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思わずシャドウボクシングをしたくなる

 まな板の上の鯉は思考を放棄しているのだなと悟る頃。


 ぺりぺりと変態仮面が剥がされる。


 しかし目に入るのは鏡ではなく古びたシミの目立つ天井。

 未だ仰向けになった鯉の気分である。


「暴れないでよ」


 普通の客には絶対に言わないであろう指示を投げ掛けるひとみさんが視界に入る。顔が近くて嬉し恥ずかしくも残念ながら膝の上ではない。


 すっとカミソリが頬を滑り、額のハンコを器用に避けて、眉も整えられる。そして蒸しタオルで拭きあげ、さっぱり。額のハンコは器用に避けて。


「はい。出来上がり」


 カットチェアの背もたれと一緒に身を起こされ、鏡の自分とご対面。


「お?」


 ツンツン頭ではある。が。


 おーい、と、ひとみさんが彼女を呼ぶも返事がない。


 漫画に没頭しているらしい。

 彼女の名前を聞かれたので、「チヨノちゃんと呼んでやってください」と頼んだ。ひとみさんが近寄ってそっと名前を呼ぶと、水を浴びたように驚いて立ち上がった。


「どうかな?」


 仕上がりの確認先は、当然飼い主の方にである。

 鏡越しに見る左右の入れ替わった彼女もやはり美しい。


「いいと思います」


 飼い主はついぞ犬と目を合わせることなく背を向け、これで良しとした。


「あの先輩。いいんですか、これで」


「なによ、不満?」


 言いながら、さっさと待合の方へ戻ってしまう。よほど気に入った漫画なんだな。

 いや、片付けてるのか。


「不満、ていうか、あまりにマトモでオチがつかないというか……」


 マトモで困惑。

 綺麗なラインで刈り込まれたショートスタイル。ワックスで柔らかめの印象に仕上がっている。アップバングになってはっきり見えるようになった眉がキリッ。


 覇気のない顔だとうんざりしていたのが、まるで印象が変わったようだ。強いて言うなら額の『貸出中』が滑稽なアクセントになっているが、これも流行りのオシャレなのだと言ってしまえば、オジサンなら納得してしまうかもしれない。事実、俺が納得している。


 プロの妙技みょうぎを見せてもらいましたよ、ひとみさん。


 でも、でもですね、これじゃあ忠誠心で楽しんでもらえない気がね、するんです。しかも最後にぼうずというシナリオも壊された感が。

 不安がっている間に、ひとみさんは奥の棚の引き出しを漁って何やら見つけてきた。


「あったあった。これあげるから」


 手にしていたのはテープの絆創膏。

 ハサミでカットして額の傷にペタッ。


「おお。なんか練習帰りのボクサーみたいっすね」


 思わずシャドウボクシングをしたくなる、やっすいおっさん。

 だって男はこういうのに心をくすぐられる生き物なんだよ。


「そんなことより、ほらっ。言うことあるでしょ」


 カットクロスを外され立ち上がるや否や、俺を見上げるひとみさんが催促。


 はて。なんだったかと考え、とりあえず感想を述べる。


「さすがプロの腕ですね」

 ペしっと尻を叩かれる。


「当然のこと言わない。じゃなくて、チヨノちゃんによっ」


 はてはて。鏡の先輩も素敵でした、漫画はほどほどに、お情けありがとうございます、どれかな。迷っていると、ひとみさんの唇が、えーお、えーおと動いている。


「まあ、ええ子でしょうね」

「デートだろっ、ばか!」


 出来損ないの弟を叱る風の優しいお姉さんである。


「ああ、それ今でしたか」

「今しかないじゃん」


 オンナに一番言っちゃダメなやつを教えてくれる姉さんは、一番言うべきタイミングも教えてくれる。


 ならばこれも学ぶべき。


「と言うわけで先輩、明日俺とデートしてください」


 トイウワケってナンダヨと横から肘突っ込みが痛い。


「嫌よ」


 即死でしたー。

 これ車にぶっ飛ばされた時よりダメージくるな。

 ほらタイミング悪かったですよと情けない顔で慰めを求める。


 しかし、ひとみ姉さんは動じていない。

 そしてカットイン。


「ごめんねユキトくん、私の力不足だった。プロが聞いて呆れちゃうね」


 ナイスアシストおおお。

 これを肯定するわけにはいかない早坂千代乃。

 瞬時に振り返り反応する早坂、うまく抑え切れるか。


「そ、そういう事じゃなくてっ」


 まずは速攻否定、ここからリカバーできるかが勝負の分かれ目。


「……明日は、嫌」


 歯切れの悪い早坂、目を伏せてしまう。

 いったいどうしたのか。


 ここですかさずひとみ姉さんガッツポーズ!

 しかし理解が及ばない長嶺ユキト。


 あーっと、連携が乱れた!

「でもほら、善は急げって言いますんではうっ!」


 隣から強烈な肘突きでいましめが入るうっ。

 悶絶する長嶺。しかし九死に一生を得た長嶺。


 耳を引っ張られて屈む長嶺にひとみ姉さんのセカンドアシスト、小声で耳打ち。


「女の子には準備が必要なのっ。明日がダメなら、ほらっ」


 再び的確なパスが長嶺ユキトに届く。

 次こそ決まるか、決まるかシュート!


「その、明後日、では?」


「……いいよ」


 ゴーオオオオオオオオール!


 ハイタッチで喜ぶユキトとひとみ姉さん!

