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おっさんは叡智に輝く答案用紙を手に入れた

 いやマジでね、今の俺、窮地に立ってるわけ。

 今日中に物理の答案出さないと単位貰えないんだよ。


 この二週間、俺なりに頑張ったさ。それもあと一息で解放される。

 が、苦手事を後回しにしてきたのも事実。

 どうにも昔から物理だけは馴染めない。

 現役時代も赤点ギリギリだった記憶はある。


「きっと俺の魂には、現代物理学では解明できないこの世の真実が刻まれていて、無意識に教えを拒絶してしまうんですよ」

「古典物理学だから。このくらい寛容に学びなさい」

 手厳しい。短気で狭量だけじゃなくて根に持つところも魅力ですけどね。

 やな女!


「早坂先生、さっきみたいに優しく教えてくださいよ」

「そのノート見ればできるでしょ。私、忙しいの」

 肘をつき片手で企画書をめくっては放り投げる仕事で忙しいらしく相手にしてもらえない。

 俺の前まで滑ってきたいくつかを拾い上げて目を通してみる。


 さすが子供らしい発想は微笑ましくもあるが、実現にあたっては厳しい点も多い。

 たとえばこのネイルアート喫茶。

 老若男女関係なくネイルアートを楽しんでもらいながら、お茶もしようという企画。

 単純に数人が出したネイルアート店の案と、あなた個人の好みですよねと主体のないアンチ勢との間で折衷案を作ったキメラ的企画の匂いを感じてしまうが、普段の生活にない体験から刺激を得つつお茶を楽しみ会話を弾ませるというのは、とてもいい着眼になっている。


 しかし、具体的にどうやってネイルアートを手軽に楽しませるのか、回転率の見積もり、費用、人的配分など概算さえ何もない状況。さらに難を言えば、対象に老若男女を謳う以上、幼児の誤飲対策や薬品アレルギーなどリスクを考えて粘り強く対策していく必要もある。

 これを頭ごなしに指摘してしまえば、簡単に意気消沈してペットボトルから紙コップに注ぐだけの喫茶店に落ち着いてしまうのである。根拠は俺の高校時代。


 そしてやたら飲食系が目につくが、調理や品目には制限がつくはず。

 管理指導役の限界もあるから店数を絞ることも例年やっているだろう。

 おそらく、生徒会が代表して取り纏め保健所へ届出を提出することになるのだろうが、それを口にすると今度こそ俺の脛が折られる気がするので今は黙っておく。


 要はやり遂げたい、楽しみたいという情熱次第なのだが。

 なさそー。

「去年の生徒会から引き継いだ資料とかは?」

「会長が全部無くしちゃった」

 わりと致命的。


 アイツの自己破壊行為がこんなところにも及んでいたとは。

「テントとかコンパネとか足場の数は? 使える設備は?」

「文実が牛耳ってる」

 文実、懐かしい響き。

 しかし牛耳るか。不穏な力関係の匂いがするな。


「なら、企画書の整理も文実に任せては?」

「去年、慈善団体へ寄付するはずだった出店の利益を、文実が勝手に打ち上げに使いこんで大問題になったの。今年は生徒会がしっかり主導しろって」

 使途不明金、寄付金横領。大人社会の縮図がここにもあるんだなあ。

 というか、今の社会がガキのまんまなんだな。きっと。


 察するに、彼女は俺よりも窮地に立たされている。

 鬼のような仕事の物量を前にして、情報なし、人にも頼れないでは、いくら才色兼備の彼女でもやりようがない。つまり彼女の様子は、暇そうなのではなくて、どうしていいかわからないのだ。

 最初に気付け。大人だろうが俺は。


「そんなピンチの先輩に提案です」

「顔がいやらしくて却下」

 一撃粉砕。卒倒吐血。

 やめてくれよおっさんのハートは薄くて脆いガラス製なんだぞ。

 もっと真綿で包むように、こう、優しくこすってくれないと。

 いやらしいな俺!

