういう駆け引きはしっかり聡い彼女。
答えはひとつじゃないとして俺の要求を大きくさせ、叶える条件があるのを当然にしてしまう。
難なく洋梨のとろける甘さを堪能している。
カップに口をつけて一息すると、ひとつ目の理由が出てきた。
「わたし、ユキトに酷い事してた人の陰に隠れて安穏と過ごしてた女だよ。それをわかってて、今まで目を背けてた」
最初に出会った時、彼女は自分の勇気が足りなかったと謝ってきた。
優等生のそつなく作り上げた言い訳ぐらいにしか感じ取っていなかったけども、安全でラクな場所に住み続けていた彼女にとって、最も厳しい言葉を自分で選んでいたのかもしれない。
勇気が足りなかったから。
みんなが積み上げてきた努力の実る時間を奪ってしまった。
勇気が足りなかったから。
親友が全部を賭けて歌い続けてきた場所を奪ってしまった。
きっと、そうやって自分を責めた。
彼女にとってあの時の俺は止め処無く広がる災厄の象徴だったはず。
意を決して、誰もが忌避する長嶺行人と向き合おうとした。
いざ臨んでみたら、想像を絶するほど気持ち悪い災厄(俺)に我慢ならず張り倒してしまったわけだが。
そんなのを相手に勉強を教えたり食事を共にするような事にでもなれば、それはもう、万障繰り合せて目を背けるしかないだろう。
「……でも、もうユキトを騙すようなこと続けられないと思って。ちゃんと話したかったけど、二人だけになったらやっぱり怖くて帰りたくなった。ユキトの気持ちなんて、とても聞けなかったよ」
もしも、出会う順番とタイミングを間違っていたら、恨みと嫌味を込めた罵声を浴びせていたかもしれない。
もしも、アイツが学校を辞めずにいたら、彼女の予言した通り「ただの一人」にしかなれなくて「嫌い」になっていたかもしれない。
でもそうはならなかった。
このまま黙っていれば、俺に恨まれたり嫌われたりしないで済む。
そんなふうに彼女は怖がってくれていたのか。
こうなってしまった今では、俺の方が怖くて確かめることなどできない。
「そんなに俺の昼飯食べられなくなるのが怖かったですか」
「そういう意地悪言わないのっ」
こうやって茶化すのが今の俺の精一杯。
だから、この話はもういい。
「あとは?」
ここから先は、尋ねなければ良かった。
後々、これを思い出しては一人で悶え苦しむことになる。
「ユキトの国際交流ってそういうことなんだ。って思ったら、一緒にお茶する気なんかなくなったの」
急に風向きが変わった。
今朝のお天気お姉さんは午後の雷雨があるなんて教えてくれなかったんだが。
あれは、アイツならベッドから真顔でそのシチュエーションを「国際交流」だと説明するであろうと確信しての、先手を狙った言葉選びだったのだが。
「だって国際交尾とか言ったら品がな」
パシンと後頭部がいい音させた。
もう白魚の指が痛むからやめなさいってば。
フォークを持たせてなくて本当に良かった。
「なんであんなの聞きながら平然と会話してられるのかな。ユキトは慣れてるんだ、ああいうの」
慣れてるかと問われれば、ノーだ。さすがに生前の俺も国際デビューは果たしていなかった。海の向こうの子猫ちゃんによる本場の“come on”を耳にして、「そういや向こうの感性は逆方向だったな」とにわか知識を思い出したくらいだ。
「さすが千代乃さんはそっち方面の英語もお得意なん」
ピシッと前頭部がいい音させた。
両手使って交互に叩けばいいってもんじゃないからね。
ご機嫌を損ねてしまう。
とりあえず大きめの一切れを固く結ばれた唇へ近づけてみる。
頑なに拒もうとする彼女。
物理の問題。目の前で少しずつフォークを傾けていくとどうなるか。
答え。彼女はきっちり落下の直前でぱくり。
そこで隙ができた瞬間に俺も彼女をぱくり。みたいに卑怯な大人の仲直りなら慣れていたはずなのだが、心の童貞化が深刻な今となってはもう無理。
悔しそうにもぐもぐする彼女をよそに、少しぬるくなったコーヒーを飲む。
「国内交流もままならない生粋の童貞ですよ。慣れてるわけがない」
「どうだか」
「でも、幸せな営みの最中に割り込んだのは、あちらのカノジョに申し訳ないと思ってました」
「幸せ?」
眉根を寄せてふざけるなと言わんばかりの顔を向けてくる。
