そんなアホ君には“気付き”のプレゼント(社内規定によるプロローグ)
初めまして。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
クソ暑い。
この日の俺は、すこぶる調子が悪かった。
だから今、空を飛んでいる。
「課長、冗談ヘタですか」
冗談は上手い方だと思ってたんだけどさ。
先月、俺が課長を務める営業2課に営業3課が統合された。
部下の人数が倍増、ストレスは万倍増。
3課の課長は俺の後輩だった。彼は見通しの暗い経営が続く中で、大型案件の取り込みに成功。役員たちを三日三晩小躍りさせるほど喜ばせ、めでたく企画部長補へ昇進となった。
後輩に追い越された悔しさは混じるものの、常態化していた3課の垂れ流す売上未達をリカバーさせられていた身分からすれば、計画必達の圧から解放された喜びの方が大きかった。
だが、その受注がやや強引な手段の結果だったことを部長は察知していた。3課に新たな課長を立てず、あろうことか俺に後始末を押し付けやがった。偉くなる奴はたいてい嗅覚が鋭く、やり逃げが得意だ。
生来逃げ足の遅い俺は、クソ後輩の残した見積計算書の壮大な齟齬を埋めるため、しげしげと客先へ足を運んでは至極もっともなご不満を躱すための説明に労を費やす毎日となった。
しかも元3課の連中は、あのクソ後輩の量産型だった。
クソ後輩を英雄視する彼らは英雄の直系という謎の自尊心を持ち、自分たちは2課のメンバーを指導するために統合されたと本気で思い込んでいるらしい。
何よりヤバいことに、コンプライアンスの意識が地に落ちている。そのヤバさはコイツら全員同じ薬やってる疑惑のレベル。
その一例としてまさに今、案件欲しさに見切り発車して見事に事故った担当、名前何だったか、とりあえずアホ君が俺の隣に立っている。
二人で(俺が)どうにか客先と話をつけてきた帰りだ。
混み合う駅前交差点で信号待ちの間も、アホ君の饒舌な言い分をヒアリング。
「ほんとマジありえない客ですよ。口頭でも立派な契約になるとか常識ですよね」
客からの煽りにビビって受注前に上司の承認すっ飛ばし業者へ大量発注するのが立派な契約なのだそうだ。アホ君、入社三年目とか言ってたか。本人は既に中堅のつもりらしい。
「業者もおかしいですよ。親切で納期を先に伝えただけなのに勝手にモノ作るとか」
口頭でも契約つったのは誰だオマエだ。
確かに超短納期で強い圧をかけてきた後に品番指定を変更して発注した顧客にも問題はある。
今回は交渉の末、痛み分けということで半分は買い取りしてもらうことになった。
残る在庫の半分も別の客へ回す目処はあるが、それはアホ君には教えてやらない。上司がどうにかするのを当然と思ってるフシがある。
そう考えてしまうのはストレス万倍増に苛まれる俺の被害妄想かもしれないが。
「これで客の担当も変わりますかね。あの業者も取引切った方がよくないですか?」
大丈夫。相手も同じこと言ってるから。
ある意味再発は心配してないよ。
まあ、こんなのでも幸いというか、アホだけに本音をありのままぶちまけてくれるのは助かる。
これが無言のまま溜め込む奴だったら超絶面倒臭いことになっていただろう。
さて、傾聴はこんなところか。よく耐えた俺。
「そうだね。君の話からすると、確かにお客様と業者さんのどちらにも問題があったようだね」
上司は君の人格を否定しないよ、話は理解したよと宣言。
次に共感。
「まあ僕もね、感情的というか沸点の低いお客さんにはいつも困ってるよ。それとあの業者さん、社長が気を遣ってるつもりかもだけど、突っ走るんだよねえ」
「やっぱ課長も同じ感じなんですね。ヤバいですよねどっちも」
オマエの無自覚がトップ・オブ・ヤバいのだよ。
続ける。問題点の整理。
「まあ他でも似たような話はあるし、受注は確証がないとやっぱり揉めるね」
「そうですね。簡単に相手を信用したのがダメでした。自分も勉強になりました」
そういうのは信用と言わねえんだよ、ばーか。
確証つってるだろ。意味不明な置換すんな。
そんなアホ君には“気付き”のプレゼント。
「ただ困ったな。このままだとちょっとまずい事になりそうだ」
「何がです?」
「不良在庫になる残り半分の損失額、二百万か。会社から君個人へ賠償請求されるかもしれない」
