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№1 妄想天国、現実地獄

 少年には、影がなかった。


 おおよそ『実存』というものに付きまとう影を、持っていなかった。


 それはもしかしたら『存在』していないということになりかねない、危うい状況だった。


 だが、少年にとってはそんな難しいことはどうでもよかった。


 それよりも――影踏みがしたかった。


 折しも少年のまわりでは影踏みが空前のブームで、少年はその遊戯に混じりたかったのだ。


 だが、いつもばっさりと切り捨てられる。


 『おまえ、かげないじゃん』と。


 それが切なくて、今日も少年は公園のベンチで影踏みに興じる子供たちを遠巻きに眺めているのだった。


 季節は真夏。うるさいくらいの蝉の鳴き声の中、きゃいきゃいと子供たちが遊んでいる。照り付ける日差しで影はくっきりと浮き上がり、その主の動きに合わせて動いていた。


 少年の幼い肌を汗が伝う。家に帰っても良かったのだが、混ざれないなら、せめて眺めていたかった。


 みんな、楽しそうに影踏みをしている。


 どうして自分はそこに入れないのだろう。


 ――どうして、自分だけ違うのだろうか。


 どうしようもない疎外感に眩暈さえ覚える。


 ……そんな少年へと、『影』が近づいていた。


 『実存』と対称ではない、ただ地面を這うだけの『影』だ。イデアの残骸だ。


 すう、と海面下を滑るイルカのように、静かに、そして素早く少年に迫る『影』。人間を取り込むことだけを本能とする『影』が、今まさに少年を取り込もうと近づいていた。


 ベンチに座る少年のすぐそばまで『影』が接近して、初めて少年はその存在に気付いた。


 つう、と少年の紅潮した頬に汗が伝う。しかし、それだけだった。少年はまったく動じず、ただうごめく『影』を見つめていた。


 『影』は少年を取り込むべく、津波のように具現化した。その波濤が少年に襲い掛かる寸前、彼はこともあろうに『影』に話しかけた。


「ねえ、きみ、『のらかげ』でしょ?」


 『影』は戸惑うようにその動きを止めていた。今まで話しかけられたことなどなかったからだ。少年は構わずに続ける。


「『のらかげ』には……ええと、しゅじん?がいないって、おかあさんがいってた」


 それはそうだ。『影』は『影』でしかなく、対となる『実存』を持たない。


 それが当たり前だと思っていた。


「ひとりぼっちはさみしいよね。だから、ぼくがしゅじんになってあげるよ。そうすれば、ぼくはかげふみができるし、きみはさみしくない。りょうほうともしあわせだよ?」


 『影』の戸惑いが大きくなる。自分の主人になる? この少年が? 今にも彼を取り込もうとしていた自分の主人に? ただ、影踏みをするためだけに?


 わからないことだらけだった。


 そんな『影』に、少年はあどけない笑顔を浮かべて手を差し伸べた。


「おいで、こわくないよ」


 まるで野生動物をあやすような声音に、『影』はなにもかもがどうでもよくなってしまった。


 いいだろう、己と対を成す『実存』たる主人。果てのない飢餓と放浪から解放してもらおうじゃないか。


 『影』の形がうねうねと変わり、少年の足元にわだかまる。地面に伸び、やがてそれは少年と同じ形を取るようになった。


「ありがとう」


 『影』がなじむと、少年は笑って礼を言った。


 そして、ベンチから飛び出して走り出す。


 自分にも影ができたのだ。これで影踏みができる。


 誰とも違わない、普通に遊戯に混ざれるのだ。


 ――やがて、真夏の蝉時雨に子供の歓声がまたひとつ、混ざった。


 


 


 塚本ハルは焦っていた。


 学校がテロリストに占拠されてから1時間、状況はたったのひとつも変わっていなかったからだ。たまたま授業をサボっていたハルがテロリストたちの監視の目をかいくぐって、隙を突いて見回りのひとりから銃を奪って、今に至る。


 この状況をなんとかできるのは、今のところ自分しかいない。政府は弱腰で、テロリストとの交渉に臨んでいるらしいからだ。


 廊下の壁に潜んでいると、こつ、こつ、と足音が複数。歩幅からして若い男が3人か。


 ……やれるか?


 ごくり、生つばを飲み込んで銃を構える。ハンドガンひとつではこころもとないが、CQCを併用すれば何とかなるかもしれない。


 足音が廊下の曲がり角まで近づいてきた瞬間、一番近くにいた男のあごに肘をぶち込む。もんどりうって倒れた目出し帽の男は白目をむいていた。


 他のふたりの男は明らかに動揺している。ただの学生と教師しかいないこの学校に、まさかこんなマネをする者がいるとは思わなかったのだろう。


 男たちが動揺から回復するまでに、ハルはもうひとりを獲物と定めた。大振りの上段回し蹴りをその獲物に叩き込むと、獲物は壁にぶつかって意識を失った。


 最後のひとりが動揺から立ち直る。サブマシンガンをこちらに突き付けると同時に、こちらもハンドガンの銃口を相手の額に突き付けた。


「……撃てよ。ただし、僕の方が早いだろうな」


「くっ……貴様、何者だ!?」


「さあな、ただの男子高校生だよ」


 くっ、と笑って、ハルは引き金を――


「オイコラ塚本ォ!」


 ――がこん!と後ろから椅子を蹴られたのは、そんなときだった。


 窓の外をぼんやりと見つめながら、学校がテロリストに占拠された場合の妄想を繰り広げていたハルは、一瞬で現実に引き戻される。


 今現在、学校は学校だが、テロリストは訪れていない。ただただ平和な日常が続いている、ごく普通の昼休みだ。


 おそるおそる振り返ると、ハルの椅子を蹴った女子が腕を組んで仁王立ちしていた。


 巻いた明るい茶髪に短いスカート、日に焼けた肌に化粧。典型的なギャルだ。取り巻きの女子たちも同じような格好をしているが、ハルは密かに一番かわいいのはこの子だと思っている。


 しかし、かわいいと言っても、目下ハルをいじめているグループのボス女子だ。こちらを睨みつける眼差しは迫力満点で、いかにも強そう。


「な、なんだよ一ノ瀬……」


 その女子、一ノ瀬三日月に弱々しい視線を送って、ハルはおびえた声を上げた。


「なんだよじゃねーし! 言ってんだろ、教室の空気がキモいオーラで汚れっから昼休みはどっか行っとけって! マジ学習能力ねーのな!」


 周りの女子たちがどっと笑う。さらにその外周の見て見ぬふり勢は、また始まったよ……とばかりに関わり合おうとしない。


 ハルはなけなしの勇気を振り絞って反論した。


「僕だって、昼休みくらい自分の席でご飯食べたいし……」


「はあ!? オメーにそんな権利ねーし! とにかく視界に入ると不快感でマジムカツクから便所飯でもしてろよ!」


 簡単に撃破された。そんな威圧的に不快だなんて言われたら、もうなにも言うことはできない。ハルはすごすごと昼ごはんの焼きそばパンと牛乳を持って席から立ち去った。


 教室から出て、廊下を歩きながら深々とため息をつく。


 二年の始まりから無意味にいじめられて、早2か月。ゴールデンウィークも明けて世間が夏へと向かうこの時期、なにゆえ自分はよりによって女子にいじめられているのだろうか。なにもしてないのに。


 妄想の中なら超人なのにな……テロリスト来ないかな……


 まったく来る予定はないのだが。


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