俺が公衆の面前で彼らの行為を肯定するばかりか促したことに、彼女がひどく嫌悪感を抱いたのはわかっている。
それでも行為そのものは特別悪い事じゃないと伝えておきたい。
「アイツが自分で言ってたじゃないですか。その時は一番好きで、相手も喜んでくれて自分も嬉しいって。それは紛れもなく幸せですよ」
「ユキトはその時だけよければ幸せなんだ」
その男の持続時間が一瞬すぎるからよろしくない。
それ以外はむしろマトモというか、正しいんだ。
誰にとっても蜜月でいられる時間は有限なのだから。
一年か二年でも続けば、十分な幸せに違いない。
「幸せな時って、普通の人でも三年か四年くらいが限界らしいです。脳科学的に」
「そんな知識要らない」
だよね。夢ない。
俺も同僚の女子から彼氏の愚痴を聞かされてる時に教わって、そんなものかとがっかりした。自分で振り返ってみて妙に得心してしまったから憶えていた。
「えっと、新庄さんでしたっけ。あの人、不幸だと思います?」
「自業自得。次に会ったらゴミ女って言ってやる」
「死体蹴りはやめてあげてね」
彼女の口から出るとなかなかのパワーワードだな。ゴミ女。
お嬢に是非かましてあげて。
「ユキトは許すの?」
「まさか。千代乃さんを侮辱した者はすべからく地獄へ道連れです」
「なんでユキトまで地獄へ行くのよ……」
同族嫌悪みたいなものだから同じ地獄巡りをね。
「自業自得。相手の事をろくに知ろうともしないで好きになるから泣く羽目になる。周防新の幸せは一日も続かないほどに短い。それさえ理解して受け入れていたなら、幸せなまま終われたんですよ」
世界で一番彼女を学んだはずの俺でさえ咽び泣く羽目になったし。
都合良い解釈で知った気になって実際違えば怒ったり悲しんだり。そうはなりたくないから大人であろうと意識した。目を背けていたのは彼女だけでなく俺もだ。
「一日なんて、割り切れるものとは思えないけど」
「割り切るというか、嫌な喩えをすると、余命一日の女には最高の男ですよ。悔しいけど」
リアルの病気じゃなくて覚悟の話だからね。
そんな毛虫を見るような顔しないの。
長くて三年か四年。それをたった一日に凝縮したなら、どれだけ濃密な幸福が得られるのだろう。アイツがいつかそれを与えてくれる女に出会して、忘れられない傷を刻み込まれて泣き喚く姿を見下してやりたい。
「なんか、ユキトがあの人を一番理解してるよね。お似合いじゃない?」
「ああ。確かに。アイツなら簡単に性別の壁を乗り越えて来そうだな」
「ちょっとユキト!」
わりと本気で焦っている彼女を見て思わず吹き出してしまう。
でも、もっと本気で焦ってるのは俺の方だから。
「冗談はともかく。千代乃さんこそが理解者に近かったわけだから」
「バカ言わないで。あの人との幸せとか考えたこともない」
「このままでいいと思ってたわけでしょ。それって、周防新のそのままを受け入れたのと同じですよ」
「違うってば!」
「違わない。たとえそれが我が身可愛さゆえの諦めでも、アイツにとっては側に居てくれる唯一の理解者だった」
「そんなの屁理屈だ」
一方的な思い込みだけの好意を寄せられる中で、嫌悪感を露にしながらも離れないでいてくれる彼女の事を、どれほど貴重と思っていただろうか。そんな気持ちを隠したまま、虫除け道具として便利だったとか嘯く方が屁理屈だ。
「アイツは今でも千代乃さんを欲しがってる。そう思って焦った俺は、千代乃さんの本心を疑ってみっともなく狼狽えた。ほんとしょうもない」
あ。だめだ。
また傷が開いてきた。
弱すぎんぞ。
使ってなかったもう一本のフォークが俺の歪んだ唇にやってくる。
物理の授業は苦手なので早々に潔くいただく。
洋梨がリンゴよりとろっとろに甘い。
でもしつこくない。
まるで今の彼女。
「わからないよ。なんでユキトがそんなに焦るのかな」
「勝てる要素がひとつもないから。最初からわかっていて、今日また再確認して、痛感した」
顔もメンタルもワールドクラスの一級品。
俺の半分も生きてないヤツに完敗だよ。
徹頭徹尾、嫉妬しかない。
「きっと向こうも同じ事思ってるよ?」
「なんで!」
今日一番の深いため息を吐かれてしまう。
意味わからん。
「ユキト。わたしの側にいる理解者はどんな人が相応しいのかな」
「莉愛先輩みたいなカッコイイ人ですかね」
即答したら今日一更新のため息。
