きっと物理は苦手な人ですよ
撮影厳禁。のはずなんだけど。
「歩きスマホは危険ですよ」
「だからユキトは余所見しないで。わたしの分までしっかり注意するの」
すっかり夜になった帰り道。
彼女は俺の右腕を掴んだままずっと写真を眺めている。
美咲ちゃんの誘導に負け、二人で壁の傘の下に並び、彼女のスマホでパシャリと。
普段絶対にやらないサービスのくせに、喧嘩する前から仲直りしておけとか意味がわからんこと言い出しやがって。結婚して何か達観している風さえある脅威。
写真は誰にも転送しない約束だから俺にも送ってくれないそうだ。
要らんけども。
画面を覗こうとすると、くいっと身を捩って見せてくれない。
リーユニオン。
再会を願った男の落書きが残る部屋。
それを“仲直りの部屋”としてあの店は使うようになった。
そこでは奇跡もあれば失敗もある。
特別なパワーなど無いただの客室だ。
彼女が展覧会で見たというレプリカは、あの男が自ら大きなキャンバスに描き直したものなのだが、作者が本物を秘密にするミステリアスな作品として知られている。
秘密と言うよりは、酔っ払ってどこで描いたか憶えていないだけだと馬鹿にしていたのだが、実は当時あの男から店に手紙が届いていたらしい。
壁を汚して申し訳ない、修理代を払うので請求して欲しいという謝罪。そして、おかげで恋人を取り戻すことができた、素晴らしいキャンバスと料理と酒をありがとう、それとHarryによろしく。と感謝が綴られていた。
ハリーって誰だ俺か?
奇しくも手紙が本物の在処を示す証明書になっていたわけだ。
手紙の存在を俺が知ったらいよいよ図に乗るからと先代のオーナーが隠していたことを、手紙と一緒に美咲ちゃんが引き継いでいた。
あのクソジジイめ、よくわかってやがる。
「なんだか夢みたいだった」
「そんなにその芸術家がお気に入りでしたか。きっと物理は苦手な人ですよ?」
俺と意気投合した男だぞ。
勉強なんか得意なわけがない。
実は金持ちのボンボンで秀才だったとかいう裏設定は絶対許さない。
「どうでもいいよ。好きな人は好き」
「なんだ僕のことでしたか」
「僕のこと?」
「俺のこと」
「ユキト、食後に汚い話しないで」
そうですね。あと食前もね、わかりましたよ。
ご機嫌に笑う彼女が、酒に酔っているかのように寄りかかってくる。
「絵の事だけじゃなくて。今日一日。この夏休み全部。夢みたいだった」
おい、本当にノンアルだったんだよな、クソムリエ。
冗談じゃなく不安になるぞ。
「悪夢とかいうオチです?」
「違うよ」
素直じゃないなあとご立腹。
こんな美少女と過ごせて夢みたいと言うべきは俺の方であって、ただ彼女のストレスの原因になったり発散の相手になったりしただけが、夢の国と同レベルのサービスになるはずもない。
悪夢こそ思いきり素直な感想なんだが。
「夢みたいではなくて、食後はよく眠って夢みてたから……。ゴメンナサイ」
顎下に爪の先を突きつけられる。
なにこれ頸動脈狙い?
そのまま小さなゲンコツになってコツンとアッパーをくらう。
「もういい。そんなことより」
「はい?」
ぱっと俺から離れて正面を塞がれてしまう。
「ユキト、わたしにお金使いすぎ。ちゃんと精算しなさい」
昼間の反応からして、やっぱりそうなるか。
俺にとってはこのプライスレスな時間に金のやり取りなど無粋でしかない。
それこそ「デート中に汚い話しないで」と言ってやりたい。のだが。
勉強を教わった礼とか悪戯した詫びとかで片付く金額でないことはわかる。
「俺が受け取ると思います?」
「そういう問題じゃないんだよ?」
「実際そんなにお金使ってませんし」
「ユキトの金銭感覚なんて聞きたくない」
賢いだけあって先回りして逃げ道塞いでくるな。
青春は金で買えない論が使えなくなった。
営業接待ならお堅い人相手にも、領収書持って帰らないと上司に仕事してないって叱られてしまうんですよー、と泣きを入れて押し通す手もあったんだが。
上司か。
「母に叱られるので困ります」
「母?」
「自分が強引に誘ったデートで相手と割り勘したとあっては母が許しません」
「ちょっとユキト、それは」
「どうしてもと言うなら、親同士で精算してもらうほかありませんね」
我ながらこんなクズな言い訳をよく口にできると呆れるよ。もっとスマートな片付け方はいくらでもあるだろうに。ただの意地っ張りなおっさん丸出しだ。
むしろ、ガキっぽくなったのかもしれないな。
下唇を噛んで俺を睨む彼女。
「どうして、そんな卑怯な言い方ばっかりするかなあ」
「卑怯なマザコンですみません。どうか今日は、我慢してもらえませんか?」
頷くことなく、踵を返して歩き出してしまう。
サンダルのヒールがコツコツと路地のタイルを鳴らす。
俺ほどのプロ営業になると、この音だけでお怒り具合がわかってしまうのだよ。
これは、ヤバめ。汗。
あっという間に距離が開いた。
こういう時にべったり付いて行くとかえってヒートアップさせてしまう。
ぐっと堪えてどうにか目の届く範囲で追いかける。
と思ったら、何だか変なのを連れて戻ってきて俺の後ろに隠れた。
「ぼくー、ちょおっとどいてくれるかな。今そのお姉さんとお話し中なんだ」
「誰だお前」
「いいから。優しく言ってるうちにね、どこう」
ナンパ、というよりスカウト系か。
ジャケットの襟を掴んできた手がそのまま俺の顎を押す。
これにはちょっと頭ん中がね、ピシッと音立てた。
さすがにオトナの対応にも限度がある。
両手でそいつの髪を掴み頭を引き寄せごつっと額同士を当てる。
「ヒトんちの修羅場に首突っ込んでくんなよ。寿命削るぞボケ」
手を離してやったら、その場にへたり込んでしまった。
まじかあ。おわったあ。ぶつぶつ繰り返して気味が悪い。君が悪い。
俺もちょっと悪い。つい、な。
でもおかげでエクスキューズが成り立った。
「今日は家の前まで送らせてもらいますからね。いいですね?」
背中を二回平手で叩かれる。
「なんで離れるかなあもうっ!」
言いながら、がっちりと腕を掴んで並んだ。
そこそこ怖かっただろう。偶然とはいえ、いい勉強してもらった。
偶然という言葉が胸の中で引っかかるが。
「大丈夫。そうやって彼女のフリしてれば誰も寄って来ませんから」
バカユキト。バカミネユキト。バカユキ。
電車の中でもずっと言われ続けた。
俺の名前なんだったっけか。




