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素人が夢見るくらい許せって話だ

 はい物理の時間。大人しく自習していますとも。


 黒澤が見張り役で居てくれて安心するのがこういうシチュエーションだとは誰が予想できただろうか。

 青春テロ犯富田はとりあえず俺を弄り倒して満足したのか静かになっている。あまりいつまでもキョドっていると童貞オモロイとか言い出して弄りが止まらなくなるからな。早いとこ俺も忘れよう。さらば青春イベチケ。


 しかし退屈だ。


 いかに女神の原書を手にしているからといって、この俺が物理を独りで学べる道理がない。ならば潔く彼女の機嫌を宥めるすべを思案しようとすれば、なぜだか刻々と取り返しのつかない方向へ流れている予感がして焦りが膨らむばかり。

 いっそ黒澤がまた理由をつけて校長室へ招いてくれれば、色々と話が聞けてありがたいのだが。


 その黒澤は、さっきスマホの通知を受けてから難しい顔でせわしく画面を触って集中している。ムシ系は関わりたくないから興味の目を向けてはいけない。

 が、目を逸らした先にいたのは事務室長。

 半開きにした教室の扉を軽くノックして黒澤を呼ぶ。


 不思議と誰も気づいていない。

 いや、目には映っているはずが、認識できていない。

 全く、恐ろしいものを見せつけくれる。


 しばらく廊下で会話を重ねた二人は、再び扉を開け「長嶺さん、少し来てください」と俺を呼んだ。つか、全員認識できないんだから廊下に出る意味ないだろうに。

「こう言うのは気分だね」

 煩いぞ源五郎。


「またムシ?」

「そだね」

「漸く依頼が届きました」


 ほーん。じゃ健闘を祈ってます。

 とはいかない雰囲気が充満している。

 いきなり鎌を渡されて手伝えとか言ってきそうだぞ。そいうノリはやめて欲しいんだよ、実家の草むしりじゃないんだからさ。


「いや無理だって。生理的に。ナマコとか苦手なんだよ」

 先に断る態度を示しても、黒澤の面持ちは変わらない。


「早坂千代乃の安全に関わると言っても?」


 どうしても、この男がその名を口にすると腹が立ってくる。

 彼女を巻き込まないと約束は済ませている。約束、契約とは一方的なものではない。明確な反故の確認がない限り、俺は黒澤に危害を加えてはならない。


 つまりこの衝動を抑えきれていないのは俺の内面的な問題だ。頭の中では冷静に情報を把握すべき場面だと理解している。だというのに俺の唇は今にも呪わんばかりの言葉に従って動こうとしている。

 よく見ろ。よく考えろ。根拠は俺の営業行動理念。


 見ろ。黒澤の口元が歪んでいる。自分に降りかかるリスクを承知で彼女の安全を取引条件に持ち出した。俺のような役立たずでも不可欠だという意思表示なのかもしれない。


 考えろ。もし源五郎のやつが彼女の名を口にしていたら、俺は即刻暴発していただろう。目の前の死神と人間の監視役は既に話し合いを済ませた上で役割を分担しているのだ。俺が拒絶した場合の対応も決まっているはず。


「手短に説明してくれ」

 なんとかそこまで言って、俺は自分の右手の人差し指を猿ぐつわ代わりに咥えて噛んで見せた。

 その意図は黒澤にすぐ伝わった。今の状況について端的に教えられる。


「現在、蟲の大群が此処に向かっています。一時間もしないうちに、この一帯は蟲に埋め尽くされるでしょう」


 天気予報ならぬムシ予報を聞かされてしまった。「今日は鎌を忘れずに持ってお出掛けください」ってか。あんなブヨブヨしたのがウヨウヨとか勘弁しろ。


 大群とはどれだけか問うてみれば、二、三百はあるだろうと。

 イナゴの大群よりはマシかと思えば違った。


「蟲は群れを成すと、寿命が尽きる瞬間まで高速で分裂を繰り返すようになります」


 分裂するタイプの蟲は通常なら数回、多くて十回だが、群れになると余裕で倍の回数に達すると言う。一匹が二十回も分裂を繰り返せば、およそ百万匹になると。

 えっとつまり、三百匹の群れだと、ゼロが……八桁!