 こうなったら初回無料キャンペーンだ。


 赤ペンを手に取り、ネイルアート喫茶の企画書にサラサラとコメントを書き加える。

 企画の分類マーキング、ストロングポイント、ウィークポイント、記載不足の項目、必要と予想される届出類、指導方針などなど。三分もかからず真っ赤にして渡す。


「僕、こういうの得意じゃないですかあ。物理さえ終われば手伝えるっていうかあ。むしろ先輩の役に立つの自分しかいなくね、って感じすんすよね。まじシタゴコロとかないんで。おんがえし的な?」

「だれキミ?」

「やだなあ僕ですよ。なにせ顔がいやらしんで。ボク」

「僕ボクいうな」


 姿勢を正した彼女が、俺の書いたコメントに目を通していく。

 しばらくして嘆息とともに肩を落とすと、俺の真っさらな答案用紙をついっと手前に引き寄せ、インクジェットプリンターかと思える程のスピードで回答を記入していく。


「自分の字で清書して提出しないとバレるよ」

 おっさんは叡智に輝く答案用紙を手に入れた!

 女神の加護がもたらした、まさに奇跡。

 この神聖な文字を消して書き直すなど畏れ多くて面倒くさい。


「問題ありません」

「わかっちゃうってば」


「物理の先生、もう学校に来ないので」


 また新たな事実をひとつ、慈愛に満ちた女神へ告げる。

 ずずずっと企画書の束を押しのけて突っ伏す彼女は、腕で顔を隠したまま俺に対する二度目の感想を漏らす。

「コワイよ。ユキト」


 難題だった物理科目を終え、昼前に提出できることになった。

 俺が職員室に入ると教職員の動きが止まる反応は、もはや習慣といえる。


 当面空席になるであろう担任兼物理教師の席に答案用紙を置いたら、すぐ隣からご苦労様と声を掛けてくれる教師が一人いた。軽く頭を下げた後、ちょうど良かったのでその教師に尋ねた。


「あの、生徒会の顧問の先生っていますか?」

「うーん。今は俺だけ? になるのかなあ」


 見た目はジャージ姿のおっさん、中身も怠そうなおっさんの先生が腕組みして難しそうに答えた。

 とんだ無責任顧問がいたもんだと呆れたが、別に人生投げ出した絶望教師ということでもなかった。


 はっきりとは教えてくれなかったが、どうやら、校長と教頭の首がすっ飛んだ結果、県の教育委員会から臨時の指導員が派遣されるらしい。おそらく体制見直しが入るので、顧問やら主任やら何がどうなるかわからないようだ。まるで外資系ファンドに買収されたばかりの企業みたいだな。


