ライカ、ユーアン、ミー。
「ひっどい!」
「酷いでしょう? 最後に転職のススメって、今でも意味がわからないもの」
「わたしなら殴ってるかも」
「殴るどころか、それまでのストレスが爆発したみたいになって」
「あ、なんかわかる」
「そこへ止めに入るつもりで抱き締めてきたのがあのシェフ。それが出会いでした」
「もしかしてその時に、一目惚れ?」
「若気の至りですね」
やー、なんかすごーい。運命だあ。
戻ってみれば、満腹のはずが、別の盛り上がりでごちそうになっている彼女。
なぜかそろって白けた視線を浴びるが、二人とも打ち解けたようでなにより。戻って座っただけのはずだけど妙に居心地が悪く、耐えきれず口を滑らす。
「楽しそうだね。葬式がマッチングに使えるって話?」
懐かしい、攻撃的な固い営業スマイルを湛えながら、すうっと寄って来て傍に立つ美咲ちゃん。
「ほらユキト君、ジェラートが溶けてしまいます」
器用にスプーンでごっそり丸ごと掬い上げて、口に押し込まれてしまう。
がつんと首から上が冷える。
眉間に杭が刺さったかのような痛みにしばらく目が開かない。
「昔話。ライバル会社の十も歳上の営業担当に容赦なく滅多打ちにされた時のこと」
「滅多打ちは大袈裟、じゃないの?」
「臆面もなく仲直りしましょうって、この店に連れてこられて。ちょうどこの部屋」
「あ、ああ。なんかそんな事、言ってたね。それ今聞かないとダメ?」
「なんかいい雰囲気にされて、てっきり告白でもされるのかと思ったら」
「いやー、ゆっくりしすぎたかな。そろそろ」
とんとんと指で肩を叩かれ、思わず見上げると美咲ちゃんに目の奥を覗かれる。
まるで行人の奥に潜んで隠れる俺を睨みつけるように。
「君は今の仕事に向いていない。この店に勤めるといい」
もう何十回も謝ったじゃんよー。
いい加減根に持つのやめてよー。
あの頃俺も仕事に血気盛んでさ。第二次中二病みたいな感じでついやらかした。
俺が相手では太刀打ちできないと見切った競合他社が、勉強という名目で若いやつに担当を押し付けたと思い込んだ時点で、相当に痛い俺だった。
手を抜くつもりは無いとしつつ、初回コンペでガチガチに緊張していた競合相手の担当を煽って奮起させた俺。あのとき、キッと睨み返されたと思ったんだが、「キモッ」って思ってたんだってさ。
その後、顧客が、若い子=フレッシュな発想力と言い換えて気に入っているらしい情報を掴んだ俺は、熟練の子=プロフェッショナルの技術力と言い換えた接待攻勢によって戦いを制した。
卑怯は承知。
客が低レベルだったのが悪い。
これで若い芽をジジイの毒牙から守ったつもりの俺様。
すっかり自分に酔いしれて更に保護欲が爆発。転職させちゃった。
とかいう黒歴史物語でした。
はい拍手。パチパチパチ。
「はは。勘違いした恥っずいおっさんだよね。ははっ」
「もっと言って」
「…………」
「もっと」
「いやー、キモいわ。転職させるとか無いわー。意味わかんねー。はは」
もうムリ。目から血が出そう。
にっこりと微笑む美咲ちゃん。
結婚して早々、ストレス万倍増なんだろうな。
いいさ。俺に責任がある。責められるのも俺のライフワークさ。
「なんでユキトが泣きそうになるなのかな」
「同じ人種だから自分に跳ね返るんですよ」
容赦のない美咲ちゃん。
さ、恥のかきついでよ。と、軽やかな足取りで俺から離れ、壁を横断するワインレッドのカーテンに手をかける。
「いやっ、それは!」
振り返る俺の制止は間に合わず、片端へカーテンが寄せられてしまう。
顕れたのは別の部屋。ではなく、日焼けした塗り壁に描かれた大きな落書き。
この店との縁は随分と古い。
まだ大吾をこの店に引っ張り連れてくる前の話。
仕事のコンペティションで大敗したある日。雨の中ヤケ酒を浴びてふらつき歩いていた俺は、道路標識を支える白い鉄柱に向かって外国人の男がじっと立っているのを目にした。
普段なら絶対関わる事などしない俺が、無防備に背後から傘に入れてやり、「具合悪いのかあ?」と声を掛けてしまう。
すると、男は鉄柱を指さしてこれは何だと問うてくる。
見れば、マジックで描かれた相合い傘の落書き。
傘の下には二人の名前が平仮名で入っていて、頂点にはハートマーク。
子供のイタズラ、あるいは有頂天バカップルの夢の跡。
「あー、それはな、イッツ、ア、アイアイガサ、だよ」
眉根を寄せて、アイーグ?