なんでだよ。
パイセンに敵うわけないじゃんか。
ついっと出してきた人差し指に頬を突かれる。
爪が刺さって痛いんですけど。
「あなたが側に居て欲しい理解者はどんな人かな?」
「そんなの可愛い人に決まってるじゃないですか」
「好きな人じゃなくていいわけ?」
「さっき言ったでしょ。好きな人は三年かそこらで変わるんです。俺には誰かのようにスマートな交換はできないから」
「か、可愛いなら誰でもいいんだ……」
「まあ。願わくば、一番可愛い人がいいなとは思います」
「それがお母さんとか言うんだ」
「はは。マザコンじゃあるまいし」
「マザコンじゃない」
「マザコンでしたね」
もうやだあコノヒト。と灰色のテーブルに突っ伏してしまう。
好きな人。
全力の恋なんてもう絶対に無理だと思っていた。
カラダの年齢に精神が合うようになると言うから、もしかしたらと淡い期待はあったけども。それが今に至り、できなくはない気もしてきた。
そして、ここまでクソガキ根性も蘇ってしまった俺が、改めて思うことがある。
「ユキト。わたしのこと好き?」
伏せた額を腕に乗せ顔を隠したまま、この間と同じ事を尋ねてくる。
答えは不変。なんなら普遍だ。
「可愛いと思ってます」
「嘘だ。期間限定で大好きなくせに」
「それはないです」
「ないの?」
ばっと顔をあげて、こんな生き物がいたなんて。みたいな顔する彼女。
昨日と同じ生き物なんだけど。
改めて思うこと。
全力の恋なんてやっぱり御免だ。
いつか終わるとわかってるなら尚更。
そんなでっかい青春は重くて嵩張るだけ。
とても抱えて生きてはいけない。
だから、ちっさい青春でいいんだよ。
俺が本当に欲しいものは別にあったんだ。
そのために、俺は宣言する。
「終わってしまうのは困るので。
俺は、あなたに恋をしません」
何を言ってんだか。
ほら、彼女が理解に苦しんでしまったぞ。
「つきましてはご相談が」
俺は隣の彼女へ膝を向けて背筋を伸ばす。
ビジネスでは膝を突き合わせて話すしかないね、とよく言ったものだ。
「なんなの?」
身を起こすけれど、俯いたまま目を合わせてくれない。
「相談というより、折り入ってのお願いなのですが」
「ユキトも相互扶助の関係とかがいいんだ……」
「相互扶助。なんで?」
「違うの?」
弱々しく問い返される。
よくわからないが、頭を下げる。
俺の営業人生で培った、
最高の背筋ラインと角度で、
心からの願いを伝える。
生涯数え切れないほど重ねてきた恥と、
失敗と挫折と後悔は、
この時のためにあったのだと思いたい。
「どうか、少なくとも千年は、
俺の一番可愛い人でいてください」
反応なし。
不発?
やっちまった?
恐る恐る顔を上げてみると、背中を向けられてしまっていた。
「自分で何言ってるかわかってるのかな。
またわかってないでしょ」
「もう二度と言いたくない程度には、
わかってるつもりです」
「どれだけわたしに大変な思いさせるつもりなのよ」
「千代乃さんなら楽勝だと思うんだけど」
「わたしより可愛い人が現れたら取り替えるの?」
「さあ」
「さあ?」
ぐるり百八十度。
鬼の面をつけてサプライズかと思った。
頬を紅く染めて美しいけども。怖すぎ。
「じゃなくて、そんな人が実在するとか想像できないんで」
「世界は広いもの。国際交流してれば出会えるんじゃない?」
「しませんて。世の中には泣けるほど可愛い人がいると知ったからもういいです。あ、死ぬほど可愛い人にはならないでくださいね。マジで俺死んじゃうから」
方向のズレた必死な懇願に呆れられてしまう。
「なんかもう、ぜんぜん口説かれてる気がしないよ」
「口説くというより泣き落としですね」
「バカユキト!」
勢いよく立ち上がって離れて行ってしまう。
いろいろと台無しにしてしまった感は否めない。
生前の知識と経験を総動員すれば、もう少しマシにできたかもしれないが。
それでもアイツには遠く及ばないのだから、無駄な足掻きはしない。
俺らしく、泣き落としでも拝み倒しでも土下座でもすればいい。
アイツが「このままでいいか」と思わせていたのなら、
俺は「仕方ないなあ」と思わせてやる。
戻って来た。
「それで、お返事は?」
すとんと腰を下ろし、ずいと椅子を寄せてぴったり横に付けてくる。
これはもしや勝利か!
