それがいいんだ
息が苦しい。
どんなに激しく呼吸しても肺が痛くなるだけで酸素が足りない。
両脚の筋肉は命令の半分も動かず、腕はもはや荷物でしかない。
朝からこんなザマじゃ、フルタイム勤務なんて夢のまた夢。
デジャブ。
だが今の俺は自分を追い込んでいる。
これは戒めなのだ。
まず昨日、昼と夜と食い過ぎた。
家に帰るなり史奈さんの熱い抱擁で迎えられ、テンション爆上がりのまま二人で買い物に。約束通り新鮮な海の幸を買い漁って豪勢な夕食になった。
何が凄いって、史奈さんの本気料理。
旬のカツオは薬味たっぷりのたたき。
そして、なめろう。
もうね、本当はこれだけでよかった。
旨過ぎた。じっくりと味わいたかった。
なのに旬が続いて、カンパチ、スルメイカの刺身が登場。
からの、マグロウニカニイクラ丼が目前にドン。
ホタテと牡蠣の網焼きとエビフライまで言い出したから、それは明日にしようと説得してどうにか留まってもらった。本気やばい。
どういうカラクリなのか分からないが、俺が始業式で演じた“捌き”や記者達とのやりとりを史奈さんは知っていた。なめろうのおかげで日本酒がすすみ、「こんなに誇らしい気持ちになったのは初めてだよ」と、母親とは少し違う言葉遣いになって終始ご機嫌だった。
俺もそんな史奈さんを見るのが嬉しくてね。食いまくった。
そして夜のお説教タイム。
と思ったら慰めタイムだった。あのボケ上司は肝心な事を何も教えてくれない、信頼されてないのだと半泣きで愚痴るルミさん。多分、俺に余計な知恵をつけさせないよう源五郎は身内に対しても情報を絞っているのだろう。
それを言い換えると「信頼していない」に等しいかもしれないが、知らぬがホトケ言わぬがハナであるのは俺も身に覚えが多々ある。
しかし情報統制としては適切な対応と言えない。
何が秘密であるかを正しく教えておかなければ、ゴミと一緒にされて外へ捨てられるなんて事故が起こるんだよ。
たとえば、ルミさんに同調しつつ適当にキーワードを仕込んでみる。
「あれを上司にもつ不幸には同情するよ。でも源五郎はセーレーの導きなら仕方ないみたいな事言ってたし、ルミさんに余計な心配させたくないんじゃないの?」
「導き? 馬鹿馬鹿しい。上位存在である精霊から恩恵を貪るのを正当化したいだけですよ」
はい頂きました。死神にはムシとは違うセーレーと呼ばれる『上位存在』がある。人間の言葉でファンタジックに考えるなら『精霊』が当て嵌まるのかな。オンケーを上位存在から得るとなれば『恩恵』の解釈になる。
黒澤の発言も加味すると、俺も既に恩恵を授かっているらしい。それを源五郎が精霊の導きだと受け身に捉えるならば、死神の脅威となり得る俺の鎌こそが精霊の恩恵なのだと腑に落ちる。
ただ、いつ、どこで、なぜそれを得たのかは謎のままだが。
ルミさんの責任問題になってはいけないから、卑怯な真似はこのくらいにしておこう。
それにしても、ルミさんのお説教が始まらないのは何故だ。
俺がムシ相手に暴走した件を許してくれるわけがないと思っていたのだが。
まさか知らないのか。いや、それはない。
俺の記憶に残っている事柄は把握しているはず。妙だな。
俺の記憶を覗けなくなった。とか?
「ま、まあ偉くなる奴ってのはそんなもんでしょ。俺は、恩恵よりもルミさんの恩赦が欲しいなあ。なんちゃって」
「は? オンシャ? 誰が、何を、赦すとでも?」
ほーらやっぱり。ルミはなんでもお見通し。
「弁解の時間を一分ください!」
「一秒あげます。ああ。あなたの一秒は永遠に続くのでしたね」
そっちかよおー。
いいじゃんか、あのくらい。
余裕で青春の許容範囲だってば。
「いや永遠止まったし。むしろよく我慢したし」
そうだよ、賢者ユキトとして賞賛されるべきなんだよ。
「エロジジイ指数1・6」
「何それ?」
「あなたの欲望が僅か一時間で三秒間から五秒間、1・6倍へ増加したので」
あー。ハグタイム増加のことね。
なるほどなるほど。理解理解。
つまり俺は時間あたりエロ度が六割アップと。
激エロジジイじゃねえか!
