あなたはダメ
「伊藤。悪いんだが」
「いつものね。わかった。黒澤先生に言っておく」
表情の乏しい男女のやりとり。
傍目には事務的な会話、もし大人同士であれば冷めきった夫婦のやりとりにも見える地味な雰囲気は、誰の目を引くこともない。
それでも、悪いと言っている方は真実申し訳ないと思っていて、わかったと言っている方は相手の事情を心配して気遣った上で引き受けている。
「助かる。それと……」
「そっちも大丈夫。それより慌てて事故に遭わないよう気を付けてね。瀬戸内君」
「すまない。それじゃ」
交わす言葉はそのままの意味でしかなく、純粋に思い遣りと感謝だけがあって、それ以外の雑な感情は一切無い。
傍目には無愛想な男子がクラス委員長に一言断って帰っていった。
そう見えるだけだった。
「伊藤さん、悪いんだけど」
「あなたはダメ」
あははー。と戯けて笑う理系女子は、傍目から観察して得たエスケープ・シーケンスを実践に移してみたのだが、あえなく失敗に終わる。
「瀬戸内ってカラダ弱いの?」
頻繁に早退することだけは知っていて、理由を知る理由はなく、興味もなかったけれども、失敗の分析は欠かさない理系女子。
「ご家庭の事情。個人情報だから」
なるほどね。
理系女子は納得しつつ、興醒めする。
「話せる事情がある人はいいな」
自分の不幸を晒して甘えられるとか幸せでしかないと思う歪んだ気持ちが、小さな声になって零れてしまう。
「何?」
「ううん。なんでも」
なんでも、は、なんでもないという意味。
そう理解した上で、委員長は真っ直ぐ理系女子を見据える。
「さっきはダメと言ったけど。本当に困ったら言ってね、富田さん」
そんな冷たい顔をしてるくせに。
腹が立つくらいのお人好し。
「伊藤さんも優しいね。長嶺みたい」
あれ。なんで長嶺なんだろ。
言った方もそれが褒め言葉だったのか嫌味だったのか分かっていない。言われた方も解釈のしようがないはずなのに、委員長は珍しく微笑んだ。
「富田さんはおかしな人ね」
「ええっ、そーかなー」
その言葉はそのままの意味でしかなく、理系女子は『おかしな人』として覚えられた。ちょうど脇腹をさすって教室へ戻ってきた件の男子へ二人の視線が自然と移る。女子の一人に「ねえ、莉愛センパイと仲良しなんて聞いてないんだけど」と絡まれ困惑している。
早々に笑みを消していた顔がわずかに横へ振れて、羨む気持ちを吐露する。
「全然違うよ。私はあんなに大人じゃない」
理系女子は、委員長の前で長嶺の名を出した事を自分でも不思議と思ったのに、その理由を気付かされてしまう。
無意識に求めていたのは、『優しい』じゃなかった。
同じ頃。三年生のとある教室。
「亀、今日どうすんだ? 文実あるんだろ」
三つ隣の教室まで来て、窓際で不機嫌そうな顔で机に肘をつく元エースの前に立ち、今日の事をどう考えているのか尋ねる。
昨日からあまりに状況が変わり過ぎて、どうしたらいいのか見当がつかなかった。
「どうもこうもねえよ。文実委員長の俺が行かなきゃ始まらんだろうが」
「そりゃわかってるけどさ。その先の事だよ」
その先。
周防新との取り引き。
去年、俺たちの知らないところで起きた事件を発端に、それまで当たり前だった日常を突然に失った。
連帯責任という理不尽を押し付けられ自暴自棄になりかけていたからかも知れない。無関係だった先輩達の進路まで危うくなった事を知った俺らは、目の前にぶら下げられた提案に縋った。
そして周防新は先に約束を果たし、先輩達の無事を得て今がある。
だから、これから俺らも約束を実行する必要がある。
それはわかっていても、約束した張本人が突然いなくなったこの状況で、本当にそれが必要な事なのか疑問が尽きない。
「べつに。何も変わらねえさ」
「周防と連絡つけられないのか?」
「連絡先なんて知らねえよ。その辺の女子が誰か知らねえかって騒いでたぞ」
誰も知らないなら、それはそれで都合がいい。
「なら、黙ってりゃわかんねえんじゃねえの?」
向こうから何か言って来ない限り、こっちが何もしなくても知られることはない。
戸塚と宮崎が警察に捕まってからこの二ヶ月、周防新はだんまりのままだ。
自分に飛び火しないかビビってるに違いない。
むしろこのまま大人しくやり過ごした方が喜ばれるんじゃないか。
「あの周防だぞ。シカトして無事で済むと思うか?」
———— 契約不履行はペナルティだからね
あの顔、あの声が頭の中に蘇る。
怒った周防は何をするか分からない。
自分の手は一切汚さず、また誰かを使って報復してくる。
アイツは狙った相手の一番大事なものを嗅ぎ分け、目の前で壊すことに執着している。やめてくれと言えば、言った数だけ壊してからまた壊す。黙っていれば、やめてくれと言うまで壊し続ける。
そういうバケモノだった。
今もどこかで俺らの大事なものを見繕っているに違いない。
無事で済むわけがない。
確かにそうだった。
しかし、状況の変化は周防新が退学しただけじゃない。
約束を実行するにしても方法は見直さないとだ。
「あの長嶺ってヤツ、聞いてた話と全然違ってるぞ」
計画では最後にそいつを利用することになっていた。
何でも言いなりに動くただの人形だから簡単に済むという話だった。
入院してボロボロかと思えばすっかりイキってやがる。
「あんなキモオタはどうでもいい。とにかく文化祭を中止にさせりゃ文句はねえはずだ」
「どうやるつもりだよ」
「太一。お前は今日来んな」
やっぱり、こいつは自分だけで全部被ろうと考えている。
野球部が無期限活動停止になってから、ずっとこの顔で、ずっと同じ事を考えてたんだ。それが部長のケジメだとか、今更卒業した先輩達に迷惑かけられないとか、そんなことで頭が一杯なんだ。
「亀。何度も言うけどな、」
「これは野球じゃない。お前の配球がなくても俺が終わらせる」
頭の固くなったマウンド上のこいつに駆け寄っては繰り返し言い聞かせてきた言葉。
これは野球だ。
他の八人が支えてお前がそこに立ってるんだ。
一人でやれるなんて思い上がるな。
でも、そうだった。
これは野球じゃない。
野球を取り上げられたあいつらが始めて、
野球を捨てた俺たちが終わりにする。
もう、野球なんてどこにもない。




