間違えようのない親愛を表す音
やっぱいいわ、その険しい顔。
最初にビンタされて以来か。
俺は左手を彼女へ向けて、開いた手のひらに右手の人差し指で“の”の字をなぞるように滑らす。
「先輩の手のひらに俺が言うべき事を書くので、先輩は目を閉じたまま言葉を当ててください」
同じように先輩は俺の手のひらに言いたい事を書いて、俺が当てる。当てられなければ反論できません。相手の主張が正しいということで終わり。
ただし、途中で目を開けたらペナルティー付きの負けですよ。
「わからない。何の意味があるのかな」
「否が応でも相手の言葉に集中せざるを得ない状況を作ります。つまり、互いに拒絶されることを心配しなくていいコミュニケーションというわけです」
「え、やだ、気持ち悪い」
————
はっ。一瞬気を失ったぞ。
ごっそり気力を持ってかれる素の拒絶。
しっかりしろ、おっさんにキモいは挨拶みたいなもんだ。
「親友が自分の事を本当はどう思ってるのか。知りたくないですか?」
パイセンごめん。釣りの餌になってもらうよ。
待つこと数秒。
「わかった。一回だけだよ」
入れ食いだなおい。
「OKです。先攻は俺でも?」
彼女は嫌そうに頷くと、右手か左手か少し迷ってから右の手のひらを俺に差し向けてきた。
何度か見ているが、白魚のような手とはよく言ったものだと思う。
中指の第一関節にだけペンだこらしき小さな膨らみがある。働き者ではなくとも勉強は人一倍しっかりしているのだろう。
この無垢な手があんなモノまで握るようになってしまうのか。いや既に?
「ハアぁ」
「なんで溜息!」
「失礼。なんでもありません。では、目を瞑ってください」
手の先を軽く握らせてもらい、長いまつ毛が降りるのを確認してからゆっくりと文字を落とし始める。くすぐったいのか肩が揺れるのを「動くとわからなくなりますよ」と集中を促して止める。
「4、E、1?」
何これと眉根を寄せて考え込んでいる。
「……P、セミコロン?、K」
「終わりです。目を開けていいですよ」
極めてシンプルなメッセージを送った。
最初の二文字で騙してしまったようなものだが。
「えっ、どういうこと、何かのパスワードなの?」
「違いますよ」
俺は白魚の手を指差す。
そこには、赤ペンで書かれた五文字がある。
チヨノ
アホ
書き順とか形を微妙に変えて錯覚させた。
いや見事に決まったな。
昔、クラスの女子にまんまと騙されて落書きされてさ、悔しかったのなんの……。
「いろいろ聞きたいことあるのだけど。ペンとか」
もう信じらんなーい、的な反応を期待してたんですけど。
半魔女が雪女に変身したよ?
呆れる吐息をあびて凍ってしまった。
「これ、莉愛が言ってたの?」
「莉愛先輩は関係ないですね」
「騙したんだ」
「俺が言うべき事を書くと言ったじゃないですか。親友の気持ちが知りたいかは確認してみたかっただけです」
「ふうん。そういうこと言うんだ」
グー・パー。グー・パー。
目の前で赤インクの「チヨノアホ」が点滅する。
暴力反対。可愛い子はグーパンとか似合いませんよっ。
どうする。やっぱ怖えよ。
心折れるわ。土下座いっとく?
いや頑張れ俺、もう一踏ん張りだ。
これで俺に好きなだけ落書きすれば目論見通り気が晴れるはず。
落書きで終われば、な。
「さ、さあ、次は先輩のターンですよ」
思い切って両手を差し出す。
「ねえ。手じゃなくてもいいよね?」
はいはい。もう覚悟してますから。
ほっぺにぐるぐるでもなんでも来い!