ルミさんの計算によれば、俺はこのままだと明日の昼過ぎには丸一日彼女を抱えていないと気の済まないカラダになっている模様。
しかも問題はそこからだ。理系脳になった俺は気づいてしまう。
明日以降は一日二十四時間では足りなくなる。つまり地球の自転を遅くするか彼女の分身を増やして複数同時に抱える必要があるのだ。これは政府のみならず俺自身の構造改革が急務。
「とりあえず抱っこ紐買わないと生活に支障が出るな」
「その腐った脳に指数を下げる発想はないのですね」
というわけで、目覚めてみればただの爆食いしたエロジジイだったという現実を重く受け止めた俺。こんな体たらくで青春を謳歌するなど笑止千万。己を戒めるため自分を追い込み限界まで走る所存。
決して前を走る女子の尻を追っているわけではない。
追い抜かした後、もう一度拝みたいから必死で周回を重ねているわけではない。
———— 長嶺ラスト二周だ、ファイトー!
———— うぇーっす!
「ナガミネくん必死だねえ」
「何に必死かは言わないでくださいね遠野先輩。あのイヤらしい顔でわかりますから」
「あはは。大変だね生徒会長も」
「それにしても、これだけ沢山の人が参加するとは思いませんでした」
「私も驚いた。タケが覚えた人たちは全員いるって言ってた。それになぜかあの弟君が……」
———— みんな走る姿もカワイイよー、ガンバレー!
「なんですアレ?」
「ユキト君のために女の子を増員したよーってノリノリなの」
「ハア。バカばっかり」
「でも、すごいねナガミネくんは。私も感謝してるんだ。ちょっと性悪だけど」
「ほんとにすみません。ここでもご迷惑を」
「大丈夫、ダイジョブ! ほら、陸上部のみんなも大会終わってちょっと気が抜けてたから、こうして初心者に教えるのがいい刺激になってるし。早坂さんが頭を下げる事じゃないよ」
「……。それであの、重ねて申し訳ないのですが、これを後で彼に渡していただけますでしょうか」
「ん、いいよ。……うわ。わああ。へえええ」
「そ、それじゃ、よろしくおねがいします」
「ふふ。直接渡して汗を拭いてあげたら?」
「嫌です。変態が移るので」
「ハネちゃん、そろそろ切り上げよう。……どうした、何かあったか?」
「タケ。これ売ったら幾らになるのかなあ」
真新しい机の上に置いた小さなペーパーバッグと向き合う俺。
朝の教室に響く喧噪も、ハエのように付き纏う周防も全く気にならない。
俺は今、怖いほどに感動している。
同時に、これは夢ではないかと太腿を抓っている。
慎重にバッグの中へ手をのばし、ランチクロスの包みを取り出す。
包みの端からことりと小さな保冷剤がこぼれ落ちた。
クロスを広げて目に映ったのは、奇跡。
よそから見れば、カラフルなアルミホイルに覆われたおにぎりが二個。
あの頃の俺が、欲しくて欲しくてどうしようもなかったもの。
たまたま早く目が覚めたから。
ちょっと気が向いたから。
朝ごはんのついでだから。
それでいい。
それがいいんだ。
最初に会ったあの日以来、
一緒に歩いた歩幅とか、交わした言葉とか全て、
何か少しでも違っていたら、
未だ高嶺に咲く他人のままだったと思う。
そんな彼女の生活に今は俺の事があって、ふとした時に思い遣ってくれる。
思い遣って、手間と時間をかけて作ってくれたものが、目の前にある。
ひとつを手に取り、彼女の手の大きさを確かめてみた。
この気持ちは、言葉になるのだろうか。
考えるより先に魂が思いを吐く。
「生きててよかった」
ほんと。それ。
死んだけどな。