「考えとく」
えええぇ。
彼女がことりと置いた新しい皿の上にはリンゴのタルト。
「まだ食べるの?」
「ユキトの一番可愛いはカロリーがものすごく必要なの」
「そこまでじゃないと思うけどなあ……」
「だいたい普段の、」
「三倍とかダメだからねっ。健康大事!」
「じゃあ、すぐに二番へ転落しちゃうね。残念」
「それは無い。無いから」
「ハア。わたしもカッコイイ人探しておこうかな。見た目があの人で、中身が莉愛みたいな人なら、ユキトも納得なんでしょ。……ユキト?」
「そんなんいるじゃんよお。絶対勝ち目ないじゃんよお」
完全に盲点。アイツばっかり意識していて気付かなかった。
どうして俺はいつもその程度が思い至らないんだ。
彼女が芸能界デビューでもすりゃ、掛け値なしのイケメンに囲まれ放題じゃんか。
なんなのオレ。
付き人としてずっと仲良し?
彼女と旦那の間にできた子供を面倒見ながらスケジュール調整?
セバスチャンて改名しないとだめ?
「ちょっとユキト、聞いてる?」
「えっ、ああ。大丈夫。芸能界なんて離婚してなんぼの仕事だから。チャンスはまだある」
「なんかすごくバカなこと考えてるでしょ」
頭を抱える手を持ってゆっくり下される。
「嘘だよ。他のカッコイイ人なんて興味ない」
横で彼女の肩が触れる。
あなたしか興味ないの、
なんて奇跡を期待していいのだろうか。
「わたしはユキトのゴハンがいいの」
「ゴハンかよお……」
わかってたさ。
「ユキトのゴハンが作れるユキトがいいの」
ぜんぜんカッコよくない。
よくないけど、
カッコイイ人より俺がいいと言った。
でもそれなら、
「俺よりおいしいゴハンを作れる人が、」
「ユキトがいいの」
重ね合っていた手と手は、
彼女の方が温かくなっている。
「そ、それでいいの?」
「いいんだよ。だって、」
耳たぶを指先で軽く摘まれ、
横へ引っ張られる。
されるがまま首を傾げると、
彼女が耳元で囁いた。
「だって、チヨノはアホだから」
やべ。また泣けてきた。
「なあにユキト。そんなに可愛かった?」
「そういう千代乃さんだって顔真っ赤じゃん」
「ユキトうるさい」
お互い顔を見せられない。
そっと頭を寄せ合って、
顔の火照りが冷めるのを待った。
繋いだ手は熱いままだ。
今のでタルト一個分はカロリー消費したと主張する彼女。
結局はそこへ行き着くわけだ。
やむなし。今日は特別。
頑張って俺も三分の一は食べたよ。
鼻が詰まって味がしなかったけどさ。
学校へ通い出して環境を整えるまでは、それなりの労力と忍耐が必要だろうとは思っていた。だけど覚悟が全く、全然足りていなかった。たった二日間でここまで思い知る羽目になるとは予測不可能だった。
予測できてたら学校行かなかったかもな。
一番の予想外は、俺の中で彼女の存在が短期間で大きくなり過ぎていること。
いくら容姿端麗で、どうれだけ振る舞いが可愛かろうと、俺の知る俺自身ならここまでにはならなかった。ムシに噛まれた影響か、精霊の恩恵とやらの副作用か、そうした別の変化が無関係ではないかも知れない。と思いたいのかも知れない。
結果として拒むべき状況には至っていないが、これから彼女に迷惑を掛けないよう慎重に過ごして行かねばならない。
とか、冷静な賢者風を取り繕ってみても、
内心乱れてぱない。
今日は家に帰って史奈さんの顔を直視できるだろうか。
尋常じゃなく勘の鋭いヒトだからな。
何か察知して赤飯でも炊かれようものなら挙動不審者待ったなし。
任意同行の事情聴取が終わらないだろう。
夜は夜で思い出し悶絶で苦しむだろうし。
夢でもルミさんが新曲披露するだろうし。
いつ休めるんだよ俺の生活。
でも、まあよく頑張った俺。