「もちろんです。お好きなところに」
「じゃあ目を閉じて」
恐怖。
どうか顔面にグーは勘弁してくれえ。
カチャカチャと金属音。
ちょっと待て、何が始まったんだ。
ドンドン。
カウンターが打音に合わせて震える。
俺まで震え上がる。
これはあれか、音で恐怖心を煽る作戦か。
さすが頭が良いだけある。
この攻め方は考えていなかった。
そして、耳鳴りを意識するほどの静寂へ。
彼女の制服が擦れる音がすぐ近くに迫っていることを知らせる。
冷たい指が俺の額に触れ、前髪を掻き上げた。
いよいよか。デコピンか、グーか、爪か、シャーペンで文字か。
否。とてつもなく柔らかいものが当てられる。
チュッ。
間違えようのない親愛を表す音と共にそれは額から離れていく。
俺は、見てしまっていた。
「目を開けたね。キミの負け。ペナルティー付きだよ」
まだ近いところにある艶やかな唇が、覆しようのない判定を下した。
俺はまだ、それから目が離せない。
かくして俺は氷の魔女の虜となった。
いやいや待て待て違うぞ、何が起きたか冷静に整理しろ。いい歳こいたおっさんが今更デコチューされたくらいで取り乱すな。
デコチューて。
どうしてこうなった。
そういう流れは1ミリもなかったはずだよな。
文化祭の資料を手伝ったご褒美か。違うぞ。
莉愛先輩から俺を離そうとするハニトラか。違うな。
どう考えても報復行動しか有り得ないはず。いったい狙いはなんだ?
「私がいいと言うまで顔を洗うの禁止」
「へ?」
「ペナルティーだよ」
「ああ、はい。洗いません。洗いませんとも……」
ペナルティー要素あるのか?
クソ童貞なら一生洗わないと決心するところだぞ。
わからん。JKさっぱりわからん。
洗わんぞ。じゃなくて、わからんぞ。
彼女は右手のグー・パーを繰り返している。
心なしか、その表情は満足気にも見える。
ひょっとすると、チヨノ、ほんとにアホなのか。
「何か失礼なこと考えてるでしょ」
「滅相もない」
俺の完敗。失敗の挽回も失敗。
駄目な日は無駄な足掻きをしないことだ。根拠は営業心得。
時計は昼を過ぎていた。
「先輩。実は今日、おやつだけじゃなく昼飯もありません」
ヒョオオオオって雪女はやめてくれ。
「なので、外へ食べに行きましょう。諸々お詫び込めて俺が奢ります」
「また騙すのね。茶碗蒸しの椎茸食べさせる気なんだ」
そんなものが苦手なのか。なんだか可愛いけども。
「騙しませんよ。駅前商店街の喫茶店に用事があるので、そのついでです」
「喫茶店……」
「プリンアラモード、ありますよ?」
すくっと立ち上がり、文字通り俺の尻を叩いて片付けると図書室を後にした。
相当に不信を買ったのか、彼女は廊下でプリンアラモードの画像をいくつも俺に見せて「これだからね、プリンアジノモトとかだったら怒るからね」と怒らせる方が難しい念押しを繰り返す。
「おーい、二人とも」
途中、生徒会顧問の元ヤン先生に呼び止められる。
自他共に認める放任主義で、文化祭の件も全く助ける素振りがない。
だから俺たちも全く用がない顔で振り返る。
「一応だが、明日明後日、わかってるよな?」
「はい。設備点検ですよね」
俺がそれだけの返事をしたら、先生は納得して去って行った。
「設備点検?」
「聞いてませんか。明日と明後日は校内設備の一斉点検があって全館停電。学校は立ち入り禁止」
「えっ、そうだっけ?」
なんでユキトは知ってるのと怪しむ顔になるので陸上部の連中に教えてもらったと説明する。そんな理由もあって、今日から夏休みが終わるまで部活も休みになっているところが殆どだ。
言われて彼女は廊下の窓から顔を出し、まわりがいつになく静かなことに気づいたようだ。
何を思っているのか全く読めない、綺麗なだけの横顔は最初の印象と変わらない。
だが、今の俺はほんの僅かだが彼女の事がわかる。
案の定、プリンアラモードの念押しが再び始まるのだ。




