ハンコですね。誠に遺憾ながら
到着。予想を裏切らない古い佇まい。
ドアガラスに書かれた文字は色褪せ剥げ落ち、かろうじて『安藤理容店』と読める。これのみであるなら、営業努力を喪失した馴染客だけを相手する衰退店と考えるところだ。
しかし、入口そばには立て看板が置かれていて、色とりどりのマーカーペンを使った手描き文字で、センスよくヘアセットメニューを案内している。そこに銘打たれた店名は『hair salon UNDO』だった。
さては昭和レトロな雰囲気を演出した新進気鋭の美容師がいるのだろう。
ならば、予約なしの飛び込みは受けてくれないだろうし、めでたく出直しになるはずと予想して乗り込んでみる。迎えてくれたのは、バケットハットをかぶり顎髭をたくわえた店員、ではなく、ベリーショートに大きめのリングピアスが印象的な若い女性の店員であった。
椅子に座り、紫色の毛髪を垂らした首だけのマネキンを前にしていた。
「いらっしゃいませー」
俺と目が合ったのも束の間、俺の背後から片手を前に突き出す存在に目を奪われてしまう。
ゾンビ風の美少女が先に声を発する。
「すみません、お手洗いをお借りできますでしょうか」
どんな表情で言ったのか見てはいないが、背中に最優先の圧を感じる。すぐさま案内してもらえた彼女は店の奥へ消えて洗浄消毒作業に入ったようだ。
ほどなく店員さんの方が戻ってきた。
「すっごい綺麗な彼女さんね。二人で冷たいもの飲み過ぎちゃった?」
「いえ。嫌な物を触って一刻も早く手を洗いたかっただけです」
「やだ毛虫とか? 大変だったね。かぶれてたりしないかな」
「大丈夫です。メロンの皮なんで」
「そう、なんだ」
アレルギーなのかしらと首を捻っている。調子に乗って「俺の唾液アレルギーなんですよ」とか言ってしまうとややこしくなるのでここは自重する。
「それで、髪を切りたいのですが、予約なしでも大丈夫でしょうか」
「あら、お客さんだったんだ、ごめんね。見ての通り暇してたから、全然OKよ」
暇で練習していたのか。
まあ確かにあの立て看板だけで新規の客を取り込むには無理があるだろう。とはいえ、こんな若い素敵な美容師さんに整えてもらえるのは僥倖。
隠れ家的美容室として黙っていたくなる心理もはたらくというもの。
実は暇なのもそれが原因だったりしてな。
壁に張り付く大きな鏡と向き合うセットチェアへ案内される。
店の中はどれもこれも相当に年季が入っているようだ。
古くて新しいじゃなく、古くて古い。
新しいものといえば看板と美容師だけって、畳と女房かよ。なんつったら今じゃタコ殴りされるだろうが、少なくともレトロ趣味というわけじゃなさそうだ。
ばさりとカットクロスが掛けられる。お、これは新品だ。
「このお店はお一人でやられてるのですか?」
「そーなの。祖父のお店だったんだけど引退して、私が継いだみたいな感じ?」
別の大きなサロンで働いていたのを辞めてわざわざ引っ越して来たのだそう。此処での営業はまだ一ヶ月ちょっとだとか。
「へえ。失礼ですけど、古いお店なのに思い切った決断でしたね」
「ね。ちょっと後悔。でも人間関係は気楽だからリフレッシュには丁度良かったんだ」
なるほどな。業界の事は知らずとも、人間関係というなら大凡の想像もつく。
社会人になってどこかに勤めるとき、関わる人間を選べることは稀だ。多くの場合、配属した所でうまくやっていけるかどうかは仕事の内容よりも職場の人々との相性の問題で決まる。
そこにたった一人相性最悪なキャラがいて隣の席になったがために人生が真っ暗に、なんてのは珍しくない。それはもう運が左右すると言ってもいい。決して大袈裟な表現じゃなく、それが人間関係のリアルだ。
そこで無理だと感じたなら、さっさと諦めて離脱するのが良策。
離れる勇気がなかったり真面目過ぎたりする人は、しばしば壊れてしまう。
だから俺はこの美容師さんの決断を支持する。
「そうですか。俺もちょっと後悔です」
「あらま。汚い店でがっかりした?」
「いえ。こんなキレイな美容師さんがいるならもっと早く来れば良かったなと」
「ほう。言うねえ、キミ。そんな浮気者は丸坊主だっ」
両手で伸びすぎた前髪を一気に掻き上げられる。
冗談めいたやりとりの先に、衝撃の事実を目撃してしまう。
「え?」
「ん?」
二人して鏡の中にいる俺の顔を覗き込む。
露になった我が額のど真ん中に、四角の枠で囲まれたでかい黒文字。
それは、左右反転した『貸出中』の三文字。
ああ。うん。そうか。
そーいうことだったのかああああ!