「えっ、なんで僕なんですか。課長、冗談ヘタですか」
ウケてるアホ君。
「いや、冗談じゃなくてね……」
歩行者用信号が青になったので歩きながら教えてやる。
絶え間なく目の前を過ぎていた自動車の音が止んだおかげで、俺の告げる事実がはっきりと伝わる。
まず、君は業務規則に反して正式な書面を交わすことなく受注業務を行なった。
そして、今朝僕が納品拒否されている問題に気付くまで何も報告をしなかった。
つまり、君の単独かつ無断の行為が会社に損害を与えたと会社側は判断する。
「そんな、書面なんか後にするとか、みんなやって……」
「ない。少なくとも先月までの2課ではゼロだ。以前、内部監査で3課の課長だった石上さんも指導は徹底していると説明してたけどね」
「でも、そういうのって、上司とかの責任になりますよね」
俺の前でそれが言えるオマエの胆力を尊敬するよ。
「当然、上司の僕も厳重注意くらいの処分はあるだろう。ただ、この案件の始まりは僕が君の上司になる前の事だからね、発生原因を作った責任までは無い。会社側も使用者責任があるから、損害の一部は会社が負うだろうけど……」
半額くらいは賠償請求が行くかもしれない。
よく聞こえる独り言のように宣告してみた。
金壱百萬円也。
行きの電車で家賃が五千円値上げされてコスパがどうのと真剣に語っていた君にしてみれば大惨事。横断歩道を渡り切ったところで足を止めるアホ君。歩行者用信号は点滅を始めた。
アホ君のメンタルも点滅を始める。
「あの、そんなことになったらボク会社辞めますけど」
出た、安直。逃すかばーか。ばーか。
「それは勧められない。このまま辞めると君が全ての責任を認めたと解釈される。もし裁判になったら不利な材料になるだろう」
全然知らんけど。
いきなりスマホをポケットから取り出した。
SNSで見ず知らずの人々へ報告&無罪承認もらって安心したいのかな。
それとも質問箱の先生方へご高説をお求めになるのか。
ほら指が震えて打ててないぞ。
三課の薬が切れたかな。
まあそういうのは後でやってくれ。
じゃあ気付きを得たなら、今後のプランを一緒に考えよう。
「焦らずにどうしたら良いか僕と一緒に考えていこう。そうだな、せめて当時、元上司の石上さんに何か相談していたら‥‥」
「しました! 石上課長に」
おっ。これはもしや。クソ後輩へ一矢を報いるか。
「その時のメールか何かが残ってるかな?」
握っていたスマホを操作して素早く別のトークアプリを立ち上げた。
なんだよチャットじゃ弱えんだよと心の中で舌打ちしつつ隣で覗き見る。
営業3課のグループトーク。
クソ後輩、昇進の辞令が出たその日にグループ退会してやがった。笑える。
ひと月前のトークを必死にスクロールしているが、それっぽい会話は無いようだ。
「口頭、だったかも知れません」
まあ期待してなかったよ。
「そうなると、相談があった事を石上さんが認めてくれるかだね……」
クソ後輩は十中八九そらっとぼけるけどな。
実際、アホ君が相談していたのかも怪しいところだ。
すげえ。アホ君、石上に電話掛け始めたぞ。
自分の金の事ならしっかり確証とるんだな。
待つこと数秒。タダイマ、デンワニデルコトガ、あるわけないさ。
それでもメッセージを残す君の胆力を俺は尊敬するよ。
ま、元3課全員のコンプラ意識改善のため、アホ君は人柱になってもらうからね。せいぜい石上君に粘着して迷惑かけて目立ってくれ。
最後は、労い。
「今日は暑い中ご苦労だったね。少し早いがもう帰宅していいよ。お疲れ様」
頷いたのか消沈したのか、少し首を落としてそのまま一歩も動かずスマホを超速操作し出した。
まあいいや。俺はアホ君を視界から外す。
本日の仕事コンプリート。終了。
やってられるかっつーの。
それにしてもクソ暑い。
六月のくせに真夏かと思わせるような日差しにのぼせた。昨日土砂降りだった所為で湿気も酷だ。まだ十五時。帰社してもうひと仕事できなくもないが、俺も今日はバックれる。
いかんせん、やる気が出ない。
やる気不全はうちの課の統合云々以前からの問題だ。
今年、四十一歳になった春のある朝、些細な出来事でやる気が突然枯渇した。
洗面台で顔を洗おうと前屈みになっただけでギックリ腰になったのだ。その時、もう無理な生き方はできない歳なのだ、してはいけない歳なのだと本気で自覚した。