 しかし、今一つ状況が飲み込めていない長嶺ユキト、前途多難だああ。



 お騒がせしてすみませんでしたと飼い主として挨拶した彼女は先に店から出た。俺はひとみさんお勧めのワックスも買って会計を済ませながら、礼を言う。


「今日はいろいろ助かりました。ありがとうございます」

「それよりちゃんと結果を教えに来なさいよ。こっちは暇してんだから」


「わかりました。で、良ければお店を学校で宣伝しますけど。我ながら説得力あると思うんですよね」


 なかなかの変わり映えだ。

 陸上部の連中なら速攻で食いつくこと間違いなし。


 女子でも、もし彼女がここでカットすれば……。

 もし、か。


「ありがとね。でも、まだしばらく暇してたいから、また今度お願い」

「そうですか。じゃ、次はフラれた俺を抱いて慰めてくれるひとみさんを楽しみにしてます」

「百年早いぞエロガキ」


 予定は狂いまくりだったが、どうにか収まった。ひとみさんも暇つぶしを楽しんでもらえたなら良し。俺が宣伝しなくとも早晩客でごった返す店になるのは間違いないだろう。

 その時までに優遇資格を得なければな。


「それで、ひとつお願いしてもいいでしょうか」

「ん? どしたの」


 なんとなく頭に浮かんだ懸念に、保険をかけておきたくなった。


「もしもの話です。もしも彼女が、————」


 プロの矜持を捻じ曲げるような俺の願い事を、ひとみさんは渋々頷いてくれた。



 家に帰ってからの話。

 一瞬、知らない誰かが家に居ると驚いた後、

「やあもう! ユキトくん素敵ー!」

 想像の十倍喜んだ史奈さん。


 くりくり頭でなくても良かったようで良かった。


 しかし、これで終わらないのが史奈さん。

 額のハンコをちょっとしたアクセントだと言ったら、「アクセントね」と頷いてから自室との間を高速往復。ドンと持ち出してきたのはなんとピアス。


「穴開けると、多分学校に怒られるよ」


 さすがに、おっさんにピアスはちょっとハードルあるんだよなあ。

 穴、痛そうだし。


「大丈夫。挟むタイプもいろいろあるんだから。これなんかどうかな」


 シルバーのリングに極小さい猫のシルエットをかたどったプレートがぷらぷらしたやつ。なかなか精巧にできていて、クリップのように挟んで留めるらしい。


「こ、これはちょっと」

「やー、かわいー」


 正直、パンツの中を見られるより恥ずかしい。


 おっさんの耳に猫がぷらぷらて。痛くてしょーもない。

 史奈さんの目がキラッキラしているところ誠に申し訳ないのだけれども、シンプルなリングだけのものにさせてもらった。


 そして、これで終わらないのも史奈さん。


「それで、その髪型を選んだ子とは、いつデートなのかしら」


 さーっと血の気の引く音が聞こえたよ、さーってな。

 つま先から頭のてっぺんまでフリーズしてしまう。

 まさか見ていたわけでもないだろうに恐ろしい勘だ。


 だが女の勘で片付けてしまうには命中精度が異常に高いのでは。


 ちなみに、ここ連日の弁当とおやつの準備を史奈さんが黙って手伝ってくれたわけではない。

 誰かに揺すられているのではという心配を掛けたくなかったので、勉強で世話になっている先輩の分だと説明したら、「一緒にツーショット撮ってた美人さんね」と一発命中。

 あの写真を史奈さんに見せた記憶がないのだが、そこは肯定するしかなかった。


 以来、「どんなおかずが好みかしら」などなど、少しずつ情報を収集されていた。それに加えて先日のパスワード解除スキルの発動。


 ここから導かれるのは、“母は凄腕ハッカー”と言う要らぬ設定追加疑惑。商店通りの監視カメラを乗っ取るくらいはお手の物なんてのは、俺の妄想であって欲しい。


 しかし恍けるわけにもいかず、当たっているだけに答えるしかない。


「明後日、なんだ」

「そう。晩御飯はどうする?」

「ええと、食べて、くるよ」


「そっか。でも、まだお泊まりはだめよ。先方に申し訳が立たないから」


「ないないない! 帰ってくるってば」


 先方とか聞くと、結納前の段取りみたいな生々しい記憶が掘られてしまう。どこぞの名家よろしく既に先方の内偵調査を済ませていたりしてな。


 いや、史奈さんの設定を憶測するのはやめよう。

 たとえハッカーだろうとなんだろうと俺にとって普遍的存在であるのは変わらないのだから。


「センスいい子よね。やっぱりただの美人さんじゃなかったわ」


 やっぱりて。

 その笑顔の真意が読み取れない。


 既に、勉強でお世話になった先輩=ツーショットの美人さん=髪型選んだ子と繋がっている。そこへセンスいい子の評価が加わったようだ。

 史奈さんの中で得体の知れない何かが形成されつつある不安。


 背中にべっとり脂汗をかいたので、風呂に入ることにする。


「ユキトくん」

「な、なに?」


「次にわたしとデートするときは、こっちのピアスつけてね」


 摘み上げられた猫がぷらぷら。


「わかった。約束するよ」


 突然デートと言われドキリとしてしまう。

 また一緒に買い物行こうねと言っていた約束が名を変えた瞬間だった。


 こんなん眠れなくなるわ。

 できるだけ早めに行こう。プランを練らねば。


 プラン、プラン。


 準備か。そうだよな。

 俺も明後日にして良かった。


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