そりゃわからんわな。
「ラブ・アンド・ピースだってば。ここは平和な国ってこと」
"Is this, like, a symbol of love and peace?"
「ザッツライト。Love and Peace under the same umbrella.なのさ」
ライカ、ユーアン、ミー。イェーイ。
と陽気な俺。
すると、その男は俺の傘を見上げて目を丸くし、ずぶ濡れのまま強烈にハグ。
何度も礼を言いながら俺をびしょびしょにしてくれた。
まるで生き返ったように元気になったそいつと意気投合した俺は、大吾のまだいない“馴染みの店”へ無理矢理転がり込み、満席だからと断る先代オーナーを押し切って当時は物置にされていた部屋に陣取る。
先代シェフはおおらかなオヤジだったから、酒とつまみを適当に出してくれた。これが今思い出しても絶品の味だった。
全く会話が成り立ってなかったが、ご機嫌に二人で盛り上がっているうちに、ジェスチャーでこの机を退かすから手伝えと。言われるがまま何度か繰り返すうちに一面の真っ白な塗り壁が目の前に広がった。
すると次は、左手を挙げて左右に振りながら、
"Something to write"
退けた机の引き出しを適当に漁ると必然のように出てきた極太マジック。
終いには壁に向かって肩車しろだと。
なんてったって、べろべろに酔っ払ってるから何度も倒れてさ、二人でケラケラ笑いながらの合作になった。
「大きな相合い傘……」
正面に見る彼女が呆気に取られそのままの感想を口にする。
傘の頂点にいびつなハートと、特大のリボンが結ばれた絵になっている。
リボンのタレには、
“Reunion with my love”
の文字。
あの男は描き上げた傘の下に自分が入ると、柄を持つような格好をした。頼まれたとおり写真を撮ってやると、誰かにメールを送っていたところまではどうにか記憶にある。
もしかしたら、送り先は遠くにいる恋人だったのかもしれない。
その後は、壁を見た先代オーナーが激怒するわするわで。
だが、その落書きが消される事はなかった。
なぜならば。
意外にも、彼女は教わる前に気付いてしまう。
「リーユニオン……。これ、グライミー・フォックスですよね?」
何で知ってんだよ。今のJK意識高っ!
右下にある狐っぽいサインは、世界的に有名な現代アーティストのもの。
本名や顔は非公開、拠点さえ定まっていない流浪の芸術家だとか。いつの間にかサインの様子が呼び名として広まった。らしい。そんな事知るかっての。当時はただの薄汚れた兄ちゃんだったぞ。
「その通りです。よくご存知ですね」
美咲ちゃんも驚く。
「わたし、この絵を見たくて展覧会に行ったことがあるんです」
さっき趣味の話をしてたはずなんだが。
女神様に芸術は標準装備だと。下民に語るまでもないと。そういうことですか。
おっさん拗ねちゃうぞ。
「私もシェフもこのお店に勤める前の事だそうです。当時から迷惑な客として入り浸っていた、シェフの親友であり私を転職させた例の恥知らず男が、偶然街で出会い、酔った勢いで連れてきたのがグライミー・フォックスでした」
恥知らず男て。
酷い。死んだ人の悪口は言うもんじゃないんだよ、美咲ちゃん。
「展覧会のはレプリカで、本物は所在不明だと学芸員さんに教わったのですけど」
彼女は立ち上がると壁に近づき、油性インクの染み込んだサインを確かめる。
そして寄せられたカーテンを見遣って事情も確かめる。
「ここにあることは秘密なのですか?」
「ええ。シェフの親友であり私を転職させた例の欲深な男が所有権を主張していて」
欲深て。勝手にキャラ変えないでよ。
「違うでしょ。先代のオーナーが壁の絵を宣伝に使おうとしたのを、ここは美術館じゃないって猛反対した結果だってば」
実は壁をフロアへ移設しようという話も出た時があった。
それで金儲けされたら俺の怒られ損だと腹が立って、原状回復義務のある俺が壁を塗り直すって主張したと言うのが、正しい話だ。
「ふうん。ユキト君はあの人のこと庇うのね」
「庇うわけじゃないけど、その芸術家さんがここを観光名所にするつもりで描いたわけじゃないから。そう思ってたんじゃないの?」
「あら殊勝ね。てっきり使い勝手のいい個室を惜しんでるだけと思ってた」
その通りでございます。
こんな都心の一等地にあって普段使いのできない排他的な個室。それを自己負担なしで気軽にリザーブできるんだから、手放すわけがない。
だから絵にまつわる奇跡の噂も迷惑千万、ここで彼女に披露する気もなかった。
当然、撮影厳禁。
のはずなんだけど。
嫌だってば。