図書室のスタンプ引っ張り出してな、ドンドンてインクたっぷり付けてな。
デコチューで気を逸らしてな。
ポンとな、やられてたわけさ。
「なにこれ。タトゥーなの?」
「ハンコですね。誠に遺憾ながら」
俺が敗北に打ち震える間に彼女が戻ってきた。
美容師さんに礼を言いながらセットチェアの傍に立つ。
「あの、先輩。顔洗っても?」
「ダメに決まってるじゃない」
ですよねえ。なんとまあ爽やかな笑顔だこと。
ぼうずは構わないが、『貸出中』はまずい。史奈さんに何て説明すりゃいいんだ。罰ゲームだと正直に言えば信じてもらえるだろうか。
丸刈りした上にデコ印って。
どう見たってイジメを連想するよなあ。
いや待てよ。むしろこれイジメじゃね?
でも全部俺がやらかした結果なんだという気もしないではない。
詰んだな。
「彼女さんに貸し出し中なんだ」
「ええ。身も心も全部貸し出す証ですね」
へぇー、そーいうの流行ってるんだー。と美容師さんは若者のトレンドとして受け入れる。
トークアプリのスタンプがリアルのスタンプにリフレクトするというのも市場の流れとしてはある意味自然な傾向と言えますね。なんて気取ってみたいものだがそこまで心の余裕がない。
スタンプに使われたインクが油性か水性かで頭が一杯なのである。
約束は顔を洗わないことだけだ。
水性ならば汗で滲み、手で擦ればなんとか薄汚れ程度で済むはず。
油性ならば……、洗っても落ちねえじゃんかよ!
ちなみにこの美容師さんは俺たちの事を彼氏彼女と勘違いしているようだが、俺はちょっとの虚栄心があって否定も肯定もせずスルーしている。彼女はといえば、食べる事以外は心の底からどうでもいいようで同じようにスルーしている。
「それで、どんな感じにする? やっぱり彼女さん次第?」
「はい。むしろここで忠誠心が試されます」
あまりの俺の真剣な面持ちにただならぬ気配を感じ取る美容師さん。鏡台に並べられたヘアカタログ雑誌を手に取る彼女を横目に小声で確かめてくる。
「どしたの。ほんとに浮気しちゃった?」
「飼い犬が自分より友達の方に懐いているという誤解を解くのに必死な体です」
「ほほお。修羅場だねえ」
よほど暇を持て余していたのか、思わぬイベント発生に気合いの入る美容師さん。オーダー権を握る彼女の背後から両肩に手をかけて、一緒にヘアカタログを吟味しだす。
「こう見えて私、ダブルライセンス持ちだから何でもお望みのままよ」
確か、美容師と理容師の資格を両方持っている人のことだったか。
そういえば、店先で青赤くるくる回ってたしな。思い込みで美容師さんと呼んだのに否定されなかったのもそういうことだったか。
前に行きつけの美容室で資格の話題になって教えてもらった事がある。ダブルライセンスは費用と時間がかかる割にメリットがあまり無いとか。理由は何だったかな。忘れたが、それでも技量を手にしようとする意気込みは素晴らしい。
「すごいな。前のお店じゃ重宝されたでしょう」
俺が素直に感心すると、首を振って残念な現実を返される。
「全然。お店のしばりとかあって意味なかった。それどころか、先輩たちからライセンス鼻にかけて態度悪いーみたいな陰口叩かれてた」
そうかあ。さぞかし生きづらかったろうに。
俺もわかるぞ。出る杭は打たれるわ出てないつもりでも杭にされるわで、一体どうすりゃいいんだよって時期があったもんさ。業績で見返してやろうと奮闘すれば、世話になった先輩に花を持たせる常識もない奴だとか後ろ指さされてよお。出世したらあいつら全員飛ばしてやるぞって心に決めて折れずにやってきたよ。
それがあと一歩のところで後輩に先を越され、車に轢かれ、今や犬プレイに勤しむ俺。
やべ。なんか込み上げてきた。
ええいこの際だ。存分にやってもらおうではないか。
「なら縛りから解放された今こそ腕を振るってもらわなきゃですね。理容、美、あれ、何と呼ぶべきなんですかね?」
「理美容師。なんて名称はあるけど、ひとみちゃんって呼んで」
「合点ですっ、ひとみちゃん!」
「“さん”を付けなさい」
ひんやりした声で背を向けたままの飼い主様から躾をされてしまう。
年上は敬いましょう。
「ひ、ひとみさんも丸刈りじゃつまらないでしょうから、こ、ここはもう前衛的なやつ選んじゃってくださいよ。先輩……?」
丸無視ですわ。
なんだか俺はすっかり蚊帳の外へ追いやられ、彼女とひとみさんとの間でヒソヒソと戦術会議が進められる。何冊ものヘアカタログがペラペラ捲られては閉じ、話し合いの結論が導かれるまでを固唾を飲んで見守るほかなかった。
あまり真剣に討議されてしまうと、最後に丸坊主でリセットしちゃいますの手が使いにくくなるじゃないか。もっと軽薄に、ノリで、頭わるーくいきましょうってば。
「……じゃあ、これが、いいです」
「ん。いいんじゃない」
女神は賽を投げず、自ら賽の目を選んだ。
俺の運命やいかに。