大きめの課題はこなしたし、身辺の環境もざっくり整った。
先々心配事は尽きないが、粛々と慎ましくやって行けたらいい。
俺の青春ライフはこれから始まるんだ。
いい最終回になってよかった。
さ、明日のお昼ゴハンを相談しながら帰りましょう。我が自由な女神様。
「何を言ってるのユキト。まだだよ」
「はい?」
今朝のお天気お姉さん仕事サボりすぎ。
爆弾低気圧くらいはちゃんと周知しようよ。
「全部聞きたいんでしょ。わたしが帰りたくなった理由」
「まさか、まだあるの?」
俺の肩にもたれ掛かったままの彼女が、「まだあるの」と静かに告げる。
綺麗に揃えられた指の爪先が俺の顎下へ当てられた。
確実に頸動脈狙い。
いったい俺は何をやらかした。
文実委員会でのやりとりを脳内で高速再生するも思い当たる節がない。
それ以外か。
まさか、パイセンとユッキー先輩にあのトーク履歴を見せたことが既にバレているとか。それはマズいぞ。事情を説明したって納得してもらえる事じゃない。
この場でアプリごと履歴を全部消せとか命じられるのか。
それは嫌だ。なんとしても初めてのメッセージくらいは残したい。
乙女かよ俺。
「さっきの委員会でユキトと一緒に入ってきた二人の女の子」
「へ?」
あまりに想定外の方面ですっとんきょうな声が出てしまった。
「ずっとユキトのこと見てたけど。誰?」
「ああ、えっと、ウチのクラス委員長。と、その付き添い。だけど」
文実委員が出席できなくて代理で来てたと、真っ当に慎重に間違いなく説明した。
大丈夫だ、冷静に対処すれば問題ない。
「髪の長い子の方。わたし、知ってる気がするけど思い出せなくて。でも、ご挨拶しておかないとって思ったの」
それが帰る理由?
髪が長い方ならテロっ子の方だよな。
彼女に対しても何か前科があるのだろうか。
もしかしてメイド長事件関連か。
周防がらみはもう腹一杯なんだが。
「なら、今度機会ある時に紹介しますよ」
「名前」
「え?」
「あの子の名前、教えて」
なんだこの執着。
「と、富田さん。だったかな」
咄嗟にうろ覚えを演じたのが大失敗になろうとは。
俺の肩で頭をぐりぐりぐり。
早坂族の儀式が始まってしまった。
これはもう、流血の予感しかしない。
ピタッと止まった。
出ました。
「なにが、だったかな、よ。昨日、理科準備室。富田さんと学校抜け出して遊びに行く相談してたのは誰、だったかな」
急速冷凍で美味しく鮮度を保ったまま凍った俺。
「し、してない。相談してない」
爪が食い込んでくる。
「わたしにシャツをアイロン掛けさせている間、ほかのオンナと遊んでたんだ」
何その専業主婦とクズな夫設定。
しかし、そうだったのか。
あの時既に彼女は理科室に隠れていたわけか。
声を掛けてくれていたなら、諸々シンプルに片付いたかもしれない。ああ、何という運命の皮肉、悲劇よ。
なんて叙情的に語っている場合じゃない。
「遊んでないから! そうだ、今度、クラス委員長の伊藤さんも一緒に紹介しますよ。ちゃんと俺が授業に居たの証言してくれるから!」
すっと手が引かれる。
よかった。ナイスだ俺。
どうやら命だけは助かった。
「そうね。伊藤さんのおかげでアナタは思い止まったものね。ちゃんとお礼を言っておかなきゃ」
女神は何でもお見通し。
てか、なんで急にこんな世帯じみた話になってんだよ。
さっきのいい感じどこ行ったの?
いやなんか、肩に頭のっけたまま可愛いけどさ。
「ユキト」
「はいっ」
「もし、そういう事になったら。わたし、本気出して可愛くなっちゃうから」
だから死なないでね。
ぽそっと耳打ちされる。
「肝に銘じておきます」
可愛さで命を落とすこともある。
人生は発見の連続。




