GC&CS
スチュアートは、ブレッチリーに向かう帰りの列車の中で、外ののどかな田舎の風景を見ながら、渡した手紙が書かれた経緯について、思い出していた。
開戦直前にイギリスへ共有されたポーランドの解読成果は、開戦1か月前にブレッチリー・パークに移設されたGC&CSの暗号解読者達にすぐに共有された。その中に、アラン・チューリングがいた。
彼は、ポーランドの『ボンバ』の解読が最初の日鍵の受け渡しに依存している弱点を不安視した。そして、それを解消すべく、「ハイル・ヒトラー」などの定型文などによって、エニグマの特性から矛盾が生じる設定を排除して暗号を推測するクリブ式暗号解読機『ボンブ』を考案する。
1940年3月に初号機が完成する。ゴードン・ウェルチマンが、「対角ボード」を発明し、同年8月に実装され、ボンブの解読作業を高速化し、ボンブが運用に乗る。また、アランは、ベイズ推定を使用し、解読を効率化した「バンベリズムス」も考案し、ボンブは解読した文を増やしていった。
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――バンッ
「すまない、アラン」
アラン・チューリングは、書類や器具で埋まっている自分の机を叩いた。アランの目の前には、上長かつGC&CSの副長官で、53歳、海軍出身であるエドワード・トラヴィスが、その強面で立派な体躯に似合わず、申し訳なさそうにしている。
「どうして、我々の仕事の重要性を理解できないんだ!」
「しかし、アラン、君たちはかなり予算の増額を既に受けている。他部門と比べて、融通は利かせてもらっているはずだ」
「そんなのわかっています。ですが、我々の成果や仕事量の増加に比べて、人員や予算の追加が小さすぎです」
『邪悪なオジサン達』のスタッフ、つまり、『Hut6』と『Hut8』のスタッフは作業の多くを少人数で回し、疲れ切っていた。彼らの作業の裏には、何千人、何万人の命がかかっている。そのことを知っている彼らは、自ら耐えうる限界まで働いていた。
時は、手紙を渡すひと月前の1941年9月。第二次世界大戦が始まって既に2年が経過していた。前年の「ボンブ」運用開始後、エニグマの鹵獲などもあり、GC&CSでのエニグマ解読作業が進んだ。その成果も出始め、Uボード(ドイツの潜水艦)の攻撃などが予測でき、着実に連合国側へプラスの効果をもたらしていた。
一方、解読対象は増加し、エニグマの改良は続いていた。そのため、ボンブやその作業者、傍受のタイピストなどのリソースのさらなる追加が必要となっていた。しかし、その多大な成果の割には、政府から予算の割り当てや人員の補充がなかなか十分に行なわれなかった。傍受したのに、みすみす解読を見逃す暗号が発生する状況が続き、アラン達はフラストレーションが溜まっていたのだった。
「ああ、わずかな追加の予算・人員に対し、申請書類の膨大な手続き。なんで俺がこんなことしなければならないんだ!
そもそも、なんで、戦車や戦闘機の方が優先されるんだ! 暗号解読できないと命と鉄塊を海に捨ててるようなものだろ」
アランは日頃おとなしいが、感情的になると手が付けられない性格であった。
「アラン、気持ちはわかるが、今は、どこの部門も予算を欲しがっている。何より暗号解読は成果が見えづらく、ホワイトホールの事務官僚どもはその重要性と効果を理解していない。特に我々のような小さな組織には、ルール上、予算の上限が決まってる。数字しかみない奴らは、今の予算や人員でも十分だと思われている。むしろ、『ボンブ』の追加製造により、金喰い虫と見られている」
「でも、その作業者がいないとボンブは単なる鉄塊だ」
アランやエドワードだけではなく、そこに居た他の『邪悪なオジサン達』3人も、その非効率な運営方法を残念に思っていた。
「もう一度試してみる。アラン、今日はとりあえず矛を収めてくれ」
エドワードは、そう言って、アランをなだめ、部屋を出た。そして、大きなため息をついた。
GC&CSの天才たちは、自らの重要性希少性を理解し、基本傲慢である。軍隊とは異なり、上司だろうが、遠慮はしない。15年以上GC&CSの副長官を務めているエドワードは、そのことを十分理解していた。エドワードは、中間管理職としての辛さと今後の対応について途方に暮れていることもあり、大きなため息をついたのであった。
【バンベリズムス(ばんべりずむす)】
ベイズ推定を使用し、統計学的手法により解読を効率化した方法です。この手法の唯一の女性作業者であるジョーン・クラークは、趣味や性格が似ていたチューリングと深い関係になり、プロポーズされます。また、そのすぐ後に、チューリングが同性愛者であることも知らされます。その告白に、彼女自身は少し心配したもののそこまで気にしていなかったようですが、チューリングは結局結婚を諦め、夏にクラークと別れます。チューリングはその後も独身でしたが、クラークとの友情は生涯続きました。
【エニグマ解読の成果(えにぐまかいどくのせいか)】
小説でも書きましたが、戦争にはさまざまなファクターがあるため、エニグマ解読の成果を数字で表すのは難しく、リアルタイムだとなおさらだと思います。しかし、解読により、ドイツ軍のUボートなどの攻撃は予想され、連合国側の損失は押さえられることは容易に想像できます。
戦後であるが故か、情報がまとめられると、判別できることがあります、Uボートにより沈められた船の数について、1940年~1943年の推移が、それぞれ、225、288、452、203となっていて、1942年の数が突出しています。
1942年ですが、2月から11月の間、ローターが4つになりエニグマ解読が不可能となった時期です。つまり、この増加はエニグマが解読できなくなったことによるものではないかと推測できます。かなり単純に前後の年と比較すると、その効果は沈没の数を半分以下にしたことになります。
情報が整理されると、このようにある程度わかりますが、この時期のホワイトホールの事務官僚達は、おそらくこのような情報は簡単に整理できないと筆者は推測します。彼らも上司がいます。上司への説明責任には数字などより客観的な情報が必要だったと思います。そのため、数字にあらわれない成果を主張するアラン達の要望を承認できなかったのではないかと、推測しています。あくまで、筆者の推測なので、実態はわかりません。
よく会社でも予算要求を出す時、数字で示せと言われることがあります。特に業務内容と離れたポジションにいる人ほど数字にこだわるような気がします。それにより、本当の利益を生む機会損失に繋がることがあります。しかし、ある意味妥当な選択をでき、利益を生まない要求を拒否することが可能で、大きな失敗をする可能性が低くなります。ここでは、そのジレンマを表現してみました。