 状況はなんとなく把握したが、これまでと現時点の生徒会顧問がコイツだったのは事実。


「あなたが早坂先輩を俺に当てがったんですか?」


 俺の問いを耳にした教員の幾人かが驚いて俺を見た。単に交渉相手の素性を確認したいだけだったのだが、思わぬ注目を浴びてしまう。

 ここにいる連中はみな事情を知っているということなのか。

 まあ、この先もナメた仕掛けを押し付けてきそうな奴等やつらなら片っ端から即刻退場願おうとも思っていたが。


 腕組みを解き、頭を掻くおっさん。

「いなくなったヒトの所為にするのもなんだが、発案は元教頭」

「自分は命令に従っただけだと?」

「そうそう。それが事実」

 しばし目を合わせるも、向こうから逸らそうとはしない。

 とても言い逃れをしている顔には見えなかった。


 さては元ヤンキーだな。コイツ。

「言葉足らずは、要らぬ誤解を招くと思いますが?」

「いやだって長嶺、お前、怖え顔してるし。怒ってるやつに何言っても無駄だろ?」

「怒ってますか。俺が?」

「つか迫力あり過ぎなんだよ。本当はとし幾つだって感じだぞ」

 四十一っす。勘の鋭い元ヤンだ。


 相手の観察を怠らないあたり、喧嘩慣れはしているのだろう。

「失礼ですが、先生はお幾つですか」

「えーっと、サンジュウ、ハチか。今年。うわ、もうそんなジジイかよ」

 こんな奴でも歳下かよー。四十前のくせして老けすぎだろが。

 あーやだやだ。こんなオッサンにはなりたくないもんだ。

 だがまさか。


「ご結婚は?」

「してるが?」


「JKに興味は?」

「娘以外の女に興味はないが?」


「奥様は?」

「強いが?」


「人妻に興味は?」

「娘以外の女に興味はないが?」


 まさかのバカ親父。

 なるほど。こんなオッサンにはなりたくないもんだ。

 だが、クズ担任よりはよほど信用できる。

 しかも長い物に巻かれることを覚えたヤンキーなら、ある程度の度胸と分別は兼ね備えているだろう。


「そうですか。しかし、娘さんの気持ちを思うと、胸が痛みますね」

「なんだいきなり?」

「いくら命令があったとはいえ、荒れた男子生徒を宥めるために教え子の女子を当てがい利用するような父親だと知ったら。娘さんの落胆ぶりが目に浮かんでしまうので」


 いいねえ。そのタイマン張るような目。

 だが、圧倒的不利であることを思い知れ。

 想像しろ。厄介なクソガキが、容易く自分の幸福を崩していく様を。

 ゴミを見るような目を向けてくる愛娘を。


「俺を脅しても何も出んぞ。クソガキ」


「罪滅ぼしの機会をやるっつってんだよ。クソジジイ」


 ぼそぼそと低い声で威嚇し合う。

 勝敗など最初から決まっている。

 だからこれは力関係を認めさせる儀礼のようなものだ。

 長引くようなら死期宣告して心根から折る。

 コイツの尊厳など俺にはどうでもいい。

 顧客へ選択を促すように、営業スマイルで待ってやる。

 ほどなく、小さな舌打ちがあって、目を逸らされた。

 終了。


「先生。個人的に相談したい事がありまして。少し外へよいでしょうか」

 それほど難しい事を頼むつもりはない。

 俺は、元ヤン先生にも益のある話だと前置きしてから交渉を始めた。



 図書室へ戻った頃にはもう昼時を過ぎていた。

 引き戸を開くと、部屋に充満した弁当の匂いが一瞬で鼻に入る。


「先輩。ヒトのバッグを勝手に開けて先に弁当食べるのは、流石に行儀が悪いと思いませんか?」

「ユキトの分は手をつけてないから安心して」


 少しも悪びれず、俺のために用意したマグカップにお茶を注いでくれる。

 勉強を教えてもらい始めてすぐの頃、コンビニで買ったパンを齧る彼女が俺の弁当を羨ましそうに眺めてばかりいるので、授業料代わりとして彼女の分も用意するようになった。

 以来、弁当目当てと言っていいほど午前中は丁寧に導いてくれるが、昼食後は一気に雑な仕事へ変化。なので中盤以降になると、午後三時のおやつ付きでどうにか彼女のモチベーションをキープするようになり現在に至る。


 そして今日は難題物理学だったこともあり、まさか午前中に終わるとは思いもせず、時間と胆力が必要と覚悟して気合を入れた弁当とおやつを持参していた。

「俺の分が残ってるのは当然でしょ」

 言いつつ、内心ほっとする。


 おそらく、黙っていたら彼女は二人前くらい平気で平らげる。

 その食欲は彼女と関わるようになって一番驚いた部分だ。

 てっきり大食い体質の美少女なのかと思ったが、普段の食事は俺が用意する量の半分も食べていないと聞いてまた驚き、俺が原因で激太りされては敵わないので「男子高校生と同じ分量」までに抑えている。


「このカニクリームコロッケが絶品なの。ユキトも早く食べてみなさいよ」

 おにぎりを片手に持ったまま、幸せそうにコロッケを頬張る。

 彼女のネクタイがうっすらと青みを帯びているように見えるのは、気のせいかもしれない。

「良かったですね。でも自分で作ったものの味くらいわかってますって」

 聞いちゃいない。


 酒のつまみ料理しかできなかった俺だが、史奈さんと一緒に料理するのが楽しくて日を追うごとにレパートリーが増えつつある。だが、そのコロッケのクリームソースもそうだが、俺がよそ見をしてる間にさっと史奈さんが何かを加えていて、その隠し味は秘密だと言って教えてくれない。

 なんでも料理は息子に追い抜かれたくないのだそうだ。可愛くあかんべえなんかするから、危うく俺の指を油で揚げるところだったぜ。


 もう一回やってくれないかなあ。写真撮ってスマホの待受にしたい。


「ユキト顔がやらしいよ。早く食べたほうがいいよ?」

「腹が減るとエロくなる生き物なのかな。俺は」


 こんなやりとりも今日が最後になるはずだった。


 なぜか彼女は、ご機嫌に食べている間は俺に向かってユキト、ユキトと名前を連呼する。

 体を揺らし、両足もばたつかせて美味しいを喜び、全く落ち着きがない。

 なのに弁当箱が空になった途端、すんとした顔に戻り静かになる。


 まるで一日に三十分だけ咲く花を見ているようだった。


 それを、名残惜しいと思ってしまった自分がいる自覚はある。


 ———— お前、怖え顔してるし。怒ってるやつに何言っても無駄だろ?


 あるいは怒っていたのか。その自覚はなかった。

 いずれにしても、俺が彼女をこのまま放置する選択肢はもう無い。


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