自覚してはや二ヶ月。
か、な、り、無理している。
この先も、こうしてガキのような社員のケツを拭く仕事が続くのだろうか。
人材育成は第二の子育てである。俺が会社に残せる唯一の格言だ。
子育てなどまったく知らんが。
俺も離婚していなければ、今頃は小学生くらいの子供がいたのかもしれない。
独りに戻ったことを後悔はしていないし、良かったとも思っていない。
ただ、もし人生に正解があるなら見てみたい。
そう思うことが増えた。
さあて、今日はこれからどうすべきか。いや、どうしたいかが大事だ。なんてな。
このまま帰るのは不正解な気がする。
どこかのワークブースに入り仕事を続けている体で、ホテルにしけこむか。
昼間暇だって言ってたし、近いから呼べば来るだろ。時間長めにとって、心も体もスッキリしてから乾杯も悪くない。てかソレいいな。その企画を承認。
俄然やる気出てきた。
さっそく懐のスマホをバッグに仕舞い、代わりに別のスマホを取り出す。
スマホは物理的に使い分ける主義。デュアルSIMなど以ての外。
欲求解消だけの利が合うパートナーは気楽でいいなっと ————
「うおっと」
突然、後ろから何かがぶつかってきた。
一瞬、膝カックンされたと本気で思って振り返るが誰もいない。そしてすぐに、足元から小さな子供が小走りで離れていくのを目にする。
悪戯ではなさそうだ。
こんな人通りの多いところで好きに走らせたら危ないだろうに。下手をしたら蹴り飛ばしてたかもしれないぞ。いったい親は何をしているんだとプチセルフ炎上気分で見回している間に、子供の方は人の流れに隠れて見えなくなってしまう。
まったく、忙しないな。
ふと、移した視線の先にアホ君の姿が目に入る。
駅前の横断歩道を渡ってすぐの場所でまだスマホをガン見していた。
「ほどほどにしないと、自己責任お化けに逆襲されるぞ?」
ぽそっと口から零れ出たアドバイスが彼に届くことはない。
気持ちをスマホの画面に戻そうとしたその時、トトトっと小刻みなリズムで移動する小さなモノを目の端で捉えてしまう。その位置は俺よりもアホ君に近かった。
そして今度は甲高い女の叫び声が俺の聴覚に届く。
声の主は両手を前に突き出してバタバタと振っていたのですぐに見つかった。
それは、横断歩道の向こう側にいた。
その信じられない状況を認識した人間が、この周囲にどれだけいただろうか。
アホ君を超える無謀な振る舞いに驚いた人間が、俺の他にどれだけいただろうか。
少なくとも、本気でダッシュしている人間は俺だけだった。
横切る人々の動きを読み、最短路を見出して突き抜ける。
高校時代にラグビーをやっていた所為だろうか。考えなくてもステップを踏んで人を避けられる。追いかけてくる敵などいるはずもないのに、後方まで意識が回る。
一年余りを休む事なく練習に明け暮れた挙句、後輩にポジションをあっさり取られたショックで辞めてしまったが。
二十数年経った今でも走り方だけは身体が覚えていた。
キックパス。不規則に転がり続ける前方のボールを追う。
叫び続ける女の声に漸く気づいて怪訝そうに眺めるアホ君のすぐ隣をボールが過ぎていく。
それはまるで、母親を求めて無我夢中で走る子供。
信号が歩行者を留めているラインを幾歩か越えた先、俺はボールをキャッチした。そして、脆くなった両膝を軋ませて急停止、ボールを両手で引き上げ、上半身を捻る力でアホ君へストレートパス。
本物のボールよりもはるかに重いその塊を無心で放つ。アホ君の位置は目で確かめなくても把握している。
ひたすら繰り返し、試合で一度も役に立つことのなかったパス練が、今ここで意義を果たした。
だが、アホ君が俺のパスをキャッチしたか零したかは知らない。
既に俺は高級車から猛烈なタックルを受け、宙を舞っていたから。
普通、おっさんは空を飛べない。
冗談ヘタかよ。
あれ。俺、スマホ、どうしたかな。
よりによって、ホテルの予約画面を開いたままって。
笑うに笑えねえな。
照りつけていた太陽が赤黒くなっていく。
遠くなっていく。
どうしてこうなったのか。
正解を知らなかったから。
問題の解き方を知らなかったから。
違う。
「今日は調子が悪いから」
昔から口癖のように使っていた言い訳の所為だ。
ああ、クソ暑い。
この日の俺は、すこぶる調子が悪かった。
次から本編です。