そんな理由でもなければ
暗がりの中、胸のペンダントを目の前にしてひとつ分かった。
色を失っている中心に、胸を貫く傷が見える。
普通の人間には見えない魂の傷。
楔を打ち込まれたような痕が、俺の目に映るようになった。
なんとなくわかる。これは、何かがではなく、誰かが貫いた穴だ。
確信する。俺のなすべき事は排除と修復。
「これでお試し終了ですよ。千代乃さん」
背を向けて階段を上ろうとする彼女の右手を掴む。俺の右手の方には飲み口を指に挟んだお茶二本。
足元が暗くて危ないからと言って、俺が先に上がる。手を繋いだまま通ってきた暗い道を、見えない赤外線に怯えながら先導して歩く。
「最初の一ヶ月は無料貸出、いざ返却しようとしたら解約方法も返送先もわからず自動更新された。なんてよくある話です。諦めてください」
学校で避けられるようになっては具合が悪い。冗談めいた語り口で説得を試みるも無反応。
いやっ、離してっ、のNGワードが出ないだけマシだけれども。
今にもすり抜けてしまいそうな力の無い手を強く握り締めないよう苦心する。
この繋ぎが切れたら、彼女は俺が去るまで立ち止まって動かないだろう。
彼女の気持ちが離れていくのを指先から感じとれても、何を言えば留められるのか言葉が見つからない。今日はここまでなのかと不甲斐ない自分に苛立っていると、彼女の方から切り出してきた。
「学校が始まったら君はわたしを嫌いになるの」
唐突にもほどがある。
「へえ。占いの趣味もあったんですね」
「違う。わたしは誰とでも仲良くする。いろんな男の子に媚び売って、仕事を手伝わせるの。君もその中の一人。全然特別じゃない、ただの一人。絶対嫌になる」
決して誰かを選んだりしない。
それが「千代乃」のあるべき姿。か。
ならば俺も負けてはいない。
「それはお互い様ですね。俺もいろんな女の子に媚び売って奉仕します。千代乃さんもその中の一人。あなたは特別ですと言いながら、裏でこそこそと」
突然、ぎゅっと手を握り返され、足を止める。
「どこがお互い様? そんなのわたしが許すと思う?」
急に怖い。暗いからって瞳孔開き過ぎ。
「無事では済まないですね。多分俺が一番詳しいです」
はあっと大きな溜息を吐かれる。
俺ほどのプロ営業になると、息遣いだけで呆れ具合がわかってしまうのだよ。
これは、コイツ使えねええ、に相当。
失礼じゃない?
「ならわかるでしょ。こんな面倒くさい女、君でも嫌いになる。だから文化祭なんか一緒に回る気も起きないし、来年の夏は他の子と、他の子と楽しく花火を……」
「千代乃さん? おわっ!!」
ぐっと手を引っ張られたと思った瞬間、尻に衝撃が走る。
花火と違って同時にバシンといい音が響く。
いったい何が起きたのか。
俺ほどのプロ営業にな、ら、なくともわかる。
蹴られた。
近距離をものともしない柔軟さ、そして体幹の強さ。偶然通りかかった格闘技ジムのコーチにスカウトされプロの道を歩み始める。美少女格闘技漫画『千代乃の拳』第一話。
「なんか腹立つ!」
「それ俺のセリフでしょ!」
これ後からくるわ。ケツが痺れる。
ようやく明るい道路に出た。が、どっちに行けばいいか見当もつかない。
彼女は目を伏せて動く気配なし。もしや足を痛めたか。
「ユキトだけ嫌いになるのずるい。わたしだって……」
本人が言うだけあって面倒くさい。
もはや容姿と言ってることとやってることが分裂状態だ。
あとビンタより蹴りがヤバいことは学んだ。
ここまで彼女を学んだ男は世界でも俺だけと自負していいのかもな。
ならば、彼女も俺のことを少しは学んでくれなければ、ずるいだろう。
「さっきから俺が千代乃さんを嫌う嫌うって言ってますけど、」
今は多分、伝わらない。
「可愛いの嫌う人います?」
最初から毛嫌いする事もある。
拒絶され傷つくのは嫌だから。
それでも、あとで振り返って、傷つかなくて良かったと思うことはなかった。
会って、可愛いと知ったならば、
それはもう決まりなんだ。
「ユキトは可愛くないよ?」
会話にならねえええ。
だめだ。もうチカラが入らん。ケツも痛え。
「わかりました。もういいです。とりあえず来年の夏は祭りと花火で決定です。ちゃんと浴衣姿見せてくださいね。以上」
「やだ」
「…………。なら他の子と」
「やだ」
「どうしろと?」
「ユキト。とりあえず以上でわたしとデートできた男の子は今までいないんだよ」
明日がだめなら明後日、くらいでデートできたはずでは。
「じゃあ世界初ということで」
「ちゃんと約束して」
約束だよ、チュ。
なんて俺がデコチューしたら間違いなく回し蹴りが飛んでくる。
ここは頸椎折って終わるところじゃない。
誠意と忠誠だったか。
「わたくしナガミネユキトは、病める時も健やかなる時も、」
「ユキト汚い約束いらない」
汚い約束て。
俺は結婚式の誓いさえ許されない下ネタ野郎なのか。
「心が折れそうです……」
「わたしに言うべきことをちゃんと言葉にして」
なんだ。そんなことか。
「俺が千代乃さんに言うべき事は、前にここへ書いたはずです」
掴んでいた彼女の右手を挙げてみせる。
ぴんと来ないらしい。
図書室で試みたコミュニケーションゲーム。
お互いに言うべき事を書くはずだったのに彼女は俺にハンコを押した。
俺は、ちゃんと彼女に書いたんだ。
———— チヨノアホ
「どういうこと?」
「千代乃はアホ」
「それが、ユキトがわたしへ言うべき事なんだ」
ビンタの間合い。右手は封じている。ならばもう片方はこうだと彼女の左肩を包み込むように右腕を回して体を密着させる。これで大丈夫なはず。
「千代乃。こんなに綺麗な名前に縛られて苦しむなんてアホです」
「ユキトに、関係ない」
「関係大ありです。俺はこれからずっと千代乃さんの名前を呼ぶわけですから」
名前を呼ぶ度に苦い顔されたらたまったもんじゃない。
「ずっとって、どのくらい?」
「ずっとですよ」
「それじゃわからない」
結果的に、俺は彼女を抱きしめている。
俺の肩に額を当てて俯く彼女がどんな表情でいるか知らない。
ひょっとして俺の金的を虎視眈々と狙っているのか。
そうに違いない。
これは、絶体絶命の危機なんだ。
この危機を脱するためなら、俺はどんな約束だってできる。
そんな理由でもなければ、俺は約束なんかできない。
だってそうだろ。
こんな気の遠くなる約束、正気じゃ無理だ。
「少なくとも千年」
やめておけと俺の理性が叫ぶが、どうしようもない。
「約束します。俺は千年後だってあなたと仲良くしたい」
仕方ない。俺の魂がそう言ってんだからさ。
綺麗で可愛くて頭が良くて、食い意地が張って、ちょっとアホな千代乃がいい。
しかし暴力的なところはナシ。そこ大事。言っておこうか。