「三億だね」

 だねじゃねえよ、なに笑ってんだ源五郎。お前らが食われちまうんだろうが。

 いや、もうこの辺りの死神は逃げたんだったか。


 なら、人間には無害だって話だし、その寿命が尽きるまで待てば全滅してくれるってことか。しかし、黒澤はわざわざ俺の不安を煽った。何故だ。


「稀に、蟲は分裂する中で突然変異が発生します。多くはまともに動くことさえできず消滅しますが、逆に、特殊な能力を持った個体が生まれる可能性もあるんです」


 特殊とは。

 黒澤は源五郎に視線を流しその疑問に答えるよう促す。

「いろいろだね。人間の魂を無差別に食い散らかしたのもいたね」

 そんなムシからすれば、この学校は食べ放題のビュッフェだ。旨い魂を求めて片っ端から食い散らかすわけだ。


「これは確率、可能性の問題です。こちらの死神は、貴重な実験体を非難させたい考えです。そこに私の考えるリスクを考慮すると、あなたが早坂千代乃を連れて学校を離れることが最適と判断しました。教育関係者としてはアレですが、事後処理は任せてください」


 もし彼女に被害が及ぶことがあれば、逆恨みした俺が黒澤を断罪する。というリスクだな。それは正しい判断だろう。俺も今の自分を制する自信がない。

 咥えた指を離すと、歯形が深く残っていた。


「わかった。そうさせてもらう。しかし、何故此処に群れが?」

「さっき逃した蟲が原因です。蟲を呼び寄せる能力を持った特殊個体でした」

「いろいろだね」

 俺の感想盗むな源五郎。お前なんでそんなに余裕なんだよ。


「じゃあ、ソイツを始末できれば群れも解消できるのか」

「そういったところは私の仕事です。エキスパートの応援も来ますので」


 なにそれ、カッコいい。

 ムシ討伐のプロフェッショナルが集結みたいな?


 お前の指図は受けねえ、俺の稼ぎを邪魔する奴はムシじゃなくても狩るぞ的な一匹狼ハンターの登場。そしてムシ退治を天命として代々受け継いできた巫女装束の美女が繰り出す広域殺虫技。油断した黒澤の危機を救うのは、遠方から放たれた一撃必中必殺の矢。謎に包まれた弓使いの正体とは!


 見てえええ。


「そんなに面白いものじゃないね」

 漫画の読みすぎだねみたいな顔すんな源五郎。

 こちとらストレス満倍増で現実逃避ネタに飢えてんだよ!


 わかってるさ、どうせ作業着姿のおじさん達が地味に殺虫剤撒いたり電気柵とか張ったりして、一斉捕獲したら袋に詰め込んで処分するんだろ。プロの業者さんてのは派手さは求めず徹底的に効率化して利益出してるんだよ。そういうもんなんだよ。

 それでも素人が夢見るくらい許せって話だ。


 何の話だ。


 ああそうだ、俺は彼女を連れて非難だ。

 なんか頭が冷えてきて今更なんだが。


 いいのだろうか。


「他の生徒はいいのか? 教育者よ」

「確率の問題ですから。万が一何かあっても、人間が死に至ることは滅多にないです。せいぜい、集団熱中症くらいの騒ぎで済むでしょう」


 三億の万が一ってどうなんだよと不安になるが、教育委員会公認の逃避行チケットが手に入ったと思ってお言葉に甘えるとするか。公認の時点で青春度半減なんだけどな。

 とりあえず彼女のもとへ向かうべく、俺は教室を離れた。



 廊下に残る死神と蟲狩人。

 緊張の糸が途切れたように揃って肩を落とす。

「今ので胃にポリープできましたよ絶対。素直に逃げてくれるといいのですが」

 黒澤が不安を吐露すると、源五郎が珍しく表情を消して状況を語る。

「理由はわからないけど、寄生精霊がだいぶ弱ってるね。このままじゃ蟲が感付く方が早いかもだね」


「やはり我々が直接保護すべきでは」

「天然物の精霊は、僕や君達のような養殖の恩恵持ちを極端に警戒するからね。興奮させて万が一にも露出したら、それこそ大事故だね」


 だからこそ下手な芝居を打ってまでして部外者のはずの実験体を巻き込んだ。

 実験のオブザーバーとしてはあるまじき行為であることは百も承知。それでも精霊を蟲に食わせない事が優先されなければならない。

 それが死神の価値判断だと、黒澤は十分に理解している。

 理解はしているが、精霊がこのエリアを離れるより早く蟲に見つかっては話にならない。

 ならば今すぐ蟲を発見して始末すれば良い。

 つまるところ、そういった要求に迫られているのである。


「ったく赴任初日から最悪だ。これで追加手当出なかったら絶対転職してやる」

「口添えはするから頑張るんだね」

「是非お願いします。じゃ、私は蟲を追います。あとは、仲良くやってくださいよ?」

「やっぱり虫下しが来るんだね?」

「そんな呼び方してるから彼女と喧嘩になるんですよ! くれぐれも自重を」


 首を斜めに倒し、にんまりとした顔で頷く源五郎。目は笑っていない。

 これはダメだと諦めて頭を振る黒澤は、眼鏡を外して胸ポケットに仕舞いながら歩き出す。廊下の窓から空の様子を一瞥すると、歩調を早めて階段へ向かって消えた。


「虫下し好みの男の子で歓迎してあげないとだね」


 教室の扉の窓から一年一組の様子を覗き独り言ちる源五郎。

 狙いを定めた目が笑った。


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